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第五十五話 『道場』


「お願いしますから、今日の所はどうかお帰りになって下さい」


「いや、貴殿らが拙者の申し出を受け入れてくれるまでは雨が降ろうが槍が降ろうが絶対にここから動かない!!」


「それが困ると言っているんですよ。このまま貴方を門の前に放置しておくとうちの外聞が悪くなるんです」


「いや、絶対に困らせない!!」


「何を根拠に!?」


 鮃のような顔をした男が胡坐をかいた状態のまま道場の門下生と思わしき少年の足元へ縋り付くように頭を下げていた。


 なんでこの通りだけ人がいないのか原因が分かった気がする。桜ノ大路の外れの方とはいえ、真昼間のこの時間にここまで人通りが少ないなんてずっと奇妙だとは思っていたんだ。そりゃあ、あの絵図なら人も避けるだろうな。


 というか俺たちは今からあそこに行くのか?


 あそこに混ざるととても面倒くさくなる気がする。なので心底関わりたくない。俺たちはヒビキの書いてくれた紹介状だけを頼りにこの道場にいる柳宗右衛門と言う人物を尋ねに来たのだ。あの集団に関わる義理はない。


 そう思った俺はヘルガがいる建物の影に隠れてあの人が立ち去るまで様子見をしようとしたら、「うちに何か御用ですか?」と突然背後から声を掛けられた。


「うお!?」


「………うわ、驚いてしまいました!」


 芝居じみた動きでわざとらしく俺の声に驚いてみせたのは凛々しい顔つきをした男だった。身長は俺よりも頭一つ分は高く、痩せ型で、歳はたぶん三十手前ぐらいだ。だけど、お茶目な雰囲気が滲み出ているせいか実年齢よりも若いと感じる。もし彼が親戚のおじさんにいたなら絶対に好きになっていたタイプだろう。


「あ、師範! そんなところで見てるだけじゃなくて助けて下さいよー!!」


「おや、どうやら見つかってしまったようですね」


 さっきまで迷惑客の相手をしていた少年は俺の背後に立つ人物を見つけると同時にドタドタと走って抱き着いた。


 というか今、この少年は俺の背後に立っている男のことを師範と言ったよな?


 いや、確かに思えば彼は武人と表現するに相応しい風貌な気がする。頬が少しこけていて、目尻が細く切れ込んだ眼は俺の侍のイメージ通りだ。


 師範って昔で言う先生や指導者のことだよな。俺は感覚的には理解できていないが昔の日本の価値観だったら先輩や先生は神にも等しい存在だったと聞く。師匠がカラスは白いと言ったら白いと言ったら、黒いカラスも白くなるみたいな古典的やつだ。ならば師範ってどのぐらい偉いんだろう?


「ところで師範。この方は師範の御友人なのでしょうか?」


「いえ、私も初めて見る顔ですね」


「……師範、どうしますか? 取り敢えずこの男が逃げられないように手足を縛り上げましょうか? 尋問は道場内でじっくりとできますし」


「…………どうしましょうかね?」


 その言葉を最後に警戒するような気配が二人から強く伝わってきた。


 ヤバい。これはヤバい。本当にヤバい。ヒビキの紹介状に従ってここを訪ねただけなのに不審者として突き出されたなんて笑い話にもならない。これ以上アリアさんに迷惑は……いや、待て、紹介状だ!


 ヒビキの書いていた紹介状を見せればいいだけだ。それに少年から師匠と慕われているこの男がずっと誰かに似ていると思っていたが、雰囲気がどことなくヒビキのヤツに似ているんだ。なんで今まで気付かなかったんだろう。弟子は師に似ると言うが特に人を食ったような性格がそっくりだ。


「あ、いや、えっとですね。これを見てください。ヒビキのヤツからの紹介状を預かっています」


「……ヒビキさんからですか?」


「そうです。これが証拠です」


 そう言うと俺は地図ではなく制服のポケットの中に綺麗に折り畳んで入れていた紹介状を差し出した。師範と呼ばれている男は疑いの目を俺に向けたまま受け取った紹介状の内容に目を通す。


 彼はヒビキの語り口から想像した人物像とはかなり違うようだ。ただの不審者にしか思えなかったのに……


「もしかして、あなたがヒビキの弟子を自称している柳宗右衛門さんなんでしょうか?」


「いえ、私ではありません」


「え、じゃあ……この道場にいる門下生の一人とかですか?」


「いえ、この道場にそんな名前の人物はいません」


「はぁ? え、どういうこと? まさか場所を間違えてましたか?」


「いえ、ヒビキさんの紹介状を拝読させていただきましたが……場所も間違っていないでしょう」


「……え、なぞかけですか?」


 ヒビキから聞いた話のイメージと合わな過ぎて人違いかと一応確認して良かった。だけど、それよりも困った状況に追い込まれてしまった。柳宗右衛門さんはこの人でもなく、この道場の門下生でもない。だけど、場所はここで間違いないらしい。


 言葉遊びみたいなこの状況にもう俺の頭だけじゃあ理解が追い付かない。ヒントもしくは誰かの知恵を借りたい。というかヘルガの姿が消えたんだけどさっきからどこで何をしているんだ? 


「今、拙者の名を呼んだか?」


「え?」


 そんなことを考えていると不意にまた後ろから声を掛けられた。低く張りのある声の主はさっきまで少年の足元に座り込み、地べたに頭を擦り付けていた鮃のような顔をした男だった。


「ちょっと放しなさいよ!」


 その鮃のような顔をした男の逞しい腕にヘルガは両腕をしっかりと掴まれて、鉄棒にぶら下がっているかのような態勢のまま身動きが取れないでいた。


「何やってんだよ、ヘルガ……」


「失礼ね! アンタをあの二人から助けてあげようとしたんじゃない!」


「俺を?」


 まるで呆れるような俺の呟きにヘルガが食って掛かってきた。彼女の調子が戻ったようで良かったが、こうなった状況が良く分かっていない。俺は助けを求めるようにヘルガを掴んでいる男に視線を送る。というかさっき拙者の名前って言ったよな? 俺の聞き間違いだと信じたいんだけど?


「えっとまず、あなたは?」


「おっとこれはすまない。名乗るのが遅れてしまったな! 改めて、拙者の名前は柳宗右衛門と申す。ここではなく柳ノ大路に道場を構えている。まあ、門下生もなく、金もないただの貧乏な男よ!」


 大きく張り上げたような声で男の自己紹介が終わると同時に爆弾が引火したかのような笑い声が響いた。と随分と古風というか、舞台役者みたいな話し方をするな……


「ハハハ、人間何かを演じているぐらいがちょうどいい!!」


 俺の考えを先読みしたかのような男の返答に一瞬驚いてしまった。そしてこうしている間にもヘルガは鮃のような顔をした男に猫のように拘束されてついに怒りが限界まで込み上げてしまったみたいだ。


「いい加減放しなさいよ!!」


「ああ、これは手荒な真似をしたな」


 足だけで器用に反動をつけて、男の股間目掛けて蹴り上げたが男はヘルガの蹴りをあっさりと躱してしまった。


「よし、いい蹴りだ! それで貴殿らが拙者に何の用なのだ?」


 『随分と珍妙な格好だな……』とジロジロとこちらを見て来る鮃のような顔をした男、ではなく柳宗右衛門はヒビキの弟子と名乗るだけあってやはり強いんだな。ヘルガの力強い蹴りをいとも簡単に受け止めてしまうなんて驚いた。


「貴方の師匠からです」


「おお!! 何だとー!! 師匠からの文か!!?」


 いつの間にか移動していた師範と呼ばれている男がヒビキの紹介状を柳さんに渡した。柳さんは顔だけで『感激だ!』と伝わるほどオーバーに喜ぶと紹介状をバンと破れそうな勢いで開き、黙々と目だけを動かして文章を辿っていく。


「……なぁ、俺を助けようとしただけで何であんな宇宙人みたいな捕まり方をしてたんだよ? 本当に何もしてないんだよな?」


「そうよ!! アンタが捕まりそうって会話が聞こえてきたから矢でこいつらの足を射抜こうとしたのよ。そしたら……」


「いや、もういい! そこまでで俺たちが悪いことが分かった!?」


「なんでよ!? 先制攻撃は基本でしょ!」


 小声の会話を無理矢理止める。ヘルガに事情を聞くために必要だとはいえ現世では女性に免疫がなく、さっきまで顔が近いなとドキドキしていたのに、今は別の意味でドキドキが止まらない。


 ヘルガの行動を力尽くでも押さえてくれた柳さんに感謝しないといけないな。あのままだと彼女が牢の中にいた可能性があったわけか。いや、この話はあの二人に聞かれてないだろうな? 


 どうやらエルフの里で生活していた弊害で彼女は人間社会で生活するための常識というものが著しく欠如しているみたいだ。誰かが教えないといつかこのままだと大問題を起こす可能性が高い。誰か、誰かが………たぶん俺だよな。


 リーネが『藤の花』に俺を同行させたのはこういう事態を見越してのことだろう。あの時同性のアリアさんやレインちゃんでもなく俺を選んだのはきっと彼女が問題を起こさないために見張っていろと言うことだろう。お目付け役ってやつだ。


 そうだよな。もともとヘルガを海賊に誘ったのは俺だし、責任を持って色々と教えるのは当たり前だよな。だけどそうは言っても俺がまだこっちのことはあんまり知らない。いや、しかし、俺がヘルガを海賊に誘わなかったら彼女は不躾な人間の視線に晒されて恐怖を覚える経験もしなかったはずだ。そう考えると……


「はぁー、もっと頑張らないとな」


「お、おお、おおおお!!!!」


「うるさっ。今度は何だ?」


 俺が『何よ』とでも言いたげにキョトンと顔を傾げるヘルガに対して責任感のようなものが芽生えた瞬間、柳さんが真っ青に染まった天を仰いで叫び声を上げた。そしてそのまま叫び声を上げて俺とヘルガに近づいてくると――


「文によると貴殿が平坂仁だな。そして貴女がヘルガだ。二人は師匠から直々に教えを受けているのだな! そのことに間違いはないな!」


「ああ、間違ってないですけど」


「ワタシは別に……」


 ヘルガが最後まで言い終える前に柳さんはバシバシと力強く俺たちの両肩を交互に叩いてきた。加減が下手なせいでかなり痛い。


「そうか、そうか! ならば拙者たちの関係は弟弟子と妹弟子だ!!」


「いや、あ、あの、柳さん……?」


「我らの間にもはや敬語は不要だ! 宗右衛門と呼ぶがいい!!」


 話していて疲れる人だな。テンションが熱血系というか距離感を掴むのが非常に難しい。柳さん人に勝手に役割を与えてくる役者タイプのようで、たぶんだけど此の手の人はノリに付き合わないと結果的に後でもっと面倒くさいことになる。そういう気配がある。


「……なら、宗右衛門”さん”で」


「………そうか、本来ならば”さん”も不要という所だが最初の内はそれでいいだろう! では行こうか! 拙者が師匠の頼み通り桜一刀流の道場を案内しよう!」


「ちょっと待ってください!」


 宗右衛門さんは俺たちを先導するように背中を向けて、我が物顔で門を潜ろうとしたが瞳を細めてこちらを見てくる門下生の少年に行く手を阻まれた。


「ム? まだ何かあるのか?」


「『何があるのか?』じゃないですよ! イカれてるんですか! 雰囲気で誤魔化さないでください! だいたい柳さんは葵さんに出禁と言われているはずでしょう! ここから先に柳さんを通すと当番である僕が後で怒られ――」


「構いませんよ、イオリ。私が許可します」


「し、師範?」


 威嚇するように両腕を広げ、こちらを睨む少年は他でもない師範の穏やかな声に窘められた。イオリと呼ばれた少年は呆気に取られた表情で師範を見ていた。


「おお! 椿がいると話が早いな!」


「……もし貴方達が妹に見つかると色々と面倒くさいことになりますので、もし見学が希望ならお静かにお願いしますね。それにしてもエルフですか、また厄介なことになりそうですね」


「……何よ、ワタシがエルフだと何か悪いの?」


「いえ、こちらの都合です。エルフの少女と現世から来た少年の噂はここら辺りでも最近有名です。ヒビキさんと同じ海賊船に乗っているのでしょう? 貴方達の噂が妹の葵の耳に届いていないといいのですが……」


 そう溜息を吐くようにボソボソと小さな声で呟くと師範、いや椿さんは宗右衛門さんと一緒に桜一刀流と看板が掛けられた門の下を潜っていった。少年も「本当にいいんですか?」と確認しながら椿さんの背中についていった。


「ほら、ジン。何をしてるの? ワタシたちも早く行きましょう?」


「………もう帰りたい」


 ここまでキャラが濃い人物だらけで疲れてしまった。だからだろうかつい本音が口から漏れてしまった。というかヒビキはなんで何も所縁がないこの道場に俺たちを来させたのだろう。結局、ヒビキの弟子の宗右衛門さんは自分の道場を持っていて桜一刀流には全く関りがないみたいだし……


 そんなことを考えながらも俺はヘルガに急かされて先を行く三人の後に続くように桜一刀流の看板が掛けられた道場の中に入った。




 ※※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 


 桜一刀流の道場の敷地は圧迫感のあった塀や門とは違い開放感を感じるほど広かった。リーネの屋敷にあった道場は弓道場などが一体となっていたがごちゃごちゃとした印象があったが、桜一刀流の道場は弓や刀、槍などそれぞれの用途で道場が分けられているのか複数の建物がある。


 俺が門の正面から入って少し歩くとブンと空を切る音が聞こえてきた。音に反応して目を向けるとバカみたいに広い庭で男たちが竹刀を振っていた。砂利が足裏に食い込むのも気にせずに夢中になって竹刀を振っている。


「一刀流って名前のくせにやってることは幅広いんだな……」


「失礼だぞ! 師範を前で!」


「あ、ごめんなさい。椿さん」


「構いませんよ。よく言われますので。……ただ一つ言わせてもらうとしたらこれは看板に偽りありということではありません。これはうちの看板が他の道場と比べて年季が違うことを示しているのです。長い年月を経ることで一本だった道が槍や弓など無数に枝かれしただけです」


「は、はい。そうですよね」


 失礼だとは思うがこれが俺が桜一刀流に抱いた率直な感想だった。いや、何たら一刀流と聞いたら普通『うちは刀だけです!』みたいな印象を受けるが竹刀を振っている男以外にも薙刀を振っている者や矢が的に当たる音が遠くの方から聞こえてきた。


「………」


「おい、大丈夫か?」


 外からは見えなかったが道場内にいる人数がヘルガの予想よりも多かったのか門を潜ってすぐ俺の背中に隠れるように息を潜めて黙っている。


「大丈夫ですよ。貴方に不躾な視線を送る者はうちの道場にいません」


「ほら、椿さんもこう言っている」


「はい。万が一にも客人にそんな失礼を働く者がいたならば、まだまだ余裕がある証拠として稽古の量を三倍にします」


 椿さんは冗談めかして俺たちにそう口にしたが目がまったく笑っていない。


「あ、えっと……そうだ。ここの道場は竹刀で稽古しているんですね。てっきりこういうのは木刀でやってると思ってました」


 会話に困った俺は椿さんに素朴な疑問を投げかけることにした。ヒビキも普段は先が丸太のようになっている重そうな木刀で素振りをしているのであれが普通なんだと思っていたがそういうわけでもないようだ。


「ああ、これは兄が決めた方針なんですよ」


「え、お兄さんもいるんですね、三人兄弟ですか?」


「はい、三人兄弟でしたよ。兄は私たちがまだ幼い頃に死んでしまいましたが」


「………ッスー、そうなんですね」


 最近人と関わる機会が増えて同時に地雷を踏みぬくことが多くなった気がする。俺はどうやら会話が上手くないようだ。ここまできたらむしろ下手といっていいだろう。


「かつて刀は武士の魂と言われていました。ですが刀を腰に差すことが名誉だった時代は廃れていく。いつかこれも習い事の一つになる。いや、もうなりつつある。病弱だった兄は常日頃から口癖のようにそう言っていました」


「拙者の開いている道場では木刀で稽古をしているぞ」


「聞いてないですよ! 師範が今話しているでしょう!」


「……すまぬ」


 聞いてもいないことを話す宗右衛門さんにイオリと呼ばれる少年が注意をした。いや、宗右衛門さん。空気を変えようとしてくれたのはありがたいけど人の真面目な話を遮るのはどうかと思います。


「……そうですね。何もないのに話を聞くだけというのは苦痛でしょう。いきなり来た客人であっても、もてなすことができないと我々”桜一刀流”の沽券にも関わります。イオリ、すいませんが客人であるお三方にお茶を淹れて来てください」


「はい!」


 椿さんのお願いにとても素直な返事をしたイオリ君は俺たちに向かって一礼すると何処かに行ってしまった。師範と呼び慕うだけあって声だけで彼を心の底から尊敬していることが伝わってくる。


「イオリがお茶を入れて来るまで時間がありますね。お二人は先に聞いておきたいことはありますか?」


「………ねぇ。スブリって言うの? あんなことして意味があるの?」


「お前いきなり何てこと言うんだ」


「ハハハ!! 面白い!」


 ヘルガの問いには驚かされてばかりだ。普通は思っていても口には出さない。それが仮にも剣術を教えている道場の師範の前となったらなおさらだろう。だけど、エルフの里で育ってきた彼女は軽々とそんな人間が作った目には見えないラインを飛び越えていってしまう。


「そうですね。前に中央図書館でエルフは狩りが身近な種族だと何かの文献で読んだことがありますが、それだと素振りなど反復練習に疑問も生まれますよね。狩りとは生きた獲物を相手にしているのですから……」


 椿さんはヘルガの質問に『目から鱗です』と言った表情で笑って流してくれた。いや、世が世がなら彼女の質問は死ぬほど怒られていても不思議じゃないぞ。


「素振りとは身体に正しい動作を記憶させるためにしているのです。理想のイメージを身体に滲ませると表現すればいいのでしょうか? あれも剣の基礎を支えるために重要な練習です。うちでは練習前に素振りを百本行っていますね」


 俺は彼が話し終える前に素振りをしている桜一刀流の門下生に目を向けた。半裸で逞しい背中には汗を垂れ流し、声にならない奇声を上げる門下生の叫びを聞く。どう見ても百回なんてとっくの前に終わっているはずなのに彼らは素振りを止めない。たぶんだけど椿さんの言葉を鵜吞みにしてはいけない。そうな気がする。


 というか反復練習という単語のせいで俺も空手部でのトラウマを思い出してそれどころじゃない。


 椿さんが初めに言ったように誰もヘルガに、エルフがいるのに不躾な視線を送ってこない。みんな疲れ果てていてそんな気力すら湧かないのだろう。縁側のような場所に座り話を聞いているだけでいいならまだ楽しい。実は彼もヒビキの知り合いみたいだからいきなりあそこに混ざって稽古しろと言われるんじゃないかって密かに警戒していたんだ。


「イオリ。兄さんはこっちね」


「ああ、ちょっと待って下さい!! アオイさん!」


 ドタドタと煩い足音がイオリ少年が消えていった母屋の方から聞こえてきた。何だと思い顔を向けるとバンと勢い良く襖が開かれた。


「兄さん! 仕事もせずに何処をほっつき歩いてたんですか!?」


「はしたないですよ、葵。客人の前で」


「誰のせいですか! というか客人なんて聞いてないです。そういうことは先に言って―――」


 椿さんの妹である葵さんは雲のようにふわふわとした掴み所がない兄とは真逆の真面目でしっかり者だということはすぐに分かった。


 彼女は黒く綺麗な髪をヒビキのようにまとめてポニーテールにしている。目元は椿さんと似ていて彼との血の繋がりを感じさせる。歳はたぶん俺よりも少しだけ上だろう。大学生のお姉さんみたいな雰囲気がある。そんな彼女は俺たちを、いや、正確には宗右衛門さんの姿を見た瞬間言葉を発するのを止めた。


「おお、久しぶりだなアオイ! 息災だったか?」


「何をしているんですか。貴方はうちの道場の敷居を跨がせないと言ったはずですが」


 さっきまでとは打って変わり絶対零度の雰囲気を纏い、射殺すような視線を宗右衛門さんに送っていた。巻き添えをくらったイオリ君が「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。


「今日は練習稽古を申し込みに来たのだ」


「練習稽古? うちと仕合の申し込みですか? ………はぁ。そんな暇が貴方にあるんですか? 聞きましたよ。また弟子に逃げられたそうじゃないですか。貴方の所はいつまでも経っても黴の生えた古臭い手法だから弟子が一人も集まらないんですよ。まあ、貴方が人の上に立って指導できるほどの人間には見えませんけどね」


「ム」


「そして、そちらの彼女は今噂になっているエルフの少女と、もう一人の方はその珍妙な服装から判断するに現世から来て海賊になった物好きな少年ですか? あの男の関係者が次から次へと……」


「関係ありませんよ。彼らは私の友人です」


「関係ありますよ! あの男に関係がある者は全員出禁と決めたじゃないですか!?」


「いいんですよ。彼らはヒビキさんの紹介ではなく、先程までいたカツキの紹介でうちを見学しているんですから」


「………カツキの?」


 二人の間に一触即発の空気が流れる。練習の途中で抜けてきたのか葵さんの手の中には木製の薙刀があった。その木製の薙刀を彼女はギュッと力強く握った。


 というかわざわざ口は挟まないが俺たちはカツキではなくヒビキの紹介だし、そもそもカツキの紹介だからってカツキも海賊船の一員でヒビキの知り合いではあるのだから出禁なんじゃないか? それと何で椿さんは俺たちとカツキに交流があるって知っているんだ? 


 あいつは顔が広いなと場違いな感想を抱いていた俺の意識を引き戻したのはこの場にいなかった第三の乱入者だった。丈夫そうな皮のバックに眼鏡を掛けた青年が道場に門から顔を覗かせているのを偶然発見したからだ。


「……椿さん、あの人は誰ですか?」


「ああ、彼はうちが贔屓にしている新聞屋の三男坊ですね。どうしたんでしょうか?」 


 彼は暫くの間キョロキョロと道場の中を覗いていた。だけど俺たちの存在に気付き、その中にいる椿さんと葵さんの二人と目が合った嬉しそうに顔を綻ばせ、面々の笑みで――「牛鬼が出たよ!! 牛鬼が出たよ!」と叫んだ。


 何事かと素振りを止めて何人かが声がした方向に顔を向ける。青年はそのことに気付いて恥ずかしそうな顔をすると画家のような帽子を深めに被り、二人に向かって一礼するとそのまま走り去ってしまった。


 訳が分からない。だけどあの青年はここら一帯の住民に吹聴するように大きな声を出して走っているのだろう。耳を澄ましていればまだ声変わりの終わっていない未成熟な青年の声が聞こえて来る。


「はぁ、また牛鬼ですか……」


「そうだね。最近は発生率も減ってきたと思っていたのですがまだまだ危ないですね」


「仕方がなかろう。あれは最早災害に等しい」


 四人も素振りをしていた門下生の男たちも全員が牛鬼が出たと報告を受けて辟易とした様子で「いい加減にして欲しい」「獄卒どもも仕事をしろよ」「俺の実家は大丈夫かな?」などと口々に語り合っていた。誰も自分の身を心配している者はいない。


「え、今のなに? 逃げないとダメじゃないの?」


「いや、わからない。というか牛鬼って何だ?」


 ただし、例外が二人いた。俺とヘルガだ。二人の余所者だけがこの理解できない事態に慌てふためいていた。


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