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航海日誌 『巣立ち』


 シュティレ大森林の樹々の隙間を縫うように二つの影が移動していた。天から舞い落ちる木の葉を避けれないほどの速度でエルフの里から港のある方へとゆっくりと移動をしていた。それは、ヘルガとヨルズの影だった。


 エルフの種族魔法、『風を操る魔法』を使えるようになったその日に、ヘルガはヨルズに頭を下げて教えを求めた。だから、二人並んで魔法で風を操り、空を飛ぶ練習をしていたのだ。彼女のスパルタ教育によって、ヘルガは風の魔法による飛行を少しの間だけだが可能にしていた。これもすべてヘルガの頑張りとヨルズの成果の現れだった。


「――よし、止まれ!」


「えッ! あぁ!」


 ヨルズの突然の停止命令によって、ヘルガは空中でバランスを崩して転んでしまった。霊樹の大きな樹の枝から樹の枝に彼女たちは魔法で飛び移っているだけなのだが、集中を乱されたヘルガはそんな簡単な動作もできずに着地を失敗した。ヨルズが振り返ると彼女はかなり痛々しい転び方をしていた。


「……着地はまだまだのようだな」


「ぅ、難しいのよ。それに、まだ二日目よ? もうちょっとくらい優しく教えてくれてもいいと思うの。カーリやホヴズはもっと優しいわ! これって、ワタシじゃなくてヨルズの教え方が悪いんじゃないの? ……痛ッ!」


「フン、一体誰にそんな口をきいているのだ?」


 生意気な口を利くヘルガの大きな額に狙いを定め、細く綺麗な中指に力を込めて弾いてしまった。デコピンだ。対峙している相手の額を弾くだけの意味のない行為なはずなのに……それだけの行為のはずなのに、彼女がするととても洗練されている動作に見える。それにヨルズもいつもの気難しそうな表情が鳴りを潜め、どこか上機嫌そうだ。


「……だが、まあ。たった二日目でここまで成長するとはな。きっと、ヘルガはセンスがいいのだろうな。安心しろ。あと一月もあれば誰かの補助がなくとも、私たちのように空を飛べるようになれるだろう」


「フフ、安心してよ。アンタたちみたいに空を飛ぶことを、毎日のように夢見ていたからね! イメージトレーニングだけはもうばっちりよ!」


「……そうか」


 ヘルガは本心から悔しそうにしていたが、同時にどこまでも楽しそうな笑顔を浮かべていた。そのことを察したヨルズは何も言わずにただ黙って彼女が本心から満足するまで手伝おうと、応援しようと決めたのだが——


「それに一月も待ってられないわ! ワタシは今すぐにでも、この魔法を使いこなせるようにならないといけないの! そうじゃないと……」


「焦らずとも時間はいつも我らの味方だ。ヘルガの頑張りを見ていた、精霊様が風の加護を与えてくださったのだ。不格好で荒削りなその魔法もいずれ洗練され、十年後には我らの魔法にも見劣りしないできになっているだろう。心配することはない。歯痒い思いをしているかもしれないが今も昨日より、だいぶ良くなって……」


 そこで一度、ヨルズはヘルガへの慰めの言葉を区切った。理由は簡単だ。彼女の背後にヘルガとの時間を邪魔する無粋な気配を感じたからだ。シュティレ大森林に流れる風の揺らめきをいち早く察知した彼女は悠然とした態度で、その来訪者を向かい入れた。不機嫌な表情をしたまま向かい入れた。


「ヨルズ様。少々時間を頂戴してもよろしいでしょうか? いやー、実はヘルガに頼まれごとをされていまして……」


「……ほう、ホヴズだったか? てっきり——いや、いい。それにしてもヒュドラ討伐を通じてまた一段と戦士としての腕を上げたのだな。すぐに木の陰に隠れる弱虫だったお前が、見違えるほど堂々した気配を放つようになったものだ。驚いたぞ?」


「そうでしょうか? オレには良く分からないのですが……ヨルズ様がそう言われるのだったら、何か変化があったのでしょうね」


「ああ、とても良い戦士の顔になった。もし今の貴様が、あの時カーリとの結婚の申し出に来ていたら、安心してあの愚昧を……カーリを預けることができただろう。立派になったのだな」


「……その言葉、ありがたく頂戴いたします。ようやくオレはヨルズ様が認めるほどの戦士になれたみたいですね。……ボクは、いや、オレは今日という日を永遠に忘れません。戦士としての矜持を胸に、カーリの隣に並び立ちます」


「……フン」


 恭しく頭を下げたホヴズを見たヨルズはつまらなさそうに鼻を鳴らし、彼から目をそらしてしまったが一瞬だけ、ほんの一瞬に過ぎないが、どこか満足気な表情を浮かべていた気がした。


「ねぇ、ちょっと! それよりも、ホヴズはワタシに何の用だったの?」

 

「……うん? ああ、そうだったね。もうすぐリーネたちが出航する時間だよ? 港に急がなければ、乗り遅れるぞ?」


「え、もうそんな時間なの! ニンゲンって本当に、忙しないわよね。ワタシのようにもう少しくらい余裕を持って生きれないのかしら?」


「……本当にね。だけど、ヘルガはそんな彼らと一緒に黄泉の国へと行くんだろ? なら、君の方が合わせてあげないと。オレたちは精霊様によってたくさんのものを与えられたんだから。持たない者には合わせないといけないよ?」


「そうね、そうしなきゃいけないわよね! ホヴズの言う通りだったわ。エルフであるワタシの方が、アイツらに合わせてあげないといけないわよね!」


 そう言って、いきなりご機嫌になったヘルガは二人の立っている方に満面の笑顔を向けて出発の挨拶をした。


「それじゃあ元気でね、ホヴズ! それと魔法を教えてくれてありがとね、ヨルズ! 行って来るわ!」


「うん、オレたちは近くにいないんだから、怪我には気を付けないとだよ? ヘルガは昔からそそっかしいところは変わらないからね、困ったことがあったら周りのニンゲンたちに頼るんだよ。それと港にいるカーリにも挨拶をしていくんだよ? 強がっていてもカーリは後で絶対に寂しがるからさ。……それに、何か渡したいものがあるって言ってたし……」


「もう、分かってるわよ! 言われなくてもね! それに全員と『別れの挨拶は必ずすること』……それが、リーネがワタシに言ってきた条件だもん。ヨルズが最後だから、きちんと条件は果たしたわよ! これで文句は言われないでしょ?」


「……見送りか?」


 ヘルガとホヴズの会話をヨルズだけが理解できていなかった。何も聞かされずただ魔法の特訓に付き合っていたら突然、別れの挨拶を切り出された。何を言っているのか分からないと思うが、一番何を言われているのか分からないのは彼女の方であった。この場で、彼女だけがこの事態を読めていなかった。だが――


「ワタシね。実は、この森を出ることにしたの! ジンって、ニンゲンにリーネの船に乗らないかって誘われたてね。それで、決意したんだけどね。ワタシ、ニンゲンの国へ行ってみたいって思っちゃったの。だから、ヨルズともしばらくの間は会えないわね。だから……手紙を書くから許して?」


「ナッ!」


 隠すことは何もないと言わんばかりにニンゲン嫌いのヨルズにあっけらかんとそう告げた。胸を突かれたような表情をしたヨルズを待たずに「じゃあね!」と元気良く、風に乗って港の方向へ――リーネたちの停船してある方向へと飛び立ってしまった。


「ま、待て――」


 ヨルズがそう叫んだ時には、一足遅かったようだ。彼女が手を、腕を掴む前にヘルガは彼女自身が教えた魔法で風を操り、飛翔してしまった。空高く飛んでいった。しかし、ヨルズはすでに分かっている。ヘルガの魔法の練度は正直まだ未熟もいいところだ。ヨルズの魔法の練度と比べたら、ヘルガの魔法は赤子はようやく二本の足で立ち上がったレベルの差がある。その証拠にヘルガはフラフラと両手を広げ、空中で態勢を保つのがやっとの様子だ。


 ――追い付ける。追い付ける。いや、撃ち落とせる!


 彼女がニンゲンへの恨みが脳裏によぎり、この場でヘルガの身体に重大な怪我を負わせたとしてもその歩みを止めて見せる。もしここで怪我をしたら、治るまで介抱してやるし。説教もしてやる。所詮、ただの気の迷いだ。少し脅せばいいだろう。そう覚悟を決め、ヨルズは前方に手を伸ばし、ヘルガの頭――その少し上に狙いを定めて、風の刃を放った。


「「風刃よ!」」


 だが、ヨルズにとっても予想外な出来事が起こった。いつの間にかヘルガの横にいたホヴズがヨルズが魔法によって生み出した風の刃を相殺してきた。魔法によって圧縮され、放たれた二人の風の刃はまったく同じ威力だったようで、そのまま空中で破裂した。


 ヘルガに傷を負わせることはもちろん、ヨルズの風の刃による攻撃は周囲には何の被害も与えることがなかった。彼女の荒れに荒れた心境とは異なり、二人の間には穏やかな微風が流れていた。


「何をするんだ、ホヴズ」


「……何のことですか?」


「ッ! 惚けるなァ! ニンゲンの国に行くだとぉ? よりにもよってヘルガがぁ! 貴様も、貴様も何の真似だぁ! どういう覚悟で、どういう論理で、私の前に立ち塞がっているっ! まさか、ロギのことを忘れたのか! あの子が、ニンゲンに何をされたのか! 貴様は忘れたのかァっ!」


「……忘れるわけがありません。この森で暮らした家族のことを忘れることができるわけがありません。それは、ヨルズ様も分かっているでしょう? ニンゲンの手によって殺されたロギ様も、ヒュドラに殺された戦士たちもオレの今も心の中にいます。ずっと、そして、これからもです。でも、だけど……オレは生者を優先することにしました。ヘルガが……あの子は初めて、自分の意志を口にした。ならオレは、戦士として叔父としてヘルガの巣立ちを邪魔させるわけにはいかないじゃないですか。それが例え、尊敬するヨルズ様であってもです!」


「ッ!」


 そこで彼女はようやく理解した。いや、思い出したの方が正しいだろう。この森の住むエルフの同族はもともとヘルガに対してだけはやけに甘いのだ。激甘だったのだ。だから、ヨルズが厳しく接するようになったのだ。彼女に嫌われようとも、叱りつけると決めたのだった。


「貴様! 邪魔をするなァ!」


「オレは、叔父です!」


 両者がそう宣言すると同時に再び風の刃がぶつかり合った。その威力は凄まじく、両者が腕を振り、魔法によって生み出した風の刃のせいでバカみたいにデカい霊樹は軋むような悲鳴を上げ、木の葉が騒めき立つ。


「まだ追い付く! あー、クソ! 邪魔だァ! 行かせろォ! さもなければ……次は貴様でも容赦はせんぞッ!」


「行かせませんよ! ここでヨルズ様を行かせたら……カーリにもヘルガにも叱られますからねッ!」


 火花を散らすような睨み合いの末に、二つの戦士の影が空中で激しく交わった。風の刃が吹き荒れ、炎が巻き上がり、霊樹で作られた無数の矢が飛び交っている。風の気配を読み、二人が喧嘩をしていることは里にいるすべてのエルフの戦士に伝わった。だが、ヒュドラの解体作業や怪我人の治療で手を離すことができなかった。そのせいで、止めに入る者が誰一人としていなかった。


 ヘルガはリーネの船に乗ってもこの二人の戦いは続いていた。当初の目的は果たされているのにヨルズの雨のような攻撃が止まることはなく、ヘルガを止めることができなかった苛立ちをすべてぶつけられるようにホヴズとの戦いは続いた。今までのホヴズならすぐに劣勢に陥り、逃げ惑うしかできなったはずだが、ヒュドラ討伐を生き延びた影響で、戦士としての実力が一皮むけたのは事実だったようだ。どちらも譲らぬ、一進一退の攻防。そしてもう理由なんてとっくになくなってしまった、溜まりに溜まったフラストレーションをぶつけ合うだけの不毛なこの戦いは。結局、カーリとエーギルが力尽くで仲裁するまで続いていた。


 ヘルガの電撃加入のその裏で、このような馬鹿げた争いが一日中起きていたことを船の上にいるジンたちは知る由もなかった。この戦いのきっかけになった当の本人、ヘルガさえも知らない。月も呆れて雲に姿を隠してしまうような、そんな命を懸けた義姉弟(きょうだい)喧嘩は夜中まで続いていた。


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