第六話 『らしくない』
リーネルは『明日の朝、同じぐらいの時間にここにいるわ。そのときに返事を頂戴』そう言い残し、一足先に部屋へ戻っていったが、俺はしばらくその場を動けなかった。数分、数十分、もしかしたら一時間ぐらい経っていたかもしれない。いや一時間は言い過ぎたが、少なくとも俺が足を動かしたときにはもう朝日は完全に昇っていた。
船員たちもぼちぼちと起き始めて来たのかだんだんと甲板の方が賑やかになってきて、そこでようやく自由になった身体はようやく自分が空腹だったことを思い出したのか『グー』と可愛くもない腹の音を鳴らした。我ながら現金なものだ。そういえばアリアさんがパンとスープがあるなんて言ってたな、もらいに行こうか。いや、でもリーネルはアリアさんを探しているようだったので会うと気まずいかもしれない。だけと他に行く当てもないので、とりあえずあの部屋に戻ろう。
そう結論付けてアリアさんに連れられて来た道を辿っていく。その道中さっきまでぐっすり眠っていたはずの男どもにぞろぞろと起きてきた。ガラの悪い連中の横を肩を狭めて歩くがすれ違いざまに「あ、昨日の」「この辺りは何もいないからよく眠れたぜ」「あれがリーネのところの新入りか?」など口々に言っている。だが、噂をしているだけで誰も話しかけてはこない。いや、これが当たり前なのだ。学校でも新入生に最初は話しかけないで遠くから眺めて見るだけなのと同じだ。転校なんてした経験はなかったが、好奇な目をむけられるのは存外居心地が悪い。
っていうか中学校の空手部を思い出して気分が悪くなってきた。さっさと抜けようと気持ち早めに男たちの間を歩いていく。周りと目が合わないように少し下を向いて歩いていると開けっぱなしの扉が見えてきた。あの扉だと扉に滑り込むと正面から「キャ」と短い悲鳴が聞こえた。
それと同時に胸のあたりに柔らかい衝撃が伝わる。
何んだろうと視線を下げるとそこには小柄な少女が尻餅をついて倒れていた。
少女とぶつかったと気が付いた俺はすぐにヤバいと思い、慌てて倒れた少女に手を差し出した。
「大丈夫か? えっと、さっきの……」
目の前には、先ほどの死人のように青白い顔色に不気味な呻き声を上げていたときとは打って変わり、ただの可愛らしい少女がいた。その少女は濃色と呼ばれる黒みがかった深い紫色のチャイナドレスを着ており、袖口からは手があまり出ていない、萌え袖のような特徴的な服装をしている。だが、アリアさんと同じく装飾自体は派手ではない。むしろ地味な印象を受ける。
「レインです。よろしくお願いします、お兄さん」
「ああ、うん。よろしく、えっと、レインちゃん」
小さな手を掴みゆっくりと引き起こした。
自分でもよく分からないがなぜかこの少女の名前を呼び捨てにするのは気が引ける。小柄で中学生ぐらいの見た目のせいか、転ばせてしまった罪悪感があったのかわからない。だが、このときの俺はこの少女に一歩引いた気持ちだった。
「はい、先ほどはお恥ずかしい姿をお見せしたようで……」
「先ほど?」
……ああ、そうだ。そうだった。彼女が普通に接してくれたのでつい流してしまっていたが、この少女はアリアさんにリーネルのもとへ案内されていた道中で呻き声を上げ、頭を壁に打ち付けるという奇行を繰り返し起こしていたのだ。
『なんでそんなことをしていたのか?』『さっきまでの顔色と明らかに違う?』なんて疑問は確かにある。だけど今は……
「もう大丈夫なの? 怪我とかしてない?」
「……怖くはないんですか? 自分で言うのもなんですがかなり変な行動をしていたと聞きましたが……」
「うーん、怖くなかったって言ったら嘘になるけど、今は普通みたいだし、怖いってよりも心配しているっていうのが正直な感想かも……」
心配している。それが俺の嘘偽りのない本心だ。
その俺の返答に彼女はほんの一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたがそのことを隠すようにニコリと笑顔を貼り付けて微笑んでいた。
「お兄さんは優しいですね……」
気まずい沈黙が流れる。こういうときどういう顔をすればいいかわからない。
正直褒められるのはなれていない。まともに褒められたのは小学生のころまで巻き戻らないといけないぐらい昔のことで、自分が照れているのがわかるが表情で見せたくない。それに笑うレインちゃんの顔にはどこか俺と同じで困ったようにひきつって見えて――
「お兄さん!」
気まずい静寂を打ち破るためか大きな声で呼ばれた。
「お兄さんも”あっち”から来たんですよね?」
「え、ちょっと持って……レインちゃんが言う”あっち”からっていうのは、えーっと、俺がいた世界……現世みたいなものであってる?」
「はい、”あっち”では余計分かりにくかったですかね。こちらでは現世というのが一般的らしいですよ」
現世と現世おなじ意味を持つ単語なはずなのに読み方ひとつでだいぶ印象が変わる。不思議なもので、現世だともともといた世界だって感じがするのに現世だと異世界って感じがする。どこか他人事だ。そんなどうでもいいことを考えていたが『いや、ちょっと待て、いまのやり取りおかしいぞ』と思考が止まる。いまの言い方ならもしかして……
「レインちゃん、さっきお兄さんもっていったよね。なら、レインちゃんも…」
「そうです。私も現世から来ました。結構珍しいものなんですよ、こちらの生まれではなくて現世から来た人間というのは」
珍しいのか、確かに俺と一緒にミレンの舟に乗っていた人たちは意識があったようには見えない。まるで置物のようだった。彼らのほとんどはあのまま意識を取り戻すこともなくミレンたちの手で地獄に運ばれていくのだろう。なぜ俺が意識を取り戻したのかはわからない。ミレンは運がいいと言っていたが本当に言葉通りの意味なのか、隠語みたいなものなのか……
「ちなみにレインちゃんの他には誰がいるの? もしかしてこの船にいる人?」
「この船にいませんよ。私が知ってるのはお兄さんのほかに一人だけです。その人は別の船に乗っていますし、私もきちんと話したことがないので紹介するのは難しいですね」
一人だけってそんなに少ないのか。細かく覚えていないが俺と一緒に舟に乗っていた人だけでも二十人近くいたきがする。それにミレン以外にも小舟は何隻もでていたはずだ。あんなにいたはずなのにレインちゃんも含めて三人しか逃げていないのか。
いや、逃げ出した?どうやって?レインちゃんも逃げ出したのなら、死天山を登って、身体は鉛のように重く感じていたはずだ。それこそ指一本すら動かせないほどに。それなのにどうやって逃げれたのか、それは……
「もしかしてだけど、レインちゃんもリーネルに助けられたの?」
「……はい。お兄さんと出会いこそ違いますが、私もリーネたちに助けられてここにいます」
同じだ。俺と同じなんだ。意味がわからない状況に放り込まれてがむしゃらに逃げただけなのだ。そこをたまたまリーネルたちに助けられた。ならばレインちゃんも言われたはずだ『仲間になりなさい』というセリフを。彼女は選択した。そしていまここにいる。その事実が俺の背中を押してくれた気がした。
「なら俺も――」
「それはやめた方がいいと思います」
出端をくじかれた。そう感じたのはきっと間違っていないだろう。さっきまでの彼女らしくない食い気味な返答に思わずたじろいでしまったのだから。だがそれでも彼女は止まらずに矢継ぎ早に言葉を並べる。
「お兄さんはいい人なので向いてないと思います。えーと、それに『海賊』は危険ですので引き返せるなら引き返したほうがいいと」
レインちゃんは目線を合わせず、年相応な可愛らしい身振りでどうにか傷つけないように説得しようとしているように見えた。そのことが微笑ましく、同時に複雑な気持ちさせてくる。
「……そうかな」
「そうですよ。きっと……」
すこし落ち着きを取り戻したのか、レインちゃんは押し黙るように言葉を飲み込んだ。そのせいでレインちゃんとの間に再び気まずい重苦しい沈黙が流れる。さっきとは違いお互いに話すことをためらってしまっているせいか空気がさっきよりも薄く感じる。いつもならこのまま『じゃ、またな』とでもいっていただろう。だが、彼女にどうしても聞きたいことができた。だから今度は俺からこの沈黙を打ち破るため、探りを入れるような声で質問した。
「ならレインちゃんは何でこの船にいるの?」
純粋に疑問だった。海賊が危険だというのならレインちゃんはなんで海賊船なんかに乗っているのか、そこが分からなかった。だって彼女の言うことが本当なら彼女がいまだ海賊をやっていることがおかしい。なにか理由があるはずだ。だが、レインちゃんは俺の質問に『なんででしょう?』と吹き出しがなくても隠しきれない戸惑いが顔に出ていた。それから彼女は考えるように顔に手を当てて――
「私にはもうここにしか居場所がないんです」
と笑いたいわけではないのにこちらに気を使わせないためだけに無理をして口角を上げただけのような、そんな自嘲気味な笑みを浮かべた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
アリアさんを探したがあの部屋にはいなかった。
どうやらリーネルのところへ行ったらしい。レインちゃんとはあの会話をした後、いよいよ話題が尽きてしまい部屋から逃げるように出て行ってしまった。だが、レインちゃんは別れ際に『アリアさんからです』とパンと干し肉が入った袋を渡してくれた。アリアさんは俺がお腹を空かせて戻ってくるかもしれないと準備してくれていたようだ。感謝しないといけない。
やることがなくなった俺はまた甲板に戻り、海を眺めて黄昏ていた。
周りでは男たちがそれぞれの仕事に勤しんでいる。ここにいると邪魔になるかもしれないと思っていたがまったくそんなことはなかった。男たちはまるで俺のことなど目に入っていないかのように淡々と作業をこなしている。甲板から遠くに見える小波がゆっくりと重く流れているのは俺の気が抜けてしまったからだろうか。そんなことを考えて、レインちゃんから渡されたパンをちぎり口へ運ぶ。
どこか緊張の糸が緩んでしまっている。いや、いつも通りに戻れたと言ってもいい。だってこっちに来てからの行動を振り返って、これまでの自分と比べると……
「らしくなかったなぁ……」
その一言に尽きる。
どうやら俺は冷静じゃなかったようだ。舞い上がっていた。
炎のように熱く燃えるリーネルの瞳を見て熱に浮かされてしまっていた。だけど、レインちゃんが冷や水を浴びせてくれたおかげでようやく自分を取り戻せた。
自分で海賊になるなんて馬鹿げたことはやめるべきだ。それにこれは海賊船だが、これも船だ。船があるってことはどこかに必ず港がある。どんな場所かはわからないがとりあえずそこで降ろしてもらおう。そして自分の身の振り方についてじっくり考えよう。帰れるなら帰るべきだし、帰れないなら……そのときだ。でもきっと今より良い選択肢が見るかるはずだ。そもそも頭のよくない俺が冷静さすら失ってだした回答が合っているはずもない。
「船酔いですか?」
そうやってこれからの自身の身の振り方について頭を悩ませているといきなり後ろから声を掛けられた。
声のした方に視線だけを向けると紫陽花のように鮮やかな着物をきた青年がいた。その青年は胡散臭い笑みを湛えているが、暴力的なまでに整っている顔を隠しきれていない。腰まで伸びた黒髪はどこか品位がある。現代にはそぐわない陳腐な表現だが顔だけなら女性にしか見えない。紫陽花のような着物も相まって日本人形を想起させる怖さがある。
そんな青年がカランコロンと下駄を鳴らし、小気味いい足音を響かせて近づいてくる。たしか三途の川で溺れていた俺を助けてくれた人だ。
「大丈夫だ、少し考え事をしてただけだけど…」
本当に船酔いなんてしていない。強いて言うなら自分に酔っていたようだ。自分に酔っぱらっていたせで、らしくないことばかりしている。だがもう大丈夫だ。酔いはもう冷めた。
「ジン君は誰かに言われてここに来たんですか?」
「いや、一人になりたかっただけだ」
「なら運がいいですね。ここから見える景色が一番いいと思います」
「……そうなんだ知らなかったよ」
人と会話をする気分じゃない。一人でいたかったからここにいるのに、この人はこちらのことなどお構いなしに一方的に話を続けてくる。
命を助けられておいて、もういっそのこと案山子とでも話していて欲しいと思うのは人情に欠けるだろうか。
「それにしても仁君ですか。立派な名前ですね、慈しみ深い仁徳のある君主という意味があります。……きっと、ご両親に期待されて生まれてきたのですね」
「……俺は期待されたことなんてないよ」
それって仁ではなく、仁君って熟語の意味じゃなかったか?
というかなんで当たり前のように俺の名前を知っているんだ。まだ俺は名乗ってないはずなんだけどな……
「えっと……その、名前は?」
「ああ、これは失礼。ボクとしたことが、他人との関係を築く上で最も大切な行為をうっかり忘れていました。改めまして、ボクの名はヒビキ。この名には、広くこの世に名を響かせるというボクの願いが込められています」
「……いい名前だな。親が付けてくれたのか?」
「いえ? 自分で名付けましたが、かなりいい名前でしょう? 自分でいうのもなんですがかなりセンスを感じます」
先程の意趣返しというわけではないが皮肉交じりに問い返したつもりだったが、ヒビキはどこか歌舞伎役者を彷彿とさせるほど大袈裟でわざとらしい振る舞いして、どこか的外れな回答を返してきた。
後から思えばこのときの俺はだいぶ気が立っていたみたいだ。
不安、後悔、心配が頭の中でごちゃごちゃに混ざり合いそのせいで心が毛羽立っていた。俺は苛立ちを含んだ瞳ですこし睨み付けるように視線をヒビキに向けると
頭の天辺から足のつま先まで全身の筋肉が強張った。
殺気だ。首に冷たい刃が突き付けられた気がした。
少しでも動けば首が飛び甲板に血の花が咲くことになる。そう確信させる何かがいまの青年にはあった。
「…………」
だが青年には何の変化もない。切れ長の目はすべてを呑み込むような冷酷な黒色で、美しい黒髪は風の中を優雅に泳いでいる。派手な着物と絶世といってもいいほどの美貌が合わさり、花魁という単語が頭に浮かんだ。だが袖から見える鍛えられた筋肉質な腕は剥き出しの刃を思わせる。
そのアンバランスさと変わらない貼り付けたような顔がいまさらながら不気味になり、視線を彷徨わせているとふと腰にぶら下げた日本刀が目に入った。
「その刀……」
本物だろうか?
いや、飾りの分けないか。
さっき味わった首と胴体が離れたような冷たい感触を確かめるため、無意識のうちに首に手を当てていた。
「お! やはり気になりますか! しょうがないですね」
「いや、なんで刀なんか持ってるんだよ?」
ヒビキは親から買ってもらった玩具を友達に自慢するように腰にぶら下げた刀を眼前に差し出してきた。それを見た俺の身体は反射的に一歩後ろに下がっていた。そのまま切られるかもと思ったからだ。しかし、ヒビキはまったく気にする様子もなく興奮しながら話をつづけた。もう完璧に自分の世界に入ってしまっている。
「それはボクはリーネに剣の腕を見込まれてこの船に剣客として身を寄せているからですね。リーネに剣の基礎を教えたのもボクなんですよ?」
海賊船に剣客、それって……
「……もしかしてヒビキは三本の刀で戦うのか?」
「うん? ボクの腕は二本しかないので不可能だと思いますが……」
冗談は通じなかったときが一番つらい。いや、そんなことよりも有名な漫画のネタも通じないのか。細かいことだがそんなことでも俺にここが現世じゃないんだと実感させてくる。
「まあいいです。特別ですよ」
漆黒の鞘に収まっていた刀身がヒビキの手により音もたてずにぬるりと抜かれた。
日本刀に関して専門的な知識は俺にはない。なんなら本物の日本刀を目にするのもこれが初めての体験だった。だけど、そんな俺でも彼が抜いた刀を一瞥しただけで”それ”が名刀なのだと悟った。
ただ魅了された。
漆黒の鞘から抜き出した刃は青く澄んだ禍々しい輝きを放っていた。
切先から綺麗に反った刃先まで洗練されているが、刃紋はどこか荒々しい。
黒鉄の芸術というべきものがそこにはあった。
刀身が放つ凍えるような圧迫感が自然と呼吸を妨げる。
張り詰めた雰囲気が瞬きをすることすら許さない。そんなことしていいわけがない。俺は恐怖か興奮か分らないまま、ただ美しい刀身に目を奪われて――
「お預けです」
「ああ…」
その時間が唐突に終わった。ヒビキが刀を鞘に収めたからだ。俺は無意識のうちにヒビキの刀に手を伸ばしていた。もう一度だけあの刃の美しさを見たくて、もう一度だけ…
「なんて顔しているんですか、餌を前にした犬のようですよ。ジン君はもうボクたちの仲間なんですからいつでも見ることができるでしょう?」
「いや、まだ仲間ってわけじゃないけど……」
「およ、そうなんですか?」
ヒビキの言葉で嘘のように意識が引き戻された。
俺はさっきまで何をしていたのだろう。あの刀はまるで呪いだ。興味がなくとも刃の美しさを見ただけで、もう一度その美しさを求めてしまう。
いやそうじゃなくてもっと聞きたいことがあったはずだ。落ち着いて、落ち着いて、冷静に話をしよう。相手は海賊の一員だ。俺の知っている海賊なら次の瞬間には首を切られたり、ピストルで打たれたりしても可笑しくはない。強制労働なんかも……待て、海賊って一体なんだ。
そもそもこの人たちは本当に俺の知っている海賊なのか?海賊と辞書で引けば商船を襲って略奪を働く盗賊のことだ。イメージもそれに近い。だがアリアさんやレインちゃん、リーネルやヒビキと話してみると俺の知っている海賊像とは離れている。ガラの悪いと思っていた男たちも攻撃的に威圧的に絡んでくるわけではないむしろ遠慮しているとも感じる。だがら思い切ってヒビキに聞くことにした。
「なあ、ヒビキ。ミレンが言ってた『海賊』ってのは何なんだ?」
「みれん? まあいいでしょう。『海賊』とはリーネの渾名のようなものです。いや、『海賊』というのは正しくありませんね。それは彼女の父のことなので、正確には『海賊の娘』と呼ばれています」
「……いや、ならヒビキたちは普段どんなことをしているんだよ。海賊なんて滅多なことでは呼ばれないと思うが……」
「難しい話ですね。海運業……と言えば聞こえはいいですが、簡単に言えば商人のようなものです。まあ、海運がメインとはいえ、依頼されればどんな危険な仕事でもこなしますよ。ざっくり言えば、便利屋的な側面のある商人です。……ちなみにですが海賊と呼ばれるようになったのは、過去にドワーフたちと揉めたせいです。確かに、こちらにも非がありましたが、彼らのせいで迷惑を被っているのは事実です。まあ、もはやお互い様でしょう」
「……ああ、そうか」
よほど恨みが溜まっているのかヒビキの能面のように貼り付いていた胡散臭い笑みから黒い何かが滲み出しているような気がする。話題を変えないと面倒くさそうだ。
「『海賊の娘』か……なら、ヒビキにもあるのか? その渾名みたいなヤツ」
「はいそうですね。『人斬り』『道場破り』『通り魔』『旧時代の遺物』『鬼より鬼の糞野郎』『水黽』などいろいろな名で呼ばれたことがありますが、強いて言うなら……『音鳴り』が通りがいいですかね」
『音鳴り』か…どういう意味があるんだろう。海賊のほうがまだわかりやすい。というか渾名に碌なものがなかったがやっぱりヒビキってヤバい奴なんじゃないのか?
「……もう一つだけ聞いていいか? ヒビキは何でこの船に乗ってるんだ?」
「恩義です。もともとはリーネルの父君にとある恩がありましたが、彼が生きているときに返せなかったので娘であるリーネルを仮初の主君と決めたのです。それに正直な話、まあ条件が良かったからですかね。もっと良い条件があれば鞍替えすることも考えるかもしれません。ですがそれはボクが武の道を極めるためには必要なことですので――」
「あーもういい、十分だ」
頭が痛くなってきた。海賊だのドワーフだの神だのファンタジーがすぎるだろと思わなくもないがヒビキのおかげでわかったこともある。実際にはリーネルたちは海賊ではなく海運業がメインの商人であり、ヒビキはきっと用心棒のようなものなのだろう。
だがそれならレインちゃんの言っていたことが気掛かりだ。もし海運業をしているならレインちゃんの『海賊は危険』という発言がおかしい。あの言葉は俺を追い出すための方便だったのだろうか?いや聞いておいて何だがヒビキが嘘をついているかもしれない。メリットがないとは思うが俺を陥れようとしているだけかも。
そこまで考えたところでヒビキが俺の思考を遮るようにわざとらしい咳ばらいをした。
「はいそうですか、では最後に悩んでいるジン君のために先輩としてアドバイスというのをあげましょう。ポケットの中を見てください」
ポケットってなんでだと思ったが取りあえず俺はヒビキの言う通り制服のポケットに手を入れて確かめてみるが何もない。空っぽだった。念のためズボンのポケットも引きずり出したがこっちにも何もない。
「それが君です」
ヒビキが何をしたいのかわからず悩んでいたら突然そんなことを言われた。喧嘩を売っているのだろうか。今の自分を客観視しなくともズボンのポケットまで引きずり出して何かを探している姿は誰がどう見ても情けない、滑稽だった。
「何も持っていないのに、ポケットの中を必死になって探している。いいですかジン君。頭の中で考えているだけというのは結局は何もしていないのと同じことなんですよ? どうせなら飛び込んでみたらどうですか? 三途の川で君はそうしたはずでしょう?」
ヒビキは上機嫌にカツンと下駄を鳴らしながら俺の隣までゆっくりと距離を詰めてきた。そしてパンと勢いよく両手をつき、さっきまでリーネルと話していた場所、船首の方向を指さして――
「ほら、見えてきましたよ」
そんなことを言ってきた。ヒビキにつられて顔を向けると埠頭が見えた。流線形の船体が何隻も止まっている。港が賑わっていることがここからでもわかる。
三途の川で見た船着き場とは比べるまでもなく立派なものだったが、俺の目にはそんなものは見えていなかった。正しくはもっと別のものが目に入っていた。
騒がしい港のさらに奥にある街だけを見ていた。