第五話 『天使?』
久しぶりに夢を見た。そしてその夢は、これまで見たどんな夢よりも、最も印象的で酷かった。間違いなく、最悪な夢だと言ってもいい。
下校中にトラックに轢かれたかと思ったら、ミレンと名乗る赤鬼にいきなり三途の川だと言われた。そこまでならともかく小舟から身体が勝手に動き、三途の川から泳いで逃げ出した。泳いで逃げた先では海賊船に助けられて海賊帽子をかぶった少女に『仲間になりなさい』なんて言われた。まるでB級映画を無理に繋ぎ合わせたかのようなでたらめさに自分でも感心してしまう。
トラックに轢かれた衝撃も、溺れた苦しみも、疲労感すら味わった。笑ってしまうほど馬鹿げた悪夢だった。
なんならまだ眉毛と前髪の間、額のあたりに海藻のような水分を含んだ物体が張り付いている気持ち悪い感覚ある。溺れたときに本当に三途の川で海藻でも乗っけてしまったのか、いや、あれは夢だからありえない。きっと気のせいだろう。それにしても本当に酷い夢だった。
今は何時ぐらいだろう。体感的にはそろそろ学校に行くための準備をしないといけない時間のはずだ。身体はだるいが仕方ない。大学推薦を受けるために高校ではせめて無遅刻・無欠席のままでいたい。
俺の頭ではきっと母さんたちが求めるレベルの大学に一般入試で合格するのはきついだろう。部活もやめて、成績もトップになれない俺が少しでも大学推薦で有利になるためだと眠気を払い、目を開けるとそこにはいつものように自室の天井が広がっ…………知らない天井だ。
無機質な青っぽい照明がついた自室の白い天井ではなく、均一に並べられた温かみがある板目の天井だった。理解できずにぼーっとした目で天井を見つめていると近くで人影が動いたのが分かった。その人影の正体を突き止めるために顔だけを横に向けると同時に心臓が止まるほどの驚きが襲ってきた。
ベッドの横で動いていた人影は女性だった。
その女性はすらりとした綺麗な指でタオルで額の汗を拭きとってくれていた。慣れた手つきで看病を進めている彼女は湖のような優しい瞳に腰まで伸びた金色の髪が美しい女性で、一生懸命に介護するその姿がまるで俺を天国に導くために舞い降りてきた天使のように見えて……
「……天使?」
「ふふ、目が覚めましたか?」
そんな寝惚けたことを口にした俺に目の前の女性は優しく微笑んでくれた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
目覚めから最低な気分だった。
間違いなくこれまでの人生で最悪の寝起きだったに違いない。
身体は泥になってしまったかのような倦怠感があるし、三途の川で溺れたせいか身体の内側、もっと言えば口と鼻の間らへんの違和感が消えない。
この感覚を簡単に説明するなら、プールの授業で鼻に水が入った時によく似ている。そんな不快感がどうやっても拭えない。本当に最低な気分だった。
いや違うな。本当に最低な気分になったのはいままでのすべてが夢ではなく現実に起こったことだと分かってしまったからだ。俺が事故に遭って死んでしまったことも事実だし、三途の川で溺れたことも事実だ。もっと言ってしまえば、海賊に出会ったことも事実だった。
目を開けると、俺は見知らぬ部屋にいた。木造の部屋で家具らしきものはすべて固定されている。物自体が少なく生活感はないが、薬品の独特なにおいが学校の保健室のような雰囲気を漂わせている。そんな簡素な部屋で学生服を脱がされて、白いシンプルなベッドの上に寝かされていた。
そして、気を失っていた俺をずっと看病してくれていたのは天使のような女性だった。年齢は二十歳前後といった所だろうか。少なくとも俺よりは年上だろう。
日本人ではないと一発で分かる金髪碧眼で修道服らしき黒いローブで雪のように白い肌を隠している。目立った装飾品はない。だが胸元にある十字架、俺の知識が正しいのなら確かロザリオなんて言われているあれだ。その素朴な銀製のロザリアが修道服に身を包む黒百合のような彼女を引き立たせている。
こちらの出方を伺っているのか無言の時間が続く。
その間にも彼女は俺に使っていた手ぬぐいを水を張った桶に入れたり、絞ったりと自分の作業を終わらせていった。彼女が身体を動かすたびに耳にかけた金糸のように美しい髪がサラサラとこぼれる。仕草の一つ一つが丁寧で気品に溢れていた。そんな彼女の仕草に見惚れていると――
「自己紹介がまだでしたね。私の名前はアリアと言います。よろしくお願いしますね、ジン君」
英語やフランス語ではなく、流暢な日本語でそんなことを言われた。
明らかに外国人という見た目をした彼女が日本語をここまで流暢に話せることにも驚いたが、それよりもなぜか俺の名前を知っていたことのほうに驚いていた。
『なんで俺の名前を知っているんだろう』そんな浅はかな考えが顔に出てしまっていたのか彼女は上品に笑い俺の学生証を取り出し見せつけてきた。
「失礼だとは思いましたが勝手に持ち物を調べさせていただきました。するとこんなもが制服の後ろポケットに入っていました。なので、私はジン君の名前は知っています。ああ、ですが安心してください。ジン君の洋服を脱がしたのは私ではありませんから」
俺の考えを潰すように先読みしてくる。
ベッドの横にはハンガーに掛けられた制服があり、今更ながら上半身になにも着ていないことを思い出して恥ずかしくなった。そんな様子がおかしかったのか歌うように笑い、言葉を続ける。
「ジン君、もしお腹が空いているのなら簡単なスープとパンならご用意できますが、どうしますか?」
「いや大丈夫です。よろしくお願いします、えっと、アリアさん」
「そうですか……なら体調はどうですか? どこかおかしなところはありませんか? 正直に言って下さい」
「そっちも大丈夫です。ここは――」
「どうやら大丈夫みたいですね。目を覚ましたらジン君を連れて来て欲しいと船長からのお願いです。なので私の後をついてきてくれませんか?」
『どこですか?』と俺が口にするのを遮るように彼女は用意したようなセリフを被せてきた。有無を言わさない迫力がある。
優しい微笑みを湛えているはずなのに『早く言うことを聞けよ』という雰囲気を感じ取ってしまった俺は「はい、わかりました」としか言えなかった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
アリアさんは俺がベッドから起き上がって、制服に着替えるまでの間「着替えが終わるまで外で待っていますね」と部屋の外に出て行ってくれた。
アリアさんを待たせないように重い身体で素早く着替えて木製の扉を開けると一直線な道があり、そこには盗賊のような出で立ちの男たちが集団で毛玉みたいに丸まり、いびきをかいて寝ている。
アリアさんは静かに手招きして男たちを起こさないように慎重に歩いていく。
天使みたいな人だと思ったが、意外と押しが強いようだ。
だけど正直、その押しの強さに助けられている自覚がある。あのままだとダメな方へ、ダメな方へばかり考えて悪循環に陥っていただろう。そういう意味ではアリアさんに考える暇もなく無理やりにでも外に連れ出されたほうが良かったのかもしれない。すべて結果論になるが。
「急ぎになってごめんなさい。船長からできるだけ早くといわれているので」
「……アリアさん、船長って俺が気を失う前に見た海賊帽をかぶった人のことですか?」
「はい、そうです。もうすぐ時間になるのでリーネも起きているはずですが……」
船長、いやリーネと呼ばれた少女の場所を知らないようなことをいうが、アリアさんの足取りは迷いなく目的地へと進んでいるように感じる。いつの間にか真直ぐの廊下が終わり、階段を上がっていた。
「……あ、時間っていえば俺はどのぐらい気を失っていたんですか?」
「そこまで時間は経っていませんよ。シュテンがベッドに運んで結構すぐに目を覚ましたので、今はちょうど夜が明ける前といったところでしょうか」
「一日たっていないんですね……意外です」
少し気まずいが俺の質問に彼女は迷いなく答えてくれる。
さっきは遮ったわけではなく、本当に急いでいたようだ。
「それにしても船長は俺に何の用があるんでしょう、アリアさんは何か聞いていませんか?」
「……さあ、私はリーネから何も聞いていません。なので知りたいのなら私からではなく彼女の口から直接話を聞いた方がいいと思いますよ?」
彼女は本当に要件を知らないのか、知っていてとぼけているのか態度からは読み取れないがたぶん後者だろう。
俺でも何となく察しているのだから、あの場にいたアリアさんが何も知らないわけがない。たぶん『仲間になりなさい』といったその答えを知りたいのだろう。
(なんで俺なんかを仲間にしたがっているんだ……裏があるんじゃないか)
そんなことを考えていると前方からガンと何か打ち付ける音がした。
歩くのを止めたアリアさんの背中越しに覗いてみると少女が壁に何度も何度も頭をぶつけていた。
「ゔッ!!」
「レイン!」
赤べこみたいに首だけを動かして狂ったように壁を激しく強打している。そんな自傷行為を繰り返す死人のような、いや死人よりも青白い顔をした少女がいた。
この少女を俺は知っている。気絶する前に見た。
だがその時とは明らかに雰囲気が違った。黒目と白目の境界が滲んでぼやけているようでどこを見ているかわからない、そんな虚ろな目をしている。イメージでしかないがヤバい薬でも使ったかのような有様だった。
「ごめんなさいジン君。私はレインを連れて診察室に戻ります、なのでここからは一人で行って下さい」
アリアさんは少女の長い袖の上から手首を掴み、引きずるように戻っていく。引きずられていく少女はさっきまでとは打って変わって頭を打ち付けるような奇行も、何かに取り憑かれたように暴れることもない。ただ呻き声を上げながら大人しくアリアさんに連れて行かれた。
そんな二人の様子を『ペットみたいだな』なんて呑気に見送っているとアリアさんが急にこちらを振り返って――
「たぶんこの時間は船首にいると思います」
そう言い残して、本当に俺を一人置いて行ってしまった。
アリアさんという案内人を失った俺はしばらく立ち尽くしていたが、他に選択肢などなくそのまま扉を開けて先に行ってみることにした。意外にも軽い木製のドアを開けると甲板に出た。
甲板に出ると何も書かれていない真っ白な二つの帆が全体で風を受けて薄暗い夜に負けないように船体は進んでいた。
アリアさんが最後に船首に行けといっていたので、帆の向きを頼りに船首はどっちか判断する。船首に行くために扉の横にある階段を上がってみるとその少女は本当に船首にいた。
最後に見たときと同じく少女の顔に対して少し大きめな海賊帽を目深にかぶって、胸を下から支えるように腕を組んでいた。船首で一人、船の進む方向だけを見つめていた。だが、コツコツと階段から軋むような足音が響いたせいか、少女はすぐにこちらに顔を向けた。
「うん?あなたもう起きたのね、アリアはどこ?」
「アリアさんなら、レインっていう子を診療室って場所に連れっていったぞ」
「そうなのね。まあいいわ」
アリアさんには敬語だったが、彼女にはなぜか自然体で話してしまった。
助けられた立場ですこし失礼だったかもしれないと思ったが、彼女は気にする様子もなく俺と正面から向かい合った。
「私の名前はリーネル。みんなからはリーネと呼ばれているわ。私もリーネルよりも、リーネって愛称の方が言葉の響きが良くて気に入っているの。あなたもそう呼んでちょうだい?」
大きめの海賊帽子と燃えるように赤い瞳が目を引く、リーネルと名乗った目の前の少女はサーベルにピストルといった想像上の海賊が持っていそうな小道具をすべて身につけている。
「それで、あなたの名前は?」
「……ジンだ。平坂仁」
「ジンか……いい名前ね。気に入ったわ」
噛みしめるように俺の名前を呟き、笑顔でそんなことを言った。
海賊船の船長とは粗野で粗暴の荒くれもので片手にフックがついているイメージがあったが、この少女には海賊船の船長という肩書なんかより普通の女の子といった方がイメージに合う。あどけない子供のように純粋な笑顔だった。
可愛らしく、魅力的な彼女に見惚れていたが、すぐに正気を取り戻した。
リーネルになぜ俺なんかを仲間に誘ったのかを聞かなければならない。そのためにここに来たのだ。よしと覚悟を決めて顔を上げる。だがリーネルはもう俺のことを、いや誰のことも見ていなかった。俺が来る前と同じくまっすぐと船の進行方向だけを見つめていた。
「もうすぐよ」
そんなことを独り言のようにつぶやいた。何がもうすぐなのかわからない。
俺は無視してリーネルに声を掛けようとした瞬間、どこからか鼻を突き抜けるようなつんとしたにおいが微かにする。刺激的な臭いだが嫌いなわけではない。というか何処かで嗅いだことがある気が……ああ、そうだ。磯の香りだ。
小学生の時に一度だけ家族旅行でいった沖縄の海を思い浮かべて懐かしい気持ちになった。『あの頃は兄貴と仲が良かったな』と二人でホテルの近くの浜辺を探索したときの記憶が頭をよぎり、湿っぽい感慨が胸の内に生まれる。
数秒、十数秒、どれほど時間が過ぎたのかわからない。
(いや、なんでこんなところで磯の香がするんだ?)
と、そんな当たり前の疑問が、少し遅れて俺の頭の中を駆け巡る。だが、考える暇などなかった。だって、目の前には、すでに答えが広がっていたからだ。
「――海だ」
情緒もへったくれもない。ただ、目の前の事実を述べただけ。それだけだったはずなのに、涙が出そうになった。リーネルがまっすぐと見ていたものは広大な海だった。新しい一日の始まりを告げる朝日が昇り、水面に映る日の光が海を割っている。まるで魔法にかけられているようだった。
「……なんで三途の川なんかに海が」
「ジン、あなた何をいってるの? 川があるなら海もあるのは当たり前しょう?」
思わずこぼれた俺の一言に、リーネが噛みついてきた。少女——いや、リーネルの『当然のことでしょ』と呆れたような口調にムッとして、言い返そうと彼女向くと同時に、言葉に詰まった。
彼女は帆のように両手を広げ、海から吹きあがる風を全身で受け止めていた。朝日は彼女を讃えるかのように輝き、風は頬を優しく撫でるようにすぎていく。そして、船に打ち付ける波の音は、まるでここにいる彼女を祝福しているかのようだった。
リーネルは世界に愛されている。そう感じさせるほど彼女は屈託のない、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
彼女のそれは不安や後悔などまったくない、これからのことが楽しみでしかたがないといった表情だ。俺はどうやったら彼女のような顔ができるのだろう。その笑顔が俺には太陽のように眩しすぎて、目を逸らしてしまいたかったが――潮風に抱かれ、熱を孕んだその瞳になぜか目を離すことができなかった。