航海日誌 『第一回、腕相撲大会?』
ヘルガが仲間に加わった。その翌日の話である。船内が妙に静かだった。いつもなら誰かが騒いでたり、笑い声が聞こえてきたりするのに、今日はまるで誰もいないかのように静かだった。人の気配がないことに違和感を覚えた俺は、何かがおかしいと感じて太陽が照りつける甲板に出ると、いきなり声をかけられた。
「おーい、ジン。何も言わずにこれを引いてくれるか?」
「……これは、紐……いや、クジですか?」
俺を呼び止めたのは、ノギさん一派の笑い上戸担当、シミズさんだった。ちなみに自慢話上戸担当がノギさんで、泣き上戸担当がモリさん、暴れ上戸がサカイさんだ。酔うと暴れるから、酔い覚ましにあのマズイ、グリフォンの肉を食べていたらしい。四人とも、デフォで絡み酒担当でもあるので、スゴかった。ある意味、奇跡の世代だ。地獄のような布陣だった。そんなシミズさんは、どこから持って来たのか、真っ白な紐を握っていた。これは、いわゆる紐クジというやつだ。
「ああ、そうだ。歓迎会にはこれが必要だろ?」
「はぁ? ちょっと意味が分かんないんですけど?」
「いいから、引けって」
シミズさんは握り拳を俺の眼前にグッと押し付けてきた。拒否権はなさそうだったので、俺は嫌な顔をしながらその紐を一本だけ掴み、引き抜くと……番号が書いてあった。八。八か。何の番号なんだろう。そんなことを考えていると、シミズさんが俺の持っていた紐を奪い取ってきた。
「……八か。ジンは名前的に十二を引くかと思ったが……八なら、もうすぐ出番じゃねぇか。ほら、さっさと来いよ。どうせ、参加するんだろ?」
バン、バン、と俺の肩を二回叩くとシミズさんは「ジンは、八だったぞ! 八だ!」と大声で報告しながら人波の中に消えていった。その声を合図に、船の中央付近からざわざわとした野郎たちの声が戻って来た。笑い声と叫び声が、じわじわと甲板を満たしていく。
俺は紐クジの意味が分からずに怪訝な顔をしたまま、シミズさんが消えた方向へと歩いていると途中で大きめな海賊帽子を被った少女の姿を発見した。リーネだ。リーネが人だかりから少し外れた場所で、皆のことを見守っていた。
「リーネ……この騒ぎは、いったいなんだ?」
甲板の中央で、酒瓶片手に騒ぐ野郎たちを見ながら、俺はリーネにそう問いかけた。遠目からでは、樽を囲って何かをしていることしか分からない。昼間とは思えない熱気だ。やけに盛り上がっている。まるで夜の酒盛りに紛れ込んでしまったかのようだ。酔いすぎて、誰かが倒れている……いや、それはいつも通りだな。
「うん? あー、ジンも参加するのね。ほら、ヘルガがせっかく仲間に加わったわけだし。何か、盛大な歓迎会をしてあげたかったんだけど……船の上だと、あまり備えがなくてね。端的に言ってしまえば、豪華な料理を用意する余裕がないの。もっと言ってしまえば、お酒しかないわ!」
「……酒は肴がないと飲めないらしいからな。というか、昨日のお前は、歓迎会は黄泉の国に帰ってからって言ってなかったか?」
「そうよ。でも、せめて何かしてあげたいじゃない。これからずっと船の上だからね。早く打ち解けないとお互いに気持ち悪いでしょう? 彼女は、ツンケンしていたから人間の知り合いだって少ないんだし。だからね、妙案を思いついたのよ。久しぶりに腕相撲大会を開催しようってね!」
「う、腕相撲大会?」
「そうよ! もう誰も正確な回数なんて覚えてないから、これが、第一回ね。第一回、腕相撲大会の開催よ! これがヘルガの歓迎会の代わりね!」
腕相撲大会って、体育会だな。どおりで今日は皆、昼間からテンションが高いわけだ。酒が入ってるせいで、夜中並みに騒がしい。それに、腕相撲なんて中学生の頃、空手部の合宿でした以来だな。あの時は、三回戦目で運悪く兄貴に負けて、確か九位で終わったんだ。このメンツにも勝てないだろう。体格が違いすぎる。いや、というか、問題はそこじゃない。問題は――
「こんな催しで、ヘルガのヤツが喜ぶのか?」
「……あれを見なさいよ」
呆れたようにそう呟いたリーネが指差す方向を見ると……そこには、サカイさん相手に圧勝しているヘルガの姿があった。
「フン! ワタシに勝とうだなんて、百年早いのよッ!」
「ひゃ、百年って。エルフが言うとあながち冗談に聞こえねぇな」
俺の視線の先には、サカイさんの腕を樽の上に叩きつけて勝利のポーズを決めるヘルガの姿があった。美しい髪をなびかせ、勝ち誇った笑みを浮かべている。サカイさんは悔しそうな顔をして、右手を庇うように蹲っている。
その様子を見て、俺は思わず苦笑した。どうやら、心配は杞憂だったらしい。ヘルガは、この腕相撲大会を存分に楽しんでいるようだった。というか、俺よりも馴染むのは早いくらいだ。
「あの子も頑張ろうとはしているみたいね。まあ、うちは人数も少ないし、ヘルガがどういう性格かを事前に分かっているから、きっかけさえあればすぐに馴染めると思ってたけど……問題は、街についてからね……」
すらりとした指を口元に当てて、リーネはぶつぶつと何かを呟いている。
「なぁ、質問があるんだけど。これって、リーネも参加してるのか?」
「うん? ええ、参加しているわよ。私はクジで一を引いちゃったからもう終わったけどね」
「そうか……ちなみに結果は?」
「もちろん、私が勝ったわよ!」
自信満々に胸を張るリーネの姿に、俺は思わず目を細めた。リーネも、ヘルガもそうだが……その華奢な腕のどこにそんな力があるのか、未だに謎だ。試合は見てないからもしかしたら力ではなく、技術や駆け引きの勝利かもしれない。だが、リーネは見た目に反して、かなりの力持ちであることをもう知っている。俺が持てなかったはずの木箱を軽々と持ち上げていたからな。現世だと、パッケージ詐欺で訴えられるレベルで彼女は力が強い。
「というか、俺は八だったから一のリーネとは意外と近いんだな」
「……八、八なのね。それは、運が悪かったわね。もし、ジンが勝ち上がれたら受けて立ってあげるわ。それに、ジンが参加ってことは……結局、全員参加するみたいね。これなら、気を遣う必要はなかったわ」
「え、全員? アリアさんやレインちゃんも?」
「ええ、そうよ? たった今、全員参加するって言ったばかりじゃない。それがどうしたの?」
「……大丈夫なのか、それって?」
「……ジン。あなた、レインのことになるとかなり過保護よね。大丈夫よ。むしろ、安心しなさい。何故なら――」
リーネの言葉を遮るように、歓声が上がった。俺がリーネから視線を外し、人だかりの……その中央を見るた瞬間、思わず息を呑んだ。人間が飛び上がったからだ。モリさんだ。モリさんが宙を舞った。空中に人が投げ飛ばされる瞬間なんて、そうそう見られるものじゃない。俺は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、目を白黒させながらその衝撃的な光景を見ていた。二倍近く、体格差があるはずのレインちゃんが投げ飛ばした。いや、レインちゃんにしては顔色が悪いな。死人よりも青白い顔をしている。それに、黒目と白目の境界が滲んでぼやけているようでどこを見ているかわからない、そんな虚ろな目をしている。あれは、もしかして……
「……参加するのは、レインじゃなくてユキだもの。ちなみに、ユキはこの大会の優勝候補よ。前回の順位は二位だったはずよ」
「それは……大丈夫そうだな」
俺はリーネの言葉に納得するしかなかった。目の前であんな馬鹿げた光景を見せられたら、誰だって納得するしかないだろう。それに、ユキはヒュドラの時に身を挺して俺を守ってくれた。俺の体重を軽々と持ち上げて、飛ぶように樹々の間を移動するあの姿はとてもじゃないが真似できるようなものじゃない。ユキの馬鹿力を見た、甲板の熱気はさらに高まる。腕相撲大会という名の歓迎会は、もはや某漫画の格闘技の世界一を決める祭典となったんじゃないかと疑うほどの盛り上がりを見せていた。そして、次の対戦者の名前が、番号が叫ばれる。
「えーっと、次は……お! 八番がうまってやがるぞッ! なら、八番だ! 八番! つーか、ジンだ! さっさと死にに来い!」
「あら、お呼びみたいよ? 見ててあげるから、頑張ってきなさい」
「……みたいだな」
ノギさんの物騒な叫び声に、周囲が一斉に笑い声を上げる。空気が一段とざわついた。船の上とは思えない熱狂が渦巻いている。嫌な予感がする。とても、とても、嫌な予感がする。ニヤニヤとした顔、同情しているような瞳、俺に投げかけてくる言葉の数々、すべてが俺の危機感を刺激してくる。まるで処刑台に向かっているような、そんな最悪な気分になった。だから、俺は一度、振り返ってリーネに問いかけることにした。
「……久しぶりって言ってたよな? なら、前回の王者は誰だったんだよ? 俺は新入りなんだし、これが初戦なんだ。船長として、それくらい教えてくれても罰は当たらないだろ?」
涼しい顔をして俺のことを見送っていたリーネが少しだけ目を細めて、肩をすくめた。だが、その燃えるような赤い瞳には密かな闘志が宿っていることを俺は見逃さなかった。
「それは、もちろんシュテンね。圧倒的よ。だって、私もヒビキも前回はシュテンに負けて三位以下だったもの。船長として、耐え難い苦汁を飲されたわ! だから、今回は負けないように気合を入れてるのッ!」
「……あー、シュテンは鬼だからな。それと、あの凶器みたいな筋肉だし。次元が違うと思うが……それにやり合おうと思ってる時点で、リーネの方がおかしいだけだと思うけど。まあ、頑張れよ。陰ながら応援はしてるぞ?」
「あら、他人事ね。でも、応援はしてちょうだい! 今回は私も本気で優勝するつもりだもの。ヒビキもユキも変わらず強敵だし。今回は番狂わせのヘルガがいるからね。油断ならないわ! そして、やっぱり一番の強敵は――あなたの初戦の相手よ!」
「残念だったな、ジン。初戦の相手はこのオレだぁ!」
その声に、俺の背筋が凍った。恐る恐る、首を正面に向けると……そこには、樽の向こう側には……シュテンがいた。彼はすでに腕相撲の構えを取っていて『いつでも準備はできているぜぇ』って顔をしている。威圧感がスゴイ。腕を身体に密着させて、肘を胴の近くでガッシリと固定している。いつも俺の背中を叩いてくる手が、太い五本の指が、今は鍵爪のようにこちらに向いている。一目で分かる。強いヤツの構え方だ。俺に勝ち目はない。いや、勝ち目どころかモリさん二の舞だ。だから俺は、魂の叫びを……全力で、文句を言い放った。
「おかしいだろッ! よりにもよって、俺の相手がシュテンかよ! というか、何で王者が初戦から参加してんだ! こういうのは普通、最後まで勝ち上がったヤツがシュテンとやるんじゃねぇのかよッ!」
「あ、運も実力のうちって言うだろ? それに、男も女も関係ねぇ。そして、王者も新入りも関係ねぇ! オレが初戦の相手なんて運が良かったじゃねぇか?」
「……やっぱり、知らなかったのね。だから、私は『運が悪かった』って言ったじゃない」
俺の叫びは、見事に前座扱いになった。リーネは呆れ顔で再び肩をすくめ、シュテンは豪快に笑いながら、太い腕を軽く振った。ユキは状況が良く分かっていないのか首を傾げて静かに俺を見つめてくるし、ヘルガは腕を組みながら「頑張りなさいよ!」と素直に応援してくれている。遠くからアリアさんが、同情するような瞳でこちらを見てくるし、ヒビキはいつも通りだ。感情が読めない表情で、能面のように笑っていた。
誰も助けてくれない。当たり前だ。断らずに参加したのは俺だし、クジ引きは正当なる結果だ。俺だって、別に参加してもいいとは思っていた。だから、相手がシュテンだからと棄権するのは、それこそ筋違いだ。それに、いつまでも俺が何もしなければ……盛り上がったこの場が冷めてしまう。歓迎会で場を冷ますのは、あり得ない。絶対に、あり得ない。俺がそんな決断を迫られているとシュテンが愉快そうにニヤリと笑って、言葉を投げかけてきた。
「ほら、男だろ? まだ二つ玉がついてんなら、シャキッと負けろ」
「……負けるのが、前提なのかよ」
「あ? まさかオレに勝てると思ってんのか?」
「……いや、無理だろうな。だけど――」
俺は、黙って樽の前に立った。そして、深く息を吸った。勝てないと分かっていても、逃げるわけにはいかない。背水の陣だ。もはや退路がない。すると、周囲の喧騒の質が変わった。棄権すると思っていたヤツらのせいだろう。笑い声がざわめきに変り、視線が一斉に俺に集まる。この場に立った以上、俺は俺の役割を果たす。この歓迎会をさらに盛り上げるための……道化になる。俺は盛り上げ役になる覚悟を決めて、制服の上着を脱ぎ捨てた。
「お、やる気じゃねぇかッ!」
「……当たり前だろ。シュテンには、こき使われた恨みがあるからな。……その恨みを、今日! ここで、返してやるよッ!」
「ハッ、生意気だな!」
俺の勇ましい姿を見たシュテンは、満足そうに笑った。潮風の冷たさと太陽の熱のせいで、脳がバグりそうだ。どうせシュテンには逆立ちしても勝てないんだから、なら、せめて盛り上げてみせよう。歓迎会だし、一肌脱ぐかくらいの覚悟なので、怪我をする覚悟は……ない。俺は視線で『手加減してくれよ?』とシュテンに訴えながらも、樽の上に右腕を乗せる。指先が、ほんの少し震えていた。だが、周囲の歓声のせいでそれには気付かれない。
「無礼講だろ? 負けた後に、酒に流せよ?」
「……いいぜぇ。これは調子に乗った生意気な新入りに、上下関係を叩きこむチャンスだ。白黒ハッキリとさせてやるから、さっさと座れや! あ、そうだ。ここまだ煽ってきたんだ。負けたら今日一日、ジンはオレに敬語を使えよ?」
「……ああ、逆にシュテンに敬語を使わせてやるよ」
煽り合う。煽り合う。だが、俺は心の中で念を押す。シュテン、分かってるよな? これはただの演技で、観衆を盛り上げるためにしていることだからな? 本気で潰しに来るなよ? 頼むからな?
「二人とも準備はいいな! 肘は樽の上だ。そして、手のひらはしっかりと握り合えー! それじゃあ、始めるぞ!」
どうやらノギさんがレフェリーを務めるらしい。彼はどこからか持って来た小さな鐘を手にして、人だかりの奥から現れた。その顔はやけに真剣で、俺にゲロかけてきた人物には見えないほどキリッとしている。そして、俺とシュテン。二人の手のひらをノギさんが力強く包み込む。俺はシュテンの手のひらと触れあった瞬間、勝てないことを身体が理解する。まるで、鉄や岩でも握っているかのような感覚だ。勝てない。勝てない。絶対に、勝てない。というか、死ぬ!
「ちょ、ま――」
「ファイ!」
ノギさんの気持ちがいいほどの張り上げた声が聞こえた。瞬殺だった。瞬殺だった。俺が。シュテンに、俺は腕ごと身体を持ち上げられ、樽の表面に叩きつけられた。まるで紙切れのように押し倒さたのだ。だが、シュテンの怪力は……いや、馬鹿力の威力はそれだけでは止まらなかった。俺の身体が逆さまになったことは覚えている。だが、それ以外の記憶はない。正直、俺の記憶には残っていないのだが……どうやらこの日、俺の身体は初めて宙を回ったらしい。身体が百八十度回転し、半円を……綺麗な弧を描いていたようだ。腕相撲で、だ。もう一度言うが、腕相撲で、だ。あまりの衝撃に気を失ってしまったので、俺の記憶には残らなかった。だが、後で聞いた話だと観衆は大盛り上がりだったみたいだ。俺は、自分の役割を果たせたみたいだ。
ちなみに、優勝者はシュテンで、二位がヒビキ、三位がヘルガだったらしい。どうやらヘルガの三位は大穴だったみたいだな。そして、リーネのヤツは俺が気絶した後も順調に勝ち上がっていたらしい。だが、シュテンと対戦し、惜しくもランキング外となった。まあ、俺を含めて誰にも怪我がなかったみたいで良かったよ。
それよりも……シュテンのヤツはいい年して大人げないので、少しくらい手加減を覚えた方がいい、です。




