第七十五話 『幽閉』
いきなりの出来事だった。突然、異変が起こったのだ。俺がカツキのグループと合流して、そのまま人喰い迷宮からの脱出を目指していると……ミノタウロスが、迷宮の上階から鈍い音を立てて落下してきた。唸るような轟音を立てて、俺たちの行き先に、正面に落っこちてきたのだ。
そして、そのまま立ち上がったミノタウロスは臀部に生えた牛の尻尾をゆらゆらと左右に揺らしながら、俺たちの姿を見つけると同時に血相を変えた。空気が一転した。ミノタウロスは蹄を鳴らし、その巨躯を激しく振るわせて、俺たち目掛けて突っ込んで来た。ただ、一直線に突っ込んで来たのだ。
血に濡れたその瞳で、殺気を滲ませたその鋭い眼光で、俺たちの姿を見ながら迷宮を彷徨う牡牛の怪物、牛頭人身の化け物、ミノタウロスは雄々しい叫びを上げた。人喰い迷宮へ無許可で足を踏み入れた侵入者を排除するみたいにミノタウロスは敵意を込めた雄叫びを上げた。
「逃げろ、逃げろ、逃げろ!」
誰かの叫び声が聞こえた。いや、正しくは泣き声だったかもしれない。もしくは悲鳴だ。それほどまでに情けなく、みっともない金切り声だった。
だけど、その情けない悲鳴のおかげで自分が置かれた状況を正しく理解できた。俺は一瞬のうちにミノタウロスに背を向けた。そして、そのまま走った。がむしゃらに走った。ただ、逃げるために迷宮の一本道を走り抜けた。
牛の頭と人間の身体を持つあの怪物は指は五本で、手足そのものは人間と遜色ないが……ミノタウロスの身体は、牛頭から下の部分は、もはや人間と評していい代物ではない。それほどまでに凶悪で、強靭に思えた。
闘牛という表現では生温い。生温かった。もし俺がこの状況を無理にでも表現するなら……線路を脱線した暴走機関車が俺たち目掛けて突っ込んで来た。いや、暴走機関車が自らの意志を持って、敵意を持って、俺たちを殺すために本能の赴くまま暴れ回っているのだ。ミノタウロスは石壁に肩をぶつけて、地面を踏み鳴らしながら逃げる俺たちとの距離を詰めて来る。情け容赦なく詰めて来る。
「ッく!」
暴れ狂うミノタウロスに気圧されてしまったのか隣にいた男が豪快に転んでしまった。さっきトール君と口喧嘩していた男だ。後方に固まっているヤモリさんたちに追い付いた拍子の出来事だった。転んで、無残に転んでしまった男が痛みで立ち上がれずにいるとミノタウロスに追い付かれた。追い付かれて、追い付かれて、無残にも大きな手に潰された。虫でも潰すみたいに呆気なく、一人の人間の命が巨大な牛の怪物によって奪われてしまった。悲鳴を上げる隙もなかった。
「十字路だ! 十字路まで走れ!」
ヤモリさんが活を入れるように感情を爆発させた。俺もすぐに顔を上げて、真っ正面を向くとニ百メートルほど先に十字路があった。十字路が見えた。あそこまで行けば……あそこに辿り着くまでに数人が生き残れれば……誰か一人ぐらいは助かるかもしれない。可能性だけは充分にある。
背後からは逃げ遅れた者たちの悲鳴と絶命の音。無慈悲にも叩き潰され、血が噴き出したみたいな嫌な音が背後からじわじわと迫ってくる。恐怖だ。理性も、品性も、掻き捨てたような剥き出しの暴力に恐怖している。涎を垂らながら見境なく突っ込んでくるミノタウロスに海賊たちが殺されている。仲間が蹂躙されている。ミノタウロスが腕を振れば人が一人壁に叩き付けられて容赦なく命を落とし、足がもつれてしまい転倒すれば真っ黒で丈夫そうな蹄に踏み潰されて情けなく命を落とす。今はもうそんな状況なのだ。
「……ッ……カツキ? トール君?」
仲間という言葉を意識した瞬間、あの二人の姿が脳裏によぎった。よぎってしまった。さっきまで真横に、一番近くにいたはずの二人の存在が感じられない。後ろを見ても、左右を見ても、正面を見ても……二人の姿がどこにもなかった。まさかミノタウロスに殺されてしまったのだろうか?
信じたくない事実を前にした俺は「……ッ、二人は……二人は……?」と呟きながら周囲を見渡す。抱いてしまった疑問を振り払うかのように頭を左右に振り、カツキとトール君の姿を探していると……
「ッ! 何やってんだ、坊主!」
そんなことを叫んだヤモリさんが俺の身体を真横に突き飛ばした。ミノタウロスが叩き割った地面が、その破片が、俺の後頭部を狙い撃ちかのように飛んできていた。だから、俺のことを庇ったヤモリさんが身代わりになった。側頭部に人間の拳ほどの大きさの石が直撃してしまい、ヤモリさんは受け身も取れず地面に倒れてしまった。転倒した。俺を庇ったせいだった。
「あ、大丈夫――」
「行け!」
「ッ」
俺を庇って倒れてしまったヤモリさんを心配して振り返ろうと、彼を起こすために足を止めかけた瞬間――ヤモリさんに喝を入れられた。背中越しに喝を入れられた。そして、その指示に従ったのは……怒声に怯んだ俺ではなく、ヤモリさんの隣にいた男だった。俺はヤモリさんの隣にいた壮年の男に右手を掴まれ、引っ張られるように足を進めた。結果として俺は足を止めることはできなかった。俺はその男に引き摺られるように走って、走って、走っているとヤモリさんの野太い悲鳴が聞こえた。断末魔だ。背後では血飛沫も上がっている。
隣に顔を向けるとヤモリさんの指示に、命令に一番速く反応した壮年の男が、俺の命を助けてくれた男が、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。その表情だけでヤモリさんと彼は長年の付き合いだったのだと理解できた。ヤモリさんが死んだのは俺を助けてくれたせいだった。嫌な人かも思っていたのに……そんな彼に助けられて俺の感情はもう滅茶苦茶になっていた。
「振り返るなよ! 黙って、走れ!」
名前を知らない男はまるで自分自身にヤモリさんの遺言を言い聞かせるかのように俺にそう言ってきた。そう言ってくれた。俺のことを掴んでいた手を離して、がむしゃらに腕を振って走っている。
十字路までの距離は残りは約三十メートルぐらいだ。ガン、ゴンッ、と不気味な音が間地かで聞こえるようになった。これは足音ではなくミノタウロスが大きな手を振り上げて、人間を地面に叩き潰す音だ。本能がそう告げている。心臓が熱い。呼吸が乱れて、息が上がる。だけど、走らないと死ぬ。明確な死が後ろに迫っている。十字路まで二五十メートルを切った。
二十メートル、十五メートルを過ぎた。身体は無事だ。今もこうして走れているから無事なはずだ。動けなくなったら、それはもう死んだってことだ。そうやって自分を奮い立たせる。疲れて鉛のように重くなった両足に意識が向かないように自分の心を鼓舞し続ける。
だけど……約十二メートルに到達したぐらいで、真後ろから、本当に真後ろから気配を感じた。殺気だ。これは殺気だ。本能がそう叫んでいる。俺は態勢を崩して、前方に転げるように走っていると……さっきまで俺のいたあたりから、つまり、すぐ背後から凄まじい風を感じた。もはや風圧だ。これはミノタウロスが大きな拳を地面に叩きつけた威力なのだと頭で情報を処理するよりも先に、肌で、感覚的に理解できた。というかそれしかないはずだ。
火事場の馬鹿力とも言うべき底力でなんとか転倒を回避した俺はそのまま先頭を走っていた男たちを追い抜かして、追い抜かして、追い抜かして、滑り込むみたいに十字路を右に曲がった。石柱に右腕を引っかけて身体の向きを無理やり捻じ曲げたのと同時に――ミノタウロスが俺のすぐ真横を横切った。
十字路を曲がり切れなかった者たちを、回避行動が間に合わなかった全員を人間からただの肉塊に変える威力を秘めたミノタウロスの突撃が襲った。蹂躙だった。回避行動が間に合わずにまともに正面からミノタウロスの突進を受けた者たちの手が、骨が剥き出しになった足が、黒ずんだ内臓が、彼らの身体が、内側から弾け飛んだかのように散り、血潮が空を舞った。まるで……まるで、人身事故でも起こったかのような……酷い、有様だった。
ミノタウロスすらもその理不尽なまでの威力を、俺たちに猛威を振った突進の威力を持て余していたのだろう。力を制御ができていないようだ。ミノタウロスは突進の威力を殺すことができずに、方向を変えることができずに、石壁に頭から衝突した。破砕音が響いた。恐ろしい破砕音が響いた。
「ッ!」
俺はミノタウロスの勇ましいその姿を見上げて、咄嗟に頭を守った。天井から降り注ぐ石壁の破片が見えたからだ。
どれほど小さな石であっても、どれほど細かな破片であっても、ミノタウロスの頭部がある高さから落ちてきたら必殺の威力がある。腕を頭の上で交差するように突き出して、頭部を守っていなかったらかなりの高さから落ちて来る石片によって深刻な傷を負っていたかもしれない。頭部へのダメージというのはそれほど脅威なのだ。
「……ッ、痛って……」
重力によって加速した石くれは俺の腕を痺れさせるほどの威力があった。雨のように降り注いでいた石がなくなったことを確認してから逃げるために立ち上がる。
そこで初めて俺以外の人間の姿が……いや、人影どころか……遠ざかる足音や悲鳴の一つすら聞こえなかった。俺の耳にはミノタウロスの荒い鼻息だけしか聞こえてこなかった。全員、もうミノタウロスによって殺されてしまったようだ。助かったのは俺、一人だけらしい。十字路を曲がれなかった者たちを無残な姿が視界に入った。哀れな姿だ。人間の原型を保てていない。彼らの息の根が止まっていることは一目で理解できた。背後を見ると俺を助けてくれた壮年の男の死体があった。次に……名前も知らない人たちが、そしてその次にヤモリさんらしき死体も……見えた。惨状だった。だから、それ以上奥は見ないようにしよう。
「……はぁ、はぁ……」
ギリギリだった。ギリギリで俺は肉塊にならずにすんだみたいだ。だけど、それももうじき終わる。その奇跡ももうじき終わる。ミノタウロスの手によって。結局は死ぬのが早いか、遅いかの違いだった。その違いしかなかった。頑張って得られるもの何一つは無いのだろう。だって、なぜなら……人喰い迷宮を彷徨う雄牛の怪物、牛頭人身の化け物、ミノタウロスによって俺の生末は、死という運命はもう決定づけられているのだから。
俺はすべてを悟ったような目でミノタウロスを見詰める。走ってもここから助かる術はないから、ただ黙ってミノタウロスの姿を見る。ミノタウロスは壁に抉りこんだ右角を引き抜くと同時にこちらに向かってゆっくりと振り向いた。最後に残った俺を逃す気はないと伝えるかのように、獲物に恐怖を、絶望を味合わせるかのようにこの化け物はゆっくりと振り向いたのだ。
血に濡れた瞳だ。目が合った。いや、逃げる気力を失い地面に座り込んでいる俺をミノタウロスは見下しているんだ。見下しているから俺と目が合ったのだろう。むしろ視線を合わされたというべきかもしれない。絶望が広がった。心の中を際限なく死の恐怖が広がっていく。
「……ッ……」
もし、絶望してこの場で俺が両目を瞑ったとしてもミノタウスの、興奮状態に陥っているミノタウスの荒い鼻息のせいで獲物をじっくりと見つめていることが丸わかりだろう。
だけど、最後の瞬間の恐怖は、俺の身体がミノタウスによって潰される寸前の光景は見なくてすむはずだ。そう思った俺はこれからの運命をすべて受け入れるかのように……ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
ただ、静かに目を瞑った。
運命を受け入れるために固く、固く、目を瞑っていると……
『……頼んだ、ぞ……』
と、小さな声が聞こえてきた。男の、いや、クックの声だ。家族に友達に対しての遺言を俺に託して死んでしまった男の声のはずだ。
『行け!』『振り返るなよ! 黙って、走れ!』
次に……ヤモリさんと壮年の男、俺の命を助けてくれた二人の声が頭に響いた。チラリと背後に目線を向けると二人の死体がある。動いていないのがここからでも見えた。なら、この声は幻聴だ。グリフォンの巣と同じ現象だ。死という膨大なストレスを前にして本能が、命が、脳が、少しでも助かる可能性を探るために今までの記憶を辿っているのだ、なら、これは走馬灯ってヤツだ。
『そんなに困ってるなら手伝ってあげましょうか?』『知るか!』『どうしても許して欲しいんだったら今度、蕎麦でも奢りなさい!』『後でしっかりとアリアさんに話を聞いておきます』『あんま舐めた態度を取ってると、前歯全部叩き折っちまうぞ?』『……もしジン君が少しでも指を切ってしまうとその刀に血を吸われて最悪の場合、失血死に至る可能性があるので本当に気を付けて下さい』『自慢の兄貴だよ』『オレたちと同じ境遇立たされたイカロスだって最終的には太陽に翼を焼かれたかもしれないが……最後の最後には笑って死んだんだ。少なくともオレはそう思ってる。だってよ、それが人間の幸せな生き方ってヤツだろ?』『……どっちでもいいよ』『……勇敢に進みなさい。そうすればすべては上手く行くでしょう』『……何度でも倒れても立ち上がれるうちは失敗ではない。本当の失敗とは倒れたまま立ち上がれなくなった状態のことだ』『……自分にとって都合がいいことを考えて、前に進むことができるのが”若さ”の本質だってオレは思うぞ。まだ坊主はガキなんだから失敗覚悟で挑戦してみろ! どんな失敗もただの経験だ! 根性で乗り越えてみせろ!』
情報が、記憶が濁流のように流れてきた。情報が溢れてきた。い、痛い。頭が痛い。ありとあらゆるものが、ごちゃごちゃに混ざって……頭の中で色々な感情が、沢山の情報が、ごちゃごちゃに混ざった。その結果、俺は決死の覚悟を決めた。決死の覚悟で立ち上がった。俺は生きなけらばならないんだ。生き残ってここから出ないといけないんだ。ここから出て……クックに、カツキに、アイツらに、託されたものを伝えなけらばならないんだ。俺も誰かに伝えて、託していかないといけないんだ。
固く閉ざしていた瞼を開いた。視野が広がり、醜悪なミノタウロスの姿がはっきりと見えた。俺はキッ、と血に濡れたような眼光を睨み返しながら静かに立ち上がる。怖気づいた心を奮い立たせて静かに立ち上がる。俺はミノタウロスの一挙手一投足から目を逸らさずに……血に濡れた瞳と、ミノタウロスと目を合わせて、睨みつける。
そして、俺はハイレッディンさんに頼まれてずっと背負っていたヒビキの脇差に静かに手を伸ばした。これは呪具だ。アリアさんの話が本当なら……これは指を少し切っただけで人間を失血死させるほどの呪具らしい。これを、この刀身をミノタウロスに突き刺せば、隙が生まれるかもしれない。少しでも隙ができれば……逃げれるかもしれない。いや、絶対に逃げ切ってやる。俺はミノタウロスから逃げ延びて、人喰い迷宮から脱出して、絶対に生きて帰らないといけないんだ。託されたんだ。生きるんだ。生きて、生きてここから帰るんだ。
万感の思いを胸に秘め、俺はそっと柄の部分に触れた。巨岩のような拳を振り上げたミノタウロスに一矢報いてやるために、生き残るために、俺がそっと柄の部分を掴んだ瞬間――ミノタウロスが巨大な拳を俺目掛けて振り下ろしてきた。
巨大な拳を振り下ろしたミノタウロスは柔らかい筋肉が収縮し、強靭な体躯を震わせた。凄まじい圧だ。衝撃だ。人間が虫のように潰されて、呆気なく死ぬ。それほどの威力が込められていることが一目で理解できてしまうほどの威力だった。恐ろしい、ゾッとする、だけど、生きるために目を逸らすわけにはいかない。まずはこの拳を避けて、刀を突き刺すんだ。
そこまでイメージを終えた俺は……付け焼き刃の武器が通用しないことを本能が先に理解してしまった。俺にはこの窮地を切り抜ける力はないのだと脳が先に結論を出してしまった。想像とは速度が違う。ミノタウロスが振り下ろした拳の速度が違う。人間の身体が反応できる速度ではなかった。転がっても間に合わない。もう間に合わない。俺はこのまま潰される。生きないと、生きないといけないのに、ここで死ぬ。死ぬかもしれない。
…………いや、死なない。それでも俺は、死ぬわけにはいかない。まず、ここでこの刀を突き刺す。無警戒に振り下ろしてきたあの大きな手に、太い腕に、この刀を突き刺す。ここでミノタウロスを確実に仕留めるんだ。できなくても俺はしなければいけないんだ。そうじゃなければ死んでしまう。
俺はヒビキの脇差しの鯉口を切った。ミノタウロスの力を逆に利用してヒビキの脇差しを突き刺すために脇差しの、”血染め”の鯉口を切った。ミノタウロスの巨岩のような拳が俺の眼前に迫るのが見える。一秒が長く感じる。とても、とても長く感じる。無限と感じるほどゆっくりな一秒間を噛み締める。スローになった時間の中でだんだんとミノタウロスの拳が俺の頭部に迫って、迫って、迫って……今だ、と赤みがかった刀身を俺が鞘から一気に引き抜こうと力を入れたその瞬間――
「それは少し無茶が過ぎるんじゃないですか?」
カランコロンと下駄を鳴らし、目にも止まらぬ速さで人影が近づいてきた。ヒビキだ。マイペースで呑気なヒビキの声がした。
子気味いい音を迷宮内に反響させながらミノタウロスと俺の間に割って入ったかと思ったら、そのまま真っ黒な学生服の襟を掴まれて、首根っこを片手で無遠慮に掴まれて、引き摺れるみたいに移動した。ミノタウロスとの距離が遠ざかる。
彼が一足、二足、三足と軽快に下駄を鳴らすごとにミノタウロスと俺の距離が遠ざかった。木と木を打ち鳴らすような音が聞こえるたびにスゴイ勢いで距離が遠ざかった。馬よりも、風よりも、影よりも、この世にいる何者にも負けないヒビキの凄まじい疾走の影響で周囲の光景が、迷宮内の風景が、彼の速度に合わせて無理やり引き延ばされているかのようだった。疾風迅雷。まさにヒビキの疾走は音も、光も、この世のすべてを置き去りにするかのように速かった。
「ジン君、舌を噛まないように気を付けて下さいよ」
とても、とても遅い忠告を受けたがも文句の一つも言えない。なぜなら、舌を噛まないようにしっかりと歯を食いしばって耐えているからだ。それに助けられておいて文句を口にするほど無粋な男ではない。
いや、やっぱり後でちょっとだけ文句を言うかもしれない。背中が地面に擦れて、何度も、何度も、バウンドしている。縦横無尽に人喰い迷宮の中を跳び回っているヒビキに俺の身体は振り回されている。
だけど、ヒビキのおかげで助かった。もしヒビキが駆け付けてくれなかったら俺は今頃、命を落としていただろう。それは事実だ。ヒビキの疾走の影響で、風のせいで目が乾く、目が霞む。我慢できずに俺が一度だけ、まばたきをしたその刹那の間に……醜悪な牛の怪物の姿が、ミノタウロスの姿が見えなくなってしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ここまで来れば、もう大丈夫そうですね」
どこか間の抜けた声でヒビキがそう口にすると、ギュッと掴んでいた俺の制服の襟の部分から手を離した。壁を、床を、天井を俺の身体を掴んだまま走り回り、跳び回り、階段を落ちるように下りてを繰り返して、繰り返して、ようやく解放された。俺は餌を求めて水面から顔を出す鯉のように天井を見上げて腰を下ろした。
窮地から、ミノタウロスの大きな手からヒビキは助けてくれた。助けてくれたけど……ずっと首が絞まって苦しかったんだ。殺されるかと思った。それがやっと解放されて呼吸が、息が、ようやく自由にできるようになった。だから、俺は呼吸を整えながら、酸欠で真っ赤に染まった頭に酸素を送るように意識して深く、さらに深く、息を吸う。呼吸を整える。そして、ひとしきり呼吸を落ち着かせてから……ヒビキに向かって言葉を返した。
「はぁ、はぁ、色々と言いたいことがあるけど……まずは、助けてくれてありがとう。ヒビキがいなかったらヤバかったよ」
「はい、それはどういたしまして」
「…………」
ヒビキの貼り付けたような笑みを見ていると毒気が抜けた。まあ、首を絞められて死にかけてはいたが……ミノタウロスに殺されなかっただけよしとしよう。そんなことを考えながら、ヒビキの手を借りて立ち上がった。
「あ、これ返しておくよ。ハイレッディンさんから頼まれて俺が持っていたんだ」
「おー、これは、これは、ご丁寧にどうも」
立ち上がると背中の”重み”が気になった。呪具だ。俺がついさっきミノタウロスに突き刺そうとしたヒビキの脇差しが、”血染め”が、本当の主を前にして浮足立っているかのようだった。だから、魔法で作り出した縄で固定していた脇差しを、背負っていた呪具をヒビキに返した。これでハイレッディンさんから頼まれていたことを一つ果たした。請け負っていた仕事をやり遂げた気分だった。まあ、ミノタウロスに殺された彼らを思うと気分が晴れることはないけど……
「いやー、あの光に飲まれる直前。第二陣へ危険を伝えるために”血染め”をわざと投げ捨てておいたのですが……無駄に終わってしまったようですね。ジン君がこの場にいるということは。……うん、やはりこちらの方がしっくりきます。侍は二本差しが当たり前ですからね」
「……そうかよ。まあ、少しでも役に立てたのならどっちでもいいけど……」
「はい、ボクのもとまでこの”血染め”を届けることができた時点でジン君はとても役に立っていますよ。これで百人力、いや、千人力だと思ってください」
「いや、ヒビキはもう一本持っているじゃん。本当に可哀想なのはあの光に驚いて自分の武器をすべて手放してしまった他の人たちだ。……頼れるモノがない中であの光に巻き込まれるなんて、あんな化け物がいる迷宮の中にワープさせられるなんて、俺は考えたくもないよ……」
能面のように貼り付けた笑みを崩さないままヒビキは語る。黒之助さんに打ってもらった鉈のような刀に手を当てて、安心してしまった俺を、俺のその様子をジッと見ながらヒビキは語り続ける。
「ボクが言うのはなんですがジン君もだいぶ馴染んできましたね。いや、染まったと言った方がいいんでしょうか? ……腰に携えた武器に、”黒爪”に安心感を抱いてしまったのはとても良い傾向ですね。朱に交われば赤くなる。これでボクたちの仲間入り、その第一歩ですね。このままだとジン君は生涯、武器を手放せなくなることでしょう。散歩の時も、買い物の時も、食事の時も、夜中トイレに行く時すらもその剣がなければ落ち着かなくなるはずです。そうなれば一人前です。それは、喜ばしいことですね?」
「……あんまり怖いこといわないでくれよ。もしかして揶揄ってんのか?」
「はい、揶揄っています」
「おい!」
クスっと遠慮がちに声を洩らして歩を進める。カン、カン、と子気味いい音を鳴らしながら薄暗い迷宮内部を進んで行く。ヒビキには明確な目的地があるみたいだ。少なくとも俺はそう思った。右へ、左へ、そして真っ直ぐ、躊躇いなく迷宮内を闊歩している。というか落ち着かないってなんだよ。嫌だよ。それってただの依存症の症例じゃないのか?
「もしかして怒らせてしまいましたか? それならば謝ります。ですが、ボクにとって嬉しい事柄というのは事実です。ボクは君に剣を教えている立場、世間一般では師匠ってヤツですからね。教え子の成長が嬉しいのは当然でしょう。本来、ボクは弟子を取らない主義なのですが……時間が許すのなら、今すぐにでもお祝いしたい気分です。もしよければ今度、ケーキでも用意しましょうか? それとも赤飯を炊きますか? ジン君はどちらがいいですか?」
「……生クリームは苦手だから赤飯がいいな。……いや、そうじゃなくて! ふざけてないでそろそろどこに向かっているのか教えてくれないか? 足取りに迷いがないってことはヒビキには目的地があるってことだろ? もしかして――」
「迷宮の外は目指していませんよ。行けませんというべきか、行く気がありませんというべきかは一考の余地がありますけど。まあ、ですが……目的地があるという考察はお見事です。正解です。ご明察の通りですよ、ジン君」
「……いや、待て。俺にはわけがわからないんだけど。ヒビキのその言い分だとまるで、お前はこの人喰い迷宮から出る気がないって言ってるもんじゃないのか? いつものような冗談って感じはしないし……もしかして本気で、ヒビキはここから出る気がないのか?」
ヒビキの発した言葉を意味を咀嚼して、彼のうっとりとした表情を見て、どこか確信めいた質問を投げ掛けた。迷宮内を歩いている彼が様子が、態度が、いつも柳ノ大路で刀匠たちの力作を眺めているみたいだったのだ。迷宮全体を見渡しながら恍惚とした表情を浮かべている。
「……はい、そうですね。贅沢を言えばずっとここにいたいです」
俺の脳が理解を拒むようなセリフを口にした。恥ずかしそうに赤面しながらそんなセリフを口にした。まるでクラスメイトに好きな人がバレてしまったかのような表情だ。恍惚とした、気持ち悪いぐらい恍惚とした表情だった。彼が持つ女性と間違ってしまうほどの美人顔を、暴力的なまでに整っている彼の顔を、素材をすべて台無しにするほどうっとりとしている。彼の感情が、情緒がわからない。
「ジン君も”魔法使い”なら感じませんか? ほら、まるで巨人の腹の中にいるみたいじゃないですか? 心臓から押し出された血液が管を伝って全身にくまなく巡っているかのように、人喰い迷宮には膨大な魔力が流れています。地中から魔素を吸い上げているのが丸わかりです。そのおかげで、ボクはぼんやりとですが、目を閉じるとこの迷宮の構造が分かるんです。……個人的にドワーフのことは好きではありませんが……これは、この魔剣は見事というほかありません。感服です。できれば傷つけたくない。海賊が、友が、何人死んだとしてもミノタウロスがこの迷宮の一部だというのなら殺したくない。できれば一生ここに居たい。このボクが一瞬でも野望を忘れてここに居たいと思うほど美しい。魅了されている。惹き付けられて、心を奪われています。それほどまでにこの魔剣は美しくて、美しくて……悪趣味です。……まあ、もちろんお腹が減る前にはここから出るつもりですよ。こんなボクにも背負っているものがありますからね。……それに戦いの中で死ぬならまだしも、餓死で死ぬのは美学に反します。戦いの中で死線を越えなければ、死の淵に立たなければ、立ち続けなければ神になれない。ボクはそう信じています」
「……すまないが、俺にはヒビキのその価値観がまだよく理解できない。人が、仲間が、自分が死んでまでこの迷宮を、古代ドワーフの遺跡を残したいなんて思えない。むしろ、ミノタウロスごとこの迷宮を壊してしまいたいぐらいだ」
ウルージさんの言葉を受けて仲間が、リーネたちも死ぬんだって初めて意識した。そして、クックと、ヤモリさんと助けてくれた男が……目の前でミノタウロスに殺された。無残にも殺された。だからこそ、俺はカツキの言い分が理解できない。ああ、確かに壮観だよ。俺たちが今、二人で歩いている、ここも殺風景に見えて、細かな装飾が隅々まで行き届いている。
巨大な両刃斧、石柱、どれか一つとっても古代ドワーフたちの遊び心が感じられる。俺だって人喰い迷宮の中を見て「スゴイ」と口にしたよ。だけど、俺はもうこの悪趣味な迷宮に価値を見出すことができなくなった。
「理解かってもらわなくても構いません。ボクはいずれ神になる。なるつもりです。数々の神話に、歴史に名を刻みます。武の道の先頭を歩み、偉業の果てに神になる。その一歩になればヒュドラでも、ミノタウロスでも、容赦なく首を刎ねますが……それでいいのか最近はちょっとだけ思案中です。英雄たちの二番煎じでボクは本当に神になれるのかと……」
「……『狂人の真似とて大路を走れば即ち狂人なり』か……」
「ん、徒然草ですか? 突然ですね?」
人喰い迷宮をじっとりと湿度のある瞳で眺めながら、自らの性癖を曝け出すように理解できないことを語るヒビキの姿はただの狂人だった。絵に描いたような狂人だった。見た目がいい変態と呼ぶのが正しいのかもしれない。だからというわけではないが、彼の姿を見てカツキと最後にした会話を思い出してしまった。
「……まあ、ボクの本懐を語り聞かすのはこれまでにしましょうか。さてと……そろそろいいでしょう。ジン君。逃げるのはそれまでにしたらどうですか?」
「逃げるって、俺は別に逃げて――」
「君は嫌なことや指摘されたくないことがあるとまず目を逸らし、話を逸らす。目で、耳で、口で、新しい情報をかき集めることで余計なことを考えないようにしている。それはまるで親に怒られた子が目を、耳を塞いで必死に抵抗しようとしているみたいで見るに堪えません。その行為を世間では逃げるというんですよ。……ボクとジン君はもうかなりの付き合いです。これだけの間、寝食を共にしていれば嫌でも君の癖を見抜けるようになりますよ。……もう一度聞きます。ジン君が本当に聞きたいことは他にあるんじゃないですか?」
突然ヒビキから厳しい指摘を受けて、言葉を詰まらせてしまった。少なからず自覚があったので余計に胸を、俺の心の装甲をヒビキの言葉の刃が貫いてきた。嫌なことからすぐに逃げるか……リーネたちと出会い、色々な経験を積み、ちょっとはマシになった思っていたんだけどな。俺の悪癖はまだ治っていないみたいだ。
「……」
ヒビキに『逃げている』と言われて困ったことに思い当たる節がある。一つだけ思い当たる節があるのだ。ヒビキに助けられてからずっと、今も心に抱えているこのモヤモヤの正体に身に覚えがある。真っ正面から『逃避している』と言われて怒りや戸惑いよりも先に、ヒビキに聞きたいことが頭に浮かんだ。だから、恐る恐る……質問してみることにした。黙っていてもヒビキの真っ黒な瞳が『さっさと話せ』と無遠慮に背中を押してくるので問いかけてみることにした。
「さっき、俺たちの前にミノタウロスがいきなり落ちてきて……それで…………ひ、ヒビキは…………カツキと……トール君の死体を見たか?」
俺は唯一の気掛かりを勇気を出して聞いてみた。突然、落下してきたミノタウロスとエンカウントした俺たちが走って逃げている最中に二人の姿を見失ってしまった。真横にいたはずなのに途中で見えなくなってしまった。あの二人以外は全滅したことはもう知っている。彼らが死ぬ瞬間はこの目で見た。だけど、二人の行方だけは知らない。二人の死体を見たくなかったからだ。だけど、ヒビキに助けられてから、安全が保障されてから……ふとあの二人はどうなったんだろうと気になった。情けない話だが俺は二人の死から目を逸らした。でも、もしかしたら生きているかもしれないという卑しい気持ちが、可能性が、俺の後ろ髪を引いてくる。
というか本当は聞く気がなかったんだ。自分は二人の死から目を背けたくせに、ヒビキに「二人の死体を見たか?」と確認するのは、安否を聞くのは、あまりにも卑怯な行為だと思ったからだ。卑怯で、卑劣で、最低な行為だと思ったのだ。
だけど……俺が怖くて、臆して、ずっと聞けなかったことをヒビキはあっけらかんとした態度で答えた。
「いえ、ボクは見ていませんね。ミノタウロスに殺されたと思われる死体はジン君を助ける際、すべて目視で確認しましたが……二人の遺体はなかったはずです。だから、死んでいないんじゃないですか?」
「ほ、本当か!」
「こんな状況で嘘を吐くほど人として落ちぶれてはいませんよ。……カツキにトールですか……まあ、大方の予想はできますね。恐らくですが二人はトールの魔法で助かったんでしょう。ミノタウロスがボクの接近に気付かなかったということは索敵能力は高くないのでしょう。ええ、そのはずです。だから、魔法で透明になってやり過ごしたと考えるのが妥当です。ボクが遺体を見落とすなんてあり得ませんからね……彼らは死んでいませんよ。安心してください」
「……ヒビキの言うことなら信じるよ。それにしても……魔法、魔法か。そう言えばトール君も魔法を使えるって言ってたな。それでか……」
「あれ、ジン君は彼の魔法をご存じではなかったんですか? まあ、彼はとても秘密主義ですからね。聞かれても自分からは言わないんでしょう。ボクも半ば無理やり聞き出したみたいなものですし。……なら、彼に変わってボクが教えましょう。彼の魔法は簡単に言えば透明になることです。現代風に言えば光学迷彩ってヤツですかね? 自身の服や手に持っている道具ごと透明になれるのでかなり便利です。ああ、でも、カツキも透明にできるということは人間もトールの魔法の影響を受けるということですね。なら、ジン君のことを助けなかったのは何故でしょうか? いや、この場合は助けなかったと見るべきか、助けることができなかったと見るべきかは議論の余地がありますね……まあ、どちらにせよ好感度が足りなかったのでしょう。この魔法の欠点としては気配や音、臭いが消せるわけではないので無いよりマシぐらいじゃないと命を落としてしまいます。慢心していると足元をすくわれることでしょう。もしボクが彼の魔法を――」
「あ、いや、もういい。二人が無事だって知れただけでいい。十分だ」
途中で話を遮らないと長くなる気配を感じ取ってすぐに中断させた。ヤバいというか、俺はもうそれどころじゃなかった。死んでいった皆には本当に、本当に悪いと思っているが、俺はカツキとトール君が無事だと知れただけで胸と頭がいっぱいだ。これ以上、ヒビキの戯言が頭に入る余地がない。集中できていない。
もし今、俺がヒビキを止めなかったら『もしボクが魔法を持っていたら……』という内容の妄想を永遠と語り聞かされることだろう。というか俺はそれをリーネの屋敷にある道場で散々聞かされた。『もしボクがジン君の魔法を持っていたらですね……』と剣術などを教えてもらう代償に散々聞かされたのだ。
ああ、でも……良かった。本当に良かった。それに加えて二つ謎が解けた。ロバーツさんの船の上で初めてトール君と会った時だ。人混みに紛れた彼の姿を見失ったことがあったし、今回だってトール君とカツキの姿が、気配が急になくなって不思議だったんだ。そうかトール君は魔法で透明になれるんだ。透明になれるんだったら辻褄が合うことだらけでだんだんと心が緩み、安心してきた。
「そうですか? まあ、話の続きは道すがら、すべて道中で終わらせるつもりだったんすが……先に目的地に着きましたね。ほら、あそこです」
カランコロンと下駄を鳴らし、石畳の上を踊るように歩いていたヒビキが真正面を指さした。俺は訝しむように首を傾げて、コツ、コツとヒビキに負けないように靴音を響かせながら歩いていると……広い空間に出た。がらんとして何もない空間だ。教会や礼拝堂のような静謐な雰囲気がある。いや、石畳の絨毯の奥にはグリフォンの置物と人型の石像が置いてある。そして、その石像を拝めるかのように迷宮の床と同じ材質でできた椅子のようなものが列を成して並ばせてあった。
バカみたいに広いこの空間は楕円形で……三方向に道が続いている。いや、この場所にすべての道が続いていると言われた方が納得感がある。視線が石像がある奥へ自然と導かれると言えばいいのだろうか。不思議な場所だ。間違いなく人喰い迷宮の中で最も興味深く、歪な場所だった。この空間だけが迷宮内で唯一、雰囲気が異なっているのだ。
そんなことを考えていると冷たい風を首元に感じた。迷宮内で風を感じるという違和感に気付いた俺はゆっくりと天井を見上げてみた。見上げて、見上げて、見上げていくと……壮大な天井画があった。宗教画だ。天井を絵画が一ミリの隙間もなく装飾されている。アストゥロで見たあの不気味な壁画にタッチというか、特徴が似ている気がするがそもそもの密度が違う。目だけでは見えないぐらい筆が細い。
というか魔剣を作れる古代ドワーフたちはもういないはずだ。ミノタウロスがいる迷宮内では定期的に補修すらできていないはずだ。なので最低でも何百年は放置されているはずなのに……天井画は風化する気配を感じさせないのは古代ドワーフの奇跡の御業だと思う。それに……夜空が見える。美しい星空だ。
青から藍色に変わって行く夜空がここからでもはっきりと見えている。ジッと見続けていると意識が夜空に吸い込まれてしまいそうになる。そう錯覚した。いや、夜空が見えているということは……あそこは外と繋がっているということだ。入口と同じようにあそこから外に出られるということだ。もしかしたらこの人喰い迷宮から脱出することが可能かもしれない。人間が自由に空を飛べないといけないという一点にだけ目を瞑ることができれば完璧な作戦だった。もしできるなら今すぐにでも実行に移していたことだろう。
……まあ、たぶん腕時計の短い針が十二時を指す頃にはあそこから、あの天窓のような穴から、太陽か月が顔を覗かせる仕組みになっているんだろう。日時計みたいなものだ。ワープ現象のせいで人喰い迷宮から外に出ることができなくなった俺たちにとって何の価値もない代物だったが、もし俺の想像通り、あの天窓に日時計の役割があるとすれば綺麗な設計だとは思う。
「……ここは?」
黙ってゆっくりと全体を見渡してから疑問を吐き出せた。確かにこの場所は異質だった。とても異彩を放っている。ヒビキがこの空間を気に入るのもなんとなく理解できるけど……わざわざ俺を連れてきた理由がわからなかった。
「祭壇ですよ。ボクがそう呼んでいます」
「祭壇か、言い得て妙だな。……いや、違うぞ。俺は何でここに連れてきたのかって聞いてるんだよ! 目的地とか言ってたよな?」
「あー、なるほど。そういう意味でしたか。ジン君の聞き方はたまに回りくどいので分かりずらいですよね。そして、とても鈍いです……この祭壇を皆の合流地点としましょう。ボクもミノタウロスから救出した人たちを一カ所にまとめていた方が守るのが楽じゃないですか? そして、ジン君が記念すべき最初の一人です。ボクが迷子たちをここまで案内しますのでジン君が事情を説明するんです。完璧な役割分担ですね。……あ、ジン君が遭遇したミノタウロスは三階にいるはずですから距離は十分にあるはずですので安心してください」
規則的に並べられた石畳の絨毯が天窓から降り注ぐ月の光を反射している。天窓から覗く月の明りに導かれるみたいにヒビキは歩を進める。祭壇のさらに奥へと無遠慮に歩を進めた。まるで神を冒涜をしているかのような挑発的なその行為をヒビキは迷いなく行っている。一方の俺はまるで家臣のようにヒビキの背中を追っていた。びくびくと足を震わせながら話を続けた。
「……もしかしてヒビキはこの祭壇が迷宮のどの位置にあるのか分かっているのか? ワープ先はランダムだってカツキに聞いたし、似たような光景ばかりで自分がどこにいるのかなんて考えるだけ無駄だと思っていたんだけど……あ、目を瞑ったら分かるっているのはナシで頼む」
「ハハ、大丈夫ですよ。目を瞑って分かるのは人喰い迷宮を巡っている魔力の流れだけですよ。……まあ、それでも迷宮の壁を流れている魔力の強弱でだいたいの位置は判断できますけどね。ですが、今回はもっと簡単な話です。この祭壇は一階にあるんですよ。ほら、ボクたちが来た道を真っ直ぐ戻れば人喰い迷宮の唯一の出入り口があるはずです。確認してみますか?」
「……無理に決まってるだろ。迷宮の外に出ることがワープ現象を引き起こすトリガーになってるのだとすれば、不用意に俺たちが近づいただけであの光に飲み込まれてワープしてしまう。……また一から振り出しに戻るってことだぞ?」
「……まあ、それもそうですね。ほー、ジン君。これを見て下さいよ。立派な石像ですよ。ボクたちが求めたお宝ってヤツです。もしこの石像を無傷のまま頂戴することができればドワーフどもに高値で売りつけることができるでしょうね。ふっかけれます」
「いや、そんなこと言ってる場合じゃ――うぉ!」
等身大サイズの石像をじっとり眺めているヒビキを見ながら、呆れるように迷宮の壁と同じ材質で作られた椅子に、近くにあった椅子に身体を休めるように寄り掛かると死体が……人骨があった。
「何で、え、いや、まず誰の骨だ? まさか子供?」
既に死体が白骨化していることから……ここで死んだのは俺たちの仲間では、海賊ではないだろう。それに……この骸骨は目を見張るほど小さい。子供なんじゃないかと疑うほどだ。身長は百五十センチにも満たない。かなり小柄だった。そもそもこれは俺たちと同じ人間の骨なのか?
骸骨は腕や脚が異常なまでに短い。橈骨や尺骨、上腕骨など人間の身体の中でも特に長い部位の骨が物理的に短いのだ。そのくせ無駄に分厚く、太い。
この骨は人間の構造ではない。人間に似た生物の骨が、骸骨が、まるで祈るかのように両手を組み合わせて椅子の上で息絶えている。天窓から差し込む月光に照らされながら殉教者と呼ぶに相応しいポーズのまま骸骨は、生前の彼、彼女はここで息絶えたようだ。
「……これはたぶん古代ドワーフの遺体ですね。ああ、失礼。遺骨と呼んだ方がいいですね。さしずめこの場所は古代ドワーフたちの祭壇であると同時に骨壺だったってことです。恐らくこの古代ドワーフは人喰い迷宮を造り上げた者の一人だったってことでしょう。大工です。最後に彼が何を思って死んだのかは個人的にも興味がありますが……それよりも彼が残した芸術作品の方が心をくすぐりますね。ほら、見てください。ボクの予想通り隠し扉がありました。一体こんな所に何を隠しているんでしょうか? もしドワーフたちの失われた技術、魔剣だったら思わぬ収穫です。ボクがありがたく使ってあげま――ジン君? どうしたんですか? さっきから黙り込んで……相槌を打ってくれないと調子が崩れるんですが?」
あっけらかんとしているヒビキをよそに、俺は初めて自分からその場に膝を折った。崩れ落ちるように膝を折った。いや、この行動には俺の意識は関係ない。ただ単純に俺の両足が自身の体重を支えることができなくなったからだ。力が抜けた。この骸骨を、古代ドワーフの遺骨を前にした俺は自分の体重を支えられなくらるほどの強烈な無力感に襲われたのだ。心の中の何かが削ぎ落されてしまった。だから、古代ドワーフの骸骨の足元でがっくりと項垂れる結果になってしまったのだ。そうでもしないと俺の心がこの衝撃を受け止めることができなかったから……
「……古代ドワーフがここで死んだ? クソほど悪趣味な人喰い迷宮を造り上げた張本人がこんなところで死んだだって? ということは……ということは、俺たちって本当にここから出られないってことじゃないのか?」
「まあ、そうでしょうね。今更な話になりますが……頭がイカレている風評がある古代ドワーフであっても迷宮から自由に出入りできるならこんなところで死ぬことはなかったでしょうしね。しかも外傷が一切ないことからミノタウロスと一戦交えた様子もない。……ということは、この古代ドワーフは死ぬまでここで、自らの神に祈りを捧げていたんでしょうね。狂うことなく、餓えて、弱り、その屈強な肉体から魂が抜け落ちるのをただただ一人で、孤独に待っていたのでしょう」
「……そうか……」
正直、古代ドワーフが人喰い迷宮を造り上げた知っていたので、迷宮内をくまなく探索すれば脱出方法はあると思っていた。だって、こんな傍迷惑なモノを造った本人が満ち足りたように祈る仕草のまま死んだなんて考えていなかった。内装までしっかりと趣向を凝らしているくせに自分自身はこんなところで無残にも野垂れ死んでいるなんて考えつきもしなかった。いや、こいつは……この古代ドワーフは無残な死を迎えたなんて微塵も思っていないんだろうな。
状況を楽観視していた。甘かった。そして何よりも……最悪だった。ミノタウロスを倒したとしても俺たちは死ぬまでここから出られないなんて思いもしなかったんだ。迷宮に幽閉されたのだ、と事実を眼前に突き付けられた俺は……俺の心の中にあった小さな希望を絶望が覆い隠してしまった。




