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第七十三話 『遺言』


「な、なにがおこったんだ? ……皆はどこだ?」


 決して誰かからの返答を期待していたわけではない。返事が返ってくるわけがないとは頭で理解できていたが、それでも芽生えた疑問を口に出さずにはいられなかった。正直、ちょっとだけ動揺していたのは事実。だが、それ以上に心が挫けてしまいそうだったのだ。周囲に誰かいるのかも希望を捨てたくなかったのだ。


 まあ、結果はご覧の通りだ。案の定ってヤツだ。いくら待っても誰からも返事は返ってこなかった。これで俺が抱いた微かな希望さえも打ちひしがれたわけだ。俺の近くには誰もいないという現実を突き付けられただけだった。受け入れたくない現実をそんなありありと見せつけて来るなよ。泣くぞ?


 だけど、十七歳、青年の泣き落としなど誰も求めてはいないみたいだ。


 少なくとも人喰い迷宮に足を踏み入れた彼ら、彼女らの中にはそんなねじり曲がった性癖を持っている人間はいなくて安心した。もし泣き落とし作戦が通用してしまったら、もしそれが同じ船に乗っている見覚えのあるヤツらだったらと思うと目も当てれない。……嘘だよ。安心なんてできるかよ。こんな状況でさ。アリアさんでも、ハイレッディンさんでも、この際だから贅沢は言わない。変質者でもいい。誰でもいいから出て来てくれ。顔を見せて安心させてくれ。


「…………」


 まあ、そんなことを願っても目の前の現実は変わらないからな。これが夢だったら今すぐ飛び起きて裸踊りでも、何でもやってみせるのに。ああ、受け入れてやるよ。受け入れてみせるよ。と、未知への恐怖が一周して沸々とした怒りに変り始めて頃、ようやく冷静さを取り戻せてきた。深呼吸だってできる。


 よし。一つ、一つ、状況を整理していこう。だけど、まずは周囲が薄暗いので持っていたランプに火をつけてからだ。俺はポーチの中に入れていたマッチを取り出して、擦り、火をつけるとそのままランプに火を移した。決して明るいとは言えないが、いくらかマシになっただけ良いとしよう。


 最低限の明るさを確保してくれる魔光石があっても自分の足元が見えない状態だったからランプ係でよかったと本心から思う。というかもう光源の意味を成していないだろ。そんな文句を心中で吐き出しながら俺は何か少しでも情報を手に入れようと壁に近づき、歩を進める。


「……勇敢に進みなさい。そうすればすべて上手く行くでしょうだったよな?」


 ゴツゴツとした感触の壁を頼りに、及び腰なっている身体を動かしてどうにか前に進むことに成功した。周囲には入口と同様に石柱が等間隔で並んでいる。装飾代わりに置かれている巨大な両手斧に、その刃部分にランプの光が反射して自分の顔が歪んで見える。自分でも意識していなかったが鏡を見たら本気で泣きそうになっているのかもしれない。それほど酷い顔だった。


 コツコツ、と罠がないか確かめるように慎重に歩を進める。俺が今、頑張って足を動かしているのは怖がっている場合じゃないからだ。悲鳴を上げて、情けなく、助けを求めたいがこの迷宮には巨大な影の怪物がいる可能性があるのだ。だから、声を押し殺して進むしかない。そう決意して変わり映えのしない道をランプで照らしながら、前進する。出口を目指してただ勇敢に前進し続ける。


 というか俺は今、迷宮の何処にいるんだ?


 シュティレ大森林の時も思っていたが、同じような景色だと不安になるんだよ。少なくとも入口よりも暗くなっていることから、入り口からは遠いところにいるかもしれないってことぐらいだな。今わかることは何一つない。入口と同じ造りだということしか情報が読み取れなかった。だから、俺にできることと言ったらもしもの可能性を提示するしかない。


 いや、待てよ。あの光について考えることはできるはずだな。考えるべきことは古代ドワーフがどういう理屈や、技術を用いてあの光を発生させたかではない。考えるべきことはどうすればこの迷宮から脱出することができるかだ。そこがポイントなはずだ。


 さっきまでは冷静さを欠いて、悲観的に、そして悪い方向ばかりに想像力を働かせていた。だけど、冷静に落ち着いて考えればこの迷宮から出る方法があるはずだ。だって、この人喰い迷宮を造り上げた古代ドワーフの職人がいるんだ。本当にここから出る方法がなかったら、その本人が閉じ込められてしまうじゃないか。


 弟子に技術を継承させるために造り上げたにしろ、巨大な化け物を閉じ込めるためにしろ、本人がこの迷宮に閉じ込められるような設計にするはずがない。あの光を回避したまま外へ出ることができるはずだ。考えろ、考えろ、まずは考えろ。あの光は俺たちがまばたきするよりも遥かに速く、あの場にいる全員を飲み込んでしまったのだ。あの光が見えたら回避する方法はないと断言してもいい。


 それにこの現象だ。光に飲み込まれたら一瞬の内に迷宮内の知らない場所まで飛ばされてしまうこの現象を一言で説明するとしたら――


「……全員、ワープしたってことか? あの一瞬で?」


 あの現象を一言で説明するとしたらワープとしか表現できないだろう。それほどまでに一瞬で、理不尽で、不条理な現象に俺たちは出くわしているのだ。ワープする先はランダムなのか、規則性があるのかも不明だが取り敢えずは出口を探せばいい。いるかどうかも分からない巨大な化け物のことは一先ず忘れてしまった方が良さそうだ。そんなことを考えながら迷宮の出口を探すために前に進んでいると右手に何かが付着した。左手でランプを持って、右手は壁を伝っているのだから何かが付着するとしたら右手しかありえないことなのだが……まあ、いい。とにかく俺の右手に液体のようなモノが付着したのだけは理解できた。


 少しでも、いや、何でもいいから情報が欲しいという一心で右手にランプを近づけてみると――真っ赤に染まっていた。


「……ぇ……うわ!」


 右手に付着した赤い液体、俺はその正体に見覚えがあった。血だ。俺が現世で轢殺された時に見た自分の血を、傷ついた俺の身体から夥しいほど溢れ出た真っ赤な血液を思い出した。だが、俺が驚いたのは死ぬ寸前の記憶がフラッシュバックしたからというわけじゃない。


 もちろんそれもあるにはあるが……壁に付着していた血液は足跡のように中央へと続いていた。動物の足跡のように続くその血痕がなんでこんなところにあるのかと疑問を持ってしまった俺は、顔を動かしてこの血液の発生源を探ってみると死体があった。死体があったのだ。肉片がここら一帯に飛び散って、壁に張り付いてしまった死体だ。そう、俺は視界に入れるのも嫌になるほどぐちゃぐちゃな肉塊を見てしまったから驚いてしまったのだ。


 人間の原型ではなくなってしまっている。もう彼か彼女かすらも分からないこの死体は、人間だったはずのこの死体は、たぶん……上から圧し潰されたのだろう。見るも無残な姿へと変わった死体は蚊が潰されたかのような有様だった。


「……ッ!」


 込み上げてくる胃液を力尽くで押し返すみたいに両手で口を塞いだ。ランプを落としたことも、血が顔に付いたことも気にしてはいられなかった。グロテスクな目の前の光景に耐えるように、否定するように、口を塞いだ。酸っぱいような口にいっぱいに広がる。胃酸だ。グッ、と歯を食いしばって胃の中にある固形物が逆流しないように我慢した。


 俺が死体を見た衝撃をなんとか我慢できたかと思ったら、次にツンとした刺激臭を嗅ぎ取った。いや、これは……嗅ぎ取ってしまったと言った方が正しい。吐き気が込み上げてきそうなほど強烈な生臭さに襲われた。鉄臭い。これは血だ。死体の血の臭いだ。赤く花開いている血潮が、その臭いが俺の鼻の奥にまでこびりついてしまった。嗅がないように咄嗟に鼻を押さえてみたが遅かったみたいだ。血の臭いが記憶に刻まれてしまった。離れてくれない。


 俺は恐怖に震えて命令を聞いてくれない自分自身の両足を叩いた。これからのことを考えるよりも先に悲鳴を上げた心と、ここにいたらヤバいというあやふやな危険を察知した本能が今すぐにでもこの場を離れようと、来た道を引き返してしまおうと必死に身体を動かそうとした。だが、腰が抜けてしまったか両足に力が入らない。生まれたての小鹿が立ち上がるかのように両足が震えて動けなくなったが、それでもなんとか壁に全体重を預けて立ち上がり、転んででも、這ってでも、この場から逃げてようとした瞬間――


「…ぃ…ヴッ………だ、誰か……いる、のか? そこに、誰か……」


 低い呻き声が聞こえてきた。いや、呻き声じゃない。それは近くにいる人間の気配を呼び止めるという意思を持った声だった。再び、死体がある方向と顔を向けると……振り返ると、蚊のように、またはトマトのように潰された無残な死体の他にも、二人ほど人間の原型を残した死体が転がっていた。最初に目撃した死体のインパクトが強すぎて気が付かなかったみたいだ。この迷宮の道幅が無駄に広いせいで見落としていたみたいだが、俺のちょうど反対側に、逆側の石柱の近くに二つほど死体が転がっていた。潰れてしまった死体と合わせると三人がここで死んでいたみたいだ。


 いや、違うな。違ったんだ。俺が死体だと思い込んだ三人のうちの一人にまだ息があったのだ。死にかけているが死んでいるわけじゃない。まだ息があるってことは、助けることができるかもしれないってことだ。


 彼の悲痛な声を聞いたその刹那、俺は足を止めていた。俺よりも遥かに立派な体格の持ち主が命を落としかけている状況で、一人ぼっちなのは怖い。今すぐに走り去ってしまった方がいいんじゃないかと躊躇ってしまった自分がいる。誰も見ていないんだからこのまま走り去ってしまえばいいという自分本位な誘惑を耳元で悪魔が囁いてくる。だが、それらすべてを断ち切るように、また、俺は逃げた自分を恥じるように、声がした方向へと駆け寄った。


 死体を見るのは怖い。いざ。本当に人が目の前で死ぬかもしれない状態に置かれるのは恐ろしい。覚悟を決めて人喰い迷宮に足を踏み入れたが怖いものは怖いんだ。当たり前だろ。だけど、本心から彼のことを助けたいとも思っている。そのために志願してここまで来たんだからな。でも、それに加えて、これ以上自分自身に失望したくなかったというのも大きな理由だった。嫌いになりたくない。だけど、助けたい。


 俺はそんな支離滅裂な心持のまま潰れてしまった死体を避けて、目を瞑って通り過ぎて、横たわった状態から動かない。ピクピクと手足を痙攣させて、声を出すしかできていない彼のもとに駆け寄った。


 自己弁護に聞こえるかもしれないが彼のもとに辿り着いた時には、もう俺の頭は助けなければという使命感でいっぱいだった。


「あ、アンタ、大丈夫なの――」


 助けなければという使命感でいっぱいだったはずなのに彼の怪我の状態を確認した俺は、俺の理性が、一目で彼の命を助けることは不可能だと匙を投げた。無理だと諦めてしまった。それほどの重傷だった。頭の中身が急速に冷やされていくのがわかる。まるで冷や水を掛けられたみたいだ。


「……よ、か、った。よか、った……こ、これで……」


 良かった、と呟いている彼を前にすると反応が遅れてしまった。身体が重たく、鈍くなっていく。だって、誰がどう見てもこの男の傷は致命傷だったからだ。今、この男が喋れているのは奇跡だと思うほどの重傷だったのだ。血塗れだ。血が噴き出している。もう手の施しようがない。でも、そのことを冷静な口調で彼に伝えることができるほど器がある人間ではない。そんなできた人間じゃない。俺はそんな残酷な優しさを持っていない。


「……ぁ、ああ! いるぞ、ここにいるぞ! そのまま意識を保ってくれ!」


 助からないことなんて理解できているのに、助かると声をかけ続けるほど無情なことはない。非情で、冷酷で、無責任な行為だと自覚はしている。自覚しているというのに命の最後を迎えるこの男から恨まれたくない、恨み言を吐かれたくないという惨めな人間性が滲み出ていた。


「安心しろ。安心してくれ! 大丈夫だ! もうあんたは大丈夫だから! 今、助けを呼んで――」


 ウルージさんの助言を受け、常に一つ先を読んで行動するようにと意識はすぐに変えることができても、根っこの人間性の部分は変わっていない。所詮は付け焼刃だった。人というのはそこまで上手くできていない。上手くできていないんだよ。


 人が死ぬ瞬間を見たくないと思った。だから、助けを呼びに行くという免罪符を提示し、男の前から立ち去ろうとした。逃げ出すために身体が少しだけ浮かび上がった。さっきまでまともに立てないほど震えていたのに自分が逃げる時になるとすぐに動けてしまう。アイディアが、言い訳をすぐに思いついてしまう。本当によく回る頭と口だ。回るだけで役に立ったためしがない。


 だけど、俺の薄っぺらい部分を、張りぼての言い訳を彼は見透かしていたようだ。看破されてしまった。俺の言葉を途中で遮るかのように、中断させるために力強く、肩を掴まれた。彼に肩を掴まれた。重症の男の力ではない。彼はそのまま血に濡れた上体を起こして、口を開いた。男の気迫に満ちた雰囲気に怯んで、身動きが取れなくなってしまった俺に向かって、彼は最後の言葉を綴った。最後の言葉を、遺言を綴ろうとしていた。


「たす、からない……オレは……はぁ、はッ、もう助からない。……そ、そのぐらい、わかって、る。わかってるから……だから、最後に、話を聞いてくれ!」


 そう言い終える前に彼は力強く肩を揺さぶってきた。いや、違う。掴んでいる手が震えているんだ。冷たいのに、熱い。自分のことばかり考えていた俺だったが、そこで初めて彼のことを見た。名前を知らない彼の目を見ることができた。目が合った。初めて目が合った。男は涙を浮かべいた。血を吐きながら、必死な形相で俺に何かを伝えようと、何かを託そうとしていた。だから――


「……ああ、聞くよ。ちゃんと聞く。だから、最後まで話してくれ」


「ッ、ありがとう……」


 伸ばされなかった方の手を、肩に伸ばされていない方の手を、俺は恐る恐る握った。逃げようとしている俺に、助けることはできない俺に感謝なんてしないでくれ。今だって、怖いよ。だけど、男の瞳を見て、気迫に満ちた顔を、輝きを見て、逃げるべきではないと思ったんだ。だから、彼に傍にいると伝えるように、怖がっている身体が逃げ出さないように、ここに俺の身体を繋ぎ止めるために彼の手を握った。俺にあんたの命を救う技術はないけど……ちゃんと聞く。あんたの最後に居合わせた者として……逃げずに、最後まで聞くから。責任を持つから。だから、途中で死なないでくれよ。そんなことを願うように俺はグッと彼の手を握った。俺の命が、体温が少しでも伝わって、彼の一助になるようにと……


「オ……レは、オレは……名前は、ッ……クックと、いいます。そう、呼ばれている。……赤髭、ウルージ船長の船……はぁ、船の乗組員だ。家族は千引町に住んでいる。治安の悪い町で、はぁ、生まれたんだ……家族も、そこにい、ゴッ、ゴ……そこで暮らしている。……び、貧乏だった。とても、とても……貧乏だった」


「……クックだな? 覚えた。しっかりと覚えたぞ」


「はぁ……ッ、ありが、とう。……あり…ぐぁ、と、う……。元は、料理人として、あの船に乗った。だから、コック、をもじって。クックって、呼ばれてるんだ。……ダチから、がくれた……名なんだ。……家族に贅沢をさせたくて……贅沢を、させたくて……海賊に、なったんだ……やっと、海賊に……なったんだ!」


「……そう、なのか」


「……そう、なんだ。……はぁ、はぁ。ッ……そうなんだよぉ……そう、なんだ、よぉ……何で……あんなのが……」


 涙と鼻水、それと血で顔面がぐちゃぐちゃになっているせいか彼の言葉は途切れ途切れだ。苦しそうだ。とても苦しそうだ。口からは泡を吹いている。唾液と血が混ざり合った泡だ。それが彼の、クックの口の中で破裂した。制服が汚れた。だけど、目線を彼から離すわけにはいかない。彼の遺言を一言も聞き逃すわけにはいかない。幸い、記憶力だけには自信がある。だから、覚えられる。彼の発する一言一句を脳に刻み付ける。責任を持って完璧に覚えなければならない。そのつもりだ。だけど、一つだけ。これだけは彼に聞いておかないといけないことがある。


「……ここで、何があったんだ?」


「ッ! 襲われた。あの化け物に、襲われたんだ! いきなり、またッ……光に飲まれたかと、そう思ったら、目の前に、アイツが……あの化け物が、現れたんだ。……あっち側に……」


「……化け物? 俺も、巨大な怪物の影を見たが、もしかしてそいつに襲われたのか?」


「に、にっ、逃げろぉ……こ、ここは、監獄だ。……ヴッ……はぁ、はぁ、ここは迷宮なんかじゃなかった。……ここ、は、ヤツを閉じ込めておくための、ただの監獄、だった……ッ!」


「ヤツ? ヤツって何だ、何を見たんだ!」


 俺も繰り返し質問をしたがもうほとんどクックの耳には届いていないみたいだ。会話が噛み合わないことが増えてきた。固く握り返してきたはずの彼の手が、徐々に力が弱くなってきた。彼が死に近づいているのが感覚的に理解できた。理解してしまった。だから、彼の死臭に寄ってくる死神を払い除けるみたいに力を込めて、大きな声で質問をし続ける。


「あ、あの……ミ、ミノタウロス……だ……ここは……はぁ、はぁ、ッ、ミノタウロスを閉じ込める、ための監獄だ。……人を喰ってるのは、迷宮じゃない。ミノタウロスなんだ……そうに、ちがいない」


 腹の底から絞る出すかのように力を込めた俺の声が彼に届いたのか、それともただの偶然だったのかは誰のも分からない。だけど、彼は確かに化け物の正体を答えてくれた。彼をこんな無残な死に追いやった怪物の正体はミノタウロスであると俺に教えてくれた。だが――


「あー、クッソ。……はぁ、もう真っ暗だ。何も……見ぇない、クッ、ソったれ。……こ、これが、さ、最後になるかもしれない。……暗い、くらい。……誰か、いるか……あったかい。だれか……いる。まだ、だれか……いるのか?」


「おぃ、おい! 大丈夫だ、俺がいるぞ! まだ、俺が傍にいるから意識を保ってくれって! 俺はまだまだアンタに聞きたいことがある! アンタだって言いたいことがあるだろ! あるはずだ! だから、死ぬなよ! まだ死ぬなって!」


 彼の目からだんだんと光がなくなっていく。命が失われていく。彼のもうとっくに限界を迎えていたようだ。身体の震えすら止まった。俺がいくら発破をかけようとも結果は変わることがない。奇跡が起こることはない。それでも……今度は、彼の意識を繋ぎ止めるかのように力を込める。ここにいると目が見えないと言った彼に伝わるように握り締める。


「……あったかい、あったけぇな……まだ傍に、いるのか……いてくれるのか? …………よかった…………それと、それ、と……できれば、できれば、オレの家族に、ダチに…………ありがとうと、そして、ごめんと、そう伝えてくれ、それだけで、いい…………頼んだ、ぞ……」


「え、お、おい! 目を開けろよ! おい! 目を開けろって!」

 

 迷宮内に俺の叫び声だけが反響した。ただ彼は、クックは死力を尽くしてしまったようだ。クックの身体はそのまま力を失った。上体を起こしたまま絶命した彼は、彼の身体は重力の影響を受けて地面に吸い込まれていった。ずっしりとした人間の、死人の重さを支えていた両腕に感じた。


 咄嗟に握っていた彼の手を離し、身体を揺さぶってみたが目を覚ます気配はない。いや、彼はずっと目は開けたままだ。光がない。気迫がない。ただ俺のことを見詰めていた。死んでいった人間の真っ黒な瞳が俺のことをジッと見詰めていた。


 クックとはこれが初対面だった。話をするどころか、挨拶すら交わしたことがない。それなのに感情をコントロールできないほど乱された。だって、これが初めての体験だった。目の前で人が死んだ経験はこれが初めてだったのだ。動揺しないわけがない。シュティレ大森林では、エルフの里ではヒュドラに溶かされた無残な死体を目撃したが目の前でしなれたわけじゃない。……確かにあれは、あれでくるものがあったが……目の前で命の灯が掻き消されたのを見たのはこれは初めてだった。きちんと人の死というものに向き合えたのはこれが初めてだった。


「…………」


 ピクリとも動かなくなったクックへと視線を向ける。俺は目を開けたまま死んでいった彼を、クックの瞼を優しく閉ざした。映画のワンシーンではよくある行為だ。映画を見ていた時には感動的な演出だなとは思ったが、この行為が持つ本当の意味を理解できていなかったみたいだ。


 瞼を閉ざした彼の顔は満足な微笑みを湛えていた。どこか達成感のようなものを感じていたのかもしれない。だけど、目は口ほどに物を言うということわざがあるように感情は目に出るのだ。家族に、友達に、自分で別れを告げたかったはずだ。自身の稼ぎで家族を豊かにしたかったはずだ。友達ともっと語らいたかったはずだ。彼は無念のうちに死んだはずだ。目を見たらわかる。

 

 こっちで死んだ彼の魂がどこに行くかなんて俺にはわからない。現世と同じように地獄や天国に行けるかもしれないし、もっと別のところに行くのかもしれない。もしかしたらどこにも行けずに消滅するだけなのかもしれない。


 結果は誰にもわからない。現世で死んだ俺と同じように、これからどうなるかなんて彼自身にしかわからない。だから、せめてここでは安らかな顔をして欲しかった。いや、結果なんてどうでもいい。ただ苦痛を、苦悩を感じないほど穏やかな表情をしていて欲しかった。次があれば、もし次があるのなら、来世では彼に幸せに生きて欲しいという願いを込めて……


「…………」


 俺はそっと彼を地面に寝かせ、立ち上がった。もと来た道を引き返すことにしたからだ。光に飲み込まれてすぐに遭遇したとクックは言っていた。なら、俺が無事だということは、ミノタウロスは俺がいた方向と反対側に向かったみたいだ。俺と遭遇していないとはそういうことなのだ。つまり、来た道をそのまま戻りさえすれば、一先ずの身の安全だけは保障されるというわけだ。俺が今、無事な理由はたまたまとしか言えないけれど……彼から貰った情報は最大限活用しないといけない。彼は視線だけで『あっち側には行くな』と、とても有用な情報を伝えてきた。動かない身体でも、瞳だけで俺にそう伝えてきた気がする。いや、気がするじゃなくてそうに違いない。というか、それにしても――


「……ミノタウロスか……」


 俺たちがあの光に飲み込まれてワープする寸前、巨大な影の怪物が消えるのを目撃したが……あれは、あの正体はミノタウロスだったみたいだ。自分でも驚いているほど、驚いていない。初めてグリフォンと聞いた時や、ヒュドラと聞いた時ほどの驚きがない。ミノタウロスなんて普段は聞かない単語のはずなのに、日常会話のように、当たり前のことのように、スラスラと受け入れている自分に気付いてしまった。そのことに驚いてしまった。


 これが、この感覚が、アリアさんが言っていた『こちら側に染まった』ということなのだろうか?


 知らないうちに常識が侵食されている。そんな感覚だ。いや、こんなことをしている場合じゃないんだ。こんなことを考えている暇はないんだ。今すぐにでも人喰い迷宮から脱出する方法を、この人喰い迷宮の出口を、探さないといけないのだ。


 俺はクックに駆け寄った拍子に投げ捨ててしまったランプを拾った。


 火は消えてしまったが……まだ使えそうだ。俺はもう一度、ポーチの中にあるマッチを取り出し、擦って、ランプの中にある蝋燭に火をつけた。ちょろちょろとした小さな炎がランプの中で燃えている。これで装備を整え終わった。今すぐにでも出発できる。来た道を引き返せる。


 だけど、出発する前になって……準備を整え終わった俺は一度だけ、ゆっくりと背後を振り向いた。そこには野晒しにされているクックたちの死体がある。そして……あっち側にはクックを、彼らをこんな姿にした張本人がいる。ミノタウロスがいる。そのことを意識すると同時に、怒りが湧いてきた。手元にあるランプに灯っている火のような怒りだ。


 だが、これはミノタウロスを殺してやるという憎しみの怒りではない。これは神の悪意に、古代ドワーフどもに、ミノタウロスなんかに、負けてたまるかという怒りだ。絶対に生きて帰ってやるんだ。帰って、クックの最後を伝えなければならない。彼の帰りを待っている家族に、同じ船に乗っている彼の友人に伝えなければならない。彼からそう頼まれたのだ。託されてしまったのだ。


 俺はこの人喰い迷宮から脱出してやるという燃えるような意志を瞳に宿し、背後にいるはずの、今も人喰い迷宮を徘徊しているはずのミノタウロスを睨みつけた。まるで宣戦布告をするかのように俺は虚空を、敵対する何者かを睨みつけた。しばらくの間、睨み続けていた。


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