航海日誌 『珈琲』
俺は初めての見張り役に選ばれたので何十本も張られた太いロープを足場にマストをよじ登っていた。
蜘蛛の巣みたいに縦横に張り巡らされたロープはまるで固定されているかのような安定感があり、意外と簡単に昇り降りができた。まあ、夜風がないおかげかもしれないがそれを確かめるには俺の経験が不足している。
というかマストって本当に登れるんだな。いや、見張り台の役割があるのは知っていたけど墜落防止の安全ロープもしないで登るなんて一般的な感性がある者なら有り得ないと思うだろ?
これは自慢にできる……いや、この船にいるみんなできるみたいだし、この程度で自慢にはできないよな。
「よっ、よっと、お! 今晩の見張りはヒビキとか?」
「……はい、ジン君。今夜は寝かせませんよ」
「誤解される言い回しはやめろ! あ、これシュテンからの差し入れだ。『ゆっくりと味わって飲め』だとよ」
「これはどうもありがとうございます」
片手に持っていたコーヒーカップの一個をヒビキに手渡す。吹きさらしのマストの上で過ごす夜には温かい飲み物が必要だ。これは外気温の問題ではなく心の問題らしい。先代の、いや、リーネの父親が寂しく静かな夜でも温かい飲み物を胃に入れれば自然と安心するみたいなことを言っていたとさっきシュテンに聞いた。聞きかじった程度の知識でしかないがいい言葉だと思う。
「……ッ……苦いな」
「そうですね。正直ボクも好みではありません」
シュテンが淹れてくれたコーヒーは見張り役を眠らせないためかとても濃くて苦い。温かな湯気に混じる香りは焦げ臭くて飲みなれることはないだろう。
もし死人の鼻先にこのコーヒーを近づけて嗅がせるだけでたちまち目を覚ますと船員たちからは評されている。そんな劇薬のような飲み物なはずなのに胃に流し込むだけで不思議と安心感に包まれる。
「あの、何かボクの顔についていますか?」
「いや、コーヒーが似合わないって言おうとしたんだけど似合うな。絵になるっていうか……着物なんだから、似合うのはお茶だけにしてくれよ」
「これはまた、随分と理不尽な言い草ですね」
顔がいい男は何をしていても似合うのがズルいと思う。そんな愚痴を吐きながら夜の海よりも黒い液体を口に入れる。舌触りがドロドロと粉っぽい。
「というか、こっちにもコーヒーなんてあったんだな……」
「今から行くエルフの森よりも遥か遠くの町から取り寄せているんですよ。まあ、うちでは見張りだけが飲める高価な嗜好品です。ヘンリーの差し入れでもなければ、リーネは絶対に手を出さないでしょうね。あの娘はコーヒーよりも、甘い物が好きですから」
「……あれ、あの人って紅茶好きじゃなかったのか? コーヒーより紅茶好きなイメージがあるんだけど」
「ボクたちを寝かせず働かせたいのでは?」
「……ブラックすぎるだろ、それ」
二人で顔を見つめ合わせてフフフと笑った。ついでに、俺渾身の『コーヒーだけにな!』というギャグをかませば良かったかな。……いや、滑るだけだな。
ただでさえ日中よりも夜間の運航は寒いのだからこれ以上俺が寒くしてどうするんだよって話だ。それよりも――
「……なぁ、あの光の正体って何なんだ?」
「うん? ああ、あれですか……」
静かに月を眺めていたヒビキは俺の質問に促されるみたいに海面へと視線を向けた。一人で黄昏ているのを邪魔して悪いが一度気になり始めたら、ずっと気になってしかたがない。
海面には、いや、海底に沈んだ何かはまるで俺たちを導くかのように淡い光が続いている。危険な夜間運航の間はこの淡い光を船でなぞっているだけなんだ。
「ホタルイカってわけじゃないだろ? さっきから動いてないからな」
「ええ、生き物ではなくてただの石です。まあ、現世にはない魔光石というものですが……」
「魔光石……」
「そうです。これのおかげでボクたちは比較的安全に夜間も物資の流通を行えるようになったんですよ。と言ってもボクも街灯に使う以外魔光石の用途を知りませんけどね」
「へぇー、俺には実感がないけどスゴイことなんだな」
現世では船やヘリ、飛行機が夜間でも当たり前のように動いていたから勘違いしていたがあれが昔も普通だったわけじゃないんだよな……
そう言えば電気って概念はこっちでもあるんだろうか?
現世では右を見ても、左を見ても、電気で動く道具がありふれている。俺もスマホだけは何が起こっても肌身離さず持っていた。
だけど、黄泉の国は魔光石なんて照明の代わりなるようなものが発見されたせいで、技術にはかなりの偏りが生まれているのかもしれない。中途半端な知識になるがエジソンが電球を発明したのは十九世紀末だったはずだ。なら、こっちでも頑張って探せばあるんじゃないか?
まあ、ヒビキはこの手の話題に興味が薄いので、覚えていたら後で誰かに聞くことにしよう。
「あ! もしかして、これもヘンリーさんが考えたのか? 報告会で少しだけ話したが、雰囲気からして頭良さそうだったしな」
「ハズレです。これはエドワードが考えたんですよ」
「エドワードさんが?」
「はい、エドワードです」
いや、別に俺がエドワードさんを侮っていたわけでも、馬鹿にしていたわけでもない。ただの俺の知っている彼は酔っ払いだったからイメージが頭で上手くつながらないだけなんだ。というか真面目に仕事をしていたんだなあの人……
「おや、ジン君。エドワードを侮ってはいけません。彼が山賊の頭領だった頃は冷酷非道として有名だったんですよ?」
「え、山賊! 海賊じゃなくてか?」
「はい。でもボクが会った時はもう海賊でしたけどね。山賊だったころはシュテンの方が知っていると思います。それにこの魔光石は近くの漁師を無理に脅してばら撒いたみたいですよ?」
「……やっぱりブラックしかいないのか」
「そうかもしれませんね。まあ、魔光石が気になるのならエルフの里の到着を楽しみにしていてください。巨大な樹々からタケノコみたいに生えているので」
「そうかよ」
「おや、やはりジン君もエルフに興味があるみたいですね。夜間に船が襲われることなんて滅多にないですし、ボクも暇潰しがてら話ができますよ。それにジン君には楽しい現世のお話を聞かせてもらっているのでお返しです」
「……それはありがたいな。だけど、それは楽しみにとっておくよ。残念だけど、本当に残念だけどな」
「ハハハ、そうですか。ならば楽しみに我慢していてください」
正直、エルフの里については興味がないと言いきれない。俺だって現世のクラスメイトと同じぐらい少年の心は持っている。いや、これはきっとアニメ好きな葦原の影響だな。アイツがお勧めしてくれた漫画などを見ていたせいだな。
そう言えばあの二人のことを久しぶりに考えたな。元気かな……
あいつらのことだから俺なんかが急にいなくなっても普段通り過ごしているだろう。でも、目の前で俺が死んだからショックを受けていないといいな。日向は大雑把だからいいが、葦原は繊細だからな。俺はこっちで楽しくやっているからトラウマになっていないといいけど。
「……いや、待て。じゃあ、俺たちがしている見張りなんて意味がなくないか? というかそこそこデカいこの船を一体何が襲えるんだよ」
「それはたぶん知らぬが仏ってやつですよ。聞けばジン君は怖がるでしょう?」
「そんなこと言って本当はいないんじゃないか? いくら怖がらせようとしても無駄だぞ」
「……グリフォンの巣で痛い目を見たはずなのにその態度。ジン君は本当に大物になるかもしれませんね」
「バカにしてるのか?」
「はい、とっっても!」
「おい!!」
ヒビキとこんな風に雑談で暇を潰しながら夜の見張りの時間は過ぎていった。俺の初めてリーネに頼まれた見張りという役割は何事もなく成功に終わった。まあ、でも暇だからもうしばらくはやりたくない。
あと余談だがエルフの里に向かう途中、クラーケンに襲われた。この時初めてヒビキたちの忠告はちゃんと聞こうと胸に誓った。




