第七十九話 『牛角』
カツ、カツ、カツッ――と迷宮内に不機嫌なリーネの靴音が響く。俺たちの前を足早に進み続ける彼女は、目的がまだ分かっていないはずなのに、迷いなく足を動かしている。だが、アリアさんが何も言わないってことは、彼女は正しい道順を進んでいるってことなんだろう。何故だかは分からないけど……
「おーい、リーネ。もう機嫌を直せって。笑ったことは、俺たちが悪かったからさ」
先を歩くリーネに俺はそう声をかけた。このメンツが集まって、一つも会話がないのはどうにも気持ちが落ち着かない。二人がどう思おうと静かな迷宮内で足音だけ響くと言うシチュエーションに、俺の方がもう耐えられなかったのだ。
「……別に、不機嫌なんかじゃないわよ。あなたたちが笑ったことなんて、全然気にしていないし。根に持っているわけでもないのよ。私だって、あなたと逆の立場だったら笑っていたと思うしね? ……でも、そうね。私の表情が不機嫌そうに見えるのなら……それは別のことが原因ね」
「別の原因?」
「ええ、前にも言ったかもだけど。私ね、最近まったくついてないの。もう、まーったく運がないのよね」
「あー、カメラが壊れたときにも言ってたな……でも、お前が元気じゃないと、こっちが不安になるんだよ。ただでさえ、寂れた迷宮内に閉じ込められて……俺たち全員、生きて出られるかも分からないんだからさ……」
俺がそんな弱音をこぼした瞬間、燃え上がる炎のように真っ赤な瞳がこちらを射抜いてきた。わざわざ両足を止め、身体ごと振り向きながらだ。だから、リーネのその行動に俺の方がビックリした。
「悲観的なのね。でもね、安心しなさい! 私はここから出られないなんて思ってないもの! だから、大丈夫よ! きっと何とかなるわ! いえ、私たちで何とかするのよっ!」
「……楽観的だな。スゴイ自信家だ。……でも、やっぱり、リーネはいつも通りの方が百倍イイな。見てるこっちが安心する」
リーネの言葉を聞いて、俺は思わず笑みをこぼした。迷宮の黴臭い空気の中でその声だけがやけに温かく感じられた。そして、リーネは再び歩き始めた。今度は俺たちの前を進むのではなく、ちょうど俺の隣を歩くように。何だか、照れくさい。目を逸らすように後方を見るとアリアさんが、ニコニコと笑いながら俺たちのことを見ていた。さっきまでアリアさんの凄惨な身の上話を聞いていたせいで、温かい目で見られると温度差で風邪を引きそうだ。
俺がそんなことを考えていると――ギュッと誰かに袖を引かれたのを感じた。一気に疲労が噴き出して、ついに身体が限界を迎えたのかもしれない。俺はアリアさんに合わせていた目線を隣に戻すと……そこには俺の制服の袖を軽く掴んで、不貞腐れたように頬を膨らませたリーネの姿があった。
「ねぇ、それよりも……アリアと二人で何を話していたのよ?」
「あー、それは……」
「何よ? 歯切れが悪いわね。もしかして、私には言えないことなの? 二人だけの秘密ってわけ?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
俺は再び、アリアさんのことを盗み見る。チラリとリーネにバレないようにアリアさんのことを盗み見る。さっきアリアさんは『このことはまだ誰にも……リーネにも話したことがないので、ジン君と私の……二人だけの秘密にしてくださいね?』と言っていた。
その言葉が今になって重くのしかかる。リーネの視線が痛い。とても痛い。彼女は袖を掴んだままジッと俺の顔を見つめている。その目は、俺の動揺を見透かしてくる。アリアさんは助けてくれない。そんな素振りも見せてくれない。すると、彼女はまた俺に精神攻撃を仕掛けてきた。
「……ふーん。やっぱり、私には言えないことなのね」
「違うって! ただ……」
「ただ?」
「――ッ! やっぱり、な、何でもない……」
リーネがぽつりと呟いた。その小さな声には怒りよりも寂しさが滲んでいた。だから、ついうっかり感情に任せて、話しそうになったが、ギリギリのところで思いとどまることができた。というか、アリアさんの話は他人が気軽に話していい内容じゃない。アリアさんの話はリーネにだけは聞かせるべき内容じゃない。彼女にとってアリアさんは姉のような存在だ。そんな彼女が輪廻転生をして彼女の前から去ろうとしている。
これは、俺が勝手に判断したことかもしれないけど……それでも、今は黙るしかないと思った。アリアさんが覚悟を決めて、リーネに話すのを待つべきだ。俺にだけ話してくれた理由は良く分からないけど……俺がリーネに伝えるのは筋違いだ。それは野暮で、無粋で、無神経な行為だ。
だから、俺はリーネに何も話すことはない。どんなことをされようとも、アリアさんが自分の口で、自分のタイミングで、話を切り出すときを待つべきだ。そんなことを思いながら、リーネのさらなる追撃を耐えるために、心の扉をギュッと閉ざしたその瞬間――リーネは袖から手を離し、ふっと視線を逸らした。彼女の頬の膨らみはそのままだったが、どこか拗ねたような、そして少しだけ傷ついたような表情をしている。
「……まったく、二人とも秘密が多いのね。まあいいわ。今は迷宮の出口を見つける方が先決だものね。もし、気が向いたら……その時にでも聞かせてちょうだい」
「……お、おう」
予想外だった。もっとしつこく聞いてくるかと思っていた。リーネの性格からして、彼女自身が納得する答えを得るまで食い下がってくると思っていたのに……あっさりと引き下がってきた。そして、周囲を警戒するように、俺たち二人を守るように、率先して前を歩き始めた。
その遠くなっていくリーネの背中に少し驚きを覚えながらも、胸中にはじんわりと安堵が広がっていくのが分かった。俺が隠し事や腹芸が苦手だってことはこっちに来て散々指摘されてきたんだ。しかも、真っ正面からくるリーネとはとことん相性が悪い。だから、彼女が先に諦めてくれてよかった。これでアリアさんの秘密を、約束を守れたんだ。ただでさえ、こっちは彼女の悲惨な身の上話や、覚悟、輪廻転生の件などで頭がいっぱいなんだ。一つ、一つの話が重すぎて、思い返すたびに情報量に圧倒されてしまう。胃もたれしそうだ。
「……あれ? 混沌の時代に生まれたってことは、もしかしてアリアさんの実年齢って今、数百さ――」
「ジン君、それ以上口にしたら怒りますよ?」
いつの間にか、俺の隣を歩いていたアリアさんが、にこやかな微笑みを湛えてそう言った。彼女のその笑顔はとても柔らかいけれど……目だけは笑っていない。背筋がひやりとする。
「……す、すみません。冗談です。冗談。もう二度と考えないようにします……」
「冗談でもです! 女性に年齢と体重を聞くのはいつの時代でもマナー違反ですよ?」
「……はい、肝に銘じます」
俺は思わず背筋を伸ばし、深く頷いた。アリアさんに注意されるとちゃんと聞いてしまうのは、この短い期間で上下関係を完璧に刻み込まれたからだろうか? もし俺に兄ではなく姉がいたら、こんな感じの関係になっていたかもしれない。俺が呑気にそんなことを考えているとアリアさんはくすくすと笑いながら、前を歩くリーネの背中に目を向けた。
「それと、ジン君。……私との約束を守って、リーネには何も言わなかったみたいですね。ありがとうございました」
「……見ているんだったら、助けてくださいよ。リーネのあの目に見られると、罪悪感がスゴイんですから……」
「ふふふ、あれは慣れですよ。慣れ。……ですが、助かったのは事実です。私にもまだ、リーネにすべてを打ち明けるには心の準備ができていませんでしたから……」
「……覚悟はできてるんじゃないんですか? もしまだできてないんだったら、もう一度考え直してみたら――」
「いえ、輪廻転生をするという覚悟は、もう心に決めています。いずれ私は、リーネやジン君の前からいなくなります。現世に帰ってもう一度、生前の願いを……人生をやり直すために。あとは、もうふさわしいと思えるタイミングを待つだけです。そして、それもリーネやジン君たちが私が傍にいなくてももう大丈夫だと思えるほど……立派になったらだと決めています。私に足りていないのは……リーネを傷つける覚悟です」
アリアさんは少しだけ目を伏せて、静かに言葉を続けた。
「自惚れかもしれませんが、私がいなくなると……リーネはたぶん傷ついてしまいます。泣くことはないでしょうが……心に傷を残してしまうと思うんです。彼女の前からいなくなると決めた私が、言えた義理ではありませんが……私はリーネを妹のように想っています。もし彼女が、私のことを姉のように慕ってくれていたら、それは、とても幸せなことですが……傷つけたくはないんです。もちろん、私が筋が通らないことを言っているのも、これが甘い考えだとも、分かっていますが……それでも、リーネには最後まで笑っていて欲しいんです……私がいなくなった後も、リーネの人生は長く続くんですから……」
「そうですか……本当に、アリアさんは覚悟を決めているんですね。やっぱり残念です。もう止めれないんですね……」
アリアさんの意見を最後まで聞き終えた俺は項垂れるように隣を歩く彼女から視線を逸らした。彼女の湖面のような青色の瞳を今だけは見たくなかったからだ。アリアさんは言った。リーネを傷つける覚悟が足りないのだと。ということは、それ以外はもう覚悟を決めているということだ。そして、アリアさんが一度でも決心してしまったことは、もう揺らぐことはないと俺は知っている。だって、俺が知っている人の中で、アリアさんが一番頑固な人だから。
俺なんかの説得では――いや、もしかしたらリーネの説得を聞いてもなお、彼女は迷うことはないだろう。俺にはそれが……とても悲しくて、悔しい。そんな風に俺が自分の感情を押し殺していると、俺たちの前を歩いていたリーネがふと振り返った。イライラとした表情で、もう耐えきれないという表情で、リーネの燃えるような赤い瞳がこちらを睨むように見つめてきた。
「ちょっと、私だけ仲間外れにしないでよ! さっきから二人だけでこそこそ話して! 我慢したけど……やっぱり、秘密を教えてくれないと納得しないわよ!」
そう言うとリーネはカツッ、カツッ、と靴音を響かせながら、こちらに詰め寄ってくる。彼女は挑発的に、挑戦的に、真っ赤な瞳を輝かせながら、逃さないとでも言いたげな笑みを浮かべている。そしてそのまま、開いていた距離を迷いなく縮めて、アリアさんの真っ正面に立ちはだかった。
「それで? 二人は何の話をしていたのよ?」
「……今日もリーネはとても可愛いって話をしていたんですよ」
「うれしいけど、それは嘘ね! アリアが、嘘を吐いているときはいつも同じ顔をしているもの」
アリアさんは、すごく自然な顔で嘘を吐いた。清廉潔白を絵で描いたような見た目以上に、アリアさんは強かで、逞しい。いや、その印象は彼女の身の上話を聞いた後だと、なおさらしっくりくる。彼女はとても強い人だ。俺の認識を遥かに超えていた強さを持っている人だ。
そして、そんな彼女の嘘をすぐに見抜けるリーネもさすがだと思う。アリアさんは端正な顔に、ニコニコとした笑みを貼り付けることでいつも感情を隠している。だから俺には、アリアさんが嘘を吐いているかなんて、表情を見てもまったく分からない。これが付き合いの差ってやつか?
そんなことを考えながら、俺がアリアさんの表情をじっと観察していると、リーネが静かに口を開いた。不貞腐れたように頬を大きく膨らませながら……
「……どうしても、私には教えてくれないの?」
「もう、ズルいですよ。リーネはその顔をすれば私が言うことを聞くって思っているんでしょう? その手はもう、私には通用しませんよ。これは……リーネにだけは絶対に秘密です。まだ、話せません」
「……なら、なんでジンには話したのよ? アリアとは、私の方が付き合いが長いはずでしょう?」
リーネの声が少しだけ震えていた。その声は、自分だけ仲間外れにされて怒っているというより、悲しんでいるように聞こえた。
「……この世には、付き合いが長い相手だからこそ、言えないことだってあるんですよ。だから、待っていてください。そのときが来たら、必ず話します。話す時が来たら、ちゃんと……全部、私の方から話しますから……今だけは何も聞かないでください」
アリアさんの言葉には様々な思いが込められていた。その声音は、優しさと痛みが同居しているような、複雑で繊細な響きを持っていた。その一言を聞いたリーネは、しばらく黙っていた。そして、何かを探るような赤い瞳と、湖面のように穏やかな青い瞳が交差する。二人の視線が静かに交差する。赤と青――二つの対照的な色が、言葉では語れない思いをぶつかり合う。
両者の瞳の奥には、揺れ動く感情が隠されているみたいだ。沈黙が場を支配する。変に空気が張り付めて、誰も動こうとしない。だが、やがて、先に根負けしたようにリーネが溜息を吐いて、静かに「……そう」と呟いた。そして――
「……さてと。よくよく考えれば、こんなところで油を売っている暇はなかったわねっ!」
「……いいのか?」
「ええっ! 私たちの目標は迷宮からの脱出。それ以外のことは後で考えればいいだけだもの。それに……アリアが、いつか話すって言ったんだもの。なら、私はただ信じてその時を待つだけよ!」
リーネはそう結論付けた。彼女たちの会話につい口を挟んでしまったが、返ってきたその言葉には、リーネらしい強さと優しさが込められていた。燃えるような彼女の瞳が、その奥に宿る光が、場の空気を少しずつ溶かしていく。
「この迷宮から脱出する算段を腰を据えて、ゆっくりと話し合いたいところなんだけど、問題はミノタウロスの方ね。こうしている間にも、誰かが襲われているかもしれないんだし……」
「……本当にいるんですね、ミノタウロス……」
「いや、一応俺もミノタウロスと遭遇したって話してたんですけどね……」
リーネからミノタウロスという単語を聞いたアリアさんは少しだけ驚いたような顔をしていた。俺の話を聞いていたアリアさんは終始、冷静で顔色一つ変えなかったがあれは単純に信じていなかっただけなのかもしれない。そう考えると……ショックだ。申し訳なさそうにこちらを見てきた彼女を見ていられずに、目を背けるとリーネから肩を軽く叩かれた。
「ほら、もう! うじうじしないの! 私もさっきミノタウロスと接敵したのだけど、あまり強くはなかったわ。いえ、強いと言えば強いのだけど……どうしても勝てないほどの強敵ではなかったわね。腕に自信のある人間が五、六人集まれば一瞬で勝敗が決するわ。もちろん、私たちの勝利でね? 贅沢を言うなら十人くらいは欲しいかもね。そしたら確実よ。だけど――いえ、まずは、今ある武器の確認をするべきだったわね! ジンもアリアも持っている武器をすべて出しなさい! 使えそうなものもすべてね! 話はそれからよっ!」
リーネはそう言うと腰に付けていたサーベルとピストルを俺たちに見せるように出してきた。湾曲した刃の部分は鈍色に光り輝き、柄には拳護と呼ばれる枠状がある。片刃であること以外はこれと言った特徴のない渋めのサーベルだ。そしてもう一つは、温かみのある可愛らしい色合いの持ち手が印象的な、ドックロック式の拳銃だ。小さな花の意匠が丁寧に施されており、装飾性と実用性を兼ね備えている。リーネがいつも持ち歩いている二つの武器だ。
「なら、言い出しっぺの私からいかせてもらうわね! 私はサーベルとピストルね。それと魔法も。ピストルの弾数は残り五発。すべて魔除けの銀製よ。後は……もう大したものは残ってないわね。袖に仕込んでいる短剣と靴の裏に仕込んでるナイフ。それと、予備の小型ピストルだけね。二人はどう?」
「俺はこの”黒爪”と……あとは、ナイフとマッチくらいだな」
「私は鎧と呪具だけです。攻撃に使えるものは何一つ持っていません」
「うん、まったく足りてないわねっ!」
ガチャガチャと懐から乱雑に出した武器たちを前にしたリーネは言葉を締めくくった。確かに、あのミノタウロスの巨体を相手取るなら戦力が不足過ぎる。というか、まともに正面からあの怪物と戦えるのがこの場にはリーネしかいない。アリアさんも俺も非戦闘員なのだ。だから、おのずと彼女の負担が大きくなってしまう。
本当にこの場で唯一の男なのにいつも守られてばかりだ。所詮、俺は腕相撲だとリーネやヘルガ、それどころかユキにも勝てない程度の男だ。アリアさんとほとんど互角だった。本当に情けない。ヒビキに鍛えてもらった成果がなかなか出ない。一流に鍛えられているのに、才能がないせいでいつまで経っても芽が生えない。そんな風なことばかり考えていると――彼女は海賊帽子の中に隠していた一丁のピストルを俺に差し出してきた。
「私たちの戦力じゃあ、もしミノタウロスと接敵しても逃げるだけしかできないわね。仕方がないから、予備のピストルはジンに貸しておくわ。弾丸は一発しか装填できないから、いざという時に使いなさい」
「お、おう……でも、俺、ピストルなんて使ったことないんだけど……」
「はぁ? あなた、ヒビキに色々と教わってるはずで――いや、そうね。ヒビキは銃火器アレルギーだったわね。なら、ジンが教わっていないのも無理はないわ。……でも、やっぱりそれはあなたが持っていなさい。もう火薬は入れてあるから。後は撃鉄を引いて、狙いを定めるだけよ。ミノタウロスに効く威力は期待できないけど、何も無いよりはマシでしょう?」
リーネの細い指が俺の握っていた拳を優しく開き、ピストルを握らせてきた。本物の銃を初めて持った。もう腰に慣れてしまった”黒爪”とは違う。感触が違う。ずっしりとした重みがあった。これが人を殺すために作られた武器。今まで意識的に銃器を手に取ることは避けていたので、緊張感が喉に詰まった。
手に取ればいよいよ戻れなさそうだと思っていたから避けていたのに、いざ手に持ってみると特別なことは何もなかった。よく切れる刃物を見るとゾクゾクとした何かが背筋を走り、息が荒くなったが……これは逆だ。鉄の重みは感じても、高揚感などは感じなかった。それが危うさだとすぐに気づいた。刃物は怖いが、銃は怖くない。だから、一線を踏み越えてしまったという気持ちの他には特別なことが何もなかった。
俺の日常には存在しないものだから、銃の怖さがよく分からない。幼子が笑顔で包丁を握っているのと同じことだ。何も知らないから、何も怖くない。痛みを知らないから、それがどれほど危険なものなのかを理解できていない。その危険さを俺は意識しながらも、『今は仕方がない』『今は必要なんだ』と割り切り、リーネから受け取った銃をズボンのベルトで落ちないように固定した。
「……やっぱり、見立て通りね。ジンには銃が似合わないわ。お世辞でも似合ってるなんて言えないもの。でも、あなたたちの身を守るためだから贅沢は言わないでよ。……それと先に言っておくけど、銃って命を預けるには不足な武器だから。まず、銃口に火薬を入れ、その上から鉛玉を詰めるの。そして詰め物を押し込んで密閉して、銃身内で弾を固定。火皿に火薬をセットするってめんどくさい一連の行動して一発しか打てなのよ。一発よ? それに、主人はまだ戦っているのに先に弾切れしたり、焦ると狙い通りの場所に行ってくれないし。銃っていうのはね、私たちが手間暇をかけて尽くしてもすぐに裏切ってくるの。だから、絶対に命は預けないで。いざっていう時の保険よ。そして、そのいざっていう時は、あなたの、誰かの命が危険だとあなたが判断したときだけ。それだけよ?」
「一発ずつ、か……」
「……何よ、文句は聞かないわよ? その銃口には火薬でも、弾丸でもなく、ロマンが詰まっているのよ。不便って言葉は頭の中でロマンと言い換えてちょうだい。それだけでだいぶ生きやすくなるわよ。……まあ、そもそも指を引くだけ簡単に人を殺せる道具に命を預けるって前提がおかしかったわね」
「はい、その通りです。刀も銃もどこまでいこうと武器は武器です。鍬や斧は人々の生活を豊かにしてくれますが、刀や銃は人を傷つけることしかできません。どちらの方が尊く、価値があるかは一目瞭然です。途中で、口を挟もうかとも思いましたが……リーネが自分で気が付いてくれて安心しました」
「もう、アリアのお説教は聞かないわよ。結構長いし。まあ、それはそうとミノタウロスと出くわしてもいいように、もう少し戦力が欲しいわ――」
「何でずっとアンタと一緒なのよ! これで三回目よ? 三回目ッ!」
「うるっさ! つーか、それはうちのセリフだし! いちいち付いてくんなし!」
リーネが悩まし気にそう呟いた瞬間、二人の少女の声が聞こえてきた。まだ幼さを残した甲高い声だ。目の前にある階段から口喧嘩しながらヘルガとアセビの二人がゆっくりと下りてきた。
「ってか、アンタの言う通りここまで付いてきてあげたけど本当にこっちで合ってんの? 階段を下りたり、上がったり、もう訳わかんないし。さっき左に曲がった方がよかったんじゃない?」
「いや、こっちで合ってるわよ。こっちの方が出口に近いもの……って、ちょっと待ちなさい。何? アナタ、もしかしてワタシが間違ってるって言いたいの?」
「別にそんなこと言ってないし。ただ、今回もうちの案内に従った方が良かったんじゃないって思っただけだし……」
「言ってるようなじゃないっ! そもそも、いつまでも言い合っても時間の無駄だからって交代で迷宮の出口を目指すって決めたのはアナタじゃない。前回は我慢してアナタに譲ってあげたんだから。今回はワタシの番でしょ! そこを今さら掘り返さないで。っていうか、ワタシは道が分かってるんだから、アナタは最初から黙ってワタシの言う通りにすればいいのよっ!」
「はぁ? 今のはただのアドバイスってヤツだし。そこまで突っかかってこなくてもいいじゃん。つーか、勘違いしないでくれる。うちに命令していいのはうちのだけだし! 今も約束を守ってあげてるから、あんまり好きじゃないアンタの言うことも聞いてあげてるんだし! そこを、勘違いするんじゃないしッ!」
ほぼゼロ距離で顔を突き合わせて、ギャーギャーと騒がしく喧嘩している。まるで迷宮の静寂をぶち壊すような勢いだ。次第に声がどんどんと大きくなり、身振り手振りも激しくなってきた。そのせいで、二人とも俺たちの存在に気が付いていない。気が付く気配すらない。
「……これで、戦力は足りたわね。正直、不安だけど……」
呆れ果てたようにリーネはぽつりとそう呟いた。その言葉に俺は思わず納得してしまった。隣にいるリーネと目を合わせて、そっと肩をすくめてしまった。アリアさんとも無言で頷き合う。騒がしいけれど、頼もしい。だけど――やっぱり、少し不安だ。喧嘩し続ける二人を前にして一抹の不安を感じてしまう。というか、まだ仲良く喧嘩をしている。今、ミノタウロスと接敵しても大丈夫とは言えないが、アリアさんとリーネとヘルガとアセビに出会って、いつの間にか俺は迷宮の静寂は気にならなくなっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おー、これはまた……奇遇ですね?」
カランコロンと下駄を鳴らし、迷宮内を疾走し続けたヒビキはついにお目当ての怪物と遭遇できて気分が高まっているみたいだ。いつもよりも少しだけ声が上ずっていた。まるで能面のように貼り付けた笑顔が血の臭いを、戦いの気配を目敏く感じ取り、ギラギラと目の奥を輝かせていた。
不気味な光を宿す真っ黒な瞳と静かな表情が合わさった結果、どちらが怪物かは分からない。目の前に立ちはだかった妖のような男への警戒を露わにするかのようにミノタウロスは鼻息を荒くした。
「ボクの言葉は分かりますか? 話は通じていますか? ……返事を返してはくれないのですね。では、言葉が通じている体で話させていただきます。やっぱり、独り言では寂しいですからね」
ヒビキはまるで舞台の上で独白する役者のように、静かに言葉を紡いだ。その声音には、話し方には、抑揚がほとんどない。内から溢れ出る何かを必死に抑え込んでいるかのような不気味さを本能的に感じ取ったミノタウロスが逞しい右足を一歩、後方に下げた。その行動に目敏く反応したヒビキの眉がピクリと動き、流し目でミノタウロスの血に濡れたような瞳を覗き込む。
「……ここはとてもいい場所ですね。魔素が充実していて、身体が沸き立つ感覚が久方ぶりに味わえます。そして、無骨ではありますが細かな装飾も行き届いるところも高評価です。何処を見ても美しいと、素直に感じます。これは持論なのですが、美しさとは儚さと含んでいると思うんです。この刀も、魔剣もそうです。神具や魔剣がいくら頑丈とはいえ、壊れてしまいそうだからこそ、ボクたちは美しいと感じるんです。朽ち落ち、移ろい、衰退し、老い、終わるからこそ、美しいんです。もしかして諸行無常って言った方が情緒的でしたかね? まあ、どちらでもいいですね。それと、ここからはボクの勝手な推論になるのですが――君が死ねばこの魔剣は死ぬんじゃないかって思っているんですよねー。当たっていますか?」
ヒビキはミノタウロスへと疑問を投げかけるのと同時に、ぬるりと鞘から刀を抜いた。ヒビキが持つ刀の刀身が迷宮内を照らす魔光石の温かな光を反射して、怪しく、艶やかにミノタウロスを煽るように輝く。彼の愛刀の刃が放つ威圧感に気圧されたのか、ミノタウロスは図体で遥かに劣る青年を相手に再び一歩、二歩と逃げるように後退りをした。彼はそれが許せなかったみたいだ。
「……先ほどから、何を後ろに下がっていやがるんですか? 君の敵は目の前にいますよ? 敵前逃亡は絶対に許しません。忠義なき獣であっても、名誉は必要でしょう? 神話に登場している、先輩である君に恥をかかせるわけにはいきませんね。だから、もしボクの前から逃げるのなら容赦なく腹を裂き、首を落とします。そして、勇ましくボクに挑んでくる気概があるのなら……少しばかり、遊んであげてもいいですよ? ボクよりも早く、神話に登場し、悪名でも美名でも、名を刻んでいるわけですから……センパイとしての矜持を見せてれないとボクが困ってしまいます」
ミノタウロスの蹄が迷宮の石床を軋ませる。ヒビキから距離を取るために重々しく、たどたどしく両足を動かす。その巨体がわずかに震えているのは恐怖か、それとも怒りか。それは誰にも分からない。ヒビキは一歩、また一歩と逃げるミノタウロスとの間合いを詰めながらまるで舞でも踊るかのように軽やかに足を運ぶ。その声には、優しさを装った冷笑があった。 ヒビキの瞳孔は相手の反応を楽しむように細められ、刀の刃先はゆっくりとミノタウロスの胸元を指す。魔光石の光が刀身に沿って流れるように反射し、まるで血の予兆のように赤く染まった。
我慢の限界に達したヒビキが刀を構え、容赦なく怪物の太い首を筋肉で盛り上がった腹を切り捌くために狙いを定めた次の瞬間――ミノタウロスが低く唸った。 その音は怒りと覚悟の混じっていた。覚悟を決めた獣の咆哮だった。ミノタウロスはシュテンたちとの戦闘を乗り越えて、命の恐怖を覚えた。そして、自らの命を守るために戦い方を学習していた。
シュテンたちの顔色が、雰囲気が険しくなった場面を思い出したミノタウロスはその時と同じ行動を――大斧を手に取った。ヒビキの身の丈を容易に上回る、その刃の部分に触れただけで胴体を両断できそうな威圧感を放つ大斧。古代ドワーフが装飾のために鍛え上げた頑丈で切れ味が良い、ただの大斧をミノタウロスは軽々と片手で持ち上げて、ヒビキを睨みを利かせるように水平に構えた。
「おー、武器を使うとは。最低限の知恵はあるみたいですね? ですが、どんなに強力な一撃も当たらなかったら意味がないですよ?」
追い詰められた獣が放つ純粋な殺意を一身に受けて、ヒビキの冷笑が愉快そうな笑みに変った。そして、彼はゆっくりと刀を持ち直す。その動作は、まるで舞の始まりのように優雅で無駄がなかった。まるで、待ち望んでいた瞬間がようやく訪れたかのように。血に飢えた獣が、目の前に極上の肉を置かれたように。深く、歪んだ笑顔をヒビキが見せた次の瞬間――ミノタウロスが地を蹴った。
そして、ミノタウロスが持つ凶悪な大斧は唸りを上げ、空気を切り裂く音が迷宮に響いた。床を抉り、壁を削り、石柱を砕くような情け容赦のない一撃だ。破片が飛び散る。粉塵が舞う。その一撃は、まるで迷宮そのものを破壊しようとするかのような凄まじさだった。もし直撃すれば人間は瞬時に形のない肉塊へと生まれ変わるだろう。大斧の鋭い軌跡が、空間を切り裂くように走る。だが、ヒビキは動かない。動かない。胴を薙ぐように振り下ろされた大斧を前にしても、彼の身体はピクリとも動かなかった。それどころか彼は、まだ笑っていた。その笑顔は能面のように貼り付けられたまま―― だが、瞳だけが、ミノタウロスの動きを捉える獣のように鋭く輝いていた。
ミノタウロスの大斧が、ヒビキの身体に迫る。迫る。迫る。だが、彼にはその一撃を避ける気配が一切ない。微動だにしない。音もなくぬるりと抜いた刀を大斧を受け止めるように、防御するように、大斧に対して水平に構えた。
キンッ、と金属同士がぶつかり合い、鈍く重い音が迷宮に響き渡る。 火花が散り、互いの刀身が軋む。 常識的に考えれば、ヒビキの細身の刀がミノタウロスの大斧を受け止めるなど不可能だ。 だが、現実は違った。ヒビキの刀が、大斧の刃に食い込んだ。それを目視したヒビキは――翼のように舞った。空中で回転するかのように、華麗に舞い、そのままカランコロンと下駄を鳴らして、石床に着地した。
「……まあ、当たっても意味がなかったようですが……」
ミノタウロスの強烈な威力が秘められた一撃をヒビキは完全に殺し切り、受け流した。彼の研鑽を続けた武術が可能にした、まさに神業と呼ばれるべき所業。それを彼は、汗一つ流さずにやり遂げた。胆力と技術はもはや人間の枠組みでは収まり切れない。美と狂気が交錯する。死の舞踏。そして、彼はまた嘲るような笑みを怯える牡牛の怪物に向けた。ミノタウロスの大斧は、刃が激しく欠けている。だが、ヒビキの持つ刀は欠けることなく、静かに光り輝いていた。
「……肉を斬ることで名を覚え、刃を交えることで心を憶える。ボクは今、大斧を避けずに受けることで君の心を憶えました。さぁ、次は名前です。ですが、喋れない君に名乗りなさいとはいいません。そんな酷なことはできません。なので、代わりに君の肉を切り刻みます。君は勇気を出して、ボクに立ち向かってきてくれた。それが、とても嬉しいんです。だから、一緒に遊びましょう。ボクも時間が許す限り、付き合いますから……」
そう言うと、魔光石の温かな光が映し出したヒビキの影が僅かに揺らめいた。そして、疾走した。疾走した。壁を、天井を、床を縦横無尽に跳ね回り、ミノタウロスを翻弄していた。彼の足場には、重力という概念すら存在しない。翻弄し、翻弄し、翻弄し、ミノタウロスの四ツ目の視界から外れた瞬間、ヒビキは力強く利き足に力を入れてさらに加速した。狙いは――ミノタウロスの頭部にそびえたつ、巨大な角。それは獣の誇りであり、力の象徴でもあった。その一本が、宙を舞った。死角からの一閃。白刃が迸る。ヒビキが振り下ろした刃の軌跡はまるで舞うように滑らかで、残酷なほどに正確だった。
「この刀は……斬れぬものなど、あんまりないです」
鈍い断裂音と共に巨大なミノタウロスの角が切り落とされた。 迷宮内の空気が震え、切断された角が石床に転がる音が静寂の中に響いた。
乾いた音が響く。 それは、誇りが砕ける音。 力の象徴が地に堕ちる音。ミノタウロスは動かない。いや、動けなかった。自らの誇りを切り落とされた衝撃に、思考が追いついていない様子だ。ヒビキは静かに刀を振って血を払う。すると、少し遅れてミノタウロスの全身から血が噴き出した。
「……いい音でした。君の角は大きく、丈夫なので高値で売れそうですね。それと残念ですが、人を殺している獣の肉は市場で売れない決まりですからね。つまり、君には首から上にしか価値がないのということです。……お? 君も再生力が高いんですね。これは、朗報です。では……まだまだ楽しく、遊べそうですね?」
ヒビキは滔々と語り続ける。ミノタウロスの四つの瞳が彼の姿を捉える。 怒り、痛み、そして――恐怖。 それらが混ざり合い、獣の咆哮となって迷宮に響いた。だが、ヒビキは微笑んだままだ。その笑顔は、能面のように貼り付けられたまま変わらない。だが、彼の開いた瞳孔は次の一手を見据えていた。
次の行動を読んでいる。しばらくその場に立ち尽くすことしかできなかったミノタウロスは刀傷の痛みと目の前の男が放つ異質な気配に獣の本能が警鐘を鳴らしていた。そんなことを気にも留めずにヒビキは再び構え直す。静かに刀を構え直して、鈍色に色めく刃先をミノタウロスの血に濡れたような真っ赤な瞳に向ける。
それは、まるで次の一閃を予告するかのように滑らかで、冷たい動作だった。その姿を見たミノタウロスが踵を返して逃げ出すほどに。その巨体を迷宮の奥へと隠れるように、ミノタウロスは走り出した。咆哮ではなく悲鳴を上げて。石壁を激しく揺らし、床を軋ませながら、ただひたすらにヒビキから遠ざかっていく。逃げるという選択が、獣の本能が導き出した最適解だった。ヒビキは、逃げていく大きな背中を静かに見つめていた。 その瞳には、怒りも憐れみもない。ただ、淡々とした興味が宿っていた。
「……あれぇ? もしかして鬼ごっこがご所望でしたか? それともかくれんぼ? 角が生えているくせにボクが鬼役なのですか? ……まあ、追われるよりも、追う方が楽しいですからね。ボクもそっちの方が性に合っていますし。 ……どちらにせよ君もまだまだ遊び足りないみたいですね。ボクと同じで。もしかしたらボクたち、思いのほか気が合うのかもしれませんよ」
そう言うとヒビキは一度、刀を鞘に納めた。その仕草はどこまでも無駄がなかった。納刀しているはずなのに、彼には一分の隙もない。視線は逃げるミノタウロスの背に釘付けになっていたが彼の声色は、どこか寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。
「もう、十秒は経ちましたよね? では、ぼちぼちと追いかけますか。せっかく鬼役を任されたのですからボクも楽しまないと損ですしね。それに……ボクがミノタウロスの近くにいる限り、これ以上犠牲者は出す暇はないでしょうしね。正直、この迷宮に足を踏み入れている時点、死ぬ覚悟は決めているでしょうから、ボクにとってはどちらでも構わないんですけどね。……ついでに、彼らが殺された以上の痛みを、君には味合わせてあげます。それが、ボクなりの仇討ちです。死んでいった彼らの無念を、ボクが代わりに晴らしてあげましょう!」
ヒビキは魔法を用いて迷宮の床に弾力性を与えると、カランコロンと下駄の音が響いた。駆け出した彼の足取りはどこまでも軽やかだった。彼の動きは重力にしか縛られない。誰にも止めることはできない。ヒビキはミノタウロスの大きな背中を追いかけるために、まるで放たれた矢の如く、怪物の低い唸り声が聞こえる方向を目掛けて一直線に駆け出した。鋭く、ただひたすらに走る。その瞳には、獲物を捉える獣のような怪しげな光が宿っていた。
だが、ヒビキも久方ぶりの遊び相手を前にして、気が付かないうちに嬉しくなっていたのだろう。その高揚がほんの一瞬、彼の注意を逸らした。普段の彼では絶対にしないようなミスをしていた。彼は見逃してしまっていた。誰もいなくなったこの場に、確かに存在していた“何か”を。
静まり返った空間の片隅で、ミノタウロスの角の先を装飾していた黄金の光がゆっくりと脈動していた。その黄金の輪は、まるで呼吸するかのように柔らかく、しかし確かに輝いていた。魔光石の温かな光とは違う。
もっと古く、もっと根源的な――人間の秘めたる欲望を露わにするような厭らしい黄金の光だった。見る者の心の奥底に眠る欲求を、静かに、しかし確実に揺さぶる。目の前の刹那的な楽しみを優先し、視野が狭くなったヒビキはその輝きを見逃してしまった。それは海賊としても、神になりたいと力を欲していた彼自身にとっても、致命的な見落としだった。ヒビキの下駄の音が遠ざかる中、ミノタウロスが落とした黄金の輪は誰にも見られないまま、静かにその存在を主張していた。




