第七十六話 『祭壇』
ミノタウロスから逃げている最中にランプをどこかに落としてしまったようだ。突然、上層から落ちてきたミノタウロスに襲われてランプの火を消したかどうかすらも覚えていない。記憶があやふやだった。
俺は支給されたあのランプを投げ捨てて、必死な形相で逃げていたみたいだ。無様を晒して逃げていたみたいだ。すべて無駄なことなのに。あれからかなりの時間が経過したように感じる。腕時計で確認するとまだ三十分も経っていないのに、俺の体感でいうともう五時間ぐらい経過している気がする。だからというわけではないが……天窓から降り注ぐ月光に照らされながら俺は絶望していた。
「落ち着きましたか?」
「……ミノタウロスを倒しに行ったんじゃなかったのかよ?」
迷宮の壁と同じ素材で作られた椅子に腰を下ろして、頭を抱えているとヒビキに声をかけられた。カランコロンと下駄を鳴らし、わざとらしく『ここにいますよ』と伝えているようで少しだけ苛立ちが募った。今の俺には余裕がない。こんな些細なことで苛立ちを募らせてしまうほど心が毛羽立っているようだ。
というかずっと物音一つしなかったからもういなくなったのかと思っていた。しばらく一人で、静かな祭壇で一人きりで失意のどん底にいた。あれから……古代ドワーフの遺骨を前にした俺は本当に人喰い迷宮から脱出する手段がないという残酷な事実を突きつけられて、絶望していた。
甘ったれていた。現実逃避していたところに――いや、ヒビキに指摘されてようやく少しだけ前を向けたのに、目を背けていたことに気付かされた途端にこれだ。死という運命を見せられて、この古代ドワーフと同じような末路を辿ると頭が理解してしまって……心がぽっきりと折れてしまったのだ。
「今の君を放置してどこかに行くほどボクは人情は欠けていませんよ。それにミノタウロスはいつでも相手できるでしょう? ……ほら、天窓を見てください。夜が更けて、だんだんと月が見えました。今夜は満月みたいですよ? まあ、要するに……日の出までの時間はまだまだあるってことです。これも運命の巡り合わせです。せっかくのことですし、二人でゆっくりと話しましょうよ」
「……俺なんかと話して何になるんだよ? どうせここからは出ることなんてできないのに……」
ぶっきらぼうに、不貞腐れたように、無愛想に俺はそんなことを口にしていた。だって、希望がないと人間は歩くことさえできなくなるんだ。どんなに不味くても人参をぶら下げてくれないと自らの足で立ち上がることさえもできなくなるんだ。口を開いて、会話をすること自体が億劫になってしまうのだ。
「おや、おや、何時になく暗いですね。とてもめんどくさいです。こういう絶体絶命とも言えるピンチにこそ明るい話をするべきです。それにまだこの迷宮から外に出られないなんて決まったわけではないじゃないですか? ……まあ、もしボクが彼でここから出る方法を知っていたならこんな地味な場所で退屈な死を待つだけなんてしないでしょうけどね?」
「ヒビキだってわかってるだろ。彼が、人喰い迷宮を造り上げた古代ドワーフがここから脱出する方法を知っていたとしたらこんな場所で満足そうに死ぬわけがない。ということはだ、ヒビキがもしミノタウロスを倒せたとしても俺たちはここでただ死ぬのを待つしかないんだぞ。餓えて、喉が渇いて、骨になるまで、いや、骨になっても! ここから出ることはできないんだよ……」
ミノタウロスに遭遇しなければどこかに脱出方法が隠されているのだと思っていた。認識が甘かったんだ。死ぬ可能性は既に考慮していた。だけど、だけど、飢え死には想定していなかった。ミノタウロスから身を隠しながら迷宮からの脱出方法を探せばいいと心のどこかで思っていた。そんな都合のいい展開はなかった。
というか飢え死にってどんな感覚なのだろう?
今はまだ大丈夫だ。だけど、これから二日、三日、四日と幽閉されたままだと俺はどうなってしまうんだ? だって、全員分の水や食料は足りない。というかほとんど迷宮外部にあるはずだ。理性を欠いて、獣のように食料を奪い合うことはなくても足りないものは足りないんだ。
人間は三日間水分を取らないと命の危険があるらしい。最初の一日は止められない空腹感を感じながら迷宮内を彷徨うんだ。諦めずに脱出方法を探してもその日が終わる。二日目も凄まじい喉の渇きに耐えながら脱出方法を探すんだ。無意味なことを繰り返しすんだ。そして三日目も、四日目も……耐えて、耐えて、俺がいくら諦めずに頑張っても先に限界が来るんだ。身体が限界を迎えるんだ。
脱水症状で指先が痺れて、風邪を引いた時のような倦怠感だけが支配する身体を気力だけで動かして、ゾンビのようにのったりとした動作で彷徨い続けるんだ。唇は乾燥してボロボロになって、汗すらもかけなくなる。頭は白い霧がかかったかのように何も考えられなくなって……ただ、最後まで足掻き続けるんだ。足掻いて、足掻いて、それすらも限界になって迷宮内で倒れてしまうんだ。
ピクピクと痙攣するように腕を動かして、這いつくばってでも前へ、外に出るために前へ進もうとしても上手く行かないんだ。陸に打ち上げられた魚のように無様な姿になるんだ。すると突然、全身を巡る血の流れを感じて、呼吸する体力を使うことすらも辛くなっていくはずだ。目が霞み、口内に血の味が広がり、命を削るようにゆっくりと呼吸を繰り返すことになるんだ。でも……でも、最後には心臓の鼓動がだんだんと弱くなっているのを感じることになる。
衰弱死する寸前は身体的にも、精神的にも弱り果てて、胸を叩く心臓の鼓動がドクッ……ドク……と遅くなって、自覚できるぐらいだんだんと遅くなって……そして、そして、と考えれば考えるほど心が蝕まれていく。じわじわと恐怖が俺の心を蝕んでいく。このまま徐々に生きる気力が萎んで無くなっていくのだろう。
これから俺は爪を剥がれ、指を折られ、拷問されるみたいに身体が俺の意志とは関係なく弱り、衰え、死ぬ向かう恐怖をこれから味わうのだろう。追い詰められるんだ。いたぶり殺されるかのようにじわじわ、じわじわと――
「あのー、ボクの話を聞いていましたか? 明るい話をしましょうって言ってるんですよ? あ、もしかしてジン君は”死”というテーマを暗いと決めつけるべきではなく、明るいものであるとボクに教えてくれてるのでしょうか?」
「そんなわけないだろ。……死なんて真っ暗な話だよ。明るい話題であっていいわけがないだろ」
ヒビキの冗談を聞いて噛み締めるように、嘆くようにそう吐き捨てた。俺の声が祭壇の中を静かに反響した。気持ちに引っ張られていつもよりも低い声だった。
「……世間での常識、当たり前のことをしっかりと理解できているのにわざとそんなことを言うなんて……ジン君には被虐癖があるのでしょうか? これがツッコミ待ちってヤツなんですね。……まあ、真面目な人ほどストレスに弱いって本当なんでしょう。ジン君を見ていると余計にそう思いますよ。君は現実逃避ばかりするのに現実と向き合うと途端に心が弱くなりますよね。要するに考えすぎなんですよ、考えすぎ。熟考という言葉はありますが熟れ過ぎたら食えたもんじゃなくなります。ほら、こういう時には一度、別のことを考えるんです。例えば……そうですね。ボクに聞きたいことはないですか? ジン君はこちらに来て日が浅い。馴染んだと言ってもまだまだ知らないことだらけです。今のジン君は赤子同然、いや、ひよっこもいいところです。ひよっこは親鳥に色々なものを食べさせてもらって大人になるものです。知識を、常識を貪りなさい。どんな些細なことでも疑問に思ったらすぐに聞けばいい。ほら、ほら、聞きたいことを頭を捻ってでも考えてくださいよ。ボクが暇を持て余していますよ?」
「……聞きたいこと、聞きたいことねぇ……」
マイペースで呑気な声を聞いていると不思議なことに少しだけ気持ちに余裕ができた。長い、ヒビキはいつも話が長いが、そのおかげで頭を使う時間ができたおかげで冷静になれた。ヒビキの長い話を聞く時のコツは会話の要点だけを頭で切り抜くことだ。現代文のテストみたいなものだ。だから、作問者の意図を読むようにヒビキの会話を思い出しながら重要だと思った部分を頭の中で線を引いた。口に出して、二回繰り返した。
「……」
俺はチラリと盗み見た。最前列右側の椅子の上で力なく静かに、祈るように息絶えた古代ドワーフの……骸骨がある場所を盗み見た。こんな迷宮を造り上げた者の一人に少しだけ興味を持ってしまった。傍から見れば異常とも言えるその心の在り方に関心を持ってしまった。だから――
「……なぁ、魔剣って何だ? こんなに狂ってしまうぐらいの魅力があるのか?」
ヒビキにそんなことを尋ねてみた。古代ドワーフとヒビキは根本の部分が似ているんじゃないかって少しだけ、ほんの少しだけ思ったからそう尋ねてみた。神様のために、魔剣のために、自死にすらも厭わないなんて現世で生活していた俺とは絶対に交わることがなかった価値観だ。理解できない。だけど……ヒビキは、彼なら理解できるかもしれない。
「知りませんよ。ボクだって魔剣なんて見たことがないですから」
「……そうか。なら、もうヒビキと話すことはないよ」
俺のそんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。だから、もう何も話すことはない。何も聞くことはない。彼の返答にムカッとした俺は臍を曲げて視線を逸らした。
「あー、冗談ですよ。冗談。……まあ、魔剣について何も知らないのは事実ですけど。あ、変わりに呪具について説明しましょう。エルフの里でも軽く説明しましたがもっと踏み込んだことを話しましょう。ボクは古代ドワーフではないので魔剣については無知ですが、呪具についてなら人よりも遥かに詳しいですよ。呪具の専門家を名乗れるほどです。どうですか? だんだんと気になってきたでしょう?」
「わかったよ。もう何でもいいから話してくれ」
何時までもヒビキに周囲で騒がれるとゴリゴリと気力が削られていくのが分かる。このままでは正気じゃいられなくなる。あっという間にノイローゼになってしまいそうだ。……いや、もう若干ノイローゼ気味になっているのかもしれない。少なくとも片足ぐらいは突っ込んでいるだろう。健全だったはずの俺の精神が、肉体が、極限状態で発生したストレスによって汚染されている。
だから、ヒビキにはさっさと満足してもらおう。彼には自分が語りたいことを好きなだけ語らせてさっさと満足してもらおう。俺は今から相槌を打つだけの案山子になるんだ。それが最善手だ。そして十分に満足し終えた彼は迷宮内を彷徨うミノタウロスを倒しに行くのだろう。いや、絶対に行くはずだ。だって、俺が見てきたヒビキという男は……彼はそういうヤツだから。
「まったく素直じゃないですね。……ジン君の機嫌が変わる前に呪具について深堀していきましょうか。ジン君は呪具についてどこまで知っていますか?」
「バカにしてんのか。……エルフの里でヒビキに説明されたことぐらいの知識しかないよ。あ、あとはアリアさんにも少しだけ聞いたな。確か、呪具とは愛着のある道具に魔法の力が宿ったものだって」
「はい、その認識で合っていますよ。それならボクは蘊蓄がてら、話の掴みとしてこの話をしましょうかね。……ジン君はなぜ呪具を呪具と呼び始めたかはご存じですか? 他にも華やかで、可愛らしい呼び名を付けようと思えばいくらでも付けれたはずなのに、何故敢えて”呪い”なんて誰が聞いてもおどろおどろしいと感じる字を使ったのかです。疑問に思いませんでしたか?」
「いや、疑問にも思わなかったけど。……でも、そうだな。危険な土地には敢えて水を連想させる漢字を入れるみたいなノリじゃないのか? 魔法と同じで呪具の効果も様々なんだろ? ヒビキの”血染め”だって指を切ると失血死する可能性があるって聞いたぞ。そんな効果が不明なモノは危ないから昔の人は呪いって漢字を付けたんじゃないかってのが俺の考えだけど……違うのか?」
「いい答えですね。ただ惜しいです。すごく惜しいです。……呪具というのはアリアさんが言っていたように愛着のある道具に超常的な力が宿ったものを呪具と呼称しているだけです。ただ昔の人は魔法のことを妖術と呼んでいたので呪具も妖具と呼ばれていたんです。だけど、それもある事件が起こり、呪具の危険性が世間で広く知られるまでですけどね。……死人が出たんですよ。仕事に使う鋏が好きで好きでたまらなかった変人、対物性愛者と言うのでしょうか? まあ、呼び名はなんでもいいですね。その男が愛用していた安物の鋏がある日突然、呪具に成ったらしいんですけど……鋏が呪具に成って一ヶ月も経たないうちにその男は仕事場で死体となって発見されたんです。全身の魔力をすべて搾り取られて亡くなったんですよ。わかりますか? 呪具の危険性とはただ手に持っているだけで、身に付けているだけで、体内の魔力を消耗するところにあるんですよ。呪具に宿る超常的な力を発揮しなくてもその者は魔力を吸い取られて死に至るんです。驚きましたか?」
「……なぁ、それってつまりヒビキの脇差しを持っていた間、俺はずっと魔力を搾り取られていたってことか? 死の危険に晒されながら?」
「はい。だから、ジン君にはとても感謝しているんですよ。誰も触れようともしてくれない”血染め”をボクの元まで届けてくれてありがとうございました」
「……すまん、一回だけお前の横っ面をぶん殴ってもいいか?」
慇懃無礼に頭を下げてきたヒビキを見ていると本気で拳を握り締めそうになってしまった。怒りが実る。というかそういうのは先に言ってくれよ。命の危険があるんだったら俺だってハイレッディンさんの頼みを断っていたはずだ。”血染め”を持っている間、常に何かを吸われている気がしたのだが、気のせいではなかったみたいだ。むしろ吸われているのが血じゃなくて安心した……いや、安心できるか!
「ハハッ、安心してください。ジン君は魔力が多いので大丈夫ですよ。余程のことがなければ魔力を搾り取られて死ぬことはないです。あー、では、次に呪具の発生条件について話しましょうか?」
「……はぁ、好きにしろよ」
俺はもうすべてを諦めるみたいに椅子の上で力なく項垂れた。ヒビキのペースに乗せられている自分に気が付いてツッコむことすら放棄した。自暴自棄に近い心境だ。止めても止まらないと理解したならもう黙って嵐が過ぎ去るのを待つことにするのが俺のやり方だ。
「なら、ジン君のお言葉に甘えて、ボクの好きにさせていただきます。呪具とはですね……あー、やっぱり妖具の説明を先にした方が分かりやすいですねかね。漢字的にも、成り立ち的にも。……昔の人はですね言葉には力が宿っているとして、道具に名前をつけるのもかなり慎重だったんですよ。例えば、若い巫女が身体をくねらせて舞うことで、青銅製でできた土器に神々を招き、機嫌を取ることで五穀豊穣を願う。いわゆる雨乞いの儀式をしている途中に偶然できたものが妖具と呼ばれたりですね。あれ、神儀でしたかね? まあ、どっちでもいいですが、その雨を呼ぶ力が宿った土器が最初の呪具ではないかと言われていますね。今のところはですが。……それにしても雨を降らす効果を持つ呪具が、人類最初の呪具というのが面白いですよね。長い年月を経た道具には魂が宿り、それぞれの意志を持つという付喪神的な考え方もあながち間違えではないかもしれません。まあ、そもそも昔の人は自らの理解が及ばない現象はすべて妖怪のせいだと決めつけていましたからね。今では珍しいものだと認識されるようになった魔法もかつては妖術と呼ばれて蔑まれていました。魂が妖に魅入られているとしてね。地方の村々では魔法に対して未だに根強い差別意識が残っています。無知とは末恐ろしいものです。そう考えればボクたち”魔法使い”にとって、とても生きやすい世の中になったものですよね?……おっと、話が逸れてしまいました。ジン君はもうトーマスと話したことがあるんですよね? ほら、甲高い声と早口が特徴的な魔素研の代表をしている彼のことですよ。ボクも腰を据えて議論交わす機会があったのですがとても参考になる意見もありました。その一例として挙げると呪具と神具の違いについてです。呪具とは所有者の魔力を絞り上げて魔法と似た現象を引き起こすのに対して、ボクが持っているこの名無しの刀は、神具と呼ばれているこの刀は魔力を必要としていないんです。魔力が必要としないのにあらゆるものを一刀のもとに斬り伏せることができるんですよ。岩も、鉄も、迷宮の壁すらも刃毀れすることなく切り裂くことができるんです。わかりますか? 神具とは独立しているんです。思えばこれまでボクが出会ってきた呪具の持ち主は全員が何かに依存していました。その偏執的なまでの執着が、依存が、情欲がただの道具を呪具にまで昇華したのでしょう。愛着がある道具の方が生物が持つ魔力に影響しやすいのもあるのでしょうが……そこが魔法とは大きく違いますね。魔法とは未熟な精神状態の発露が一因で起こる現象であるとトーマスは考察しているようですが、ボクも概ね同じ結論です。エルフやドワーフの種族的な魔法はまだ調査が足りませんが……神にそういう設計で作られている種族と考えれば種族単位で同じ魔法が使えても不思議とは思いません。逆にヘルガやアセビは人間と他種族の血が混ざり合った不安定な状態が故に種族特性とは他に魔法が開花したとも考えられます。他種族間では妊娠しずらいというデメリットがあるようですが鬼の怪力に人間の魔法が合わさると思うとかなりの脅威です。まあ、詳しい情報はトーマスに任せるしかないですね。大人しく百年後に期待しましょう。……あ、そうだ。ジン君は忍の話を知っていますか? 主君の影として生きる彼らは諜報技術の他にも暗殺技術にも優れているんですよ。そして、彼らの鍛錬法の一つに魔素が多い環境で生活するというものがあるんです。鬼にも負けない身体能力を手に入れるために魔素が多い土地で鍛錬を積むことで身体の作りを変え、鬼に近づくという無茶な修行です。ボクも実践していますが一定の効果がありました。だから、トーマスに忍者を紹介しました。忍者として正体を知られることを嫌がっていましたが、あれも人類の発展のためです。仕方がありません。ボクも忍者の鍛錬法を聞いて、一つの仮説を立ててみたんですよ。魔素とは体内で魔力に変わるだけではなく、魔素を取り込む生物が望むように徐々に身体の作り変える効能があるのではないかと。天狗もボクと似たようなことを考えているようですね。ボクも、トーマスも、まだ妄想の域を出ないのですが――」
「いや、流石に長い。長すぎる。要するに? ヒビキは何が言いたいんだ?」
好き勝手に喋っているせいでいつも以上に要領を得ない。ヒビキとの会話を現代文と例えたが口頭で長文を伝えられても頭に入らないだろ。スラスラと脳内で字が滑る。その証拠にヒビキが最初に言っていたことを俺はもう覚えていない。興奮したヒビキはここまで手に負えないのかという感想しか残っていない。
「……ハハッ、少々興が乗り過ぎました。つまりですね……精神性が異常であればあるほど呪具が発現する確率が高いということです」
「精神性が異常?」
「はい、ボクがこれまで見てきた統計上、依存気質で自責思考、そして同じ生物とは思いたくないような価値観の人ほど呪具が発現する確率が高いんですよ。人格面の”歪み”が大きければ大きいほど呪具の性能も凶悪になるっぽいです。まあ、どこまで行こうとただの持論ですがね……」
「……おい、それは自虐なのか? ヒビキの脇差しも呪具なんだろ? いつも、いつも、呪具をひけらかして歩いているヒビキは……自分は依存気質で自責思考、価値観が異質な化け物だと自己紹介しているようなものじゃないのか?」
「失礼な。刀だけではありません。全身です。ボクが今、身に纏っているすべてが呪具なんですよ。驚きましたか?」
「……そうかよ」
「あれ、想像していたよりも反応が薄いですね? これはボクの鉄板ネタの一つなんですが……」
「もうお前の話にあれこれ茶々を入れるのも疲れただけだよ」
全身の呪具を見せつけるかのように俺の前に立ち、クルクルと身体を動かしているヒビキからそっと視線を逸らした。ヒビキの話に登場した呪具も基本は一人、一つだった。たぶん呪具を持っているということは本当にスゴイことなんだろう。だけど、黄泉の国で呪具を持ち歩いているヒビキのヤバさが際立っただけだ。俺にとってはそれだけの話だ。それにどれだけ呪具の話をされても、知識を蓄えても、この迷宮から出られないんだったら何も役にも立たない。
「えー、ほら。ジン君が届けてくれたこの”血染め”の他にも”天狗の下駄”、”不浄の羽衣”、”雲切り”、”胡蝶の鉄扇”などがまだあるんですよ? まあ、”天狗の下駄”は天狗から貰ったものなのでボクが呪具にしたわけではないんですけどね。……弘法筆を選ばずということわざがありますが、神に成るボクは一流の品では満足できません。神具、呪具、魔剣のすべてを集めて見せましょう! 糸目はつけません。それがボクが神に成るためのもっとも堅実な方法ですからね」
「……ドラクエの最強装備を整えるみたいなことをしてるんだな。そんなにスゴイ呪具を揃えてるんだったらミノタウロスの一匹や二匹。さっさと倒してきてくれよ? ここで死んだら神に成るどころか、笑い話にもならないぞ? 何が起こったのかなんて外からだとわからないんだからな」
「ミノタウロスを殺すのは簡単です。ですが、ボクはここを気に入ってしまいました。先ほども言いましたがミノタウロスを殺したくはありません。……まあ、でも、ジン君の言うことも一理あるのでそろそろ行きましょうかね。ボクだってダイダロスになる気はありませんし……実は万全を期して人喰い迷宮の攻略に臨んでいたので昼食を抜いていたんですよね。本格的にお腹が空く前にここから出たいです。……ジン君は、ここでボクが連れて来る迷子たちの面倒を見てくださいね?」
「……ああ、俺はここで迷子センターになるよ」
「フフッ、そうですか。……それではジン君、ボクはこれから死地に向かいます。まあ、ボクのではなくミノタウロスのですが……」
ヒビキの言うことが理解できないと諦めた俺は、適当な発言で会話を流した。彼との会話を終わらせるためだ。すると、彼は芝居がかった動作で綺麗な一礼を披露したかと思ったら、そのままカンッと下駄を鳴らして、姿を消した。
決して目を離したつもりはなかったが……俺の目では捉えられない速度だ。疾風のごとく駆けるヒビキの影は既にミノタウロスのもとへと向かったみたいだ。祭壇内には木を打ち付けるみたいな音だけが残されていた。
「……」
不気味な静寂が訪れる。一階と三階。ヒビキの言うことを参考にするなら、それが醜悪なミノタウロスと俺の物理的な距離だ。結構近い。俺は再び、古代ドワーフの遺骨に目を向けた。
全身を焼くような焦燥感から、胸中に渦巻いている真っ黒な不安から、目を背けると古代ドワーフの残骸が視界に入っただけだ。それだけだ。それだけのはずなのに……俺の視線は、釘付けにされてしまった。だけど、ボロボロに朽ち果てたその骨を見てたら、だんだんと気が滅入ってしまう。俺はすぐに視線を足元に戻した。
彼の辿った結末を否定するように目を瞑り、ただ硬く拳を握り締めていた。皮肉なことに俺のその姿は、古代ドワーフと同じく、まるで神に祈りを捧げているかのような仕草だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
数分。数十分。もしかしたら数時間かもしれない。
しばらくの間、俺は目を瞑っていた。天窓からこちらを見てくる月を、星々を、無視するかのように俺はずっと目を瞑っていた。
静寂の中で聞こえてくるのは俺の心臓の鼓動だけだった。他には何も聞こえてこない。海賊たちの騒ぎ声も、ミノタウロスの足音も、死んでから俺が見てきたすべてが夢だったんじゃないかと疑ってしまった。それほど静かだった。むしろ、心臓の音がうるさかった。静寂もうるさい。今の俺には何もかも耳障りなだけだった。
「……ッ…………」
ただ、何も考えないようにしていた。何も考えたくなかった。何も考えたくなくて……何も考えないように意識を割いていた。湧き上がってくる思考をすべて真っ黒に塗り潰す。『何も考えるな』『何も考えるな』『何も考えるな』と、何度も、何度も、頭の中でその言葉を繰り返す。自分にそう言い聞かせるみたいに同じ言葉を繰り返していた。
だけど、俺は考えないようにしているはずなのに……ずっと消えてくれない。後悔が、死の恐怖が、頭の片隅から離れてくれない。
クックという男が死んだ。家族への……そして仲間への遺言を俺なんかに任せて、この世を去った。元料理人でカツキの同期だったらしい。彼の手は俺よりも一回り以上大きくて、とても冷たかった。
ヤモリさんという男が潰された。ミノタウロスという怪物に潰された。その瞬間を見ていないが……彼の悲鳴が、血飛沫の音が、今も耳にこびりついて離れてくれない。最初はトール君の近くにいた俺に敵視するかのような視線を送ってきていたし、あまり良い印象はなかった。だが、いざとなれば俺を、新入りを庇ってくれるような人だった。もっと話せていたらいい意味でも悪い意味でも、まったく別の一面が見えていただろう。だけど、もうできないんだ。彼はもう死んでしまったんだから。
他にも……いっぱいの人が死んだ。ゴミを払うかのように殺された。エルフの里でも死体は見たことがある。あまり役には立てなかったが、俺だって治療の手伝いもしたんだ。もっとグロテスクになった死体をいくつも見た。潰されるよりも、溶かされる方が個人的にも無理だった。だが、目の前で、人の命がなくなる瞬間を見たのはこれが初めてかもしれない。
今まで生きてきて初めて……初めて俺は死と向き合っている。現世でも葬式には一回だけ参加したことがある。爺ちゃんの葬式だ。だけど、爺ちゃんの葬式はそこまで悲しくなかったはずだ。
いや、もちろん爺ちゃんのことは大好きだった。いっぱい遊びに連れていってくれたし、知らない話をたくさんしてくれた。とても愉快な人で、嫌な記憶は一つもない。だけど、現実感がなかったんだ。ただ実感がなかった。葬式が終わっても、火葬が終わっても……ただ、いなくなったんだってことしか俺には理解できていなかった。もう会えないんだってことしか分からなかったんだ。
「……もしかしたら俺は、自分の死とも向き合えていなかったのかもな……」
向き合えた気になっていただけかもしれない。納得したんじゃなくて、目を逸らしていただけなんだ。逃げ癖もこんなところにまで影響するとは思ってなかった。俺だって逃げたいわけじゃないのに癖になるまで染みついているのだろう。ほんとうに、ほんとうに……どうしようもないな。俺って。
今までの人生はずっと嫌なことから逃げていた。だから、一度、意識してしまうと思考が嫌な方へ、嫌な方へ、と引っ張られていく。それに……こんな静かなところで一人っきりだと余計にだ。自分と向き合う時間を強制的に味わされている。俺にとっての生き地獄だ。頭の中では、いくつかの思考がぐるぐると回っていた。上映会のように脳が自分のダメな面を見せつけてくる。周囲の音が、心臓の音が次第に遠くなっていくような錯覚を覚えた。
……ああ、もう、クッソ。ダメなところしか思い浮かばない。
外部からの情報がないせいで、自分と向き合うことしかできない。不必要なほど自分の欠点ばかりを考えている。考えたくないことばかりだ。なのに、考えたくないと思えば思うほど考えてしまうのは何故なんだろうか?
俺を助けると思ってこの現象に名前をつけてくれ。……はぁ、人と会いたいな。というか、迷子センターをすると言ったのに祭壇にはまったく人が来ないんだけど。ヒビキは邪険に扱った手前、どんな顔で話せばいいのか分からないし。話していると、たぶんムカついてしまう。
「……」
人肌の温もりが、人の声が恋しい。迷宮の中にはたくさんの海賊がいるはずなのに、俺はずっと一人だ。トール君が言っていたように、こっちに来てからずっと一人だった気がする。いや、リーネたちと同じ屋根の下で暮らしているんだからそんなわけがないのに、俺は今そう思っている。誰かと、誰でもいいから一緒にいたいと思ってしまう。……あれ、俺ってこんなに弱かったっけ?
そういえば、葦原と日向は元気でやってるのかな。元気でやってるだろうな。というか俺の葬式ってもう終わってるのかな? 母さんと、父さんはもう立ち直ってるんだろうな。葬式のときはくらいは……さすがに泣いてくれてるだろうけど。基本的に、二人は俺には興味がないからな。三日もあれば吹っ切れるんだろうな。
それと……兄貴は、俺がいなくなっても絶対に変わらないだろうな。あの何考えてるのか分からない空虚な目で、無表情で、俺の葬儀に参列していると想像したら……なんだか笑えてきた。絶対に「早くこのイベント終わらないかなー」くらいの感傷しかないんだろうな。まあ、兄貴とは中学に入ってからほとんど会話していないからしかたないんだけどさ。俺が一方的に兄貴のことを避けてたから……朝、顔を合わせても挨拶すらしないときがあったな。今思えば、めちゃくちゃ態度が悪かったんだな。兄貴の視点だと、俺はただの嫌なヤツだった。だから……嫌われていてもしかたがないよな。
「……ハッ…………」
思わずに笑いがこぼれた。自嘲するかのような笑いだった。今さら、自分の行いを後悔しているわけじゃない。後悔しても意味がない。だって、もうどうすることもできない。そうだ。もう現世のことはどうすることもできないんだから。別のことを考えよう。そうするべきだ。別のこと、別のこと……あ、そうだ。カツキとトール君は無事なんだろうか?
結局、二人の姿を最後に見たのはミノタウロスに襲われる直前だった。そこからどうなったかは知らない。ヒビキの話だと二人の死体はなかったらしい。トール君の透明になる魔法で助かったのだと言われても、この目で二人の姿を確認するまでは、心の底から安心することはできない。
それに他のみんなも心配だ。俺はまだ、ヒビキが生きていることしか知らないんだ。他のみんなはとっくにミノタウロスに殺されているかもしれない。リーネに、ヘルガ、シュテン……は心配ないだろう。一番心配なのはレインちゃんとアリアさんだ。特にレインちゃんだな。彼女はユキに変わらなければ、普通の少女なのだ。優しくて、怖がりな、ただの女の子だ。
アリアさんだって白銀の甲冑を着込んでいたが……あんなもの、ミノタウロスの前では紙同然だ。叩き潰されれば死んでしまう。あの二人はこの迷宮内を怯えながら彷徨っているのかもしれない。怖がりながら、進んでいるのかもしれない。なのに、なのに、俺一人だけが安全な場所にいる。皆は今も恐怖に負けず頑張っているのに、俺だけが諦めて、不貞腐れて、ここにいるのか?
そんなのってあるかよ。俺は何を考えてここに来た。何のためにこの人喰い迷宮に足を踏み入れたんだよ。皆を救い出してみせるって、そう覚悟を決めたじゃないのか。諦めてたまるか。諦めてたまるかよ。俺は、自分の心を奮い立たせるみたいに何度も、何度も、そう繰り返した。すると、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。深く息を吸い込み、ゆっくりと邪魔な前髪をかきあげた。
頭を抱えたままだと何も始まらない。ここで座っているだけでは何もできない。さっきまでのあれは……きっと心が弱っていたせいだ。俺の心が弱っていたせいで、俺はずっと悲観的なことばかり考えていた。そもそも古代ドワーフたちは頭がイカれてるんだ。俺には、常人には、彼らの思考が理解できないんだ。
それにヒビキも『迷子の面倒を見ろ』とは言っていたが、ここでずっと待機していろとは言わなかった。なら、やっぱり脱出を目指すべきだ。ヒビキがミノタウロスを倒してくれるというなら、迷宮の一階にいる俺は、最も安全な場所にいる俺は、脱出を目指して動くべきだ。まずは自分にできることをしよう。俺だけにできることを探そう。見つけ出そう。
静寂が漂う祭壇に一人残された俺は覚悟を固めた。目を開ける。天窓からもれる澄み切った銀色の月光が、薄暗い祭壇内に差し込んでいるのが見えた。清輝だ。月の光に重さを感じる。それが、俺の覚悟の重さだ。
もうぶれない。もう諦めない。死なないために……死なないためなら、俺は何だってやってやる。頭がおかしい古代ドワーフたちのことだ。脱出する方法を知っているのに、幽閉されているわけではないのに、ここで死んだって可能性は全然あるはずだ。そう、あるんだ。俺には理解できないがこいつらならやりかねない。彼らにはそんな迫力が、凄みがある。
俺は理解できない相手を無理に理解しようとはしないぞ。そこまで優しくない。だけど、ここから出るために必要なら、ここで死なないために必要なら、俺はやるぞ。彼らの心を、頭の天辺から足の爪先まで理解してみせる。
怒りが再燃していた。再び怒りが胸の奥でくすぶり始めた俺はそんな思いを抱えながら、石像を睨んだ。立派な石像だった。グリフォンが巨大な男に頭を撫でられている。両者が仲良く戯れ合っているかのようなその姿は、グリフォンに殺されかけた身としてはただただ不気味でしかなかった。
「……こんなところで何をしているんですか、ジン君?」
「ぇ?」
すると、誰もいないはずの祭壇内で人の声が聞こえた。カチャ、カチャと鎧同士の擦れる音が響く。振り返るとそこには女性がいた。金糸のように美しい髪を靡かせ、上品に笑っている女性がいた。
「……ぁ、アリアさん?」
「はい、そうですよ? ジン君が名前を呼び間違えたアリアさんです」
湖のように穏やかな碧眼が俺のことをジッと見つめていた。白銀の甲冑や銀製のロザリオとアリアさんしかしないような格好だ。俺の記憶の中にあるアリアさんそのものが祭壇の入り口に、俺の背後に立っていた。だから、俺には信じることができなかった。
「ハッ、いや、現実がそんなに都合がいいわけないよな。もしかして俺ってもう死んでるんですかね? ……ということはアリアさんって、やっぱり天使?」
人の温もりや声が恋しいと思っていたが……よりによって、海賊の中でも関係が深い、仲が良いアリアさんが来るなんて信じられなかった。脳が上手く情報を処理することができなかった。だって、生まれてきた一度も運がいいと思うできごとなんてなかった。なんなら不運な星の下に生まれてきたとすら思っていた。だから、アリアさんがこの場にいることを信じることができなかった。だが――
「違いますよ。もう、仕方がないですね。……ほら、これで信じてくれますか?」
「ぅあ?」
彼女はカチャン、カチャ、と音を鳴らし、座っている俺に近寄ってきた。一歩、二歩と近寄ってきたかと思ったら……突然、彼女に手を握られた。冷たい。手が冷たい。じんわりと鎧に体温を奪われていくのが分かった。徐々に、徐々に、俺の体温がアリアさんの鎧に奪われていく。
「……え、嘘。本物?」
「はい。だから、何度もそう言ってるじゃないですか。……ほら、手を貸しますから自分の力で立ってください」
呆れたような表情を浮かべたアリアさんが俺の目の前にいた。腰を下ろしている俺の手を取って、立ち上がるようにと催促してくる。だから、立ち上がった。彼女の手を借りて俺の身体を立ち上がらせた。
「どうやって……どうして、アリアさんがここに?」
「どうしてって、私はただ入り口からここまで真っ直ぐ歩いてきただけですよ? すると見覚えのあるジン君の後ろ姿が見えたので声をかけただけです。……ところで、この骨は誰のものなんでしょうか?」
「ああ、それは古代ドワーフの骨らしいですよ。何でこんなところにあるかって質問に答えるなら……この迷宮を造った本人が、自分ごとミノタウロスを閉じ込めたからだってヒビキと結論付けました。俺たちは、その……この迷宮に幽閉されたってことです。死ぬまで……」
「……そうですか。古代ドワーフの……」
白銀の甲冑を鳴らして、彼女は古代ドワーフの遺骨へと静かに歩み寄った。興味深げな青い瞳が、白骨化した遺骸をじっと見つめる。やがて、アリアさんは十字を切り、名前すら知らぬ死者のために祈りを捧げた。
その表情は平然としていた。まるで、古代ドワーフも迷宮内に幽閉されたという事実を、迷宮内で飢え死にしたという悲劇的な事実を理解できていないかのようだ。それにアリアさんの祈りは、哀悼というよりも、ただの儀式のように淡々としている。あっけらかんとした彼女のその振る舞いに、俺は疑問を抱いてしまった。
「……アリアさんは、とても落ち着いてるんですね。こんな状況でも。……スゴイと思います。経験値、場慣れっていうんでしょうか。俺はまだ、そこまで図太くはなれないです」
「あれ? 最後の一言のせいで褒められているのか、貶されているのかわからなくなってしまいました」
「あ、いや、違いますよ。本当の、本当に褒めてるつもりです。スゴイって思ってます」
「……まあ、でも、ジン君の気持ちもわかりますよ。古代ドワーフの遺跡を調査するために来たはずが、いつの間にかこの迷宮から脱出することに目的がすり替わっていますからね。怖いと思うのも無理はないです。私だってそうです」
「……怖い……そうですね、怖いです。とても怖いです。……これから迷宮の中で飢えて死ぬのかもって考えるのも、ミノタウロスが彷徨う迷宮を出歩くんだって考えるのも、皆が死ぬんじゃないかって考えるのも、怖いです。……でも、今、一番怖いのは古代ドワーフかもしれません。彼らが一体何を考えて、この迷宮を造り上げたのか、何を考えてミノタウロスなんかを閉じ込めたのか、何を考えてこんなところで死んだのか、それが微塵も分からない、理解できないのが……怖いです。俺は神に『死ね』と言われたら、平気で死を受けているその精神性が、まったく共感できません。だから、怖いです。俺には……イカレてるとしか思えません」
古代ドワーフの遺骨を見ながら俺はアリアさんに向かって本音を吐露した。頼れる人と出会って安心していたのかもしれないし、心の中で膨らみ続けているモヤモヤを吐き出したくて、誰でもいいから相談しただけかもしれない。俺にも理由は分からないが、気付けばそんなことを口にしていた。
「……そう、ですね。そうかもしれません」
数秒の沈黙の後に彼女は否定とも肯定ともとれる声色でそう答えた。いや、答えにすらなっていない。だから、俺は古代ドワーフの遺骨からアリアさんの方にゆっくりと視線を動かした。無意識だったが……少しだけ彼女に失望していたのかもしれない。自分勝手なのは分かっている。だが、それでもアリアさんなら俺の求める答えを返してくれると思っていた。
まあ、だが、それも俺が彼女の表情を見るまでの間だけだった。アリアさんの湖面のように穏やかな青色の瞳に影が落ちている。悲しみの色が差していた。他にも小さな唇を固く閉じ、眉根が僅かに下がっている。とても悲壮な表情に見えた。
「……」
彼女への失望も落胆も、すべてが過去のものとなり、俺の頭には一つの疑問だけが残された。それは形を持たない、黒く濁った雲のようにモヤモヤとした疑問だ。だから、俺は言葉を発することができず、ただ静かにアリアさんを見守っていた。言葉を紡げない俺は、ただ見守ることしかできなかったのだが……ふと、何かがキラリと鈍く光った。ロザリオだ。アリアさんの胸元で、月の光を浴びた銀製のロザリオが、まるで俺に何かを語りかけてくるかのように、静かに輝いていた。
「……アリアさんも、神を信じているなら、分かるんじゃないですか? その……彼の気持ちっていうか……」
「……はい、わかりますよ」
「ッ、なら! 教えてくださいよ! ……あ、いや、教えて欲しいです。この古代ドワーフが何を思って死んでいったのかを……」
「あ、いえ。先に言っておきますが、彼が何を思ってしんだのかは私にだって分かりません。彼と私は……恐らく、信じている神が違うのでしょう。だから、最後に彼が何を思って死んだのかは分かりません。満足しているのか、未練があったのかすらも、肉がすべて削げ落ちた彼の頭蓋骨からは読み取ることができません」
「……なら――」
「ですが……何故、彼が最後にこの場所を選んだのか。その理由なら、分かります」
「……それは……つまり、アリアさんは……古代ドワーフが、この人喰い迷宮の中ならどこで死んでもよかったはずなのに、わざわざ祭壇の中で死んだ理由ってことですか? すいません、ちょっと難しくて……」
「はい、その通りです」
「……いやいや、それは決まってるじゃないですか。一目瞭然ですよ。というか、それはどうでもいいでしょう。考えなくたって、俺にだって分かることです。……こんな悪趣味……いや、特殊な場所を選ぶくらいですから、彼らにとって宗教的に意味がある行為だったってことなんじゃないんですか? ただ、それだけですよ。例えば……死ぬ前に自分たちの神に祈りを捧げたいとか、どうせそんなところでしょう。……まあ、どちらにしても神様なんて信じたことのない俺には、あんまり理解できない考えですけど」
「……ジン君の言う通りです。それも理由の一つだと思います」
「いや、それ以外ないでしょ。後は……それ以上は、もう本人に直接聞かないと分からないですよ。だって、他にいないでしょ。こんな壮絶な経験をした人って。生前の彼の心情を正確に読み取ろうとすると、それはただの妄想になってしまいます。自分の頭が都合よく解釈した……ただの思い込みですよ?」
アリアさんは俺の言葉を遮ることなく、最後まで黙って聞いていた。そして、静かに目を伏せた。自分の胸元にあるロザリオを彼女はじっと見つめていた。いつも彼女が身に着けているはずのロザリオが、今日はやけに目を引く。白銀の甲冑を纏った今の姿よりも、普段の黒衣の方が目立つはずなのに、なぜか視線がそこに吸い寄せられる。
「……そうですね。これは私の体験をもとにした、ただの妄想なのかもしれません。ですが……彼はきっと、最後くらい太陽の光を浴びたかっただけなんじゃないでしょうか? 薄暗い迷宮の中ではなく、太陽の下で――ただ穏やかに、最後の瞬間を迎えたかっただけなんだと思います」
アリアさんの言葉が風に溶けるかのように静かに消えてしまった。湖面のように穏やかだった彼女の青い瞳が、わずかだが揺れている。きっと何かを思い出しているのだろう。郷愁に駆られた彼女のその表情は、今にも泣き出しそうで、見ていられなかった。見ているのも辛かった。胸の奥が張り詰めてしまいそうな、深い悲しみが滲んだ一言だった。
「……太陽の下で、ですか」
俺はその言葉を繰り返していた。呟くようにそう繰り返していた。
人喰い迷宮に足を踏み入れる前と同じだ。彼女の声を聞いただけで、ざわついていたはずの心が、荒んでいたはずの感情が、少しずつほどけていくのが分かる。不思議な感覚だった。リラックスという表現とも少し違う。満ち足りる、とでも言えばいいのだろうか?
カラカラに乾いた心に静かに水が染み渡っていくかのような……あるいは、土砂降りの雨の中で、誰かがそっと傘を差しだしてくれたかのような。強いて言えば、そんな感覚だ。心が温まるはずなのに、何故か胸が痛んだ。自己犠牲と他者理解を同時に突き付けられているかのような、複雑な感情だ。
だって、アリアさんのおかげで理解できない存在だと思い込んでいた古代ドワーフのことが、俺にも少しだけ分かる気がしたんだ。彼らの痛みを、孤独を、祈りを――落とし込まれたのだ。無意識のうちに彼らに共感してしまった。価値観と時代が違う相手に、いともたやすく共感できてしまった。それが、頭の片隅に残る違和感の正体だった。
アリアさんには魔法を使えない。それは、皆からも、彼女自身の口からも聞いたことがある。だけど、彼女の言葉には不思議な力がある。その存在には、甲冑以上の重みがある。彼女の持つ魅力が、言葉の重みが、すべてが人を魅了しているのだ。人を動かすだけの力が、魅力が、確かにそこにはあった。
それこそが彼女の迫力――そして、怖さなのかもしれない。
特に……今日の彼女からは得も言われぬ迫力を感じる。いつも以上の、それでいて、いつもとはまったく違う種類の迫力だ。彼女の立ち姿には、言葉以上の説得力があった。まるで、いつものアリアさんとは別人のようだ。雰囲気も、外見も、仕草も、すべて同じはずなのに、話している相手の中身が入れ替わってしまったかのような……そんな違和感がどうしても拭いきれなかった。
「……あれ、ちょっと待ってください」
そこで、ようやく俺は理性を取り戻した。彼女の声のおかげで、ざわついていた心が、沸き起こっていた激情がほとんど強制的に鎮められた。頭が冷えて、視界が開けた。俺は平静さを取り戻すことができた。だからこそ、彼女の言葉の中にあった矛盾に……おかしな点に気付くことができたのだ。嗅ぎつけることができた。
「さっき、アリアさんは……俺と合流したときに『入口から真っ直ぐここに来た』って言いましたよね? でも、それって……おかしくないですか? だって……だって、俺たちはワープ現象に巻き込まれて、全員が迷宮内のどこかにランダムに飛ばされたはずなんです。なのに、アリアさんは……どうやって迷宮の入口から真っ直ぐこの祭壇まで来れたんですか?」
言葉にしていくうちに、自分の中で何かが確信が強まっていくのが分かった。最初はただの違和感だったものが、今でははっきりとした疑念に変っていた。
目の前のアリアさんが、本物のアリアさんなのか、その可能性を今、俺は本気で疑い始めている。目の前にいる彼女が、偽物かもしれないという可能性を冗談ではなく、真剣に考えてしまっている。
だって、ワープなんて俺の常識では到底理解できないような現象が、すでに起こっているんだ。なら、アリアさんの偽物がいたって何もおかしくはない。俺にとって、それは十分にあり得る話なのだ。
この世界の魔法は、想像以上に万能だ。俺のしょうもないと思っていた魔法ですら、よく考えてみれば、何もないはずの空間から、身体から自在に縄を生み出すことができる。あれだって、本来ならあり得ないことなんだ。俺がこちらの常識に染まりかけているから、当たり前のように受け入れていただけだった。
それに、トール君の魔法は透明人間になれるらしいし、アセビにいたってはヒュドラ討伐の際、魔法で四人に分身して戦っていたのをこの目で見た。だったら、化け物が……他人の姿に化ける魔法があってもおかしくはない。……古代ドワーフたちが、そんな悪意に満ちた手段を使って、俺を罠にはめようとしても全然、不思議ではない。そう考えるのは、決して飛躍した発想じゃないはずだ。
「それは……」
アリアさんは、俺の問いに困ったような表情を浮かべていた。それだけだった。だけど、その表情すらも、今の俺には演技に見えてしまう。一度でも疑ってしまえば、その疑念はずっと膨らみ続けてしまう。だからこそ、否定して欲しかった。彼女自身の口から、答え合わせをしてほしかった。『こんな理由があったんですよ』って、いつものような明るい声で説明して欲しかった。今の俺ならどんなに適当な理由であっても、きっと納得してしまっただろう。
「……」
だが、返ってきたのは沈黙だった。いくら待っても、彼女が口を開く気配がない。アリアさんのどこか憂いを帯びた青色の瞳は、こちらを見ようともしていない。彼女は俺から目を逸らして、再び胸元にあるロザリオをじっと見つめている。沈黙が重い。祭壇の中に降り注ぐ月の光が、俺たちの間に線を引くかのように静かに、しかし力強く主張している。いつもとは違う雰囲気の彼女を、俺はどうしても信じることができなかった。
彼女が持つ言葉の重みが、特別な魅力が、人を動かす力を持つ力――それらが、今は逆に俺の不信感を煽ってくる。
「アリアさん?」
すべてが寝静まったかのような祭壇の中で、俺はそっと彼女の名前を呼んだ。彼女の青い瞳が揺れ、一度だけこちらを向いた。唇が微かに震えている。閉じたり、開いたりを交互に繰り返しているが一向に言葉を紡いでくれない。その行動からは、彼女の中に激しい葛藤が、逡巡があるのだと読み取ることができた。だが、それでもまだ沈黙を貫く彼女に、俺の方が我慢できなくなった。もう耐えられなかった。だから、口を開こうとした次の瞬間――
「――ッ、ジン君!」
アリアさんに名前を呼ばれた。彼女は血相を変えて、こちらに身体ごと突っ込んできた。突然の奇行。普段の彼女からは想像もできない行動に驚いた俺は、反射的に右脚を半歩後ろに引いたが、間に合わなかった。単純に、アリアさんの方が速かったからだ。
「ッ、え、アリアさん! 何を――」
硬い。硬い。いくらアリアさんが華奢な女性とはいえ、白銀の甲冑に身を包んだ状態で身体ごとぶつかってこられたら、そりゃあ痛い。鉄の塊だ。だが、それ以上に驚いていた。彼女が俺に抱き着いてきたという事実に驚愕していた。これは、誘惑なのか?
いつもの、清純潔白を絵に描いたような彼女の振る舞いからは到底想像できないはしたない行動だった。あざといってヤツだ。彼女の姿を借りた悪魔が俺を惑わしているのだと言われた方が、まだ信じられる。それほどまでに、彼女を少しでも知っている人間にとっては、信じがたい行動だったのだ。
俺はついさっきまで、彼女は偽物なんじゃないかと疑っていたはずなのに、一瞬にして思考が吹き飛んだ。頭が真っ白になってしまった。何も考えられない。これが、いわゆるギャップというヤツだろうか。普段の彼女を知っているだけに、その行為は凄まじい破壊力を秘めていた。
俺はアリアさんの身体をゆっくりと、優しく、支えるように抱き留めた。これは不可抗力だ。俺が倒れないようにするには仕方がないことなのに……それでも、確かな罪悪感が胸に残る。本当なら、嬉しい。アリアさんみたいな綺麗な女性に抱き着かれるなんて……それは、男として素直に喜ぶべきことのはずだった。だが、今ではない。今の俺では喜びよりも、恐怖が勝る。
アリアさんの金木犀のような甘い香りも、鎧の隙間から覗く白く透き通った美しい肌も、伝わってくる体温も――目の前の彼女が偽物だと疑っている俺にとっては、すべてが恐怖を助長してくるスパイスにしかなりえなかった。怖い。まるで夢の中にいるかのような出来事ばかりだ。俺にとっての都合がいいことばかりが、あまりにも立て続けに起こり過ぎている。怖い。ヒビキと別れた後……あの後からだ。もしかすると、俺は深い眠りに落ちてしまったのかもしれない。
ミノタウロスに追いかけ回されて、心も身体も限界まで追い詰められていたからな。疲れていたんだ。今も現実の俺はずっと眠り続けていて、これはすべて夢なんだ。そうに違いない。いや、そう思わずにはいられなかった。
だが、そんな甘い幻想の中にいたはずなのに……俺の意識は、すぐに現実へと引き戻された。迷宮の廊下の方から、眩い光の壁が押し寄せてくるのが見えたからだ。ワープ現象を引き起こす、あの光だ。
「っ、また、この光だ!」
何の前兆もなかった。あの光が発生する前触れはまったくなかった。恐らく、迷宮の中にいる誰かが出口に近づいてしまったのだろう。迷宮内はどこも同じ景色ばかりだったからな、気付かずに進んでしまうのも無理はない。それは仕方がないことだ。だが、一つだけ不可解な点があった。どうしても引っかかる点がある。
突発的に発生したはずのこのワープ現象を、アリアさんはまるで事前に知っていたかのような行動だった。というか、そうとしか思えなかった。俺は胸の中に飛び込んできた彼女へと視線を向ける。胸の内にいる彼女に向かって『どうして、アリアさんは分かったんですか?』という疑問を問いかけるよりも早く、光が俺たち二人を飲み込んだ。
眩い閃光が視界を覆い、世界が真っ白に埋め尽くされていく。何も見えず、何も聞こえない。アリアさんとの立場が逆になっただけで、状況は前回と何一つ変わっていない。人喰い迷宮の中を探索している俺たちは、またしてもワープさせられて、どこかランダムな場所でミノタウロスの脅威に怯えなければならないのだろう。ただ唯一、変わったことがあるとすれば。それは……今度は、しっかりと触れ合った。前回は間に合わなかった。伸ばした手で、彼女のことを掴むことができなかった。だが、今回はアリアさんの手を掴むことができた。
俺は、強烈な閃光に目が焼かれないように、瞼を閉ざした。俺は静かに目を瞑った。目の前の彼女は偽物なのかもしれない。俺を騙すためにこの迷宮が仕込んだ、古代ドワーフたちの悪趣味な罠なのかもしれない。今も恐怖は消えていない。胸の奥に根を張ったままだ。だが、それでも後悔はなかった。一人じゃない。今度は確かに、アリアさんの手を掴むことができたのだから……