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第七十一話 『赤髭』


 第一陣が人喰い迷宮の内部に足を踏み入れてから二時間が経過していた。


 まだ五時頃だというのに太陽は既に眠る準備を整え始めているようで化粧を落として始めている。紅に黄金を混ぜた強烈な採光が鬱蒼とした森を照らしているせいでとても眩しい。夏と比べて日が低くなっているのだろう。


 葉っぱの色が紅に移り変わるにはまだ早い季節だというのに細かなところでどうしても秋の訪れを感じさせてくる。それが何故だか気に食わなくて足元に落ちていた小石を森がある方向へと蹴飛ばした。八つ当たりだった。


 小石はゴロゴロとゆっくりと回転しながら森の奥に消えてしまった。蹴った小石が見えなくなるのを最後まで見送ると――


「……何やってるんだよ。アイツら……」


 と、呟いた。何もしないで第一陣の連絡を待っているだけというのも辛抱ならない。夏の暑さがなくなって制服を着てちょうどいいぐらいの気温にはなってきたがさすがにここから夜になってしまうと吹き付ける風を遮るものが何もないせいで禊木町にいたときよりも寒さが骨身にこたえるはずだ。


 だから、俺が配属された第二陣は人喰い迷宮の内部に足を踏み入れるのか、それともこのまま調査を中断するのか、の二択を迫られているのに何で第一陣の皆は合図を出してくれないんだ。

 

 おそらくだがもう一刻の猶予もない。どちらを選ぶにせよ行動を開始するのならもう決断を、判断を下さないといけないはずだ。そうだ。判断をしないといけないのに、判断材料がないなんて俺がもっとも苦手とする分野の問題だぞ。まあ、最終的な決断を下す立場にいないから大丈夫だが……自分がその立場に立たされたと想像するだけでゾッとする。考えただけで胃に穴が開いてしまいそうだ。


「……」


 無言のまま迷宮の入口まで足を動かす。誰か迷宮からここに戻って来たんじゃないかと思ったたからだ。いや、戻って来ていなくても別にいい。このまま何もしない時間というのが最も苦痛だ。それなら体力を消費してでも歩いていた方が多少は気がまぎれるというものだ。


 いや、気がまぎれると表現したが別に不安になっているわけではないんだ。


 今の気持ちを例えるとするならば……そうだな。約束した時間に友達の姿が見えなくてスマホで連絡しても既読すらつかない。だから、しばらく黙って待っていたが一向に友達が来なくてイライラしているという状況だ。いや、自分で例えてみたが今も全く同じような状況だったな。


 まあ、要するに約束の時間に少しでも遅れるのなら連絡ぐらいはちゃんと返せよってことが言いたかったのだ。


 内心でこっそりと彼らを毒づいてみたがそう思っているのはこの場で俺だけみたいだ。


 真っ赤に燃えるような夕焼けが否が応でも皆の焦燥を駆り立ててしまうのだろう。その証拠に俺がテントの傍を通ると落ち着きのない声が聞こえてきた。


「……やっぱり二時間も連絡がないなんて普通じゃないよな。バカなオレでもそれぐらいはわかるよ。そもそもここは人喰い迷宮なんて碌でもねぇ名前で近隣の領主たち認識されてるぐらいだ。……なあ、まさかだけど、アイツらもう死んじまったんじゃねぇのか? だから、合図が返ってこねぇんじゃあ――」


「おい、縁起でもねぇこと言ってるんじゃねぇぞ! ロバーツ船長が死ぬわけねぇだろ! あの人は死んでも死ぬような人じゃねぇ。もはや不死身みてぇなタフさぞ! それはオレたちが一番この目でよく見てきただろ!」


「……ああ、そうだよな。オレが悪かったよ……」


「いや、いい。確かに俺も冷静じゃなかった部分がある。お前の言う通りだよ。二時間も連絡がないってことは遺跡の中で予想外の何かがあったということだ。それが何かまではわからねぇけど……」


「なぁ、二人とも。こんな所で無駄口を叩いていてもしかたがないだろ? オレたちはいつも通りやれることをすればいいんだよ。ほら、仕事を持ってきてやったぞ。武器の点検でもしていた方が心も落ち着くだろ?」


「それもそうだよな。お前の言う通りだ。……よっし、やってやるか! 刃が付いているものは俺に寄こせよ。ついでにピカピカになるまで研いでやる。寿司屋の倅の名に懸けてな!」


「寿司屋の倅って。オレの記憶違いじゃなければお前って実家の家業を継ぎたくなくて海賊になったって言ってなかったか?」


「……うるせぇな。余計なことばかり覚えてんじゃねぇぞ!」


 船長が不在なこともあり重苦しい雰囲気がテントの外にも漂う中、俺だけが彼らのことをどこか冷めた目で見ていた。だって、アイツらはヒュドラ討伐で無傷で帰還してくるような化け物もどきだ。そんな彼ら、彼女らが全滅したなんて俺には考えられない。考えたくもない。


「……何であんなに慌ててるんだろな? アイツらだぞ。俺たちの心配なんて必要ないだろ」


 口にした内容を頭で理解してハッとしていた。自分自身でも驚くほど冷たい声色だった。そこでようやく慌てふためいている彼らのことを心のどこかバカにしている俺がいたことに気が付いた。


 失望する。落胆する。俺自身のことがもっと嫌いになってしまいそうだ。


 だけど……やっぱり、彼らは理解していないと思ってしまう。身近でリーネのことを、ヒビキのことを、シュテンのことをを、レインちゃんのことを、ヘルガのことを近くで見てきた俺は彼ら彼女らの安否を心配なんてしていない。俺ごときが安否を心配するだけでも失礼な行為だろう。


 そんなことを考えながら自嘲じみた笑みを湛えていると――


「その奇妙な服装、トールと同じだ。ってことはお前がジンという少年で間違いないか? リーネル船長のところの若手(したっぱ)の……」


「……まあ、そうですけど。何か用ですか?」


 前方から歩いて来た男に呼び止められた。呼び止めたのが誰なのか気になって顔を確認してみたが知らない男だった。少なくとも俺とは面識はない男のはずだ。


 ゴツゴツとしていて巌のような顔付だ。律儀そうだとは思うがそれと同時に気難しそうに眉を歪めて、お前のことを隅々まで見ているぞとでも伝えるように男は強い視線を向けて来た。


 いや、真っ正面から若手(したっぱ)と呼称されるとさすがにムッとしてしまう。でもそう呼ばれても仕方がないよなという相反する気持ちも複雑に同居して、どうやって発露すればいいのかは俺にだって分からない。


 そもそもなんでこの男は俺なんかに話し掛けてきたんだ?


 こんな状況で話し掛けられても俺にできることなんては世間話をするぐらいしかないぞ。そんなことを思いながらも俺は警戒心を露にして、彼の次の行動に備えるために男の一挙手一投足を注視していると――


「……はぁ。そう怪訝そうな顔をするなよ。中央のテントに行け。お前に招集がかかっている」


「招集? 招集って何のことですか?」


「リーネル船長のところの正式なメンバーは現在、アリアさんとお前しか残っていない。これからの方針を立てるために二人も交えて一度話し合いをしておこうってことだよ。……お前は一応代表として呼ばれているんだからリーネル船長に恥をかかせないように注意しろよ」


「何も知らない俺なんかが話し合いに参加しても、しなくても同じことなんじゃないですか?」


「知るかよ、そんなこと。……俺の役目はお前を中央テントまで連れて行くことだ。準備をする必要はない。だから、お前はただ黙って俺の後をついて来い」


「…………はい」


 男の態度からもう俺と会話を続ける気がないと理解したので、渋々とだが納得してついて行くことにした。




 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 第二陣の指揮を船長たちに任されているウルージという男からの招集によって、俺はリーネの船の代表の一人として中央のテントまで呼び出されていた。まったく、嫌になるほど過大評価だな。肩書きの重圧に潰されてしまいそうだ。


 いや、他の船からも代表者を立てたという外面だけが目的で期待されているわけじゃないんだろうな……

 

 それに、さっきから身体が原因不明な倦怠感に襲われている。たぶん参加したくないという気持ちの他にも今日は朝から丸一日中、陽射しに当たっていたせいだ。容赦なく照り付ける太陽の光に当たっているとそれだけで徐々に体力が奪われてしまう。そのせいでただでさえ周りの海賊たちと比べて少ない体力を無駄に消費しているのだろう。……原因不明と言った割に原因事態は意外とわかりやすかったな。


「招集って、何について話し合うのか決まってるんですか?」


「黙って歩け。そして、それは中央のテントについてから直接聞け。これ以上俺に面倒な仕事を増やしてくれるな」


「はぁ、そうですか。……これじゃあ、まるで囚人みたいな扱いですね」


「……」


 ぼそり、とギリギリ聞こえるぐらいの声量で悪態を吐いてみたが無視を決め込まれた。名前すら教えてくれない案内役のこの男は俺と付かず離れずの距離感で接していて、最低限の会話すらしてくれない。


 まあ、それも仕方がないだな。この男からすれば先行きが分からない状況で、それでも真面目に働いていたのに急に俺のような無知なガキの世話を任されるなんてとでも思っているのだろう。


 俺がそんなことを考えていると中央テントに到着したようだ。何故分かったのかと言われると常に目の前を歩き、先導してくれていた男が緊張した面持ちで立ち止まったからだ。


「……ヴッん……失礼します。ヒデトラです。平坂仁を連れて来ました」


「入れ」


 彼は一度、咳払いをして入室の許可を求めると白い布で区切られた向こう側から短い返事が返ってきた。というか今更になるが彼はヒデトラと言う名前らしい。カッコいいし、立派な名前だ。少なくとも自分から名乗るのを恥ずかしがるような名前ではないはずだ。だから、きっと俺に名前を教えてくれなかったのは単純のことが気に入らなかったからのようだ。


 俺のことを煙たがっている疑惑が上がったヒデトラさんは緊張のせいで喉が渇いてしまったのか、勢い良く唾を飲んだ音がこっちにまで聞こえて来た。


 ゴツゴツと巌のような顔付だと思っていたが彼の上司への態度から察するに中身は意外と小心者というか、繊細な人なのかもしれない。俺が『ヒデトラさんはなんでテントの中に入らないのだろう?』とそんな呑気なことを考えていると――


「おい、何やってんだよ。早く入れ!」


「え?」


「え、じゃねぇだろ! ほら、早く行けって!」


 額から汗を流しているヒデトラさんに腕を掴まれて、投げ飛ばされるみたいに中央テントへ立ち入ることになった。転ばないためにバランスを崩さないようにするのが精一杯で踏ん張ることはできなかった。


「あっぶないな……」


 このままでは踏ん張ることができないと判断した俺は、咄嗟に地面に固定されている中央テントの支柱へ倒れ込むようにしたことでなんとか身体のバランスを保つことに成功した。


 というか似たようなことがエルフの里でもあった気がする。あの時はイライラしていたシュテンに引きずり込まれるように無理やり部屋に入れられたせいでカーリに呆れられたんだった。……なんだかとても嫌な予感がする。これはたぶん脳がデジャブを感じているんだ。俺は正面にこちらの痴態をジッと見詰めてくる気配を感じ取ったのでゆっくりと地面から顔を上げていくと――


「……これで、揃ったみたいだな……」


 中央テントのテーブル越しに声を投げかけてきたのはウルージさんだ。呆れたような声色で、俺を、いや、俺の背後に視線を送っている。ふと彼が何を見ているのか疑問に思った俺は、自身の背後に顔を向けるとそこには俺よりもガタイのいい、強面の集団が並んでいた。そんな男たちが俺に対して『さっさと退けよ!』という視線を送ってきているのだ。ヤバい、殺される。


「あ、ジン君! こっちですよ」


「あ、アリアさん!」


 白銀の鎧に身を包んだアリアさんがビクビクと怯えている俺を見兼ねて優しく声をかけてくれた。九死に一生を得るとはまさにこのことだ。彼女のことが天使に見える。いや、本当に天使なのかもしれない。


 俺はブンブンと犬が尻尾を振るように急いで彼女の隣に移動し終えると……


「この話し合いの機会を設けたのはこの場に残った者たち全員の意見を一致させ、団結を図ることが目的だ。……では、議論を尽くそうか……」


 再び、ウルージさんが口を開いた。腹の底が冷えるほど冷静な声色だった。


 ウルージさんとはお互いの名前は知っているぐらいの関係だ。一度だけ、本当の本当に一度だけリーネの紹介で軽く挨拶をした時に話をしたことがあるぐらいだ。それも一言二言だけ……


 ウルージさんは特徴的だったので印象に残っている。


 彼の年齢はおそらくヘンリーさんやドレークさんと同じぐらいだろう。いや、彼の纏っている雰囲気から推測するに彼らよりも年上かもしれないな。まあ、どちらにせよ壮年の男性には違いない。


 暗い焦げ茶色の瞳と自然な赤髪、赤髭が注目を集めるような男性だった。ナチュラルな赤毛の人物を生まれて初めて見たので一人で勝手に驚いていた。濃い茶色や、金髪というわけでもなく、どこぞのミュージシャンのように染めているわけでもない。目に優しい赤色というのが彼の髪色に抱いた俺のイメージだ。俺のそんなイメージを肯定するように彼は巷では”赤髭”という異名で知られているらしい。


 だが、印象に残っているのは残念ながらそこではない。いや、そこも十分印象に残ってはいるんだけど……俺の中でウルージさんが最も印象に残っているのは彼には左腕がなかったからだ。


 肩の近くから左腕を失っている。隻腕の状態で、平然とした顔のまま几帳面なまでに整えられた赤髭を右手で撫でながら挨拶を返してきたウルージさんの姿が衝撃的な思い出として俺の記憶に刻まれてしまっているのだ。今だって、ゆったりとした袖口からは一本の腕しか見えていない。


 隻腕は現世でも日常生活にも支障をきたすと聞いたことがあるが、それでもウルージさんが海賊を続けられているのは彼のことを慕っている周囲の人々が業務をサポートをしている他にも彼自身の能力の高さ故なのだろう。


 俺がそんなことを考えていると突然――バンッ、と破裂音にも似た音がテントの内に響いた。何事かと思い音のした方向へ意識を向けるとそこにはさっきまでどっしりと椅子に腰かけていた態度の悪い男が真中にある机を叩き、椅子を蹴り飛ばして、立ち上がった。


「おい、おい、おい、兄貴よ。こんな悠長にしている場合かよ! アイツらから連絡がないまま二時間も経ってるんだぞ! 今すぐに助けにいかないと!」


「だからこそ落ち着けと言ってるんだ、ハイレッディン。俺たちが冷静にならなければ余計な被害が増えるだけだぞ」


「そんなことは分かってんだよ! だけどよ、今の兄貴はただ臆病風に吹かれてるだけだろ! あの頃の、昔の大胆不敵な兄貴はどこに行っちまったんだよ!」


 机を叩いて、怒鳴り声を上げているのは確かハイレッディンという人だったはずだ。ウルージさんのことを兄貴と呼んで慕っている不自然なまでに真っ赤に染められた顎髭が特徴の男だ。彼は自ら鍛えているのか海賊たちの中でも取り分け屈強で分厚い肉体を持っている。


 だけど、その屈強な肉体は真っ黒な布で包み隠されているので目立つことはない。彼は好き好んでなのか、センスが悪いだけなのかはまだ付き合いが浅いので定かではないが、浮浪者みたいにボロボロな海賊のマントを身に纏っている。


 ハイレッディンさんのそのマントが恵まれた体格も、鍛え上げられた腹筋も、太く逞しい両腕の筋肉も、彼が努力で勝ち得たすべてを否定しているようだった。


 それと……言い難いことなのだが、ハイレッディンさんは防水のためなんだろうが近寄るとタールの臭いがする。衣服に染みついてしまっているみたいだ。その臭いが個人的には苦手だった。いや、人柄が良いのはちゃんと伝わってくるのだ。初対面の俺にも彼は人懐っこい笑みを浮かべて話し掛けてくれたんだから……


 でも、昔から煙草の臭いが苦手なんだ。どうしても好きになれない。さらに彼の衣服からは煙草の臭いというだけでは説明がつかないほど強烈な臭いがするんだから傍にいるだけで辛い。いい人なのが理解できてしまうから遣る瀬無い。


 ……そういえばエドワードさんからも似たような臭いがしたな。あっちはただ煙草を吸っているからかもしれないけど。


「おい、兄貴! 黙ってねぇで、何とか言ったらどうなんだよ!」


 再び、ハイレッディンさんは机をバンッと叩いた。ピリピリと全身に電気が走ったかのような緊張感に気圧されて背筋が伸びる。


「……愚かだったあの頃のオレはもういない。そう、失った左腕に誓ったのだ」


「だけど、俺が憧れたのは――」


「無駄が過ぎた。話を戻すぞ、ハイレッディン」


「ッ、ああ!」


 そう言うとハイレッディンさんは自分で倒してしまった椅子を右足の力だけで器用に立てて、座り直した。落ち着きを取り戻すための行動だったのだろうがまるで意味をなしていない。真っ赤に染まった赤い髪の毛が逆立っていた。加えて彼の水色の瞳からは激しい怒りと深い失望の感情が読み取れる。どうやらハイレッディンさんは感情を制御することが苦手のようだ。自分の激情に振り回されている。


「そんなことよりもさっさと進めてくれよ。時間が惜しい。わざわざ俺たちを呼んだってことはお前の中での結論はもう決まってんだろ? なぁ、”赤髭”?」


 このテントに集められた男の一人が「早く、結論を言え」とウルージさんに催促した。名前は知らないがでっぷりと腹の出た男だ。態度が悪いというわけじゃなく単純にウルージさんのことを舐めているのだろう。しかし、彼の言うことは一理ある。今は時間が惜しい。リーネたちの、第一陣の救助に向かうには二時間のロスは多すぎたぐらいだ。


「ああ、オレたちはこれより第一陣を見捨てて撤退の準備に取り掛かる。それが第二陣の指揮を預かっているオレの判断だ」


 だけど、彼はそんな俺の考えを甘いと遮るようにそう言い切った。俺には彼の言葉がよく聞こえなかった、いや、聞こえていたが理解ができなかった。凄まじい切れ味のナイフで刺されたような感覚だ。ぴしゃりと背骨ごと腹を斬り捨てられたかのような冷たさがこみ上げてきた。


 いや、だって……助けに行くんじゃないのか?

 

 招集と聞いて当たり前のように救出の算段を立てるために集められたんだと思っていた。人喰い迷宮の調査を中断するにしてもアイツらを助けるのは当たり前だと思っていたんだ。ウルージさんの決定に賛成する人なんていない。そう思ってテントの内に集められた彼らの出方を伺った。だけど――


「……やっぱり、そうなるよな」


「仕方ねぇよな。アイツらのことは残念だけどよ」


「議論なんてする必要はねぇだろ。わざわざ二時間も引っ張りやがって……」


 彼らに開いた口の中から次々と出てくるのはそんな言葉だけだった。今の彼らは俺が嫌いな人たちの目と同じだ。疲れ切ってしまった社会人のようだ。彼らには草臥れたような諦観が、憔悴しきった諦念があった。


「え、助けに行くんじゃないんですか?」


 だから、我慢できなかった。リーネたち、第一陣のことを見捨てる判断に文句を言わないどころか、是としている彼らの態度が気に食わなかった。


 驚きで開いたまま塞ぐことができなかった口から零れ落ちていた俺のセリフは、俺のその場違いな発言は、喧騒の中でもいやに響いた。テント内にいる全員の耳に届いたはずだ。シーンと場が静まり返る。みんなが俺に向かって『なんだ、この馬鹿は?』とでも言いたげな視線を送ってきた。


「ハッ、ハハハ。おい、ガキ。お前、まだ状況が理解できていないのかよ?」


「いや、だって、そうじゃないなら何のための話し合いなんですか?」


「……はぁ。そんなことも分から……いや、もういいや。話し合いって銘打っているがな、上の決定を伝えるために集められるなんてのはよくある話だろう? 下っ端である俺たちはそれを覆すべきじゃねぇ。そんなことを許していたら色々と滅茶苦茶なことになっちまうからな。これが大人の世界の常識ってヤツだ。……一つ賢くなれてよかったなぁ、坊主?」


「……だから、見捨てるんですか? 本当は助けたいって思ってるくせに冷静ぶって、諦めるのが大人なんですか?」


「ッ、ああ、そうだよ。これはな、古代ドワーフの魔剣だぞ。どれほどの危険が待ち受けているのかもわかってねぇのに大勢を率いて突っ込むような気狂いはここまで生き残れちゃいねぇんだよ! 情報がねぇ、生きてるかもわからねぇヤツらのために何で危険を冒さないといけねぇんだ。危険だと分かってんのに策もなく無暗に突っ込むなんて勇者じゃなくて、愚者のすることだ! お前はオレたちに一緒に死ねって言ってんのかよ!」


「おい、止めとけよ! まだガキじゃねぇか。……ジン君、だっけ? アンタは現世から来たから知らねぇかもしれないが……魔剣が危険なもんだって聞いていなかったのか? 古代ドワーフたちは個々で培った知識や技術をその数少ない弟子にのみ共有し、伝承してきたとされる。その徹底ぶりを知ると絶句するほどだ。例えば無二の友であっても技術を盗みに近づいたのだという疑惑があったら、その友を躊躇いなく殺すようなのヤバいやつの集まりだ。情け容赦のない罠を仕掛けるケースだってあった。この迷宮よりも小規模なアストゥロだって本来は細心の注意を払って、死の覚悟を持って調査しないといけねぇぐらいだからな。それぐらい危険なんだ。古代ドワーフのせいで発生した犠牲者は数知れないんだ。それによ、そもそもの話だが……事前の計画を無視して、二時間も連絡をしてこないヤツらは全滅したって考える方が妥当じゃないか? いや、俺たちだってなにも今すぐここを去るって言ってるわけじゃない。テントの位置をここから少しだけ移動させる可能性はあるが、明日の朝までは船に帰ることはできないしな。それまでにアイツらがでてくる可能性だってある」


「……まあ、どちらにせよ明日の朝までがタイムリミットだな。それまでに自力で帰ってこれないならここに置いて行くしかない。ムキになってこれ以上、被害者を増やす選択をする方がバカなんじゃないか? まあ、迷宮の攻略に失敗したってなったら俺たちの面子は丸つぶれだし、近隣の領主からの信頼は下がるかもしれないが……命を失うよりも遥かにマシだ。そうは思はないのか、坊主?」


「それは、そうですけど……」


 彼らの方が正論なのだと頭では理解できている。歴が違う彼らの判断に任せた方が安全なんだと頭では理解できている。それでも、それでも、と必死になって頭を働かせたが、彼らへの反論が咄嗟に思いつかなかった。何も言い返せなくなった俺は最後に縋るようにアリアさんに視線を向けたが……


「ジン君、撤退の方が現実的な判断だと思います」


「そ、そんな……」


「いや、オレはそこの坊主に賛成だぜ!」


 アリアさんに希望を打ち砕かれてショックを受けていたが、すぐにハイレッディンさんの大きな一声によって掻き消された。


「……ハイレッディン、お前……」


「怒らないでくれよ、兄貴。別にオレだってまったくの考えなしで発言したわけじゃねぇぞ? まあ、感情的な発言を許してくれるなら腑抜けたことばっかり言ってる根性のねぇヤツらをぶん殴ってから助けに向かうけどよ。……聞いてくれるか?」


「……話してみろ」


 ウルージさんは髭を一撫でした後に苛立ちを滲ませる声音でハイレッディンさんに強く迫った。


「ああ、だってよ。仇討ちで死ぬのなんて一番バカらしいし、飯は家族全員で食った方が美味いだろ? だから、助けに行きてぇ」


「……はぁ。チッ、もういい。オマエは少し黙ってろよ」


「嘘だよ、嘘。冗談だ。この嫌な空気を少しでも紛らわせようとしただけだろうが。……ただよ、この魔剣、人喰い迷宮とやらはなんのために造られたんだって思ったんだ。目的って言えばいいのか?」


「目的って……それぐらい頭が空っぽで生きているお前でも聞いたことぐらいあるだろ? 古代ドワーフは師が弟子に培った技術のすべてを継承させるために壁画に残して、その技術の粋を尽くしてアストゥロやこんなバカデカい迷宮をおったててんだろ?」


「あれ、それも有力だって主張されている説の一つであって確証はないんじゃなかったか? 古代ドワーフの壁画を読み解く術は疾うの昔に失われちまっている。壁画の解読は俺たちがってよりも、現代を生きているドワーフだもがしたいことだろうさ……で、それが何に繋がるんだよ?」


「あ、いや、それだとよ。なんつーか……可笑しくないか? たった二時間で五十人足らずが全滅するような罠があるなんて不自然だって思ったんだ。なんだ、これまでもよ、オレは結構な数の古代ドワーフの遺跡を踏破してきたが……最初のうちは死ぬような罠じゃねぇんだ。同族用の罠だからか基本的にはオレの胴体よりも下を狙ってくるんだよ。足に矢が飛んできたりよ。アイツらはその程度で死ぬような奴らじゃねぇし、勘が鋭いロバーツを含めて全員が抵抗すらできずに肉塊になったなんて考え難いっていうかよ……」


「……古代ドワーフの意図を読めということだな?」


「ああ、そう、それだ! 視点を変えてみろって、兄貴がガキの頃に言ってただろ? ほら、他人の荷物を盗むぐらいしか生きる道がなかったぐれぇガキの頃の話だよ。喧嘩も、盗みも、負け続きだったオレにアドバイスしてくれたじゃねぇか。そのおかげでバカなオレでも生きてこられたんだ」


「覚えていない」


「……チッ、そうかよ。だけど、一理あるように思えてきただろ? 安心しろよ、わざわざ行きたくないヤツらを集めたところでやる気がねぇと無意味だ。士気が下がる。だから、第二陣や第三陣の中でも覚悟があるヤツらを搔き集めてオレが潜るよ。それだと文句がないだろ? なぁ、そうだよな? 坊主?」


 眼前で繰り広げられる二人の討論を真剣に聞き入っていたら急にハイレッディンさんから話を振られた。


「…………え、俺ですか?」


「お前の他に誰がいるんだよ? ここにいるヤツの面をよーく見てみろよ、坊主っていうよりも中年、おっさんしかいねぇじゃねぇか! ハッハッハッ、まあ、そんなことはどうでもいいな。お前もオレと同じようなことを思ってたから意見したんだろ? だけど、すまねぇな。オレが美味しい所を持っていっちまった。早い者勝ちだから恨んでくれるなよ?」


「は、はぁ……」

 

 ハイレッディンさんは上機嫌に笑いながら、俺の肩を「嬉しいぜ、命を懸けでまで助けようとしている若いヤツがいて」と何度も、何度も、軽い威力で小突いてきた。痛みはまったくと言っていいほどないが、できれば止めて欲しい。というかそれは過大評価だ。俺はただ……その、何て言うか――


「ついて来れているか?」


「……え」


 さっきまで俺の存在にすら欠片も興味を持っていそうになかったウルージさんがそんな質問を投げかけてきた。質問の意図はわからない。だけど、俺は心の内で思っていたことをウルージさんに完璧なまでに言い当てられて驚きの声が漏れた。心臓の鼓動のリズムが少しだけズレた気がする。


「あぁ? 何を言ってんだよ、兄貴?」


「……あらゆる可能性を模索せず盲目的に友を信じることと、あらゆる可能性を模索して理性的に友を信じることには明確な差がある。そして、今の君は前者だな。リーネルやシュテン、君は仲間が死んでいるとは考えていない、むしろ、考えないようにしている素振りさえある。都合の悪い可能性から目を背けるべきではない。それは罪だ。思考することを止めるな。ただ子供が駄々をこねるように『助けに向かわないと』の一点張りでは愚の骨頂だ。今の状態の君では近い未来、いつか取り返しのつかない失敗をする日がくるだろう。俺と同じようにな……。それを、君は理解できているか?」


 ウルージさんは失った左腕をギュッと力強く握り締めていた。真っ黒に染められた彼の袖の部分は雑巾を絞ったみたいに皺が寄っている。


 彼の暗い焦げ茶色の瞳に捕らえられた瞬間――思わず半歩後ろに退いてしまった。後退していた。逃げるように身体ごと引いていた。これは射抜くような厳しい目で見られて怖くなったわけではなく、俺の全てを見透かされているんじゃないかと不気味に感じてしまったからだ。


 ウルージさんの瞳は俺の全身を映しているはずなのに、俺のことを見ているわけじゃない。俺という鏡を通して別の誰かを見ている。その別の誰かにもはや殺気に近い苛立ちと、黒く濁ってしまった後悔を向けている。何故分かったかって、俺と同じ瞳だったからだ。現世で生活していた頃の、いや、昔の俺をもっと酷くしたような自責に満ちた瞳だったのだ。


 あのまま現世で怠慢に生きていたら、俺はたぶん今の彼と似たような目になっていたんだろうなと思わせるには十分な迫力があった。


 だからというわけじゃないが、彼の言葉を一言一句違わずに頭の中で繰り返した。抑揚はあまりなかったが、内なる感情が言葉に宿っていた。それを口には出さずに頭の中で何度も、何度も、繰り返した。


 繰り返して、繰り返して、ようやく俺は自覚した。


 ああ、そうか。アイツらだって死ぬんだよな……


 今回もアイツらが無事に生き残れるとは限らないんだ。また、宴で盛り上がって、酒に酔って騒いでいる彼らと話せるとは限らないんだ。だって、死ぬということは、それまでってことなんだから……


「……ッ……」


 リーネたちの死を意識した途端、背中をナイフで刺されたような寒さを感じた。突然、足元が覚束なくなり、呼吸をする度に別れの重さで身体が地面の底に沈んでいくのを想像した。


 後悔と羞恥が俺の心を焼いてくる。いくら冷静さを取り戻しても押し寄せてくるのは、さっきまでの自分に対する罵倒ばかりだ。どうしようもないアホはこの場で俺だけだった。彼らの現実に即したことは口にせず、都合の良い妄言ばかりを撒き散らしていた。どうしようもない馬鹿野郎だ。

 

 ああ、クソ。いつもそうだ。何度も、何度も、人生で同じ過ちを繰り返している。いや、同じ過ちを繰り返しているから俺はバカなんだな。過去の失敗から何も学べていない。いつもは悲観的なくせに、自分が考えたくもない最悪の出来事を前にしたら楽観的になる。思考放棄が俺の悪い癖だって、こっちに来てから散々学んだだろ。いや、現世にいた頃も自覚はしていた。ただ、直そうともしなかった。


 これまでマシになったと思えていたのは命の危機という回避できない巨大な脅威を前にして、俺の悪癖ともいえる部分が一時的に強制されていたからだ。それだけだった。


 逃げていた自分が恥ずかしい。自責の念でこの身を焼いてもまだ足りない。


 少し考えたら他者より要領よくできるって常日頃から心のどこかでそう思っていた。俺は兄貴と比べるとバカで何もできないけど、世間一般でバカだと言われている人々よりかは遥かにマシだと。俺にだってプライドはあった。同級生たちよりも勉強に時間を費やしていたから、一番にはなれないにしても下の方がまだ多いと思っていた面もある。


 普段から考えることを放棄しているんだから他の人たちとまったく変わらないはずなのに。自分から唯一の武器を手放した状態で何ができるって話だよな。


 慌てふためいて動揺していた彼らの方が俺よりも遥かに現実を見れていたんだ。彼らのことをバカにしていた自分の方がバカだったなんてとんだ笑い話もあったものだ。いや、このままだと酒の肴にもならないような嗤い話だな。


 馬鹿は死んでも治らないとは本当だったようだ。俺は死んでもバカのままだ。だから、この悪癖は死ぬ気で直さないと。……このままだと俺はカツキのように頼れる存在になるどころか一生役立たずのままだ。


 これからは常に最悪を考えて行動しろ。


 グリフォンの時も、ヒュドラの時も自分の直感を信じて生き残った。だけど、それだけじゃあ足りない。


 まずは口先ばかりで何もできない俺をここで殺してしまえ。『なにかできることはあるか?』だの、『今の俺にできることだけをしよう!』だの、とそう言った受け身な思考をしていること自体がそもそもの間違いだったのだ。俺に本当に必要だったのは転ばぬ先の杖だ。


 経験も、知識も、武力も、すべてが足りていない俺が天幕に集まっている彼らと肩を並べて議論を交わすためには、このままリーネの船に身を置き続けるためには、常に最善手を頭で考え続る人間にならないとダメだったのだ。


 どんな状況でも諦めずに考え続ける、それこそが化け物じみたリーネたち(アイツら)にも負けない唯一の武器になると信じて……


 そう自分に言い聞かせてから俺は一度、大きく深呼吸をしてからテント内をぐるりと確認する。テント内の人物の顔を一人、一人、教科書を暗記するように見る。ウルージさんに招集された面々には覚悟があった。諦めではない。損切りってヤツだ。彼らは仲間を切り捨てる覚悟をしたんだ。


 諦めではなく、覚悟。これ以上の被害を出さないように仲間であっても見捨てる覚悟。さっきまでの俺にはなかった視点だ。だけど――


「はい、大丈夫です」


「そうか……」


 だけど、そのことを理解できていたとしても迷宮内部に足を踏み入れた彼らのことを見捨てることができないのは俺の未熟さなのだろうか?


「おい、おい、ウルージさんよ。『そうか……』じゃねぇだろ! しっかりしてくれよ! オマエらもこんなガキ一人に乗せられそうになってんじゃねぇ! 失敗したなら、ムキにならずに撤退するのが定石だろうが! オレが何か一つでも間違ったことを言ってるかよ⁉」


「いや、間違ってねぇよ。俺もお前の意見に全面的に賛成なんだけどよ……ここまでシモンが取り乱すのは珍しいな? 何か他にも理由でもあるのか?」


「ッ、理由なんて他にあるかよ! こいつは昔からガキと弟分には甘いんだ!」


「おい、みっともねぇぞ! 古株であるオレたちが動揺してどうする! 根性みせろや! なぁ、アリアさん!」


「……ここで私に話を振るのは悪意を感じますよ。……撤退に進行、どちらの意見にも筋が通っているのは事実です。このままでは平行線のまま時間だけが過ぎてしまうことでしょう。ですからここは第二陣の指揮を任されているウルージさんの決定に従うべきだと思いますよ?」


「……」


 アリアさんから話を振られたウルージさんは整えられた赤髭をゆっくりと撫でながら思案していた。あらかじめ話の展開を予想していたのか急に矛先が向いたはずなのに彼の顔には動揺がない。どっしりと腰を据えて、平静を保っている。


 いや、当たり前のことか。それが、これだけの人数がいる海賊たちの指揮を執るという責任の重さなんだ。


「兄貴、行こうぜ!」


「こいつらに踊らされるなよ。お前はオレたちの命を預かってる立ち場にいるんだからよ!」


 ウルージさんの毅然な態度は傍から見ていると焦りという感情を母のお腹の中に忘れてきたのかと疑うほどだった。


「……これより第二陣のメンバーをさらに別ける。志望者を募れ。志望者のみで構成された救助隊を人喰い迷宮の内部に向かわせ、第一陣の救援活動を行う。俺が直接指揮を執ろう。ハイレッディン、お前は外で待機していろ。俺の代わりにこの場に残り、帰りを待て。明け方までに救助隊の姿が見えなければ全滅したものとみなし、待機している残りのメンバーを率いて黄泉の国へと帰還せよ。以上だ」


 ウルージさんの発言をすべて聞き終えてから、シモンという男は全力で噛み付くように勢い良く立ち上がった。


「おい! どういうつもりだ、ウルージ!」


「なんだよ、話を聞いてなかったのか? 志望者のみって兄貴が言ってんだからもうお前が口を挟むことじゃねぇだろ?」


「うるせぇぞ、ハイレッディン! オレはウルージと話をしてんだ!」


 彼は興奮で息が絶え絶えになっていた。それに頭に血が上りすぎたせいで頭痛がするのか右手で額の辺りをグッと押さえて口を開く。


「……はぁ、いいか。よく聞けよ。オレたちみたいに経験のあるヤツらはあからさまな危険を避ける。誰だって死ぬのは嫌だからな。こんな場面だと挑戦しない。だから、志望者ってのはガキどもが中心だ。ってか、オレたちはやらかしたガキどもの敵討ち、もといケツを拭くためにここに来たんだろ? なのにガキどもを危険に晒すなんて本末転倒もいいところじゃねぇのか!」


「……契りだ」


「あ?」


「海賊としての契りだ。通過儀礼はお前も済ませているだろ? 俺はこの場にいるお前たちのことを、人喰い迷宮に足を踏み入れて死んだロバーツのところの新入りたちも、家族同様だと思っている。俺には血の繋がった家族というものがいたことがないが大切に思っている。思えているはずだ。……だからこそ、人喰い迷宮を攻略することこそが死んでいった者たちへ捧げられる唯一の手向けになるのだと考えていた。恐らく、ロバーツたちもそのつもりだったのだろう……」


「ッ、そりゃあ詭弁だろ? オレたちを巻き込む理由にはならないはずだ。アイツらはこの迷宮の攻略に失敗しちまった。だから帰ってこない、それが結論だろ!」


「……何度でも倒れても立ち上がれるうちは失敗ではない。本当の失敗とは倒れたまま立ち上がれなくなった状態のことだ。そう、失敗とは取り返しがつかなくなって初めて口にするべき言葉であって、次などという考えは失敗を経験したことがない者が謡うただの戯言だ。お前の言う通りだよ。俺もやり直したいといくら望んだかもうわからない。過去の過ちを正したいと願っても、それは叶わなかった。叶うはずもなかった。それほどまでに重いのだ。……だが、まだ失敗したと決まったわけではないのに挑戦を諦めるのはそれ以上に愚かな判断だと気付かされただけだ」


「いや、だからってよ……」


「待てよ、シモン。金や名誉に目が眩んで勝手に人喰い迷宮に足を踏み入れたガキどもが一番悪いのは決まってるけどよ、俺たちだって彼らの”若さ”に同情はしているぞ? だけどよ、そこまで気にするのは過保護がすぎるんじゃないのか? 俺たちは海賊であると同時に家族でもあるが、アイツらの母親や父親ではないはずだ」


「そうだ、そうだ。これもあれも全部が全部、自己責任だ。海賊になるのも、不注意にこの人喰い迷宮に足を踏み入れたのも、ここで死んだのもガキどもが勝手に選んだ道だ。先輩として若いヤツらを優しく止めてやるのは結構なことだが、ここで行くも死ぬも結局は個々の選択次第だ。俺らがいくら口で言おうと物理的に止めることはできない。大人が親切や後悔で言うセリフなんて土を付けて、バカにする。歯止めが利かないんだ。若い頃ってのは誰だってそうだろ?」


「ハハッ、ちげぇねぇな! 小心者と呼ばれているオレにだってそういう時期はあったんだ。……そもそもよ、これは自分のケツも自分で拭けないような子供がたまたまオレたちと同じ職場にいたってだけの話だろ? 死んでいったヤツらももうとっくに下の毛が生え終えてるんだ。成人を済ませてる歳なんだぜぇ? 分別がつかない年頃ってわけでもねぇ。それなのに何をそこまでムキになってやがんだよ、シモン。らしくねぇぞ?」


「……はッ! もう勝手にしろ! オレはぜってぇに行かねぇからな! てめぇらの兄弟ごっこにはこりごりした。付き合ってられるかよ」


 シモンさんは不機嫌そうに顔を歪ませて、乾いた地面を蹴りながらテントの外へ出ていってしまった。何かに追われるようにテントから出ていった彼の背中をしばらくの間見つめているとガタンッ、とウルージさんが立ち上がるために後ろに引いた椅子の音で俺は視線を戻した。


「……以上で解散とする。各自、持ち場に戻り人喰い迷宮に向かう志望者を集え。だが、決して強制はするな。……他に質問はある者はいるか?」


 この場にいる皆の視線が集まるのを待ってからウルージさんは口を開いた。静かだが、重厚感のある声だった。こんな声色で迫られたら怖くて誰も声を上げることはできないと俺は思ったが、スッと空気を切り裂くようにハイレッディンさんが天に向かってゆっくりと手を挙げた。


「なら、オレから一つだけ。あー、でもこれは質問ってよりかは不満ってやつだな。……人喰い迷宮には兄貴じゃなくてオレが行くよ。オレが行くから、兄貴がここに残ってくれ。それでいいだろ?」


「ハイレッディン、お前は――」


「あ、言っとくが文句はなしだぜぇ! オレは昔から、こういうことでしか兄貴の役に立てないんだからよ……まだ不十分かもしれないけどよ、オレが兄貴の失った左腕の代わりになるよ。あ、それに、兄貴の剣だと狭い室内じゃあ、取り回しが不便になるよな? 室内みてぇな閉所だと戦斧の方がいいって昔、教えてくれただろ? ……どうだ? オレはまた間違ってるか?」


「……チッ、好きにしろ……」


 そう言い残してウルージさんは席を立った。シーンと静寂がテント内に満ちていたが、すぐにハイレッディンさんが彼からのバトンを継ぐようにどっしりと腰を下ろしていた椅子から立ち上がり――


「……決まりみてぇだな。よし、さっそくだが取り掛かってくれ。人喰い迷宮に第一陣の救出に向かう。あ、兄貴が言っていたように志望者を呼びかけるだけで強制はするなよ。あくまでも自分から行きたいっていう根性のあるヤツだけを集めろ。それでいいな! それでいいんだよな!」


 と、指示を出した。あと些細なことなのだがハイレッディンさんは人に命令を出す立場に慣れていないのかウルージさんと比べるとどこか優柔不断だと感じてしまった。まあ、他の人たちも俺と似たような空気を肌で感じたのか「お前が命令すんなよ」と聞こえないような声量で愚痴を吐き捨てて、テントの外に出ていった。


 いや、ハイレッディンさんは頑張ってこの場をまとめてくれたんだから内心で思っていたとしても口に出すなよ。そんなことを考えながら俺も彼らに流されるようにテントを出た。第一陣の皆を救助するために頭を働かせながら……




 ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※


 

 ウルージさんの命令で志望者を募り始めてからまだ二十分程度しか経っていないはずなのにもう充分な人数が集まったみたいだ。先に迷宮へと足を踏み入れた第一陣のメンバーと人数的にはあまり変わりない。


 救助隊を構成するにはもう不足はないはずだ。今すぐにでも彼らを助けに行きたいと急く思いを胸に留めて、落ち着きを取り戻すように意識して呼吸する。


 突入まで時間にまだ猶予があると判断した俺は思考を休めることなく、人喰い迷宮の入口の前に集まった人々の顔ぶれを観察することにした。


 すると一つだけ気付いたことがある。この場に集った彼らは俺よりも少しだけ年上で、海賊の中では若手と呼ばれている者たちが多いみたいだ。シモンさんが言っていたように若者が多い傾向なのは間違いないのだろう。

 

 新入りである俺が一目で理解できるほど普段とは雰囲気が異なる。全身が瑞々しい活力に満ちていて、とてもエネルギッシュだ。彼らの瞳は「オレこそが!」という功名心や承認欲求でギラギラと燃えているかのように輝いている。


「お、ハハハッ! おい、なんだよ。坊主も来るのか?」


 そんなことを考えていると背後から近づいてきたハイレッディンさんから後頭部を鷲掴みにされた。骨張っていて、ゴツゴツとした大きな手だ。そんな手に荒々しく、または激しく頭を振り回されて視界が揺れる。目が回りそうだ。


「ちょっと、いきなり何ですか? やめてくださいよ」


「あ、悪い、悪い。メガネかけてるし、貧弱そうだったからよ……あ、いや、根性のあるヤツだとは思ってるぜ?」


「余計なお世話ですよ……ただ、何ができるかはわかりませんが、何もできないところに居たくないんです……」


 ぼさぼさにされた自分の髪を手櫛で整えながら、再び訪れるかもしれないハイレッディンさんの魔の手から逃れるために距離を置いた。


「ハハハッ! そういう変に根性(タフ)っていうか、肝が据わってるところがリーネルたちから気に入られた理由(わけ)なんだろうな。……まあ、兄貴がさっき坊主に対してあんなこと言ってたけどよ。オレは失敗はいくらでもしていいと思うぜ? 特に若いうちはな。若いうちは失敗を恐れるよりも、挑戦する方がいいんだよ。だって、年食ってからの失敗はシャレにならねぇ。致命傷になっちまうからな。……自分にとって都合がいいことを考えて、前に進むことができるのが”若さ”の本質だってオレは思うぞ。まだ坊主はガキなんだから失敗覚悟で挑戦してみろ! どんな失敗もただの経験だ! 根性で乗り越えてみせろ! ってオレは思うぞ」


「はい、そうですね。命がかかっている場合を除いてにはなりますが、私も失敗はたくさんした方がいいと思いますよ」


 ウルージさんとは別の見解を俺に述べてきた。情熱がこめられた口調で暑苦しいぐらい強く訴えかけてきた。熱弁を振るという言葉はまさにこのことなのだろう。そんなことを考えていたら白銀の鎧に身を包んだアリアさんがカチャ、カチャと音を鳴らして近づいてきた。よく見ると何重にも巻いた縄を肩にかけている。


「あ、アリアさん……その縄はなんですか?」


「ああ、これですか? これはですね、第三陣の方々からお借りしたものですよ。私たちが救出に成功しても失敗しても撤退になるみたいですし、それなら第三陣の仕事も同時にこなした方が手っ取り早いと思いませんか?」


 穏やかな口調で子供を諭すようにアリアさんが説明してくれたおかげでようやく理解ができた。彼女の他にもそこそこ縄を持っている人がいるとは気が付いていたが、知り合いがいなくて聞くに聞けなかったのだ。まあ、そっちの方が効率的だし、もともと第二陣と第三陣の仕事をわける必要性を感じていなかったからな。


 もちろん大人数で一気に迷宮へ入れないっていう理由はあるんだろうが仕事はできるだけまとめた方が上手くいくと誰かに聞いたことがある気がする。それぞれの役割をグループのみんなで協力し、全うすることで効率的に業務を行うことができるのだ。……俺? 俺は相も変わらずランプ係だよ。


「というか、アリアさんも行くんですね」


「以外ですか? 会議の場ではあんな薄情なことを言っておきながらと」


「いや、そういうわけじゃないですけど……」


「フフ、大丈夫ですよ。私も本当はジン君と同じなんです。会議を円滑に進めるために思ってもいないことを口にしましたが本心では彼らが呆気なく死んでしまったとはどうしても思えないのです。彼らはここで天運の尽きるべき所にないと私は心から信じています」


「そうだぜ、坊主! オレたちが信じないくて他に誰が信じるんだって話だろうが。この先に脅威はない。あるのは助けられるのを待っているアイツらの命だけだ。なぁ、アリアさん!」


「……そうですね。そうかもしれません。……あ、そんなことよりもいいんですか? ウルージさんから任された仕事を果たさなくて。もう当初の予定よりも充分な人数が集まっているみたいですけど」


「ん? ああ、確かにヤバいな。ちょっくら行ってくるわ!」


 ハイレッディンさんは今まで見たことのないほどの満面の笑みでアリアさんに別れを告げた後、ずっしりとした重量感のある斧を片手で持って、人喰い迷宮の入口へと走り去ってしまった。たぶん、いや、確実に彼はアリアさんに恋心を寄せているんだろう。俺のそんな仮説を補強するかのように彼は人混みに飲まれるまでチラチラと未練がましくこちらを振り返っていた。


 煙草のような臭いと熱血系なノリが合わさったせいで良い人なのは理解できるが、正直、どちらかと言えば苦手寄りの人だった。だけど、アリアさんに好意を寄せるとはセンスは良いみたいだ。見る目があるとも表現できる。彼とは二人っきりになっても美味しい酒を飲み交わせそうだ。だけど――


「……もしかしてアリアさんってハイレッディンさんが苦手なんですか?」


「え? そんなことはないですよ? ハイレッディンさんはああ見えて、とても真面目な人ですし。私も彼も副船長という同じ立場に身を置いている者として、お互いの苦労話にも共感できます。……あー、でも、声が大きな男性は少しだけ苦手かもしれませんね。それがどうかしましたか?」


「……いや、何でもないです。気にしないで下さい」


 きょとんと不思議そうに首をかしげているアリアさんを見ていると同情心が芽生えてしまう。もちろん彼女にではなくハイレッディンさんに対してだ。人とは眼中に無い異性を前にするとあそこまであからさまな好意にすら気付かなくなるものなんだろうか?


 そんなことを考えながらも俺は魔法で生み出した縄をアリアさんの真似をして肩にかけた。相変わらず奇妙な感覚だ。普段から使っていないせいかまったく慣れない。突然、尻尾でも生えてしまったかのようだ。くすぐったさと気持ち悪さが同居している。というかリーネたちと比べて俺の魔法は地味だし、使い勝手が悪いなんて酷いと思わないか。彼らと並べるほどの練度になればこの違和感は消えるはずだと我慢しているが、何年後の話になるんだろうな。いや、甘い期待(そんなこと)よりもまずは集中しろ。先を読め。最悪の場合、俺らが突入するよりも前に第一陣の皆が死んでいる可能性だって全然あるんだから……


「てめぇらはただオレの後を付いて来ぃ! ”赤髭”の弟分であるこのハイレッディンがてめぇらの前を行く! 安心しろや、何が来てもオレがど(たま)をかち割ってやるからよぉ!」


 人喰い迷宮の入口からハイレッディンさんの馬鹿でかい叫び声が聞こえてきた。リーネやロバーツさんと同じように士気を高めようとしているのだろう。近くで聞いていた彼らもハイレッディンさんの声に呼応するように声を上げることで一体感が生まれていた。


 チラリと腕時計を見ると話し合いが終わってからちょうど三十分が経過した。いよいよ時間になったようだ。今度は俺たちが彼らの背中を追って人喰い迷宮の内部に足を踏み入れるのだ。そう意識してから俺はグッと拳に力を込めた。震える拳を黙らせるように力を込める。ついさっきウルージさんに言われて覚悟を決めたはずなのにいざとなったら手が震えてしまう。


 いや、きっと死を意識してしまったから震えているのだ。無意識に目を背けていた事実と頑張って向き合ったから恐怖が生まれるのだ。だけど、こっちの方が健全なはずだ。さっきよりもマシな顔付になれていると思わなければやってられない。


「不安ですか?」


 俺の様子を心配したのかアリアさんが端的にそう尋ねてきた。これもまた核心を突く一言だ。ウルージさんの時も思ったが俺ってもしかして悩んでいることがすぐに顔に出るのだろうか? それとも彼ら彼女らの中で二人が特に人の心の機微に聡いだけなんだろうか? いや、たぶん前者なんだろうな……


「……はい。正直に言ってしまうと不安です。ウルージさんの発言を受けてたぶん……成長のきっかけになったと思うんです。今までの俺は考えたくもないことを無意識のうちに避けて、考えないでいいように逃げてきたんです。それがダメだと気付かされました。……でも、やっぱり俺は死ぬのも嫌だし、アイツらに死なれるのも嫌なんです。そんなことを想像するのも嫌なんです。これがアリアさんみたいにアイツらを信じてるからじゃなくて、ただ俺が嫌だからなんです……」


 バレてしまったのなら誤魔化しても意味がない。だから、俺はウジウジせず心に溜まった澱を吐き出すことにした。素直に不安を口にしてみることにしたのだ。

 

 俺の不安を真っ正面から受け止めたアリアさんは聖母のような微笑みを浮かべていた。そして、逡巡するかのように目を閉じた。目を閉じて、目を閉じて、無力に苦しんでいる少年に何を言うべきかを思案している。過去の彼女自身の行いを思い返して、振り返って、参考にしているのかもしれない。


 彼女のぷっくらとした唇が少しだけ動いたかと思ったら、止まって、噛み締めて、また動いてを繰り返している。俺がもしアリアさんの目の前に立っていなければ気付かなかったほど小刻みに震えていた。この沈黙が長く続くと思っていたが、無言の時間はすぐに終わった。アリアさんは一度、深く頷くと同時に目を開けたからだ。綺麗な青い瞳が俺のことをジッとみつめてくる。


「……大前提として、私はジン君の悩んでいることをすべて理解できているかもわかりません。きちんと共感できているかもわかりません。なぜなら、私とジン君は何もかもが違います。わかります、なんて軽々しく口にして、寄り添うだけでは今の君には気休めぐらいにしかならないかもしれません。ですが、頼りにされた身としてはできるかぎり期待に応えたいです」


 そこで言葉を区切ったアリアさんは俺の両手を包み込むようにギュッと握った。鎧の硬さが伝わってくる。アリアさんが肌身離さず身に付けている十字架が揺れた。


「なので、檄を飛ばすことにしました。悩みという名の暗き森を彷徨っている私では、ジン君の力にはならないかもしれません。けれど、迷いを知らなかったかつての私なら……いえ、違いましたね。ジン君よりも遥か先を生きた者のひとりとして、あなたへのせめてもの助けになると信じて、この言葉を送りましょう……」


 彼女はそのまま俺の両手を自身の胸元にまで近づけた。その仕草はとても洗練されていて、まるで神に祈るかのようで……俺は彼女のなすがままにされていた。いや、蛇に睨まれた蛙のように動けなかったのだ。なぜって、俺のこれまでの人生で出会った誰よりも迫力があったからだ。


 謎だ。謎だった。アリアさんは華奢な女性だ。測っていないが身長だって俺よりも十センチほど低いに違いない。だけど、今、ここにあるのは畏敬だった。背筋が勝手に伸びる。正座でもさせられている気分だった。

 

 母が子に向ける包み込むような優しさの中に確かな芯があり、副船長としてのいつも何かの仕事に追われている苦労人。それが彼女に対する俺の評価だった。それがたった今、雰囲気だけで覆されたのだ。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、アリアさんは続けて言葉を発した。


「……ただ、勇敢に進みなさい。そうすればすべては上手く行くでしょう」


 泣きたくなるほど優しい声でアリアさんはそんなセリフを口にした。ギュッと握られた両手に、力を感じて視線を下げるとそこには彼女の顔があった。別人だった。別人に見えた。これまでの彼女が決して見せることのなかった、美しいとさえ思ってしまうほどの表情だった。


 目が離せない。何故かは理解()からないが目が離せない。たぶんになるが人を、いや、神様すらも魅了してしまう何かが彼女にはあるのだろう。そうじゃなければ人喰い迷宮の探索を前にして湧き出した不安を脇に置き、思考のリソースを強制的に彼女に割かれてしまった説明ができない。


 強いて言えば、今の彼女はエルフたちに似ている。初めてシュティレ大森林でエルフたちを目にしたときに感じた荘厳で神秘的な雰囲気がある。抱いた感想も似通っているはずだ。だけど、それよりももっと尊くて、冒しがたい。それが、その未知の雰囲気が一人の女性から醸し出されているというのが驚きだった。


「…………」


 近づき難いのに近づいていきたくなるような、太陽の光に身を焼いてでも手に入れたくなってしまう気持になる。不思議と科学的な光に呼び寄せられる蛾にでもなったかのようだ。……まあ、そんなことはどうでもいい。アリアさんがどこか恥ずかしそうに包み込むみたいに握っていた俺の両手を離し、はにかむように笑顔を浮かべた瞬間――先ほどまで、彼女が纏っていた雰囲気が一気に霧散した。


「力になるかはわかりませんがこの言葉を覚えておいてください。……ほら、ジン君。あれを見てください。先頭にいたハイレッディンさんたちの姿が迷宮の中に消えていきました。もう出発したみたいですよ。では、ぼちぼちになるかもしれませんが、私たちも続きましょうか?」


「あ、は、はい……」


 いつも通りの彼女に戻って安心したと同時にガッカリとした気持ちも押し寄せてきた。だって、やっと本当の彼女に会えたような気がしたからだ。


 そんなことを考えてながらも俺はアリアさんから言われた通り人喰い迷宮に顔を向けた。今から、俺たちは人喰い迷宮の中に入るのだ。だんだんとハイレッディンさんの後ろにできていた行列が見えなくなっていく。その光景がまるで人喰い迷宮の巨大な入口に食われているかのようでしかたがなかった。不安だらけだ。


 だが、古代ドワーフが人喰い迷宮の内部にどのような罠を仕掛けているのかはわからないが、勇敢に進んでみなければ具体的にどんな危険が待ち受けているかすらもわからない。捕らぬ狸の皮算用というわけではないがウルージさんの言っていたように心配ばかりして身動きが取れなくなっているのは滑稽だ。愚かしいことこの上ない。


「……ッー、よし!」


 俺はリーネたちを絶対に助けてみせるという思いを胸に俺は小走りでアリアさんの背中を追った。頭は迷宮内に待ち受ける脅威への恐怖とこれからの対処への悩みでいっぱいだったが、俺の足取りにはもう不安がなかった。


 様々な人から助言を受け、学び、多くの気づきと自分の成長のきっかけを掴んだとは思うが最終的に出した結論は変わらない。やれることをやれるだけやると言った気概で、俺はついに人喰い迷宮に足を踏み入れたのだった。


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