第六十五話 『青々とした』
秋の始まる気配がする。いや、やっぱり俺の気のせいかもしれない。
禊木町での夏祭りが終わってすぐに俺たちはイナミ村まで船で来ていた。最初に俺がこの村に訪れたのはグリフォンの巣に向かう途中だったはずだから結構時間が経っている。禊木町では寒さ以外には特に変わり映えがしなかったが、今目の前にはまだ実が充分についていない青々として若々しい稲が育っていて一面に広がっていた。
俺はこの村で一緒に土を耕すことが遥か昔に感じる。シュテンとヒビキの二人と共に全身が筋肉痛になるまで肉体を酷使した。一宿一飯の恩義に報いるために畑仕事を手伝ったのは初めての経験だった。俺が関わった稲がここまで成長するなんてなんだか感慨深いな……
比較的都会である禊木町でそれが当たり前かのようにボーっと日々を漫然と過ごしているよりも、イナミ村みたいな田舎で農業に勤しんでいる方が時間感覚がしっかりとしていて毎日が楽しいのかもしれない。
それに江戸時代までは曜日という概念がなく、一般的に定着したのは明治時代になってからだと聞いたことがある。それまでは体調が悪ければ休むというフリーな考えだったみたいだ。これは逆に言えば調子が悪くなるまでは働いていたとも邪推することができるので、働き詰めの日本人の精神ってこの時代からできたんじゃないかと疑ってしまう。
まあ、こっちでも曜日は船乗り以外は感覚が曖昧で肌感覚で生活している人が多いのだ。試しにサクラコさんに『今日は何曜日ですか?』聞いてみると『妖美? そんな褒めてもサービスしないよ!』と返されたことがある。こんな風に曜日という概念がまだ一般化していない。だけど、リーネたちに聞くとちゃんと答えを返してくれる。
何が言いたいかと言うと船乗りには曜日感覚がとっても重要ということだ。あれ、これが俺の最初に考えていたことだっけな?
「……なんか落ち着くんだよなここ」
畦道に座り込みながらだとリラックスしすぎていて考えがまとまらない。ここに暮らす人たちは何にも縛られていない。いや、農作業には追われているけど辛そうではない。月曜日と水曜日になると駅のホームで死にそうな、不幸せそうな顔をして歩いている人たちがなぜか大量発生している。もしかして曜日なんてない方が幸せなのかもしれないな……
「……そう言えば稲刈りの季語は秋だそうだけど、稲刈り前である今は秋なのかな? それともギリギリ夏なんだろうか?」
稲穂がまだ完全に熟れていない。イサヒトさんの話では黄金に色付いた稲穂が風に靡く様子がまるで絵のように美しくて、海を連想させるほど広大な稲田から稲海村と名付けたとのことだが今なら少しだけ気持ちが分かる。稲穂が色付き、大きく実をつけた稲穂はきっと俺の頭では想像できないほど綺麗だと感じるんだろうな。
ここでずっと見てみたい気持ちはあるが明日には出航しないといけないからな。俺たちが帰って来るときにはもう稲刈りが終わっていることだろう。
「おーい、ジン!」
「うん? イサヒトさんとアリアさん?」
声のした方向へと顔を向けると二人が馬を引き連れて歩いて来た。この前は体調が悪く会えなかったので久しぶりに顔を見た気がする。
「あれ、どうしたんですか? もう休憩は終わりでしたっけ?」
「いや。エルフの嬢ちゃんが向こうにいたけど、お前さんの姿が見えなくてな。心配で様子を見に来たんだ」
「それは心配させてすいません」
「いいんだよ、お前さんも元気そうでなによりだ」
いや、心配してくれるのは嬉しんだけど俺なんかの心配より自分の体調を心配をした方がいいんじゃないかと思ってしまう。イサヒトさんの身体は前に見た時も無駄な肉がなかったはずなのにあの時よりももっと細くなった気がする。それに人と会えないほど、寝たきりじゃないといけないほど体調が悪かったんだからあまり身体を動かさない方がいいと思う。
「イサヒトさんも元気そうで良かったです」
「ああ、当たり前だろ! 俺はまだまだくたばらねぇよ!」
「……そうですよね。あ、ヘルガは上手くやれてますか?」
「はい、禊木町よりも上手くやれていますね。これもイサヒトさんが事前に人見知りだから気を遣えと村の方々に伝えてくれたおかげです」
「あいつらも人見知りだからな。俺がいなくとも結果は同じだったはずだ」
イナミ村は禊木町と比べると人数が少ないのでヘルガが人間とその視線に慣れるためにとみんなでわざといつもよりも距離を取って接することにしたが上手くいったみたいだ。こういう積み重ねで禊木町でも彼女らしく生活できるようになればいいな。まあ、その結果俺は畦道で一人ぼっちで座る羽目になっていたわけだけど……
俺も新入りなんだ。忘れられていそうだから再び言うが俺だってまだ新入りなんだ。リーネたちが俺の人脈づくりのために色々と頑張ってくれたおかげで夏の間で顔見知り程度の人たちが増えた。
だけど、俺だってまだこの船に乗って三ヶ月も経っていない。航海だって二回だけだ。俺の関係の薄さを証明する証拠にイナミ村で共に汗を流した数少ない知り合いたちは全員俺よりもヘルガに夢中だ。まあ、エルフという種族は珍しい上に息を呑むほどの美貌を持っているから気持ちは理解できる。
全員奥さんに頬を引っ叩かれれないいのに。
「なら、リーネは? イサヒトさんの所に行ったと聞いたんですけど……」
ヒビキとシュテンはたぶん俺と違って休憩時間がまだなんだろう。いつもはアリアさんがしている積み荷の確認をしないといけないってぼやいていたからな。ヘルガはイナミ村の案内をされてるし、たぶんレインちゃんはそれに付いていってるのかな? レインちゃんについては本当に何も知らないし、見当もつかないな……
「あー、リーネならロバーツから今回の詳細を聞いて少し不機嫌になってたな。部屋を貸してやってるんだけどよ、『事前準備はいらねぇんだろ?』『心の準備はいるのよ!』って会話が聞こえて来てな。おちおちと寝てもいられねぇ」
「……何か手違いがあったんですかね?」
「いや、知らねぇけどよ。というかそれはアリアの方が詳しんじゃないのか?」
アリアさんに視線を向けると困ったように笑っていた。彼女の首にかけている銀製のロザリオが『後で言いますから、今はこちらを見ないで下さい』とアリアさんの胸中を代弁するかのようにキラリと光った。イサヒトさんは部外者だから迂闊に情報は伝えられないってことだろうか?
もともとはイサヒトさんも俺たちと同じで海賊の一員なのにそれは冷たいというか、情報の管理は予想以上に徹底しているんだな。いや、社会人になるとこれが普通なのかもしれない。俺が現世ではただの学生でバイトなどの社会経験がまったくないせいでピンと来てないが、組織の情報を関係ない他者に漏らした日には厳しく処分されると父から聞いたことがある……気がする。
まあ、夕食の席ではずっと息を殺していたので父との会話の内容なんてほとんど覚えていないんだけどな。
「……何か手違いがあったみたいですね。後でリーネから直接聞いておきます」
「ああ、それがいい」
そこでイサヒトさんはバランスを崩した。傍にいた栗毛の馬に凭れ掛かるかのように彼は全体重を預けた。
「だ、大丈夫ですか?」
もしかして持病のせいで体調が悪いのかと俺は心配でイサヒトさんへと駆け寄った。馬の屈強な四肢に支えられたイサヒトさんを抱き寄せるみたいに肩を掴むと同時に俺は驚いた。彼の肩に手を当てると身体は細木のように小さくて、軽くて、いつもの元気なイサヒトさんからは想像ができないほど弱弱しくて驚いてしまった。
「イサヒトさん、本当に……ん?」
俺がイサヒトさんの身体が心配で声を上げるといきなり影が差した。太陽がまだ天に向かって昇っている最中なのに影が差した。なぜかとても嫌な予感がする。この影はなんだろうと思い、俺がふと頭上を見上げるとそこには――ブサイクな顔をした馬がいた。
「あっぶね!!」
次の瞬間、二人が連れて来た馬の鼻がピクリと動いて俺の顔を目掛けてくしゃみを浴びせてきやがった。
「何だこの馬って、お前助平じゃないか? 生きてたのかよ?」
驚くことにイサヒトさんたちが連れて来ていた馬はグリフォンの巣で囮にするために選ばれた馬であり、動物係をしていたレインちゃんが世話していた馬であり、俺に向かってくしゃみを浴びせてきた馬でもある。
というかこいつあの状況で良く生きてたな。てっきりグリフォンの巣で死んでしまったのかと思っていた。イナミ村で栄養のある食事をしているのか鹿毛色の体毛はさらに艶が良くなっている。ちょっとだけデカくなった気もする。
俺がレインちゃんにだけ懐く姿から女好きだと決めつけて勝手に助平と呼ぶことに決めたのだが、毛並みが良くてもスケベ面だけはまったく変わりないようだな。
「あ、お前、髪を噛むなよ!」
「仲がいいな、お前さん。こいつは生意気で気性も荒いがまだまだ元気そうだしうちで引き取ることにしたんだ。それに度胸試しから帰って来たんだから種馬としても一流かもな!」
さっきまでのことは無かったかのようにハキハキと元気が良い声がイサヒトさんから聞こえた。俺は助平に髪を噛まれながら、『大丈夫ですか?』と尋ねるようにイサヒトさんの顔色を窺ってみるが何も分からなかった。ただイサヒトさんはいつも通りの精悍な顔付きで病人とは思えないほど生気が溢れる瞳をしていた。
「……そう言えばロバーツさんが見つけたっていうドワーフの遺跡ってどんなところなんでしょうか?」
俺は助平に噛み付かれて唾液まみれになった髪を拭いながら、思い切って話を変えることにした。イサヒトさんもそんな俺の意思を汲んでくれたようで笑いながら話を続けた。
「ロバーツが見つけた古代ドワーフの遺跡は死んでいたみたいだぞ。だけど不思議なんだよな。古代ドワーフは内陸で生活しているのにわざわざ海辺に遺跡を立てるなんてよ。それに目的地が変わるとか言ってたよな?」
そう言うとイサヒトさんはアリアさんに視線を送る。チラリと盗み見るような仕草なのに分かりやすい。まるで見せつけるようなその視線をアリアさんは涼しい顔をしたまま受け流した。なぜだろう。目の前で、いや、二人の間でスゴイ攻防が行われている気がする。互いの懐を探り合うみたいな情報戦だ。
「……クッソ、教えてくれねぇか」
「はい、企業秘密です。ですが、場所が変わるというのは合っていますね」
「え、なんでですか?」
「……」
「あ、いえ、なんでもないです」
つい余計なことを口にしてアリアさんと目を合わせられた。女性に黙って顔を見られるだけで威圧感を感じるのはなぜなんでしょうか?
「……はぁ、もういいです。イサヒトさんなら誰にも話さないでしょうし」
「ああ、安心してくれ!」
「まったく、調子がいいですね。ロバーツさんの船員たちが成果を急いで”生きている”ドワーフの遺跡に勝手に入ってしまったので私たちにそれの捜索を手伝って欲しいらしいです。ですがもう領主の許可を貰っているので私たちは名目上は遺跡調査ということになっていますが……」
「捜索……」
「はい。捜索と言っても、もう二週間以上経過しているので現実的に考えると生存の確立は低いでしょう。ですがロバーツさんの『遺品が残っているなら持って帰ってやりたい』という気持ちは痛いほど理解できます」
「……遺跡の中で迷ったってことなんでしょうか?」
「それは分かりません。そのための遺跡調査です。ですが、ロバーツが領主の館で見た記録を参考にするならばあの遺跡の内部に入って生きて帰って来た人はいないそうです。そのことが噂となり今では”人喰い迷宮”とも呼ばれているとか」
「迷宮ですか?」
人喰い迷宮なんてまた物騒な。船長であるロバーツさんをイナミ村に残して先にレナトゥス大陸へと向かったカツキと夏祭りの最中に出くわした時に『ちょっとうちの新入りがやらかしたみたいでな』と言っていた。取り残されたロバーツさんはリーネと今もイサヒトさん家で熱い議論を交わしているみたいだ。
というかロバーツさんは俺がエルフの里に滞在中に頑張って魔法で生み出した縄をもともとどこで使うんだよ。
「かなり山奥にあるそうなのでジン君も覚悟しておかないといけませんよ」
「えー、また山奥なんですか? グリフォンの巣の時にした登山でもうこりごりですよ」
「フフ、偶にならいいじゃないですか? 今回は私も行きます」
「え?」
アリアさんの発言を頭で咀嚼し終わると同時に俺はつい間が抜けた声を出してしまった。だって、アリアさんってあのアリアさんだぞ。
「どうしましたか?」
「どうしましたかって、え? アリアさんも一緒にいくんですか? 本当に?」
「問題はないと思いますよ? あ、もしかして心配してくれるんですか? 優しいですね。ですが、安心してください。鎧はしっかりと着込んでいきますので」
「……鎧」
よくよく思い返せばアリアさんが前線というか、俺たちと危険を冒す域まで一緒に行動したイメージがない。グリフォンの巣に黄金を盗みに行った時は船で俺たちが帰るまで留守番をしていたし、エルフの里では後方で怪我人の治療に専念していた。リーネが前に立ちみんなを引っ張る役割なのだとすれば、アリアさんはいつも後ろの方で見守ってくれている。どちらかと言うと裏方や支援、サポートをしてくれていたイメージがあった。
というかそもそもの話鎧程度でグリフォンやヒュドラといった脅威を防ぐことができるのか? いや、もう考えるのも面倒くさくなった。アリアさんが先に言ってくれたように今回は遺跡の調査が主な目的だ。そうそう危険なことなんて……人喰い迷宮って呼ばれてるんだったな。危険が過ぎる。
「あ! アリア! それにジン! あなたたちも来なさい!!」
そんなことを考えていると遠くの方からリーネの声が聞こえて来た。すべての厄災を吹き飛ばすような明るい声だ。
「リーネが呼んでいますね。私たちも行きましょうか、ジン君」
「そうですね。あ! イサヒトさんはどうしますか? 一緒に行くなら手を貸しますけど?」
「……いや、俺はいい。それにお前さんらだけの方が都合がいいだろう」
一瞬だけ悲しそうな顔をしたように見えたがイサヒトさんは助平に寄りかかりながら、俺たちにそう言った。倒れそうで心配になるが彼自身に心配するなと言われると俺はどうしていいのか分からなくなる。心配し過ぎるのはウザいだろうし、そうですかと流すのは人情に欠ける行為に思える。
「それじゃあ、イサヒトさん。行ってきます」
「……ああ、行ってこいよ。古代ドワーフの遺跡に」
だから、こんなセリフしか吐くことができなかった。助平という立派な馬がいるんだから大丈夫だろうという自分本位な思いと、倒れてしまったらどうしようという身勝手な不安が渦を巻くように胸中で蠢いている。
ずっと手を振ってくれているイサヒトさんが次の瞬間には倒れていないかと確認するようにチラチラと振り向きながら、俺はアリアさんと一緒にリーネのもとへと向かった。『行ってこい』と言い放ったイサヒトさんの顔は悲しそうな表情から一転して、どこまでも優しい笑顔だった。




