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第七十四話 『遭遇』


 クックの、彼らの死体を道の端に寄せてから、深々と会釈をしてから、俺はその場を離れることにした。もう死んでしまったのだとしても彼らのことを野晒しにしたまま放置するのは気が引けたからだ。


 三人の中の一人、蚊のように潰されてしまった人は……どうしようもなかったが、残りの二人はどうにかできる。そう考えた俺はクックともう一人の名前を知らない男を道の端に寄せることにした。一人で作業するのはなかなかの重労働で、精神的にもかなりキツかったがなんとかなった。


 これで後腐れも心残りもなくなったので振り返ることなく進むことができた。左手に持ったランプを突き出して、へっぴり腰のまま前に進んだ。俺の彼らの死体を簡易的だが供養をした後、何度も、何度も、右へ、左へと曲がった。この道が何処に続いているのかすらも不明なのだが、ミノタウロスがいる方向には戻っていないはずだ。それすらも迷宮が入り組んでいるせいで、同じ風景が続いているせいで、もうわからなくなってきた。


 だけど、軽くなった。少しだけ心が軽くなった。彼らには悪いと思うが……彼らから貰った情報のおかげで俺の足取りも心と比例するように軽くなった。迷宮の奥に姿を消したミノタウロスへの警戒を緩めることができるだけで、ここまで精神的なストレスを減らすことができるなんて微塵も思わなかった。そして、たった今……もう一つ、俺にとって良い出来事が起ころうとしていた。


 迷宮内を移動しいる最中に誰かの話し声が聞こえて来たのだ。


 ちょうど曲がり角だった。だけど、いくら心にゆとりがあったとしても、身体の方は違ったみたいだ。目の前で初めてクックの死を見たせいで、人の死を意識したせいで神経が過敏になっていたのもあるだろう。理由は不明わからない。だが、身体が勝手に動いて、隠れてしまったのだ。いや、まあそれでもよかった。というか、どっちでもよかった。あの光みたいに何が起こるかわからない迷宮内に身を置いているんだから、すべてを警戒するに越したことはない。


 あー、クッソ。こんなことになるんだったら小学生の頃にもっとかくれんぼをマスターしておけば良かった。そんなバカなことを本気で考えていた、いや、そんなバカなことを本気で考えるまで追い詰められていた俺は石柱の陰に隠れるかのように石壁に背を預けた。石壁にめり込むんじゃないかと思うほど背中を張り付けていた。息を潜めて、音を殺して、一先ず様子を伺うことにした。


 恐らくミノタウロスではない。一瞬だけアイツの影を見たが、あれほどの巨大が動き回れば多少の揺れを感じるはずだ。地面が振動するはずだ。この時点でミノタウロスでなわけがないとは思う。


 だけど、迂闊な行動は避けなければならない。俺は絶対に生きてこの迷宮から脱出すると決めたのだ。少しの油断が命取りになる。そうやって自分を戒めながらも壁からは背中を離さない。離せない。


 それと……会話が成立している時点で一人だけではなさそうだ。目を閉じて、聴覚に意識を割けばそれは理解できた。物音が聞こえて来たのだ。一人だけじゃなくて、大勢の足音が混ざっている。迷宮内に足音がこだましている。大勢がこちらに向かって歩いて来ていた。というかそもそもの話、ミノタウロスが会話をするわけがないか。早計が過ぎたな。


 というか牛なんだから鳴き声でも上げてろよ。モー、ってわかりやすい鳴き声を上げてくれたらこっちとしても多少は恐怖が紛れるのにさ。絶対に好きにはならないけど、嫌いにもならないぞ。……いや、やっぱりもう嫌いだ。大っ嫌いだ。ミノタウロスなんて鳩と同じぐらい嫌いだ。身の毛がよだつ。


「おーい、そこの曲がり角にいるあんた。ランプが付いているぞ? 誰かいるのか? いるならオレたちを信じて姿を見せて欲しい!」


 ミノタウロスではないという確証を得た俺はいつ姿を出そうかと悩んでいると向こうから先にアプローチされた。ここから出て、合流を計るタイミングを逃してしまったと思っていたから都合がいい。


 むしろ、人の声に釣られて姿を現した間抜けな人間をミノタウロスに狩らせるみたいな陰湿な罠じゃなかっただけでも安心している。とても性格が悪いと思うし、確証はないが古代ドワーフどもならそれぐらいやるだろ。だぶん……


「ああ、今、姿を見せるから。攻撃はしないでくれよ!」


 声を少しだけ張り上げて、曲がり角にいる彼らに向かって抗戦の意志はないことを告げる。俺も、誰だって、怖いんだ。こんな状況なんだから無暗に警戒心を抱かせない方がいい。それがお互いのためになるはずだ。俺は無抵抗であることを言葉だけではなく、態度でも伝えるために両手を上げた。


 両手を上げて、そのまま石柱の陰から出た。


 というかランプをつけたままなのは失敗だったな。これは俺の落ち度だ。ランプを消さないといけなかったんだ。完全に意識の外だったが、もし遭遇した相手がミノタウロスだったら俺は命を落としていたんだ。気を付けないといけない。そんな教訓を胸に刻み、曲がり角を曲がるとそこにいたのは――


「カツキ!」


「ジンか! なんであんたがここにいるんだ?」


 見知った顔だった。とてもよく知っているイケメンだった。いや、というかカツキがいた。俺はこの多次元的に入り組んでいる人喰い迷宮で、バカみたいにデカい人喰い迷宮の中で奇跡的に、知り合い(カツキ)と遭遇することができたのだ。




 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「――だから、第二陣のメンバーを変えて、五十人ぐらいの救助隊を組織して、いや、探索隊って呼んだ方がいいのか? まあ、とにかく俺たちはカツキたち、第一陣を助けに来たんだ」


「そうか、外ではそんなことになってたのか……」


 たまたま遭遇したカツキたちに合流した。そして、そのまま彼らのグループの一員に加えてもらった。俺たちはグループとしてまとまって移動をしながら、手に入れたすべての情報を彼らに提供していた。俺の身に起きた様々な出来事を一度、整理する意味合いもかねて話すことにした。最初は、生きている人間に、知り合いに会えた喜びのあまり取り乱してしまった。捲し立てるように語っていた俺だけど、カツキのおかげで何とか会話が成立していた。


 ミノタウロスのこと、クックのこと、俺たち第二陣が救助隊として人喰い迷宮の中に足を踏み入れるまでにいたった経緯をすべてをきちんと話したつもりだ。時系列や話の順番は滅茶苦茶だったかもしれないが……とにかくすべての情報を吐き出したはずだ。できる限り正確な情報を彼らに提供したつもりだ。


「ミノタウロス……それにクックは死んだのか……残念だな」


「……もしかして友達だったのか?」


「ああ、オレとクックは海賊としては同期だったんだ。それ以上でもそれ以下でもない。何度も同じ釜の飯を食っただけの関係だよ。……年齢はアイツの方がオレよりも一つ上だったけど見習い同士だったからな、なんやかんやで話すことは多かったんだ。今はウルージ船長のところにいるって、この前本人の口から聞いたばっかなんだけどな……そうか、死んじまったのか…………最後を看取ってくれてありがとな、ジン。クックの友達として礼を言っとくよ」


「…………ッ、ああ」


 クックの死を知ったカツキは下唇を噛んで悲しみをグッと堪えていた。けれど、カツキはすぐにいつも通りの笑顔を浮かべて、俺に感謝を述べてきた。無理をしているのは一目でわかった。友達の訃報を聞いたばかりで彼にも余裕がないはずなのに、いつも通りの明るい笑みを浮かべている。雰囲気が悪くならないように全員に気を遣っている。いつもそうだ。


「…………それで? これからどうするわけ? 無駄話に花を咲かせるのは結構だけどさ。こんなことをしているうちにもミノタウロスって怪物に襲われるかもしれないんでしょ? まあ、それも、ここにいるジンって人の情報を信じるならだけどさ……」


「……トール、お前。いくらなんでもそれは……」


 空気を読まないで、いや、俺たちの間に漂っていた微妙に気まずい空気感を最悪な形で断ち切るように口を開いたのはトール君だ。奇跡的に合流できたグループの中にいたのはカツキだけじゃなかった。知っている顔が他にもいた。彼らの中にトール君もいたのだ。まだ関係値が固まる前なのでトール君と顔を合わせるのは多少の気まずさがあったが、そんなことは言ってられない状況なのはもう理解している。

 

 人が死んでいるのだ。この迷宮内では人が普通に死ぬのだ。だから、彼のことをあまり意識しないようにしていたんだけど――無暗に、波紋を広るかのような彼の発言にギョッとしたのは俺だけじゃなかったようだ。少なくとも友達が死んだと伝えられたばかりの人間にかける言葉ではないはずだ。いや、正論だとは思う。こんなことを話している暇はない。だけど……正論だけど、それは、あまりにも人情に欠けているんじゃないだろうか?


「いや、トールが言ってることは事実だ。悪かったな。気を遣わせちまって……そんなことよりも、ジンもオレたちに何があったのか知りたいんじゃないのか? もう三時間も経ってるんだっけ? あんまり実感はないけど、今度はオレたちの身に起こったことを話すよ。ジンもそっちの方がいいだろ?」


「……ああ、そうしてくれ……」


 俺たちがトール君に不満を漏らすよりも速く、カツキが口を挟んできた。この場で一番我慢しているのはカツキなのに俺が、他の誰かがトール君に文句を言うのは筋が通らない。通らないはずだ。だから、何も言えなくなってしまった。


「あー、なら、オレたちがこの迷宮に足を踏み入れた時から話した方が良さそうだな。入ってすぐに十字路があっただろ? そこから迷宮内を虱潰しにするために部隊を三つに別けようって提案があったんだ。まあ、オレも賛成だった。あんなにたくさん人がいても行動に制限がかかってしまうからな。だけど、うちの船長がな、これ以上進むのは嫌な予感がするって言ったんだ。あの人は勘の鋭いからな。リーネル船長も、その場にいるほとんどの人間はロバーツ船長を信じて引き返したんだけどよ。……突然、あの光に襲われたんだ。ここまではジンにも覚えがあるだろ? ジンがしてくれた話と似通っているはずだ」


「……そうだな。そうだ。そこまではまったく同じだ」 


 俺は歩きながらカツキの話に耳を傾けていた。カツキから与えられた情報の取捨選択に意識を集中させていた。


「あの光、ジンの言葉を借りるならワープ現象とでも名付けようか。実はな、オレたちはそのワープ現象を短時間で三回も体験している。一回目はオレたちが迷宮のの外に出るために引き返した時、三回目はジンたち、救助隊がオレたちの異変を察して引き返した時、二回目の原因は不明だがおそらく誰かが迷宮の出口まで辿り着いたんだろうな。これまでの法則を考えればそれが妥当だ……」


「三回も……なら、まともなやり方では外に出ることはできそうにないな。だって、入り口に近づいたらあの光に飲み込まれてしまうんだから……」


「ああ、そうだ。それと……ジンのおかげで出口に近づきさえしなけらばあの光は発生しないって確証を得たんだけどよ。ワープする先にはこれといった規則性がないんだよな。全員の話を聞いたがワープした先は三回ともバラバラだったんだ。そうだよなぁ、トール?」


「……なんで、わざわざ僕に話を振るんだよ。まぁ、カツキの言う通だね。変な光に飲み込まれてワープした先は完全にランダムだった。だから、侵入者を出口に近づかせなければ、後のことはどうでもいいんだと思う。……そういう開発者の意図を感じるんだ。……これがゲームなら完全にクソだよ。クソゲーだ。だって、僕たちはクリア条件を達成できないんだから……死ぬまで、いや、死んで骨だけになってもここからは出られないことが決定したんだよ」


 カツキに話を振られたトール君は本当に、本当の本当に嫌そうな顔をしていたが口を開いて、彼自身の考えをすべて話してくれた。考察を交えたトール君自身の意見を話してくれた。彼の話をすべて聞き終えた俺は『だいたい皆も俺と同じようなことを考えているんだな……』と、俺の考えは間違っていなかったんだという安堵に包まれていると――


「あー、クソ! なんで、オマエはいつもいつもそうネガティブなんだ!」


 俺の話を真剣に聞いてくれていた、間違っても黙って聞いてくれていたはずの男がトール君に突っかかるように話に割って入ってきた。


「事実だろ? 客観的に見た状況をまとめただけだよ」


「そういうことが言いたいんじゃねぇよ。カツキに対してもそうだったが、もっと気を遣った言い方ってもんがあんだろ。オマエのそういうガキ臭いところが前から気に食わなかったんだ!」


「……はぁ、イラついてるからって僕に八つ当たりしてくんなよ。アンタも僕も二度と太陽の光を浴びることができないんだからさ……」


「そういうところだって言ってんだよ! 殴らないと理解できねぇか? オマエのその残念な頭だとよ?」


「暴力で言うことを聞かせようとするなんて、やっぱりアンタは最低な人間だね。ガキはどっちだよ?」


「――ッ」


 急展開でついていけない。いくらなんでも突然すぎる。カツキたちの身に何が起こったのかの説明をされていると思ったら、次の瞬間にはトール君と知らない男が喧嘩していた。喧嘩が勃発していた。知らない男はトール君がお互いに、一歩も引かずに睨み合っている。胸倉を掴みかかる寸前の空気感だ。グループに加わったばかりの俺には二人がなんでこんなに仲が悪いのか分からない。だから、何でこんなことになっているんだと二人の行方を黙ってただ見ていると――まだ名前すら知らない男の方が固く、拳を握った。


 あ、ヤバい。殴り合いになる。俺がそんな気配を察知した瞬間、カツキが動き出したのが見えた。二人の間に挟まるように身体を捻じ込んで、男の固く、握った拳をこれ以上先には動かせないように上から優しく押さえていた。


「二人ともそこでストップだ! ヤモリさん。ここは怒りを抑えてください。ほら、ゆっくりと拳を開いて……それに、トールも不必要に相手を煽るんじゃない。悪い癖だぞ?」


 彼らの怒気でこの場にいる全員の雰囲気が凍り付いたのとほぼ同時に、皆も足を止めてしまっている。まるで、本当に氷漬けにされているかのようだ。カチコチだった。こんなことをしている間にもカツキを挟んだ状態で睨み合いが続いて、睨み合いが続いて、睨み合いが続いて――


「…………チッ、ここは、カツキの顔を立ててやる。だが、調子には乗るなよ。ここから出たらオマエのその口の利き方から、目上の人間に対する礼儀まで、しっかりと再教育してやるからな。覚悟しとけよ!」


「……泳げない海賊が人に何を教えるつもりなんだよ」


 二人同時に矛を収めた。一触即発の危機だった。というかこいつら雰囲気が悪すぎるだろ。これではおちおちと会話もしていられない。火薬庫の中で火のついたライターを振り回しているようなものだ。言動の一つ一つに気を遣わないとどこに地雷があるかわかったものじゃない。二人の距離を取っても緊迫した空気が漂っている。気まずさが残留していた。


 まあ、でも、ひと段落したみたいだ。再び、進み始めた。会話はさっきよりも多少、いや、明確に減ったがそれでも前に進み始めた。次の十字路をを右に曲がると、また同じような景色が続いていた。歩き始めて、歩き始めて、ようやくこのグループの影の部分が見えてきた。影の部分というか、亀裂と表現した方がいいのだろう。きっとこのグループには大まかに分けて二つの派閥に別れている。いや、派閥というか……単純に、トール君が孤立してしまっている。


 ヤモリさんと呼ばれた男の周りには屈強な体格の男たちがいる。彼のことを慕っているのか、それともトール君が普通に嫌われているのか、真偽は定かではないが敵視しているような雰囲気が滲んでいるのは確かだろう。一方のトール君の周りには透明な壁が存在しているのかと思うほど誰もいない。あそこだけ酸素が薄そうだ。彼はずっと一人で歩いている。うわ、こんな危機的な状況に陥っているのに内輪揉めをするなんて有り得ないだろ。愚かな判断だ。人間の業が深い話っていうか、ただただ愚かしいっていうか……と、俺がそんなことを考えていると――


「よぉ、悪かったな。いきなりこんなことになっちまって……気まずいだろ?」

 

「ああ、めちゃくちゃ気まずいよ」


 軽快な口調で絡んできたのはカツキだった。この爆弾を上手に処理した立役者が小声で話し掛けてきた。


「あの二人は何? そんなに仲が悪いのか? 生きるか死ぬかの状況に追い詰められてるはずなのに、グループ内に派閥みたいなの感じるんだけど……」


「あー、なぁ! 滅茶苦茶やりにくいよな。でも、オレを含めてこの状況を嫌がってるヤツも結構いるんだぜ? ほら、よく見てみろ。ヤモリさんに近い人ほど彼を慕ってるんだ。そして、ジンみたいに海賊になった日が浅いヤツらはトールに近い前方に寄ってるんだ。つまり、新入りとヤモリさんたちが気に食わないと思ってる奴が盾になってことだよ。簡単だろ?」


 カツキのアドバイスを受けて、背後を振り返ってみると……見事にグラデーションができているのが理解できた。俺やカツキに年齢が近い人ほど前方に固まっているし、ヤモリさんに年齢が近いほど、もしくわ彼を慕っていると一目で分かる人ほど後方に固まっている。中間にいる俺たちは、俺たちの周りにいる人々の顔を見ると辟易としていた。心底、呆れているみたいだ。


「ここだけの話なんだが……ヤモリさんはトールの教育係だったんだよ。だけど、二人はとことん馬が合わなくてな。ヤモリさんは真面目で責任感もある人なんだけど、如何せん教え方が昔気質でな。人を選んでしまう。それに言いたくないがトールもあんな感じだろ? サボるわ、逃げるわ、口答えするわで、ロバーツ船長に拾われたくせに恩義を感じないのかってヤモリさんがキレてしまってな。そこからこんな感じなんだと……もう大丈夫だってトールの口から聞いて安心、いや、油断してたらこの様だ」


「……苦労人なんだな。胃が痛いだろ?」


「いや、そうでもないぞ。昔から人の顔色を伺うことばかり得意になってな。胃痛役も慣れるとなんてことはない。……っていうか年長者どもが安全な後方に陣取って、新入りたちを前方に追いやるのってどう思う? ちなみにオレは普通にクソだと思ってるぞ?」


「……ハハ、ああ、わかった。何を言いに来たかと思ったら普通に愚痴を吐き出しにきたんだな? そんな白い歯を見せつけるみたいな明るい笑顔をしているくせに、腹には一物を抱えてるんだろ?」


 完璧なイケメンだと思っていたカツキの人間らしい部分を久しぶりに見た。これで二回目だ。まあ、そうだよな。いくら懐が深い彼であっても不満を溜め込みすぎたら限界になってしまう。友達が死んだと聞いたばかりの彼がグループの緩衝材もこなすなんて心にかかる負担が大きいはずだ。潰れてしまう。というか誰でもいいから心の澱を吐き出したいんだろうな。少なくとも俺はそう思った。だから、カツキが迷いなく本音を話せるように俺はわざとニヒルに笑った。すると、彼も心底楽しそうに目を細めて笑い返してきた。


「正解だ。まあ、ジンとはもっと情報を提供しておかないとって思ったから話し掛けたんだけどよ。話していると段々とイラついちまってな。あれは、オレの憧れている海賊の背中じゃない。……いや、もちろんヤモリさんたちは頼りにはしているし、嫌いってわけじゃない。あの中で彼のことだけは海賊だと認めている。……だけど、オレが憧れた海賊の背中はもっと……もっと、カッコよかったんだ」


「……カツキが憧れた海賊? それってヘンリーさんのことじゃなかったのか?」


「社長? なんで社長の名前がでてくるんだ?」


「え、だって、カツキって海賊になる前はヘンリーさんの部下だったんだろ? それって憧れてるからってわけじゃないのか?」


「あー、いや、社長は憧れっていうよりも、家の都合で……まあ、オレのことはいいじゃねぇか。今はこの迷宮から脱出すつことだけに集中しようぜ?」


 そう言うとカツキは少しだけ歩くペースを上げた。これからする話はあまり周りには聞かれたくないようだ。あまり人が寄り付くことのないトール君の近くまで移動すると同時にカツキは歩く速さをもとに戻した。


「……さてと、気を取り直してこれからについて話し合おうか。ジンの持っている情報はさっきのですべてオレたちに話し終えたってことでいいんだよな? 他に話しておかないといけないことはあるか?」


「……ねぇ、なんでわざわざ僕の後ろに来るんだよ。アンタら二人のイチャイチャに巻き込まないでくれる?」


「まあ、まあ、いいじゃん。あんまりヤモリさんたちを刺激したくないからさ。トールだって本当はオレたちの輪に混ざりたいんだろ? 独りぼっちは寂しいもんな? ……あ、っていうかトール。オレに嘘を吐いてただろ。ヤモリさんに謝ったってあんたの口から聞いたはずなんだけどさ。どうなってんだよ?」


「……いや、そういうのウザいから」


「ウザいなら無視をすればいいだけの話だろ? ムキになって突っかかってくるところを直さないからガキだって言われるんだよ。上手く流すことを覚えないと将来、苦労するんだぞ? ……あ、すまないな、ジン。話をもとに戻すけどいいか?」


「あー、俺はいいんだけど……トール君は大丈夫なの?」


「…………もう、めんどくさい」


「……あ、そう」


 トール君は眉根を寄せて黙ってしまった。だけど、カツキや俺がこの場で話すことを否定しないってことはいいってことなのか? いや、普通に嫌そうだから空気を読んで離れた方がいいだろ。俺はそんなことを考えて、ゆっくりと後方に下がろうとしたらカツキに肩を掴まれて止められた。


「いや、いや、いや、気まずいからって距離を置こうとすんなって。実は”魔法使い”である二人にしか話せないことがあるんだよ。いたずらに皆を動揺させたらいけないからな。……このことは絶対に他の人には言わないで欲しいんだけど……オレたちはできるだけ早く、可能なら一週間以内にこの人喰い迷宮から脱出しないといけないんだよ。そのことを二人には共有しておきたいんだ」


「……それはなんで? 手から離した道具はワープしないっぽいから、迷宮の外から食料を運び込むって手も考えてたんだけど」


「あー、二人も鬼灯石はもう知ってるだろ? あれは石が真っ赤に光れば光るほど大気中の魔素が濃いってことなんだけどさ……迷宮内の魔素の濃度が異常なまでに濃いらしいんだ。まあ、魔法を使える二人には関係ない話なんだけどよ……オレやヤモリさん、この迷宮の中にいる大勢の人間は食料や水を供給されても一週間後には魔素酔いになって、いずれドワーフ病を患って死ぬ。一週間っていうタイムリミットまでにオレたちは全員でここから脱出しないといけないんだ……」


「自分で言っておいてなんだけどさ。そこの人の話だと明日の朝になったら僕らはこのまま見捨てられるんでしょ? 食料も水も期待しない方がいいよ。だから、タイムリミットは人間が水を飲まなくても動ける三日、いや、二日じゃない……別に興味ないけどさ、全部理解しているくせに希望をチラつかせようとするカツキの話術の方が悪癖だと思うよ。……まあ、大変なんだね。本当は諦めているのに諦めることができない立場に立つっていうのもさ。素直に同情してるよ」


「……ハハハ、トールが何を勘違いしてるのかわからないが、オレはまだ諦めていないぞ? オレには叶えたい夢っていうのがあるからな。生き残る可能性があるならどんな苦労も自分から買って出るつもりだ。……そもそもこの迷宮は地下まであるって話を聞いた。海賊として古代ドワーフのお宝をこの目で見るまで死んでたまるかってな! 二人もそうだろ? もし魔剣なんか発見した日には一生遊んで暮らせるぐらいの大金が手に入るんだ、最高だろ?」


 雰囲気を紛らわすようにカツキはそう口にしたが、俺はらしくないと思ってしまった。トール君の発言で動揺したのかもしれないが……金で人を釣るのは彼らしくないと思ってしまった。いや、カツキはもともと商人だったそうだからな、俺が知らないだけでそういう俗物的な面があるのかもしれない。まあ、実際は、俺たちを焚き付けるためにどんな手段を用いても口八丁手八丁で士気を上げようとしているのだろう。俺はそう結論付けた。


「……まあ、そうだな。呪具も、神具も、ヒビキの持っているヤツだけど見たことはあるんだし、どうせなら古代ドワーフの魔剣ってヤツもお目にしたいよな。というかこの迷宮って地下まであるのかよ? そっちは初耳なんだけど?」


 閉塞感を感じさせないほど道幅が広くて、高さもある。ここから推察するに人喰い迷宮はあっても四、五階建てだろうとは思っていたんだけど……まさか、地下まであるとはな。広すぎるだろ。タイムリミットがたった三日だけでは調べ尽くせない。手に負えない。


「あ、いや、それについてはオレも半信半疑なんだけど……実はオレが二回目にワープした先で偶然だがヒビキさんに出会ってな。地下から吸い上げられた魔素が血のように脈を打っているとか、目を瞑れば地下が見えるとか、あーだこーだ、なんたらかんたらと、よくわからないことを言っていたんだ。……正直、オレにはヒビキさんの発言の意味が理解できなかったけどさ……ヒビキさんと魔法使いっていう共通点がある二人ならもしかしたらって思ってよ? 何かわかるか?」


 俺とトール君は一瞬だけ顔を見合わせると横に振った。これがカツキの質問に対する俺たちの答えだった。


「……いや、すまんが何も分からない」


「興味ないけどさ。ヒビキってあの歌舞伎役者みたいな変人のことだろ。いつも変なことばかり言ってるし、あんまり真に受けない方がいいんじゃないの? ……興味がないけどさ」


「……まあ、確かに。情報源があのヒビキさんだからな……」


 酷い言われようだな。だけど、これは彼自身の責任だ。身から出た錆だ。同じ船に乗っている者としてこの評価は同情する。同情はしても慰めることはしない。これは常日頃から胡散臭い、彼自身の言動のせいで皆からの信用度が低いせいだな。まさにオオカミ少年ってヤツだな。まあ、そんなことよりも――


「トール君って意外とちゃんと考えてるんだね……」


「何それ? 馬鹿にしてんの?」


「いや、ただスゴイなって思っただけだよ。俺はここから出ることばかり考えてたからさ……食料や水を外から送ってもらって時間を稼ぐなんて思いつかなかった。だから、トール君もカツキも視野が広いなって、俺よりも常に一つ以上先を見てるなって思ったんだ」


「……はぁ、いきなり何言ってんの? これぐらい普通だろ。むしろ、アンタが頭を使ってなさすぎるだ――ぐぅ!」


 カツキが右手でトール君の口を押さえてしまった。トール君の言葉が途中で止められてしまったが、これでよかった気もする。最後まで聞いていたら傷ついていたと思う。身体ではなく心が……


「だ、か、ら! そういうところを直せって言われてるんだってーの。知らないのか? こういう場面で仲間外れになったヤツから死んで行くんだぞ? 嫌いなヤツだったら心情的にも見捨てやすいからな。仲良くしておくのが定石だろ?」


「……まあ、まあ、トール君だって悪気があってのことじゃないんだし」


「あんまりうちの新入り()を甘やかさないでくれ。ジンがそうやって甘やかすからトールが成長しないんだよ。ダメなことをしたらダメって言ってやらないと! このままだと『ごめんなさい』が素直に言えない大人になっちまうだろ! 謝ることを負けたと感じるようになったら人間としての価値が一つ落ちるってオレは姐さんから嫌というほど教えられたぞ。耳に胼胝ができるほど言い聞かされた」


「……お母さんかよ。火力高いな。まあ、でも、こんな状況だから波風を立てない方がいいっていうのはなんとなくわかる。……トール君も仲良くはしなくていいと思うけど、ヤモリさんたちともっと上手く付き合えないのかい?」


 カツキの言い分に追随するかのように俺はトール君の説得を試みた。彼の言う様にトール君の口から「ごめんなさい」や「すいませんでした」と謝罪の言葉を聞いたことがない。いや、まあ、俺とトール君が顔を合わせて会話する回数がまだ二回なんだから当たり前だよな。初対面なんだし。


 ……そう言えば第一陣が迷宮に入る前、カツキに『食事の席を設けてくれ』と頼んでいたな。意図せずにその機会に恵まれたわけだ。こんな機会じゃなければ、命の危険がなければ、腹を割って話したかったんだけどな……


「無理でしょ。こっちじゃなくて向こうが勝手に絡んでくるんだからさ。……降りかかる火の粉は払うのが普通だろ。アンタは違うのかよ?」


 トール君の発言は正論、いや、正論っぽいだけだ。カツキのさっきの話を信じるならヤモリさんとトール君の相性が悪いのは事実なんだろう。絵に描いたような現代っ子であるトール君をこっちの、前時代的な教育方針のヤモリさんが指導するってことになったら色々と大変なこともあるはずだ。そこはいい。だけど、サボったり、逃げたり、口答えをして反抗したのだとしたなら、それは降りかかった火の粉ではなくて自分でつけた火で火傷をしただけだ。火をつけたのはトール君なのだから火傷をしたのも彼自身の言動が原因だ。


 だけど、俺は喉の奥から出かけたものをグッと飲み込んだ。喉から出かけたそんな言葉の数々をグッと飲み込んだ。耐えた。耐えることができた。批判したり、揚げ足を取ることは簡単だ。ただ正論を言えばいい。だけど、コミュニケーションを取ろうするなら、人と人が歩み寄ろうとするなら、それでは不適切なのだとカツキのから学んだ。正論かもしれないが、正しくはない。感情に任せるべきではないと彼の姿を見て学んだ。我慢することも大切だ。だから、別の切り口で、彼のことを諭すように言葉を続ける。


「いや、でもさ……トール君だってまだ死にたくないでしょ? いや、まだって言い方だとおかしくなるよな。俺たちはもう現世で一回死んでるんだから。正しくは『二回も死にたくないよね』だ。俺は車に轢かれて死んだからさ、もうあんな痛い思いはごめんだ。そこはトール君も俺も同じじゃない?」


 最初は否定せずに共感できる話題を持ってくる。優等生(むかし)の俺を憑依させて、担任のご機嫌を取るみたいに温和な笑顔を浮かべた。再現率としては百パーセントだ。まあ、コツとしては少しだけ下手に出ることぐらいかな。……いや、これではカツキではない。これではまるで母さんじゃないか。相手の選択肢を先に潰して支配しようとするかのような、誘導してくるような母さんの話術だ。


 現世で何度も味わった感覚だった。カツキをイメージしてトール君を説得しようと試みたらもっと知っている方に寄ってしまったみたいだ。身を持って体験した方に、より知っている方を再現してしまった。母さんのことを頭でインストールして、トール君に向かって空っぽな言葉を紡ぎ続けている自分を客観視してしまって嫌な気分になった。だけど――


「……どっちでもいいよ」


「え?」


「……生きるとか、死ぬとか、僕はもうそんなものに興味ないよ。僕にとってはもうどっちでもいいことだから……」


「……」


 トール君の表情が曇っていた。俺ではなくトール君の表情の方が曇っていた。きっと彼のそれは怒りや悲しみの感情ではない。失望、挫折……いや、後悔かもしれない。彼の気持ちを表現する言葉を今の俺は持っていないし、彼が何を抱えているかなんて、何について悩んでいるかなんて分かるはずもない。俺は初めて見る人間の、異質な表情を前にして掛ける言葉が見つからなかった。


「ハハ、どっちでもいいなら生きた方がいいよな!」


「……まあ、そうかもね……」


「そうそう、無いよりマシはあった方がいいっていうだろ? 人生だって同じだよ。オレたちなんてまだまだ赤子同然なんだからさ、自分のことを……自分の可能性を見限るには速過ぎるだろ。トールもジンも、オレだってそうだ。夢を追って生きたいだろ? もし夢がなくったって見つけて叶えるまでには十分すぎる時間がある。そうやって生きて、年老いて、年老いて、満足してしてから死ねばいい。後悔せず、満足して死ねたらそれでいいんだよ。オレたちと同じ境遇立たされたイカロスだって最終的には太陽に翼を焼かれたかもしれないが……最後の最後には笑って死んだんだ。少なくともオレはそう思ってる。だってよ、それが人間の幸せな生き方ってヤツだろ?」


 そう言うとカツキはバン、バン、とトール君の背中を大きな手で二回だけ叩いた。背中越しに衝撃を与えて彼の心を打つかのような、慰めるかのような、カツキの不器用な優しさが詰まった動作だった。


「……いや、そんなことはいいんだって。あー、ずっと同じ景色が続くせいで緊張感がなくなっちまうよな。本当に二人とも何にも感じないんだよな?」


「カツキの期待に応えられないのは悪いと思っているけど……本当に何もわからないんだよな。こんな風に両目を瞑ったら真っ暗になるだけだ。何も見えない。……でも、ほら、ヒビキのヤツって役を演じてるっていうかさ、変なところあるじゃん? 妄言っていうかさ? 今回もそれじゃないのか? ……いや、違うな。ヒビキはたまに芯を食ったことを言うから扱いが面倒くさいんだ」


「そこには同感だな。ほら、『狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり』って言うだろ? ヒビキさんはたぶんそれだよ……」


「それって徒然草だっけ? というかヒビキは狂人っていう結論が変わってないじゃん。擁護する流れじゃないのかよ?」


「ハハ、狂人のフリをできる狂人ってことだよ。ヒビキさんはあれで自分が時代に会ってない、おかしなことをしているって自覚があるからな。ただの狂人よりも遥かに質の悪い手合いだよ。あの人は……」


「……自分の軸を持ってる狂人を敵に回すと一番厄介になるっていう認識はどこに行ってもそこは同じなんだな。なんだか安心したよ」


 人類の文明が発展し続けている理由がここに垣間見えた気がする。安心した。ヤバい奴っていつの時代、どの国であってもヤバい奴って認識されるんだな。俺がそんなことを考えていると――


「おーい、カツキ! 何やってんのか知らねぇけど。オマエもこっち来いよ! 何時までそんなガキどもと遊んでんだぁ?」


 ある男が話し掛けてきた。ヤモリさんの側近のような人だ。髪の毛をワックスか何かで固めている態度の大きな男だ。トール君とヤモリさんが衝突する寸前であっても、彼はふてぶてしく腕を組んで、睨み付けるようにヤモリさんの隣に陣取っていたはずだ。そんな彼がわざわざ俺たちのいるところに近寄ってくるわけがない。火種がくすぶっている状況で俺たちに絡んでくるわけがない。

 

 そこまで考えた俺はチラリとヤモリさんの方を盗み見る。すると、彼はニヤリと嫌な笑みを浮かべていた。こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。ああ、ヤモリさんは俺たちのことが気に食わないだけんだな。


「遊んでるわけじゃないですよ。有意義な話し合いってヤツです。それに合流したばかりのジンに色々と説明をしておかないといけないっすから」


「なら、余計にコッチに来いって。ジンってヤツも連れて来ればいい。ヤモリさんもオマエのことだけは気に入ってるんだ。それにこいつらと話すよりもオレたちと一緒の方がいいって。……当然、優先してくれるよな?」


「嫌っすよ。逆にヤモリさんたちがこっちに来て下さい。やっぱり新入りが前を歩くよりも、経験豊富なヤモリさんたちが来てくれた方が安心ですって。オレもヤモリさんたちのことはとても頼りにしていますから」


「いやー、それはな……」


「……ねぇ、無駄口ばっかり叩かないでくれる?」


 カツキと話しているこの男のことが正直言って気に入らない。当たり前のように自分たちが要求できる立場であると、自分たちの要望が通ると思っているところが気に入らない。値踏みするかのような不躾な視線が気に入らない。カツキの添え物のようにこちらを見て来るあの目が気に入らない。いや、たぶん、今の俺は正しい評価ができていない。トール君の傍にいるから対立気味な彼らのことを嫌いになっているだけだ。そこまで嫌な人では……嫌な人ではないはずだ。そう思いたい。俺が黙ってそんなことを考えていると、トール君が二人の会話を終わらせるかのように割り込んだ。


「お、なんだよ。天下のボッチ、トール様でもあってもお友達がいなくなると寂しいのか?」


「……群れてないと生きていけないアンタが僕にそれを言うの? あー、えっと、アンタの名前って何て言うんだっけ。いかにも腰巾着って感じの人は印象薄いんだよなー。……まあ、なんでもいいか。もともと名前を覚えるほどの魅力がアンタにないってだけの話だし……」


「ハッ、若いくせに物忘れかよ。だから、教えた仕事もまともにできないんだろうな。……つーか、いつもよりもムキになってるな。喧嘩腰になってるってことは図星か?」


「……吼えるね、今日は。喧嘩腰なのはそっちだろ? もしかして徒党を組んだらアンタが強くなったとか勘違いしてんの? そういうタイプ? ……ついさっき、ガキはどっちだよって言ったけど訂正するよ。ガキはアンタらだ」


 バチバチと再び火花が散った。目の前で、舌戦が……いや、お互いを傷つけ合いことだけが目的とした、言葉による殴り合いが繰り広げられていた。カツキと男が会話していた時とは打って変わって雰囲気が悪くなった。というかもしかしてだけどここまで来たらヤモリさんではなくトール君の方が問題があるんじゃなうか?


 いや、まあ、こんな状況で仲間外れにされている彼に肩入れしたい気持ちはあるし、こんな状況で中学生ぐらいの少年を仲間外れにするなんて彼らの人間性は擁護する術がないほど碌でもないとは思うが……少なくともこのグループの起爆剤はトール君であることは間違いない。


 大人が、いや、中学生もそうだがけど……口喧嘩ってあんまり本気でしないからな。あっても人生で二回ぐらいだ。ヤモリさんも、トール君も、この男でも、誰が悪いなんて今はいいから弁えて欲しい。絶対に今じゃない。できることなら脱出し終えてから好きなだけやってくれ。脱出した後もしないでくれ。


 巻き込まれるだけでもストレスだ。君たちが俺のストレッサーだ。このまま傍で聞いているだけでノイローゼになってしまう。俺が思考の海に身を任せ、そんな風に現実逃避をしていると二人の口喧嘩がさらにヒートアップしていた。


「ガキっていうのは口だけで仕事のできないヤツのことを言うんだぜ? いや、仕事ができないならまだしもオマエはサボり癖があるからな、本当にどうしようもないヤツだよオマエは……」


「サボってるわけではないよ。僕はただ任された仕事を効率的にやってるだけだ。…自分の無能を棚に上げて人を責めるヤツにはいつか必ず罰が当たるよ?」


「罰? 罰だって? サボってるオマエにじゃなくて、勤勉に働いているオレに対して罰を与えるのか? ハハハッ、ふざけた神様もいたものだ。参考までに聞いてやるよ。一体、オレにどんな罰を課すっていうんだ? 教えてくれよ」


「知るわけないだろ? 僕は気まぐれな神様じゃないんだからさ。……空からミノタウロスでも降って来るんじゃないの?」


「ハッ、そんなわけ――」


 彼がトール君の発言をバカにするみたいに鼻を鳴らした瞬間、正面からドッゴンという轟音が響いた。何か……重い物体が落下した音だとすぐに理解できた。


 一本道の曲道に、あそこの曲がり角に……何かがいる。いや、頭ではすでに分かっている。理解している。だけど、心が、俺の心が、その事実を理解することすら拒否している。拒絶している。いや、そんなことを、固まっている場合じゃない。今すぐに逃げないと……


 俺だけじゃない。ここにいる皆、カツキもトール君もヤモリさんも含めて全員が足を止めてしまっている。逃げないと、逃げないと、逃げないと、脳から電気信号が溢れ出る。脳から出た電気信号が全身を駆け巡る。痛いほど、ここから離れないといけないと脳が、本能が叫んでいる。身体を動かして、足を動かして、今すぐ逃げろと人間が持つ生存本能という第六感に近い何かが、冷静にそう告げている。


 ただでさえ人喰い迷宮はほとんど一本道なんだ。十字路の辺りまで逃げないと見つかったらクックたちみたいになる。人間から無残な肉塊(ミンチ)に早変わりだ。一度、ミノタウロスに発見()つかったらもう逃れる術はない。隠れる場所はない。だから、今逃げないといけないのに――もう遅かった。


 五本の指が見えた。石壁に太く、大きな指をかけている。まるでお祖母ちゃん家の引き戸でも開けるかのように緩慢な動作だ。


 五本の指を石壁に減り込ませて、そのまま破壊してしまうんじゃないかと思うほどの力で握り締めてた。牛皮のように厚みがある丈夫そうな皮膚が、五本の指が動いた。動作の全てがゆっくりなのだが、力強い。まるで俺たちに生物としての格の違いを見せつけているかのようだった。


 メキメキッ、という音を立てて石壁の表面が剝がれた。握った部分が拉げている。デカい。ミノタウロスのすべてがデカい。背丈が、迷宮の天井に近い。いや、背丈だけではない。背丈どころではなく、力も、スケールが違う。そして何よりも……俺はまだミノタウロスの姿を見ていない。全身をまだ視界内に収めたことがないのだ。


 醜悪な化け物の姿を俺はまだ見たことが一番の恐怖だった。クックの証言が、ワープする前に見たあの巨大な影が、俺の恐怖を駆り立ているだけで実態を見たことがなかった。いや、それが救いだった。妄想の中だけだったからカツキやトール君と呑気に会話ができていた。もう一度言うがそれが救いだったのだ。だけど、だんだんとその姿が、ミノタウロスの全貌が明らかになっていく。


 まったく手入れされていない毛並みが見えた。腕だ。木の幹のように太い腕が、荒々しい獣の体毛に覆われている腕が、視界に入った。そして象牙よりも巨大な角が見えて、真っ黒な鼻先が見えて――目が合った。


 血紅色に染まった瞳がこちらをジロリと見詰めていた。まるで闘牛のように鼻息が荒い。巨大な牛の頭を持っている怪物が、真っ赤な血に濡れた瞳を持つ醜悪な化け物が獲物(おれたち)の姿を捕らえた。捕らえられてしまった。


 数秒、数十秒間の沈黙。動いたら、背を向けたら殺されると思ったから……だから、ピクリとも動かなかった。ミノタウロスには鱗や鋭い爪、巨大な牙などこれといった武器がない。ヒュドラやグリフォンには動物特有の武器があったはずだが、ミノタウロスにはそのような武器がない。ただ……その身体から、筋肉から、瞳から、純粋な暴の気配をチラつかせている。


 立ち込める強烈な殺気が迷宮内に充満していた。むせかえるほどの血臭が、死臭が、獣臭が離れたところにいる俺たちのもとまで届いていた。ズンッ、ズン、と一歩、一歩、足を動かすごとに微かな振動が伝わってきた。ヤバい。どうすればいいんだっけ……野生のクマと出会ったら背中を見せずにゆっくりと後ろに下がればいいんだっけ? それとも死んだふり?


 いや、そもそも相手は野性のクマじゃない。ミノタウロスだ。迷宮内に飼われているミノタウロスという凶暴な怪物だ。牛頭人身の化け物を前にして、俺たちはどうすれば生き残れるんだ……と、そんなことを考えていると血に濡れたような鋭い四つの眼光がこちらを激しく睨みつけてきた。恐怖が、怖気が、口から漏れた。呼吸が浅くなり、息ができなくなった。俺たち全員の顔が恐怖に歪んだ次の瞬間――ミノタウロスの筋肉が膨張し、躍動した。


 石壁から大きな手を離し、巨大な角を前に突き出して、こちら側へ一直線に突っ込んで来た。その恐ろしい姿は、迫力はまるで巨大な闘牛だった。ミノタウロスはそのまま獣のような咆哮を放ち、俺たちに向かって容赦なく襲い掛かってきた。


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