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第七十八話 『背信』


 しばらく気まずい沈黙が続いた。俺ではなく、どこか遠くを見つめている彼女と肩を並べて対等に言葉を交わすには、今の俺では足りないものが多すぎた。あまりにも空気が重たすぎた。彼女の腹の底に抱えている悩みを聞いたものの、俺には何も言えなかった。ただ、足元に視線を落とすことしかできなかった。


 俺は、そこまで成熟した考えや広い視野を持っていない。神について真剣に考えたことなんて、片手で数えられるほどしかない。つまり、俺は彼女に比べて、あまりにも幼すぎたのだ。まともな人付き合いを――今まで、自分の人生とまともに向き合ったことがない人間(おれ)には口を開く資格すらないように思えた。だからこそ、俺はただ黙って、足元に視線を落とすことしかできなかった。


 そんな俺の非力さを――無力さを察したのか、アリアさんの方から「歩きながら話しませんか?」と提案してくれた。九死に一生を得た。その言葉に救われるように、俺たちは祭壇を後にした。俺は魔法で出した縄を、祭壇の奥に立ち並ぶ石柱へ何重にも縛り付け、そしてヒビキの後を追うように、迷宮内を歩き始めた。


 これも、アリアさんのアイディアだった。迷宮の入口を避けるように、一階層に俺の魔法で生み出した縄を張り巡らせようと企んでいた。それでによって、これ以上のワープ現象の発生を阻止できるし、祭壇までの道のりを迷うこともなくなる。出発点が祭壇の奥だから、皆が丁寧にこの縄を辿っていけば、いずれ祭壇内に到着するはずだ。


 というか、ミノタウロスがこんな細かい作業をするわけがないし、俺の魔法やロバーツさんが用意した大量の縄を知っている者なら、そこまで疑うわけがないだろう。これで逆張りをして、迷宮の入口に辿り着いる者が存在しているなら、ぜひ見てみたい。そいつは根っからの捻くれ者に違いないからだ。性根が捻じ曲がっている。


 通常、人喰い迷宮の中で人や道標と出会えば疑いよりも先に安心感を抱くはずだ。……まあ、アリアさんを疑ってしまった俺には、そんなことを口にする資格はないだろうが。助けてもらったのに、一瞬でも彼女のことを疑ってしまった自分が情けない。でも、そうだな。念の為。念の為に、聞いておくか。こんな緊急事態なんだし、確かめておいてもいいだろう。


「あの、一応聞きますが……アリアさんは……その、本物なんですよね? 偽物なんかじゃないですよね?」


「え、いきなり何の話ですか?」


「いや、実はその……アリアさんが偽物なんじゃないかって疑ってしまって……ほら、魔法なんてものが存在しているんだったら、化け物か何かが人間に化ける魔法があってもおかしくないじゃないですか? それに人喰い迷宮の中だと、もう何が起こってもおかしくないじゃないですか」


「……酷いです。ジン君はずっと私に疑いの目を向けていたんですね。ショックです。とても傷つきました」


「え、ごめんなさい。いや、でも、だって……今日のアリアさんは、どこか雰囲気が違うように見えたっていうか、迫力があるっていうか。いつものアリアさんじゃないみたいで……つい」


 確かに俺は、ずっと彼女”らしさ”にこだわり過ぎていた。固執していた。そのせいで悩んだり、疑心暗鬼になったりしていた。こういった人を属性や記号で見るなんて、現世の俺が一番嫌がっていたはずなのにな。というか、アリアさんも人間なんだからその時その時の感情で、相手への対応は違うだろう。


 そして、わざとらしくシクシクと涙を流すアリアさんは、困っている俺の反応を十分楽しみ終わったようで、すぐに笑顔を浮かべて口を開いた。


「まあ、ジン君がそう思うのも仕方がないのかもしれませんね。今日の私は、冴えていますから」


「……冴えている?」


「はい、冴えています」


 アリアさんはそう言うと、物憂げな表情を浮かべたまま、会話を止めてしまった。俺はずっと彼女の隣を歩いていたが「神を疑ってしまった」という彼女のその重たい一言を前にして、どうしても踏み込めないでいた。


 そもそもどんな顔をしていいのかすらも分かっていない。最初の一言が何も浮かばなかった。だから、タイミングを計るように別の話題を探してこの場を凌いでいた。それを彼女も気付いているのだろう。下手な芝居でもよかった。たとえ不自然だと思われても、なけなしの勇気を振り絞るための時間が欲しかった。


「……あ、そうだ。せっかくですし、ジン君。久しぶりに勉強会を開きましょうか? ヘルガがうちに来てすぐに祭りの準備で忙しくなったので、なかなか時間が取れませんでしたからね」


「え、は、はい。そうですね。なら、お願いしてもいいですか?」


 突然のアリアさんの発言に、俺は一瞬戸惑ってしまった。だが、すぐに返事をすることができた。そう言えば、こちらの常識がない俺とヘルガのためにアリアさんが定期的に開いてくれた勉強会も、最近はめっきり回数が減ってしまった。俺の綿菓子機の作成の手伝いが原因で。あの穏やかな時間は結構好きだった。あれはあれで楽しかったからな。


「うーん、そうですね。準備もなしにいきなり話すのは難しいんですよね。……あ、まずはジン君の勘違いを正しましょうか」


「……はい、お願いします」


「これはもうヒビキにも教えてもらったかもしれませんが、魔剣や呪具も魔法と同じですよ。基本的には一人一つの超常的な力です。ドワーフやエルフは種族魔法と呼ばれる体系化された魔法なのですが、人間は魔法が使えること自体が稀であり、発現する力も規則性がないんです。つまり、ジン君は『縄を出す』魔法を使えても、リーネのように『炎を出す』魔法は使えませんし、ヘルガのように『風を操る』魔法も使えません。なので、呪具や魔剣は人間の魔法と似たようなものですね。ヘルガはエルフとニンゲンの血が混じっているので少しだけ特殊なので、例としては微妙なところですけどね。……そして、基本的に魔法が使えることは利でしかありません。だからこそ、火・水・風・土と種族単位で四つも魔法を操れるエルフが最強の種族と呼ばれているんです。ここまでは大丈夫ですか?」


「……はい」


「フフ、いい返事ですね。私は、トーマスさんたち魔素研の方々とも話したことがありますが、ジン君たち……魔法使いを見ていると魔法とは呪具と同じく深層心理を。その人たちの、願いを反映していると思っているです。だから、規則性がないものだと思うんです。これはただの私の考えでしかないので、参考程度にしておいてくださいね」

 

 アリアさんは指先で空をなぞるようにしながら、ゆっくりと話し始めた。調子を取り戻したのか、少しだけ声も明るくなった気がする。彼女の声は、勉強会の時と同じように楽し気に弾んでいた気がした。


「それと、エルフの中でもヘルガは『霧を出す』『光を操る』『風を操る』って三つの魔法を使えるので、例えとしては不適切でしたね。だから、トーマスさんも興味を持ったわけですし。……すいません、話を戻しましょうか。この人喰い迷宮は呪具ではなく魔剣にカテゴリーされていると話しましたかね? 魔剣とは古代ドワーフたちがその卓越した技術力で、鍛えた武具に好きな能力を付与できるんです。ですが、これも基本は一つの効果です。だから、この迷宮には『脱出する者を閉じ込める』という効果しかないんだと思いますよ。……まあ、どこまでいっても統計ですけどね。この迷宮がイレギュラーという可能性もありますし、私たち人間の感覚では理解できない部分も多いですから」


「……そうなんですね」


 俺は頷いたものの、正直なところまったく頭に入ってこなかった。ヒビキがしていた話と似ているせいもあるが、他に気になることが多すぎて情報を処理ができていない。そんな俺の様子を見て、アリアさんは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にしてきた。


「ごめんなさい。あんなことを言った後で、突然こんな話をされても、頭に入りませんよね」


「そ、そんなこと――いや、実際そうですね。さっきの話が気になって、それどころじゃないかもです」


 アリアさんは、俺がどこか上の空なことをすぐに見抜いたようだ。彼女の身の上話が気になって仕方がない。呪具や魔剣の知識よりも、今はずっと彼女のことが知りたかった。


「……アリアさん。聞いていいのか分からないので、嫌だったら答えなくても構いません。えっと、その『神を疑ってしまった』ってどういう意味でしょうか?」


「どういう意味も何も、そのままの意味ですよ。……もしかしたらジン君には馴染みがない話かもしれませんが、神はいつも私たちの在り方をご覧になっているんです。だから、朝と夜には教会で祈りを捧げ、私たちは見守ってくださる神へと声を届ける。そのためには誘惑に陥らないように神の教えを守り、清らかに暮らすこと。今日という一日を大切な人たちと穏やかに過ごせたことへの感謝を忘れないように伝えること。私たちは神の愛に応えるように、毎日欠かさずに祈り続けることで……信仰という名の強さを、愛を得られるのだと……そう信じて生きていました」


「確かによく分かりませんけど……それって普通のことなんじゃないですか? むしろ、姿形が見えない相手なんだから疑う方が正常じゃないですか?」


「――生前の私は、神を疑ったことなんてありませんでしたっ!」


 俺の言葉を途中で遮るように、アリアさんは語気を強めてそんなことを言ってきた。いつも物腰柔らかで穏やかな彼女が、初めて声を張り上げた姿を見て、俺は身体を委縮させてしまった。ビクッ、と無意識のうちに肩をすくめ、反射的に身を引いてしまった。


「すいません。声を荒げてしまって……」


「……いや、俺は全然気にしていませんから……」


 空気を裂くような彼女らしからぬその声に、アリアさん自身がすぐに気づいたように表情を曇らせてしまった。俯きながら謝って来る彼女の姿は後悔しているのだと一目で分かる。だが、俺は今それどころじゃなかった。アリアさんの発言を精査していくと、とある疑問が頭に浮かんでしまったからだ。それは、とても突拍子のない発想だった。だが、妄想に近い考えでも一度思いついてしまったら止まらなかった。


「……あれ? いや、ちょっと。待ってください。……生前、アリアさんって今、確かに『生前の私』って言いましたよね? その言い方、おかしくないですか? いや、おかしくはないんですけど……。生前ってことは、それじゃあ、まるでアリアさんも俺と同じで”現世”から”こちら”に来たみたいな言い方じゃないですか?」


 驚きを噛み殺すように俺は、アリアさんにそう尋ねた。動揺で説明がたどたどしくなったが、どうやらアリアさんはそれでも理解してくれたみたいだ。そう裏付けるかのように彼女は優しく微笑んでいたからだ。優しく微笑んで……俺の発言を肯定するかのようにアリアさんは優しく微笑んで、彼女はまるで歌うような声音でこう言った。


「――はい、そうです。私もジン君と同じで、正しく生を全うできずに現世からこちらに流れ着いた者の一人なんです。このことはまだ誰にも……リーネにも話したことがないので、ジン君と私の……二人だけの秘密にしてくださいね?」


 アリアさんの言葉を聞き終えた瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃が全身に走った。頭からつま先まで痛くなるほどの衝撃だ。ピリピリと焦がすような衝撃に脳が揺れた。何故だか、理由は分からない。だが、一度も疑問に思ったことはなかった。ずっと思い違いをしていた。レインちゃんとトール君以外には現世からこちらに流れ着いた者はいないと勘違いしていた。


 そりゃあそうだ。考えてみればそうなんだ。本当かどうかは分からないが、日本だけでも毎日三千人近くが死んでいるなんてデータをどこかで見たことがある。そんな中で俺を含めたたった三人だけが特別だなんてあるわけがない。自分から話さないだけで、俺が知り合った人の中にも現世から来たという人はいるのかもしれない。というか、黄泉の国っていうのがそもそも現世で死んだ人が作った国なんじゃないのか?


 そんな疑問が続々と頭に浮かんできた。だが、それを口に出すことはできなかった。何故かって、単純に開いた口が塞がらなかったからだ。アリアさんが俺と同じ立場――つまり、彼女は現世からこちらに来たのだと知ったオレは、自分自身でもよく分からないような複雑な感情に飲み込まれていた。




 ※ ※ ※ ※ ※   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




「ジン君は霊拝堂という単語を、どこかで耳にしたことがありますか?」


「……礼拝堂?」


「たぶん、ジン君が思い浮かべているものとは漢字が違いますね。礼儀の礼ではなくて、幽霊の霊です。礼拝堂のような建物の中に、幽霊が現れると噂されていたことが由来となって霊拝堂です」


 衝撃から立ち直る間もなく、アリアさんからそんなことを言われた。与えられた情報に頭がまだ追い付いていない。生まれた感情に名前を付けることができない。定義が不明だ。だが、上手く言葉にできないが彼女に対して抱いたのが、マイナスの感情でないことだけは確かだった。だから、何とか対話を続けることができた。だから、ギリギリ会話が成立できるくらいの知性は俺にも残されていた。


「霊拝堂とはレナティウス大陸において鬼ヶ島の……いえ、死天山と同じ役割をしている建造物のことです。黄泉の国では閻魔大王が亡者たちに判決を下すらしいですが、レナティウス大陸では霊拝堂に魂が送られて、魂が身体を形作る前に神のもとへと送られるらしいです。これも、古代ドワーフが彼らの神に命じられて建てられたとものされています。ですから、普通はこちらで復活することはないはずなのですが……稀に、身体も復活してしまうケースがあるみたいですね。突然、自我のない人間が霊拝堂内に現れる。その様子がまるで幽霊のように不気味だから、人々はその建物を霊拝堂と呼ぶようになったのだと私が身を寄せていた……お世話になっていた教会で聞きました」


「……つまり、アリアさんは身体と自我が復活してしまったから成仏でき――いえ、神のもとへ行けなかったってことですか?」


「……いえ、それは関係ないみたいですよ。むしろ、ジン君の考えが正しければどれだけ良かったでしょう。教会の方々から魂が身体を形作り、自我を取り戻した人物はこれまでも数名いたらしいですが、霊拝堂で数時間ほど過ごせば姿が消えていなくなるようです。ジン君が成仏と言いましたが、良い比喩だと思います。きっと彼らは神のもとへ呼ばれたのでしょう。私も彼らに倣って、何十、何百、何千回と祈るように足蹴なく霊拝堂へと通ったのですが、終ぞ救いが訪れることはありませんでした。――私だけが神のもとに呼ばれることがなかったのです」


「……俺にはやっぱり、そこが分かりません。俺は事故で、命を落としたんです。そして、黄泉の国に来ました。シュテンの話を聞くまではやっぱり心のどこかで生き返りたいって思っていましたし、今はせっかく拾った命だと割り切って、リーネの船に乗りました。……アリアさんはそこをどう思ってるんですか? すいません。価値観とか文化とか宗教とか。そういう他人の持つ重さが、俺はまだ良く分かっていないから言いますけど。神のもとへ行くことってそんなに大事なことなんですか? こっちで皆で楽しく生きる方がいいんじゃないですか?」


 彼女の語り口にはよどみがない。ただ、滔々と事実を語り続けているだけのようで彼女の感情が挟まる隙がない。声音からでは、彼女がそのとき何を思っていたのか読み取ることができなかった。だから、踏み込んだ。たぶん無縁だから、無知だから、俺はこうしてアリアさんに直接聞くことができたんだと思う。でも、俺のその問いにアリアさんは深く考えるように沈黙した。ダメな質問だったかもしれない。ラインを超えたのかもしれない。俺がそうやって心の内で反省しているとアリアさんはゆっくりと口を開いた。


「……私は、混沌の時代に生まれました」


「え? いきなり、ですね。アリアさんの生前の話ですか?」


「はい、私もジン君に倣って少し昔を振り返ってみようと思いまして……」


「……どうして俺なんかにそんな話を? リーネたちにもまだ話していないことなんですよね? アリアさんのことは慕ってますし、人としても大好きです。ですが、まだ俺はリーネたちと比べると関係は浅いと思っています。なのに、何で、そんな話を俺に?」


「……フフ、どうしてでしょうね? ジン君は内向的に見えて、意外とガツガツと人の心に踏み込んでくるからかもしれませんね? だから、私も気が向いたのかもしれません。まあ、この気持ちも一時の気の迷いなのかもしれません。でも、誰かに話してみたいって思わされちゃいました。……そうなった時点で、私の負けなんです」


「……ご、ごめんなさい」

 

「フフ、また困らせてしまいましたね。謝らなくてもいいですよ。叱っているわけではありません。ヘルガのことを見たら分かるように、ジン君のその行動が良い方向に人を変えることががあるともう知っていますからね。ただ……もしよければ、あと少しだけ、私のつまらない身の上話に付き合ってくれませんか?」


 アリアさんに、普段の言動を注意されていると感じた俺は気まずくなり無意識のうちに謝罪の言葉を口にしていた。雰囲気が気まずくなるとすぐに謝る癖が抜けていない。いや、それは別にいいのか。それよりもアリアさんの話を聞くために意識を集中しよう。そうやって、すぐに意識を切り替えた。


「……分かりました。アリアさんの話を一言一句逃さないように全部聞きます。この耳でしっかりと聞き届けますっ!」


「の、乗り気なのは嬉しいですが。ちょっと勢いが強いですね……」


 アリアさんに何かを頼られるとウキウキとした未知の喜びを感じて、心が明るく弾んでしまう。これが、姉がいる弟の気持ちなのか? いや、違うだろうな。実際の兄弟姉妹がそこまでいいモノじゃないって俺だってよく知っている。俺が一人でそんなことを考えていると、彼女は静かに語り始めた。


「……私は村の名士である父と信心深い母のもとに生まれました。朝は他の()たちと同じように教会に通い、日があるうちは父や兄たちと一緒に畑を耕し、糸を紡いでいました。土の匂いと、糸車の音だけが、今の私が思い出せる平和な日常です。そして、夕方には遠くから聞こえる教会の鐘の音を待ち、家族と今日一日を穏やかにすごせた感謝を神にささげる。そんな日々を送っていました。……もう記憶も曖昧ですが、当時、私が好きだったのは母が作ってくれたカスレという料理です。母がよく作ってくれたカスレはとても不思議で……一口食べると身体が、二口食べると心が、ポカポカと温かくなるんです。……きっとあれが、私にとっての母の味だったのでしょうね」


「カスレですか。カスレって確か、フランスの郷土料理でしたよね? シチューのような見た目で鴨や白いんげん豆、香味野菜をじっくりと煮込んだ美味しいそうな料理だと記憶してます。まあ、食べたことはないんですけど……」


「フフ、よくご存じですね。私の頃は、村に残った豆類や肉類をすべて食べるために鍋で煮込んでいたので、いつも微妙に味が違っていましたが。……もし食べたことがないのでしたら、今度ジン君のために作りましょうか? まあ、それでも母が作ってくれたカスレには遠く及ばないのでしょうけどね」


「いや、それでも嬉しいですよ! 食べたことがない料理を食べるって、テンション上がりませんか? それにアリアさんの手料理は美味しいですよ」


「そこまで言われると、腕によりをかけて作りたくなりますね。……ああ、だいぶ話が逸れてしまいましたね。とにかく、私はそんな穏やかな日々を送っていたんです。いつまでもあの幸せな生活が続くと思っていました。……ですが、時代がそれを許してくれませんでした」


「……時代が?」


「はい、私が生まれた時代は、ちょうど王位継承をめぐる戦争の最中だったのです。貴族たちは時に立場を変え、対立する相手を変え続けていました。誰が味方で、誰が敵なのかを覚えてられないほど、情勢が混乱していたんです。そして、彼らが統治する国に住む人々は、もっと悲惨でした。自分の土地が戦場になるたびに、畑を踏み荒らされて、土地を奪われて殺されたりしていたんです。あの時の雰囲気だけは、未だに忘れられません。まるで時代そのものが張り詰めているかのようで、村で生活しているだけでも息苦しくなるんです。先が見えないまま繰り返される争いに、民の心がだんだんと疲弊しているのを、私も肌で感じました。そして私が十六才になったある日、ついに村が戦火の渦に巻き込まれてしまいました」


「戦火に巻き込まれたって……もしかしてアリアさんは、その時に?」


 俺のその問いにアリアさんが首を振って否定した。戦火に巻き込まれて彼女は命を落としたのかと思ったがどうやら違うようだ。安心した。


「いえ、その時は無事に逃げ延びることができました。そして数か月後、冬が訪れる前に私たちは村へ戻ることができました。ですが、そこは以前、私たちが住んでいた村ではありませんでした。家々は焼き払われ、井戸は潰され、畑は踏み荒らされて……そこにはもう、私が家族と過ごした平穏なあの村の面影は、ありませんでした。敵軍からの襲撃を受けてた廃村の姿が、近所に住むおばさんの嘆く声が、絶望に染まった両親の表情が、ずっと私の記憶に焼き付いて離れてくれないのです。それを見た私は、私は――」


「……アリアさんは、どうしたんですか?」


 アリアさんは、その悲惨な記憶がフラッシュバックしてしまったのか、言葉に詰まったように見えた。目を伏せ、再び、唇をわずかに震わせる彼女の姿が見えた。だから、彼女が話しやすいように不器用でもサポートするつもりで声をかけた。すると、彼女はまるで自分自身に落ち着けと言い聞かせるように、深く息を吸い込んだ。


「――ッ、怒りました。当然、怒りました。そして同時に、深く悲しみました。何故、私たちがこのような理不尽を受けなければならないのだろうと。何故、彼らはこのような残虐なことができたのだろうと。何故、私たちは国同士で争っているのだろうと。燃え尽きた我が家の前で、一晩中そんなことばかりを考えていると――声が聞こえたのです。いえ、その声は以前から聞こえていたはずなのに、私の心がその声を誤魔化し続けていたんです」


「声? 誰の声ですか?」


 俺は思わず身を乗り出してそう聞いていた。すると、アリアさんは遠い記憶を探るように目を細めて考え込むような素振りを見せた後、惚けるように少しだけ首を傾けた。


「……さぁ、誰のでしょうか? ですが、私にだけは確かに聞こえたのです。父や母、兄たちには聞こえなかったようですが……。私も、もう正確な内容は覚えていません。ですが、『祖国を救いなさい』という声を聞いたという事実だけは、今も私の胸に残っています。そしてその時から、頭に響くその声に、導きに従うことこそが、私の生きる意味そのものでした」


「……その声を聞いた、アリアさんは何をしたんですか?」


「いえ、何もできませんでした。あの頃の私は、何もわからないただの村娘でした。馬も乗ったこともできなければ、剣や弓も握ったこともない。戦の方法なんて知るわけがありません。でも、時間は私を待ってくれませんでした。私が迷うほど人々は互いを傷つけ合ってしまう。頭に響く声も待ってくれません。その声は使命は与えてくれても、道筋を示すことは決してありませんでした。だから、今、私は自分にできることをしようと決意したんです」


「できることをしたって……一体、何ができたんですか?」

 

 同じような悩みをアリアさんも持っていたという驚きがあった。不意打ちを突かれたみたいな気持ちだった。俺も今、自分の無力感について悩んでいる。何もできないのは歯痒い。その気持ちを思い出してしまったせいで少しだけ言葉というか、当たりが強くなったのに自分でも気が付いた。いや、これも全部、言い訳にしかならない。だが、アリアさんはそんなことを気にすることなく話を続けた。


「私は、ただ声を掛けました。私は無力で何もできません。だけど、私に祖国を救うという大義を、行動に力を与えてくださったその声と同じように……天の声を、貧苦に悩んでいる民衆に届けることができます。先行きが見えない、不安を抱えている人々に対して、力強い言葉をかけて、勇気づけて回りました」


 アリアさんは頭の中の記憶を手繰るように語っているせいか、普段よりもゆっくりとしたペースで話しているようだ。まるで子供に絵本を読み聞かせるような心地が良いその語り口を前にして、俺は口をはさむことを止めた。


「その後も……色々なことがありました。必要な地理を教わり、乗馬の仕方を教わり、政治情勢を教わり、敵地の間を抜けるように旅をしました。とても怖かったですが、そうすることでしか祖国を……人々を救う術はないと自分を励まし、勇敢に進みました。思い返してみれば、私の人生は出会いに恵まれていましたね。まるで天が味方をしてくれているかのような、幸運な出来事の連続でした。そして、あの頃の私は、誰よりも平和を願い、我らが祖国のために行動したという自負があります。ですが、最期は――異端に落ちた魔女と罵られ、火刑に処されました」


「……はっ?」


 アリアさんの優し気な口調から突如としてぶち込まれたその一言を、脳が理解するのを拒絶した。子供に絵本を読み聞かせているかのような穏やかなな口調が、彼女が纏う和やかな雰囲気が、彼女の高火力の発言によってぶち壊された。異端だの、魔女だの、火刑だの、彼女の穏やかな声音からは想像ができない内容だったからだ。


「いや、いや、いや……え、火刑って……え? すいません、一体何の話をしているんですか? 火刑って、ま、魔女狩りとか、教科書でもあんまり見たことない単語なんですけど……」


「フフ、()の話ですよ。それにしても、魔女狩り……魔女狩りですか……私が生きていた時代はちょうどその時代ですね。この大陸でもかつては”魔法使い”のことを魔女と差別されていたみたいですが……まあ、それはどうでもいいですね。ジン君は火刑ってどんなものか知っていますか? 火刑とは木材や藁などを積み上げた火刑台に魔女や異端者の肉体を縛り付け、火をつけて焼き殺すんです。煙を吸い込んですぐに気絶するので、痛いのは本当に最初だけなんですよ? あれは罪人を見せつける意味合いもありますが……それ以上に、身体を失う火刑を受けた罪人は審判の日に、復活することができなくなるんです。罪人として灰になると復活するための肉体がなくなるからです。私にとっては、それがこの世の何よりも恐ろしい罰でした。……棒に縛り付けられ、十字架を握り締めた私は……藁に火をかけられて……次に、つま先を突き刺すような熱に襲われて……そして、全身を炎に包まれました。……私は、そこで初めて……神を疑ってしまったんです」


「……ッ」


 壮絶だった。壮絶な話だった。アリアさんの湖面のような青い瞳がこちらに向けられた途端、俺は引き絞られた弓を向けられているかのような緊張感に襲われた。背筋に冷たい汗が一筋、ゆっくりと流れ落ちる。


「ジン君。先ほどの発言ですが……少し訂正しなければなりません。私は生涯で一度だけ、神を疑ったことがあるんです。そのときに芽生えてしまった疑心は、今も心から消えてくれません。炎にこの身を焼き尽くされたあの瞬間から、神への疑いが私の胸に救い続けているんです。……きっと、そのせいで……神は私を見放したのでしょうね」


「……見放したって、アリアさんは具体的には何をしたんですか? それによって、だいぶ変わるでしょう? いや、どんな外道なことをしたとしても、炎で身体を炙り殺されるのに相応しい(りゆう)なんて、俺にはこの世のどこを探してもあるとは思えないですけど……」

 

 彼女の声は静かだった。だけど、彼女の顔を見ていると、長い年月をかけて熟成された後悔が滲んでいることが一目で分かるだろう。


 理不尽を、不条理を、不合理を、自らの罪として受け入れているアリアさんのその姿を見ていると……何故だろう。頭の芯の部分からふつふつとした怒りが湧き上がってきた。今まで俺が抱いたことのないタイプの怒りだ。怒りが言葉の形を借りて、勝手に口を動かしてくる。彼女が自分を責めているその姿を見るとつらつらと怒りが口から漏れ出す。だがそれでも、彼女の言葉は続いた。俺の様子なんて気にすることなく、彼女は言葉を……自らの罪を告白した。


「簡単なことです。炎に身体を焼かれる最後の瞬間、私は……神ではなく、母を求めたのです。それが、私が犯した神への背信……裏切りです」


「…………えっと、何を言ったらいいか分からないですから、今アリアさんの話を聞いた俺の正直な気持ちを言います。……こんなこと言いたくないけど、バカなんじゃないですか?」


 アリアさんの口から零れ落ちたその言葉が俺の耳に届いた。そして、言葉が持つ意味をゆっくりと頭で理解した瞬間――怒りが爆発した。怒りという感情が彼女の発言を拒むためにさらに強く燃え盛る。ただ俺は怒りに任せて、彼女に向かって言葉を続けた。


「天の声ってやつがただの幻聴だったとしても、アリアさんは、誰よりも平和を願ってたんですよね? 誰よりも自分の国のために行動したって自負しているんですよね? なら、自分を責めるんじゃなくて、神様ってバカに恨み事くらい吐き捨ててくださいよっ! それくらいの権利がありますって!」


「いえ、私には……そんな権利はありませんよ。……あれだけ私を、我らが祖国を導いてくださったのに……私はその愛に応えられませんでした。……何度も、何度も、私が迷ったときも、苦しんだときも……その声は、いつも私を導いてくれていたんです。なのに……私は……」


「……ッ! だから、それのどこが裏切り何ですか! アリアさんは最期まで、怖くて、十字架を握り締めていたって自分の口で言っていましたよね? それで何ですか、母を求めたって。死ぬ前に家族を思い出すなんて……当たり前じゃないんですか。関係が上手くいってなかった俺だってそうだったんだから、家族仲が良さそうなアリアさんなんてもっとそうでしょう? 言ってたじゃないですか、母のカスレが好物だって。それに、死ぬ瞬間まで自分のことを考えて欲しいなんて……メンヘラじゃないんですから! それが嫌なら、生前のアリアさんを奇跡か何かで助けてあげればよかったって話でしょ。本物の神様なら。いくらアリアさんの愛を確かめるためって言っても傲慢すぎるってか……ただのバカですよ。やり方がっ! そもそも、その神様ってアリアさんは自分の村を焼かれたってのに助けてくれなかったんでしょう? 声をかけるだけで何もしてくれなかったんでしょう? 力があるくせに命じるだけなんて……そんなの助けてくれたなんていいません。それのどこが愛なんですかっ! むしろ、体よく生前のアリアさんを利用しただけじゃないんですか? 俺にはそうとしか思えませんよ。力があるなら自分ですればいいのに……そんな神様を信じようとする必要ってありますか? やってることはまんま、ただDV彼氏って感じですよ。何でか分からないけど、アリアさんの聞いてるとモヤモヤします! 俺も今日、初めて知ったことなんですけど、どうやら俺は頑張った人が報われない話が嫌いみたいです! 大嫌いですっ!」


 気が付けば、俺は固く拳を握り締めていた。息を切らしていた。肩で息をしながら、ようやく自分がどれだけ感情的になっていたのかを自覚した。押しつけがましい。だから、俺は怒りを鎮めるように深く息を吐いた。深呼吸。心拍数を下げるように、ゆっくりと息を吐いた。だけど、怒りが収まってくれない。初めて芽生えたこの怒りの感情をコントロールする方法を未熟な俺はまだ知らない。すると、今度はアリアさんが瞳を揺らしながら、口を開いた。


「……ジン君は、私のことが嫌いになってしまいましたか?」


「何でですか? アリアさんのことは好きですよ。でも、罪だの、罰だの、愛だの、そんな抽象的な概念を持ち出して自分に降りかかったすべての理不尽を無理やり納得しようとしているアリアさんのその姿は見ていてとても痛々しくて……腹が立ちます。……そんな、頑張った人が報われないなんてダメですよ。頑張った人は頑張った分だけ、褒められて、尊敬されて、愛されないとダメなんですよ。そうじゃないとおかしいじゃないですか……」


「……珍しいですね。ジン君が私の前でそこまで激しい感情を見せてくれるのは……それは、私ではなくジン君が現世で()()にして欲しかったことじゃないですか? だから、ジン君は怒っているんですか?」


「……ッ、分かりません。でも、何でもいいじゃないですか。この感情の正体が自己投影でも、感情移入でも、保護欲でも、正義感でも……何でもいいじゃないですか。何だっていいじゃないですか。俺はアリアさんの話を聞いて……腹が立ちました。それが事実です。何故かは自分でも分からないんです。他人(だれか)にこんなこと思うなんて……ここまで感情を乱されるなんて、初めてのことなんで正直、戸惑っています。でも、胸が苦しくなって、どんどんと怒りが込み上げてくるんです。……アリアさんはどうなんですか? 頑張った結果が、罵られた上に、火炙りだなんてありえないでしょう? ……本当に、アリアさんはその結末で納得できるんですか? 俺は、俺は――」


 感情に任せて頭に浮かんだすべての文句を口に出した。アリアさんに嫌われるかもしれないとは思いながらも、俺はここまで感情を盾にしてがむしゃらに突き進んだ。俺が耐えられなかったからだ。だが、喉元まで出かかった次の言葉が、どうしても出てこなかった。いや、出すわけにはいかなかった。そのことを自覚した瞬間、感情の波が静かに引いていくような錯覚を覚えた。まるで冷や水を浴びせられたかのように胸の内に残った熱が、急速に冷めていくのが分かった。


「……」


 理由は分からない。ただ、ダメな気がした。ただ、ダメな気がしたんだ。その一言を口に出すのはダメだという予感がした。頭ではなく心が先に理解してしまった。たぶん今、その一言を口にしたら……俺を支えている何かが壊れてしまう。そんな予感がしたのだ。


 それは、アリアさんとの関係についてかもしれないし、自分の中にある何についてかもしれない。ただ、確かなのは――その一口を言葉に変える覚悟が今の俺にはなかった。だから、異変が起きた。いきなり背後から何者かに口を塞がれたかのように、俺は言葉に詰まってしまった。言い淀んでしまったのだ。


「……輪廻転生という言葉をジン君は知っていますか?」


 すると突然、アリアさんはそんなことを口にした。彼女のいきなりの発言に戸惑うのはこれで二度目だ。なので、前回よりも驚きは少なかった。


「それくらい知っていますよ。端的に言ってしまえば魂の生まれ変わりですよね。死んだら生まれ変わる、みたいな? こっちでは閻魔様に金目の物を渡せばできるって聞いて、さすがの俺もちょっとだけビックリしましたからね。印象に残っていますけど……それがどうかしましたか?」


「……生前の私はずっと人間は一度だけ生まれ、一度だけ死に、その後は神の裁きを受けて永遠の運命が決まると信じてきました。だからこそ、毎日を頑張って生かなければならないのです。神への感謝を忘れずに生きることは、私たちに与えられた唯一の救いの道なのだと。そう信じていたんです……」


「えーっと、それはつまり、アリアさんは輪廻転生を認めていないってことで合っていますか? 実際に、現世を生きた俺たちがこんなことになっているのに……」


「……はい、はっきりと言ってしまえばそうですね。輪廻転生を認めてしまえば、神による救いが何度も先延ばしにされ、贖いの意味が薄れてしまう。生前の私が正しいと信じ、成してきたことも、すべてが無意味になってしまう。だから、私は認めることができませんでした。……ですが、この世界の存在そのものが、私の生前の頑張りを否定しているんですよね。……私は、もう分らなくなってしまいました」


「そんなことは――いや、これは違いましたね。他人(ひと)の信仰をまだきちんと理解してないうちに否定するのは……さすがに、筋が通りませんよね」


 ソクラテスの教えの一つに『無知は罪』というものがある。これは無知が原因で誤った行動や判断をする場合があり、それは罪や問題につながる可能性があることを意味していると聞いたことがある。それに、『宗教と政治と野球の話はするな』という格言も誰しも一度は聞いたことがあるはずだ。……まさに今、この状況に当てはまることだと思う。


 両者は『知らないことを知っているような口振りで話すな』『共通の話題であっても相手が語気を荒げやすい話は避けろ』という当たり前の教えだ。セールストークの基本ではあるけど、現世ではただの知識だった。むしろ、こちら側に来て、色々な人と話をする機会に恵まれてその通りだと実感した。見えている地雷にわざわざ突っ込むバカはいない。だけど……なら、俺はアリアさんに何と声をかければいいのだろう?


 自身の頑張りを世界に否定されたという悲劇を経験した彼女に、優しい声音で静かに嘆いている彼女に、何と声を掛けるのが正解なのだろうか? というか、今の俺に何が言えるのだろう?


 無言の時間が辛い。逡巡することを恐れた俺は、いつも自分(おれ)自身が問題や課題に直面した時にしている行動を思い出すことにした。


 これまで俺は黄泉の国(こっち)で出会った人たちから、様々な影響を受けてきた。でも、それでは足りない。彼らからの問題提起に対して俺はまだ答えを出せていないのだ。先を走る彼らと比べて、俺はあまりにも人生経験が不足している。言葉に含蓄がなさすぎる。それでは彼女の心には届かない。だって、まだ俺は若輩者であり、青二才であり、新入りであり、半端者の半人前だ。


 真面目で信心深い彼女と比べて、俺が一つでも勝っている点なんて思いつかない。いや、アリアさんと同じ土俵で考えるからダメなんだ。自分の土俵で考えないと、負けるに決まっている。勝てるわけがない。何でもいい。俺の土俵で、俺の土俵で……そこで、俺は気付いた。俺が彼女よりも得意な分野が一つだけあることに。つまり、それは現実逃避だ。目の前の壁から目を逸らし、ぶつからないことに関してだけは彼女に、いや、こちらで出会った誰にも負けない自信がある。だから、俺は――


「……でも、アリアさんの信仰(こころ)が、この世界を認められないのは理解しました。なら、夢だと思いましょうよ。全部、夢です。……神様っていうのはいつも適当で、厳しいのはむしろ人間の方なんじゃないかって……アリアさんを見ていて、俺はそう思いました。だから、アリアさんもちょっとだけ肩の力を抜きましょうよ。頑張った人には、ご褒美が必要です。こっちでの生活のすべては、生前のアリアさんが頑張ったから神様がくれたボーナスステージってことにしましょう。そうしましょう? ……だから、アリアさんは過去にとらわれずに、好きなことしてもいいんですよ? 例えば……そうですね……ケーキ屋とか、美容師とか、生前のアリアさんがしたかったことを思い出しましょうよ。アリアさんは……夢とか、なりたかったことはありますか? どんなことでも、俺やリーネだって応援すると思いますし、手伝うことだってでします。まあ、アリアさんから見た俺なんて、まだまだ微力もいいところかもしれませんが……」


「……驚きました。ジョンと似たようなことを言うのですね?」


「ジョンって、リーネの父さんのことですよね。そういえば前も誰かに似ているって言われた気がします。……アリアさんの目から見ても、俺とジョンさんって似ていると思いますか?」


「……フフ、そんな顔しないでくださいよ。一体どんな感情なんですか、その顔? ……私の目から見るとジン君とジョンの外見は似ても似つかないですね。ですが、ごくまれに彼を想起させる発言や行動をすることがありますね。ジン君のそんなところに、リーネは惹かれたのかもしれませんね」


「へぇー、少し複雑ですが……まあ、そのおかげで俺はこの船に乗ることになったんですから巡り合わせに感謝しないといけないんですかね? ……というか、今まで聞いたことなかったんですけど、そもそもアリアさんって何で海賊になったんですか?」


 俺がまだリーネの船に乗るか、海賊になるかで悩んでいた頃、仲間たち(かれら)に海賊になった理由を聞いて回っていたことがある。レインちゃんは『もうここにしか居場所がないからだ』と言っていた。ヒビキは『恩義だ』と言っていた。そして、シュテンは『ついていきたい奴がいた』と答えた。ヘルガにはまだ直接聞いたことはないが、たぶん『外の世界を見たかったから』だろう。それぞれ理由ははっきりとしていた。そこには彼ら彼女らの人生があった。


 俺はその言葉を聞くことで、自分がこの船に乗る意味を探していた。だけど、アリアさんには一度も聞いたことがなかった。俺がすぐにリーネの誘い受けるという決断を下したから、単純に聞く機会がなかった。今になって思うと、俺はアリアさんにこそ理由を聞くべきだったのかもしれない。彼女がこの船にいる理由を、彼女が海賊になった理由を、俺は知らずに彼女の隣に立っていた。


「……それは、そうですね。私が海賊になった理由は、ジン君と同じですよ。私はとある教会でジョンに誘われて……いえ、騙されたんです。あの口車に乗せられて、私は海賊になったんです」


「え、騙されてって……」


「フフフ、怪訝そうな顔を絵に描いたような表情ですね。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。結局、私は自分自身で納得できていますから。……まあ、私に『お前のことを見続けてやる』みたいなことを言っておいて、リーネを置いて勝手にいなくなったことは許していませんけどね」


「えっと、ジョンさんって結婚していたんですよね。そんな口説き文句みたいなことを言えるなんて……随分とモテたんですね」


「いえ、ただ浮気性なだけですよ。女性にモテていたのは事実ですけど……結局は結婚して、子を授かり、一人の女性を愛し抜いたのですから立派な男性でしたよ。浮気なんてしていたら……きっと、サクラコさんに袋叩きにされていたでしょうね……」


「サクラコさんに?」


「聞いたことがありませんでしたか? リーネの母はサクラコさんの最愛の妹なんですよ。今はサクラコさんとコノハの二人でお店を回していますが、『藤の花』ってもともとサクラコさんとその妹の……イワネさんが一緒に開いた店なんです。身体が弱い人ですが……それ以上に、とても強く、綺麗な人でした。だから、ジョンがイワネさん以外の女性に手を出して、それこそ、浮気なんてした日には彼の頬にサクラコさんのビンタが炸裂してたでしょうね」


「……確かに、サクラコさんのビンタは食らいたくないですね。首から上が吹き飛びそうです。……というか、サクラコさんってリーネの伯母なんですね。初耳です。アリアさん、あんまり聞くべきことじゃないのは分かっているんですけど……リーネの両親ってもう……」


「……はい、もう亡くなっていますよ。イワネさんは病気で……命を落としてしまいました。ジョンも病を患っていて、病床に伏していたんですが……イワネさんが亡くなられる前に……突然、姿を消してしまいました。恐らくですが……彼も、もう……」


「そうなんですね。すいません、こんなこと聞いてしまって……」


 アリアさんは静かに頷いた。その表情は、悲しみを乗り越えた人だけが持つ穏やかな強さがあった。きっと彼女もジョンさんたちの死を乗り越えたのだろう。


「……いえ、謝らないでください。リーネの両親のことは、彼女自身も受け入れています。もちろん、寂しさはあるでしょうが……それでも、彼女は前を向いて生きています。だから、ジン君が気にする必要はありませんよ」


 俺は何も言えず、ただ頷いた。アリアさんの言葉はいつも優しい。そして、リーネがどれだけの時間をかけてその悲しみと向き合ってきたのかを思うと胸が締めつけられた。あの天真爛漫な明るさの裏にはきっとリーネがこれまでの人生で積み上げてきた色々なものがあるんだろうな。


「……リーネは強いですね」


「はい。とても強い子です。でも、強い人ほど、誰かに支えてもらうことが必要なんですよ。だから、ジン君がそばにいてくれること……きっと彼女は心強く思っているはずです」


「そうでしょうか……いや、そうですね。ひたむきに、目標に向けて一途に頑張れるところが俺の唯一の武器ですからね。アリアさんみたいにリーネを横で支えられるくらいになります」


「……他人事ですね。それに自分では気づき難いことだとは思いますけど……そういう浮気性なところが一番、ジョンとジン君が似ている部分だと私は思いますよ。色々な女性に唾を付けて回るのは結構なことですが……ジン君も将来注意してくださいね?」


「ぇ?」


 思わず変な声が漏れた。浮気性、まさかそんな言葉が自分に向けられるとは思っていなかった。俺は慌てて言葉を探すが、うまく口が回らない。驚きで頭が回らない。そんな俺の姿を見たアリアさんはくすくすと笑っていた。その笑いは、からかうようでいて、どこか優しさを含んでいた。つまり、いつの間にか普段通りのアリアさんに戻っていた。


「フフフ、それにしても……生前の私がなりたかったものですか……今まで考えたこともありませんでした」


「ん? その顔は、何か思い出したってことですか?」


「……そうですね。生前の私は、望みを持つなんて贅沢なことをしている暇はありませんでしたからね。……でも、強いて言えば普通の少女として生きてみたかったです」


「……普通の少女ですか?」


「はい、普通の少女です。……ジン君に言われて、私も少し考えてみました。だから、絶対に笑わないでくださいね?」


 俺の聞き間違いかと思って問い返したが、どうやら間違っていなかったみたいだ。普通の少女とは何か? どういうことか? そう俺が頭を働かせていると、小さく笑うアリアさんがゆっくりと言葉を発した。


「……たまに夢を見るんです。あの時、天の声が聞こえなかったら私はどうやって生きていたんだろうって。まず、怒りや悲しみ消えないでしょう。ですが、大儀のない私ならば、そのまま家族と一緒に焼き払われた故郷の村に戻り元の生活を続けていたのでしょう。そこで今まで通り母の手伝いをして、父に『頑張ったな』って頭を撫でられて、たまに兄弟姉たちと喧嘩して、笑ったり。それに……その、恥ずかしいですが結婚もしてみたかったです。私も大人ですからね、敬愛する父と母のように温かな家庭を築きたいと密かに思っていました。もし、普通に生きられるなら私はそんな、何気ない日常を家族と共に過ごしてみたかったです」


「それは……」


「はい、もう無理だと分かっています。人は過去には戻れません。折り合いをつけて今を生きていくしかないんです。……それに、私はあの時、天の声が聞こえなければいいと思ったことは一度もないんです。祖国を救う一助になれたことを……私はまったく後悔していないです。だから、この話はここで終わりなんです。……恐らく私は過去に、子供の頃に戻れたとしても、何度も同じ選択をするでしょう……家族の、祖国の平和のためなら……私は何度でも、この身を捧げることができますから……」


 覚悟はすでに決まっているのか彼女の声には揺らぎがなかった。彼女の信仰と覚悟は、俺の想像を遥かに超えていた。揺らいでいて欲しいと思ったことは初めてだった。最後まで言い切らないで欲しかった。だって、分かってしまったから。本当に彼女は人を救うために何度も同じことをして、何度も苦しむ。もちろん後悔はしているんだろう。でも、それは殉教という険しい道を選択をしたことにではなく、神を疑ってしまった自分への後悔だけだ。


 だから、俺の声は彼女には届かない。絶対に俺の声は彼女の心には届くことはない。生き様どころか、心まで清貧で高潔な彼女には現実逃避なんてする必要がなかった。彼女は常に過去と向き合っている。彼女は彼女自身のやり方で立ち上がることができる人間だ。それを知ってしまった。これは決して拒絶ではない。けれど、確かな距離がある。だからこそ俺は、隣で寄り添うことも……近づくこそさえできない。俺では彼女の支えになることはできない。


「……すいません、アリアさん。どうやら俺は余計なことをしていたみたいです……」


 絞り出すようにそう言った俺の声はとても情けなくて、頼りなくて、今にも消え入りそうなほど小さかった。そんな俺の姿を見たアリアさんは静かに首を振った。


「ジン君、余計なことなんて、この世に何一つないんですよ。……私も、こちらでそう学びました。生前、信仰を失った私は私ではなくなってしまうという言葉で言い表せない恐怖があったんです。ですが、()ではなくなったはずの()は今もここで生きています。それは、とても不思議なことです。何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。そのはずなのに、そのはずだったのに……神の愛を裏切っても、信仰心が欠けたとしても、私たちは生きていることができるんです」


 アリアさんはふっと目を伏せた。その瞳は、湖面のように静かで澄んでいた。この人喰い迷宮に足を踏み入れる前に見せた、他者の心を圧倒するような光はもう宿っていなかった。


「そして、今日確信しました。……私はもう元の私には戻れないのだと……」


「……」


「生きていて、余計なことは何一つない。過去の私がした選択から今の私の葛藤まで、すべては地続きで繋がっているんです。……信仰に生きることは、確かに尊いことでした。だけど、時々思うんです。もし、神様のことを知らずに育っていたら、私はどんな人生を歩んでいたんだろうって」


 アリアさんの声はとても穏やかで、優しくて、静かで、とても怖かった。俺は彼女のその言葉にすぐには答えることができず、ただ彼女の横顔を見つめていることしかできなかった。途端に、迷宮の奥から微かな風が吹き込んできた。それはまるで、神が彼女の新たな決意を祝福するかのように見えて……俺は何故か、不穏な影を感じ取ってしまった。


「アリアさん、まさか、死のうとなんてしてませんよね?」


「ジン君、そんなことを軽々しく口にしてはいけませんよ。自殺は重罪です。どんな理由があっても神から与えられた命を、私が自分の意志で絶つなんて、絶対にあり得ないことです」


「……なら、輪廻転生はどうですか? 地獄の沙汰も金次第、こっちの世界には輪廻転生が当たり前のように存在している。さっき、わざわざ口に出してきたってことは、アリアさんは興味があるってことじゃないですか?」


 アリアさんには確かな信念がある。まるで手元に回答があるかのように滔々と事実を話している彼女は嘘は吐いていないのだろう。けれど、俺の疑念は消えなかった。


「輪廻転生を認めてしまえば、神による救いが何度も先延ばしにされ、贖いの意味が薄れてしまう。それって逆に言えば、救われなかった人や神を疑ってしまった人は輪廻転生を許容する可能性が全然あるってことなんじゃないですか?」


「……一度だけの人生、それが私たちが持つすべてです。ですが、人生に終わりが来ないならどうすればいいのでしょうか? 神のもとへ行くために何十年、ジン君やレインが生きた時代から考えると下手すると何百年もの間。私のこの肉体は老いることがありませんでした。あれから、まるで造花のように姿が一切変わらくなりました。……だからでしょうか、つい考えてしまうんです。自殺ではなく、輪廻転生ならば神も認めてくださるのではないかと……精一杯、命の限り生きていたかったけど。もう自分でも分からなくなりました……」


「……ッ、リーネはどうするんですか? いや、リーネだけじゃない。レインちゃんやヘルガ、ヒビキにシュテン、もちろん俺だって。みんなアリアさんにいなくなって欲しいなんて……思ったことないですよ」


 自分で言っておいて卑怯だと思った。卑怯で、臆病で、ずるい発言だ。まるで人質に取るかのようなやり方になった。今、俺はアリアさんが最も大切にしているリーネを、仲間である彼らを盾にして彼女の意志を捻じ曲げようとしている。こんな自分にはなりたくなかった。でも、それでも、アリアさんに生きて欲しい。自分を正当化するような、したくないような、俺がそんな葛藤に苦しんでいると――アリアさんは迷いなく、口を開いた。口を開いてしまった。


「そうですね。シュテンやヒビキは自分の生き方を決めてしまったので、あまり心配はしていませんが……ジン君やリーネ、レインやヘルガは私から見ればまだまだ自分の足で立ち上がったばかりの赤子のようなものですからね。ずっと見ていないと心配で、心配で……私自身、気が気じゃありません。だから、輪廻転生の制度を利用するとすれば……それは、ジン君やリーネたちが、私が傍にいなくても大丈夫だと思ったとき、ですかね」


「……そうですか。なら、俺はもう……何も言えないじゃないですか」


「ええ、私は一度でも自分の心に誓ったことは、誰に何と言われても変えるつもりはありません。それが、私に残された唯一の希望ならばなおさらです。……ジン君、意外かもしれませんけど。こう見えて私って、とても頑固な女なんですよ?」


「……もう、知ってますよ。そのくらい……」


 アリアさんの笑顔を見た瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、初めて会ったときのリーネの姿だった。そうだ。思い出した。アリアさんの瞳の奥に宿っていた、隠しきれないほどの輝き――あれは、あのときのリーネの目に宿る熱と同じだった。何か大きなことを成し遂げる者だけが瞳に宿す、強い意志。その光は、今も確かに、リーネの中で燃えていた。アリアさんの信念を引き継ぐように、瞳の奥で炎のように激しく燃え盛っている。


 リーネのアリアさんはまるで姉妹のように仲が良い。長い付き合いなだけあって、俺たちは知ることができない特別な絆がある。だが、外見に共通点はほとんどない。髪の色も、目の色も、背の高さも、顔のパーツも、趣味も、食べ物の好みも、何もかもが違う。あまり似ていない。それでも、時折二人が姉妹のように見えるのは、ただ仲が良いだけではなく。それ以上に、彼女たちが持つ本質が似ているからかもしれない。だから、どこか重なって見えるのだ。


「……」


 アリアさんの昔話を頭の中でゆっくりと整理していくうちに、疑問に思ったことができた。どうしても気になることというか……引っかかる点ができた。それを正直に問いかけるべきか、黙っているべきか――決心がつかないまま言葉が口からついて出た。


「…………最後に……あの、勘違いだったらすいません。その、アリアさんって、もしかして――」


 だけど、俺は途中で言葉を飲み込んだ。正面を見つめていたはずのアリアさんの綺麗な横顔が、ジッとこちらを見ていることに気が付いたからだ。そして、彼女はそのまま『それは、内緒です』とでも伝えるように、ウインクしてきた。


 その仕草があまりにも自然で、あまりにも優しくて、俺が抱いた疑問などどうでもいいと思ってしまうほど可愛らしいものだった。なので、俺はすべての疑問を吐き捨てるように、深く溜息を吐いた。


「フフ、私の長話に付き合わせてしまって申し訳ありません。疲れてしまいましたよね? よければ、こちらをどうぞ?」


「……これは?」


「クッキーです。さきほど迷宮の外に出た際に、リーネのために持って来たのですが……特別ですよ?」


「それは、どうも……ありがとうございます」


 後ろの白い袋を開けると甘い香りが漏れ出してきた。そこで、初めて自分がお腹を空かせていることに理解した。疲れた体が、甘い物を欲しがっている。俺はアリアさんにお礼を言い、手渡された大きなクッキーを齧った。


 すると、ふんわりとしたバターの香りが口いっぱいに広がった。柔らかい。しっとりとしている。歯が食い込むと同時に、ボロボロと口の中で崩れた。素朴な甘みだ。だが、甘い物を久しぶりに食べたせいか、味蕾が喜んでいるのが分かる。幸せが弾ける。そんなクッキーを地面に一欠けらも落とさないように一口、二口と丁寧に食べ進めていく。そして――


「――えっ、ちょっと待ってください。ウルージさんと話したって、外に出たって、もしかして人喰い迷宮の外に出たれたんですか?」


「はい、そうですけど?」


「……っ、今日はアリアさんに驚かされてばかりですね。というか、どうやって外に出たんですか?」


「あれ? さっき言いませんでしたっけ? ジン君とハイレッディンさん、第一陣の皆を救出するために迷宮内に足を踏み入れてすぐに光に飲みこまれたじゃないですか。あの後です。……私だけが、持っている呪具のおかげで一人あの場に取り残されたんですよ。なので、そのままウルージさんたちがいる外に出て、迷宮内で起こったことを説明して、戻ってきました。ジン君がいる祭壇には真っ直ぐ歩いていると辿り着いたので、そこは運が良かったです」


「聞いてませんよ。ということは、俺たちってこのまま迷宮の外に出られるってことじゃないですか? アリアさんのその呪具があれば、時間はかかるかもしれないけど全員無事に外に出ることができるってことですよねっ!」


 自分の意志では抑えられないほど声が弾んだ。人喰い迷宮から脱出できる可能性が目の前に転がり落ちていた。これでもう、ミノタウロスに怯えずに済む。黴臭い、この迷宮内で飢え死ななくて済む。俺がそんな甘い、希望的観測を口にした途端、アリアさんが苦しそうな顔をした。


「……いえ、それは無理ですね。この呪具は一日三回しか使えないんです。事前に魔力を貯めておかなければ、ただのロザリオです。そして、あの光を防ぐためにもう二回も、呪具を発動させているんです。だから、あと一回しか使えません」


「そうですか……いや、でも、呪具って俺たちの魔力を吸うことで魔法みたいなことが起きるって話してくれましたよね。なら、全員が死ぬギリギリまで魔力を吸わせることで何回も使えるみたいなことはできませんかね?」


「できませんね。呪具が吸う魔力の量は一定です。皆で触っていればその分、一人一人の負担は少なくなりますが、魔力が補充される時間は変わりません。だから、ジン君の案は発想としては面白いですが、実現するのは難しいでしょう」


「……それなら、時間を稼ぎましょう。アリアさんの呪具は、時間を掛ければ全員外に出すことが可能ってことですよね? なら、さっさとミノタウロスを先に倒してしまって、何日も、何か月でもいい。時間をかけてみんなで迷宮の外に出られるじゃないですか」


「それも……正直、厳しいかと。……どれも良い案ではありますが、今回は立地条件が悪いです。一番の問題としては人喰い迷宮が山奥にあることですね。迷宮は平地よりも遥かに高い場所に位置しており、山々に囲まれているせいで、大量の荷物を運ぶのは難しいです。私たちもできる限り荷物を軽くしたかったので、四日分の物資をここまで運んでくるのが限界でした。まあ、今回の古代ドワーフの遺跡の調査は近隣の領主からの依頼ですから、色々と工面はしてくれるでしょう。例えば、この迷宮内で負傷した者は私たちの船を使って、依頼主の領地に運び込まれる予定です。治療の道具には限りがありまし、清潔な場所の方がいいですからね。最速で移動するなら、馬や徒歩ではなく船を使います。……ですが、私たちを全員助けるためには、バケツリレーの要領で継続的に食料を運び込まなければいけません。第一陣と私たち、迷宮内だけでも百人近くいます。それだけではなく、迷宮の外でも三百五十人が待機している。私の呪具は、私の身体の一部に接触していれば効果を発揮するので一度に外に出られるのは五、六人程度でしょうか? それを朝昼夜の三回で百人が迷宮の外に出るには最低でも十七日必要です。それだけの間、四百五十人分の食料を運び続けるのは、少し現実的ではありません」


「……それでも、死ぬよりはマシじゃないですか? 助かるためには、何でもやってみないと……」


「そうですね。私たちが苦労するだけなら、死ぬよりかは遥かにいい選択でしょう。ですが、細かな問題を整理すればもっとありますし。外部的な問題を考えなければいけません」


「外部的?」


「はい。そもそもですね、領主がそこまでして私たちを助けてくれるでしょうか? 契約の内容を簡単に言ってしまえば『こちらでも、できる限りの協力はするから古代ドワーフの遺跡を調査してくれ。君たちが危険を冒して古代ドワーフの遺跡を調査してくれれば、悪い噂を信じている民も安心するだろうし、もし発掘したものがあればこちらで言い値で買い取る』というものです。ジン君に説明すると、この大陸の内陸部に住むドワーフたちは古代ドワーフの遺跡から発掘した品を高値で買い取ってくれるんですよ。私たち海賊はドワーフに嫌われていますからね。間に入って仲介をしてくれるというわけです。つまり、領主と私たちは結局、小遣い稼ぎが目当てで協力しているんですよ」


「……俺たちと、その領主さんとの間に信頼関係がないのは理解しました。でも、人命がかかっているなら……それを依頼した側なら、それくらいのことはしてくれもいいんじゃないでしょうか……」


「感情は理解できますが……愚かな領主でもなければ、そのような判断はしないでしょう。知っていましたか、ジン君? 農村では、夏の終わりから秋の初めにかけて冬の備えをするんです。私も生前は、ただの村娘でしたからね。手伝ったことがあるのですが……もう、冬への支度を始める時期でしょう。下手を打つと食料不足に陥ってしまいます。なので、余分な食料などありません。つまり、船で領地へ行ったとしても人数分の食料を用意するのにも時間もお金もかかる。もし仮に、それらがすべて可能だったとして。ここまでは山道を移動することになります。当然、馬の足も疲れ果ててしまう。なら、馬も交換しなければならない。ただでさえ、食料を分け与えてもらえるかも分からない状況です。グリフォンに襲われないようにどこかの御令嬢のように大切に育てている馬を分けてくれるとは思いません。ここまで考えてもまだまだ問題がいっぱいです。ここまでのリスクを冒してでも、助けてくれるでしょうか? 投資目的での援助はしてくれるでしょうが……メリットよりもリスクの方が高い状況です。果たして、そこまでしてくれるでしょうか?」


「……つまり、自分たちで何とかするしかないってことですね」


「はい、そういうことです。ヘンリーやエドがドレークの三人が近くに、レナティウス大陸にいてくれれば状況は今よりも遥かに良いと思えるのですが……今は私たちだけで、慎重に他の手段を探しましょう」


 俺が出した縄を石柱に括りつけたアリアさんは、真剣な顔でそう言ってきた。現状を正しく把握していくうちに、如何に自分が窮地に立たされているのかが分かってしまう。まさに絶体絶命だ。だけどその代わりに、視野が広がったのも事実だ。窮地に追い詰められら鼠でも猫に噛みつくのだ。そして、俺たちは鼠よりも頭脳も、身体も遥かに優れた人間だ。凡人であっても百人集まっているんだから、文殊の三十三倍はある。百人で話し合えれば、何か一つでも良いアイデアが生まれるかもしれない。


 なら、独創性や発想力のない俺がすることは現実に即したアイディアをすべて捻り出すことだろう。それしかできない。現実に即して考えることは誰にだってできる。何処まで行こうと凡人レベルの俺には、もうそれくらいしかできることがない。つまり、状況はまだ何も変わっていないってことだ。


「アリアさん、もし方法が見つからなければリーネとか……スゴイ人たちを優先して迷宮の外へ運び出しましょう。俺は……もう、後回しでいいですから」


「……ジン君、滅多なことは口にしてはダメですよ。そうならないように私たちは今、迷宮の外に出る方法を探しているんですから……」


「……最悪の場合ですよ。あまり良い考え方ではないですが……このままだと、いずれ迷宮内にいる全員に、優先順位をつけないといけない時が来てしまうかもしれないじゃないですか……」


 ヒビキに助けられても、アリアさんと合流できても……ミノタウロスを倒しても、この人喰い迷宮から脱出する算段を立てなければすべての行動が無意味に終わる。そもそも入り口に近寄らないようにと、アリアさんの感覚を頼りに、蜘蛛の巣を……予防線を張るように、ここまで魔法で縄を出し続けてきたが出られないんだったらこの努力も無価値なんだよな。テンションが下がる。


 だが、アリアさんの呪具があるおかげで助けられる人が生まれたのは確かに朗報だ。そして、それは同時に悲報でもある。助けられる人数に制限があるってことは、メンバー内に亀裂が、分裂が起こる可能性があるってことだ。もっと最悪な場合……考えたくもないことだが、迷宮内に取り残される人間と迷宮の外に出ることが決まった人間で対立が起こることもある。地獄絵図。想像しただけでもつらい。そんなことが起きる前に俺たちはみんなで迷宮から脱出する方法を見つけなくてはならないのだ。俺がそんなことを考えていると――


「あっ! アリア! それにジンも! よかったわ、二人とも無事だったのねっ!」


 迷宮内に明るい声が響いて、空気が変わった。隣を歩くアリアさんから目を離し、正面を向くと、そこにはリーネの姿があった。曲がり角を右に曲がったすぐ先で、偶然鉢合わせしただけだろう。運が良かったのだ。彼女の顔には、安堵と喜びが混ざったような複雑な表情が浮かんでいた。


「いたっ……!」


 大きく両手を広げてアリアさんに向かって駆け寄ってきたリーネは、感情の激しい浮き沈みに身体がついていかなかったのか、アリアさんに抱きつく直前で足がもつれて、転んでしまった。それを見た俺たちは心配になり、リーネの傍に駆け寄ろうとしたが……彼女は、すぐに顔を上げて、周りを見渡した。


 俺たちの視線をちょっとだけ気にしながら、いや、かなり恥ずかしかったみたいで、羞恥心でその顔を真っ赤に染めている。そこから、彼女はゆっくりと立ち上がって、服についた土を軽く払い、乱れた髪をそっと撫でた。そして、大き目な海賊帽子を被り直すと、再びリーネは俺たちに向けて笑顔で口を開いた。


「こんなところで、奇遇ね。二人とも! 怪我がなさそうで何よりだわ」


「いや、それは無理だろ」


「そうですね。さすがに、それは無理です」


「……もう、考えたら分かるでしょう! 恥ずかしいんだから、仕切り直してよ! 今、ちょうど出会ったみたいに!」


 子供のように顔を真っ赤にしてこちらに噛みついてくるリーネの姿があまりに面白くて、アリアさんと顔を見合わせて思わず笑ってしまった。この迷宮に足を踏み入れてから、腹を抱えるほど笑ったのは初めてかもしれない。さっきまでの暗い雰囲気がどこかに吹き飛んでしまった。だが、そんな功績を挙げた当の本人は俺たちに指を突き付けて「……なっ! わ、笑ったわね。二人して……もう知らないから!」と言い、拗ねるように顔を背けてしまった。そして、そのまま俺たちのことを置いて一歩、二歩と先へ歩き去ろうとしたが――


「……ほら、ポケーッと突っ立ってないで行くわよ! ……もう、あんなところで転ぶだなんて……最近、まったくついてないわね。私の海賊帽子も泣いているわよ……」


 俺たちが付いてこないことを後ろ目で確認したリーネが、今度はそんなことを言ってきた。自分で先に行こうとしたのに……まったく、相変わらず忙しいヤツだ。だけど、さっきまでの不安や緊張が、少しずつ溶けていくのがわかる。リーネの言葉はいつも唐突で、感情の起伏も激しくて、正直振り回されることも多い。それでも、彼女がいてくれるだけで、空気が変わる。この迷宮の中で、そんな存在は貴重だ。だが、彼女の感情のまま動くその姿は、一人前と呼ぶのはどうしても憚られる。


「……アリアさん。リーネや俺が一人前になるには、まだまだ時間がかかりそうですね?」


「フフフ、そうかもしれませんね。でも、リーネの声を聞いていると……不思議と何とかなる気がしませんか?」


「……そうですね。理由は分かりませんが、何とかなる気がしてきました」


 だから、俺はそう口に出していた。輪廻転生することを選ぶってことは、アリアさんとはもう二度と会えなくなるってことだ。それがどうしても嫌で、たとえそれがアリアさん自身の選択であったとしても、未熟な俺は到底受け入れることができなかった。だが……リーネがこの調子だと、アリアさんがいなくなることはまだしばらく先の話になりそうだ。


 それに、先行きが見えない人喰い迷宮の中で状況であっても、見知った仲間が傍にいるだけで安心する。それが例え壁や天井が俺を押し潰してくるような錯覚に襲われる、そんな息苦しい迷宮内であっても、仲間の数が多ければ多いほど安心する。リーネが合流したことで、ようやく俺たちにも月が回って来たのかもしれない。そんな思いを胸に秘めたまま、俺たちは迷宮から脱出を目指して歩き始めた。リーネが俺たちの前を歩いている限り、俺の心が先に折れることは絶対にない。そう信じて……


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