航海日誌 『出航前』
俺たちはシュティレ大森林にある船着き場にまで帰って来ていた。リーネの船の乗組員はエルフのみんながシュティレ大森林から採取してくれた魔光石と討伐し終えたヒュドラの死骸から剥ぎ取った鱗やら牙やらを船に乗せている。
俺の身体は魔光石の入った袋を船着き場まで持って来た時点で限界を迎えていた。両足の脹脛の筋肉がパンパンになっている。
だから、桟橋の上で蹲るように身体を丸めて休んでいた。いや、一度ゆっくり身体を休ませないともう何もできない。する気力も湧かない。
「……もう行くのか?」
身体に溜まった熱をゆっくりと冷ますように息を整えていると少し遠くの方からカーリの声が聞こえてきた。声のした方向に視線をスライドさせてみるとカーリとリーネが話をしているのが見えた。
「ええ、さすがにもう帰らないとね。梅雨になってしまったらそれこそ悲惨なことになるわ」
「……ロバーツたちはもう数日間滞在する腹積もりのようだが……」
「ロバーツたちは黄泉の国には帰らずにしばらくの間、レナトゥス大陸に身を寄せるみたいよ。帰ってくるのは梅雨が明けてからだって。古代ドワーフの遺跡を発見したからカツキが近隣の領主のもとへ探索をする許可を貰いに行くべきだって言ってるからだと思うけど……まあ、あっちはあっちで上手くやるでしょう」
「そうか……”交渉人”がいるのなら安心だろうな。それにしてもドワーフか……」
「あら、そこまで感情を表に出すなんてカーリにしては珍しいわね。やっぱりみんなもドワーフが嫌いなの?」
「……個人的には好きでも嫌いでもないな。我らはこの森から出ないのでな殆ど顔を合わせたこともない。だが、かつて戦場で我らの敵だったと相手だと聞かされて育った身としては良い感情を抱くのも難しい……」
「それって確かカーリが生まれるよりも前の話でしょう? エルフのあなたが生まれる前の話なら、私たちからすれば神話の時代の話じゃない」
呆れたような顔をしたリーネがそんなことを口にした。俺もずっと疑問に思っていた。エルフって長寿とは事前に聞いていたけどカーリさんって何歳ぐらいなんだろう。いや、もっと言えば鬼であるシュテンや度々話題に出てくるドワーフも人間と比べるとどれぐらい長く生るのだろうか?
外見ではわからないけど精神的な面だけでの話ならカーリが俺よりも遥かに長く生きていると言われても納得してしまう。それほどの雰囲気がある。だが、ヘルガが俺よりも長く生きていると言われると納得はできない。彼女はカーリたちと比べて精神的に落ち着いているというわけではないし、むしろ慌ただしいと感じる。
もし彼女が現世にいたら年齢は俺と同じぐらいか、少し年下ぐらいだと思う。そう考えてしまうぐらいには彼女からはエルフとしての威厳や迫力を感じない。
「……なあ、そういえばヘルガは見送りにこないのか?」
ふと頭をよぎった疑問が口から零れ落ちた。口にした後になって、ただ俺がヘルガの姿を見落としてしまっただけなんじゃないかと思って再度、周囲を確認してみたがやっぱり彼女の姿はない。
すると、ヘルガは俺のそんな疑問を解消するために静かに唇を動かした。
「……ああ、まだ来ていないようだな。ヘルガのヤツも我らと同じく魔法が使えるようになって子供のように喜んでいたからな。…………それに、ヨルズが『ヘルガが一人前になれるように直接、この私が指導してやる』と息巻いていた。きっと今頃ヘルガは大変な目に合っていることだろう」
「あ、ちなみにヨルズが誰なのかっていうとカーリの姉のことよ。彼女は人間嫌いなことで有名で、そのせいか今は他里を作ってそっちに引っ越したって聞いているわ。ヨルズはヒュドラ討伐にも参加してくれたし、エルフたちからの人望はとても厚いから私としてはカーリたちと同じぐらい仲良くしたいんだけどね」
「へぇ、なるほど……」
リーネが先に補足してくれたおかげで話の内容がスッと入ってきた。だから、カーリの理知的な瞳が少しだけ温かいと感じたのか。表情の変化をあまり他人に見せない彼女から漏れ出した慈愛の感情だ。こんな表情をするってことはヨルズさんって人とは仲が悪いわけじゃないのか?
というかヘルガもヘルガだ。彼女が俺に『ワタシね、一つ決めたことがあるの! それをアンタには、アンタにだけは先に伝えておきたいって思ったの』と言ってきたのに今を逃したらタイミングがなくなってしまうぞ。
「何? ヘルガがいないと寂しいの?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……」
リーネが揶揄うような口調でそんなことを言ってきたのではっきりと否定しておいたが、彼女は俺の肩を軽く叩きながら、ニンマリと微笑みを湛えていた。近所にいる叔母さんみたいな彼女の笑顔を見ているとなぜだか無性に腹が立ってきた。
「まあ、いいじゃない。今、ヘルガが見送りに来なくてもどうせまた会えるわよ」
「……そうだな。また、エルフの里に来た時に聞けばいいのか」
薄情なヤツだと少しだけ思うが見送りにこないのなら別にそれでもいい。いや、ヘルガの伝えたいことの内容がずっと気になって仕方がなかったから帰る前に内容だけ聞きいておきたい。そうじゃないとしばらくの間、眠れない夜を一人で過ごすはめになるだろう。
「おーい、リーネ。出港の準備ができたぞ! ジン、お前もそんなところで何やってんだよ! 鈍いヤツだな。さっさと乗れよ!」
船の上、つまり俺たちの頭上からシュテンの張り上げた声が聞こえてきた。
「ええ、わかったわ!」
「……鈍いって、ただ少し休んでただけだろ」
「まあ、いいじゃない。……それじゃあカーリ。私たちはもう帰らないといけないけど……昨夜、頼んできたあの件はもういいのかしら?」
「……ああ、選択権は委ねてある。この場に来ていないということはそういうことだろう。もしヨルズの耳に入ったら反対していただろうからな」
「そうなのね。実は私も楽しみにしてたんだけど……」
シュティレ大森林の、エルフの里があった方向を残念そうにジッと見詰めていたリーネにカーリは優しく、静謐な声で呼びかけた。
「……リーネ」
「うん、何よ? いきなりそんな改まって……」
「……感謝する」
カーリは一呼吸の間を置いてそう短く告げた。深々とまではいかないまでも、まるで謝辞を述べるかのように彼女は丁寧に頭を下げた。その突然の奇行にリーネも驚きを隠し切れないみたいで、彼女は燃えるような赤い瞳を丸くしていた。
「や、やめてよ。いきなり……お互いそんな柄でもないでしょう?」
「……確かに柄ではないかもしれないな。だが、私はこの里を統率している長としてシュティレ大森林をヒュドラの脅威から退けてくれたお前たちに感謝を伝えなければならない。……今一度、この森に住むエルフを代表して謝辞を述べる。リーネル、助けてくれてありがとう。そして同時に我らが森に、先祖に、精霊に誓おう。……今日この日、助けてくれたこの恩を我らは生涯忘れることはない。この恩はいずれ貴様たちに必ず返す。だから――もし、遠い未来、貴様たちが危機に瀕することがあれば我らに頼れ。戦士の威信にかけて必ず力になろう」
「…………ええ、あなたたちからの感謝の意を謹んで受け入れるわ。だけど、今回のことを恩義だと感じる必要はないわ。私たちはただ海賊としての仁義を通すためにヒュドラと戦ったのよ。父に、母に、死んでいった仲間たちに、そして自らの手で暗闇の航路を切り開いてきた先人たちに誇れる自分でいたいから私たちは命をかけて戦ったの。ただそれだけよ……でもそうね。あなたがそれでも今日の出来事を恩義だと思ってしまうのなら、もしこの先の未来で、人の力だけではどうしようもないほど大きな困難が立ちはだかった時、今度はカーリたちが助けてあげてちょうだい。私はそれで充分よ……って言ったら格好付けすぎかしらね? 人類のためになんて大言壮語を吐くなんてそれこそ私の柄じゃなかったわ」
「フン、そうかもしれないな。……きっとお前のそういうところは父に似たのだろうな。優しさは母譲りかもしれないが……」
「え、ごめんなさい。最後の方が聞こえなかったわ。もう一度言ってくれない?」
「……気にするな。ただの独り言だ。その誓いは、いや、その約束は我らの故郷を守ってくれたお前たちへの謝意とお前の父の代より交わし続けた友誼によって必ず果たすとこの場で宣言しよう。リーネ、これは私との個人的な約束だ。そっちの方がお前にとって気が楽なのだろう?」
「約束……ええ、カーリも私のことをよく分かっているじゃない。そっちの方が余計なストレスがかからないし、距離が近づいたみたいでいいわ。……それよりも、ようやくカーリも私のことをリーネと呼んでくれたわね! とっても嬉しいわ!」
「……き、貴様がしつこくそう呼べと強要してきたのだろ。”海賊の娘”は知性だけではなく、記憶力までないようだな」
「何度も、何度も、リーネって呼んでって私は頼んだのにそう呼ぶのを避けてきたのはカーリの方じゃない。……あなたに一人の人間として認められたことが、私はただ嬉しいのよ。それが一番の成果だわ」
「認めた、認めないだのと本当にくだらないな。……ニンゲンは精神的にも独立できていないみたいだな。背丈だけはすぐ大きくなるくせに未熟な赤子同然ではないか。貴様らニンゲンはエルフである我々を見習って精神修養に励むといい。そうすれば少しはマシになるだろう」
「もう照れてるの? 今のあなたってただ可愛いだけよ?」
「ッ……フン!」
カーリは端正な顔を朱色に染めたかと思いきやヘルガのように鼻を鳴らしてリーネから視線を逸らしてしまった。
まるで幼子のような反応をしたカーリの姿をどこか温かい目で見守っていたリーネは会話を区切るように可愛らしい笑い声を上げた。
数秒の間、リーネは年相応の少女のように笑っていたがカーリが不貞腐れていくような気配を感じたのか、リーネは笑ったせいで乱れた呼吸を整えて――
「カーリ、また来るわ! それまで元気でいなさいよ!」
リーネは右手をカーリの目の前に差し出した。カーリは静かに、睨み付けるようにその手を見続ける。美人が怒ると怖いとは聞いたことがあったけど、実際に見たら怖いというよりも恐ろしい。鋭利な刃物のような流し目が特に恐ろしい。
ニコニコと機嫌が良さそうなリーネと不機嫌なことを隠そうとしないカーリが真っ正面から対立するかのように見つめ合う。緊張感が漂う。いや、俺が一人で勝手に緊張感を感じているだけだな。当の本人たちの態度はあんまり変わっていない。
俺が隣でそんなことを考えているとカーリが先に根負けしたように、または諦めたように深々と溜息を吐いた。そして――カーリは彼女の手を取った。
「…………貴様らの航路に幸があらんことを」
二人が握手を交わした。俺は今、エルフと人間という二つの種族が、種族の垣根を超えた瞬間を目撃したのだ。