第五十二話 『エドワード』
「…はぁ……はぁ、…ッ…クッソが……」
エドワードは一人森の中を影に隠れながら走り続けていた。マーメイド・アンズ号を爆発させてから海に飛び込んだ。そこまでの記憶しかねぇ。
だが、自分がどうしてこんなことになっているかの予想はできる。爆風が生んだ波に流されてどこかの陸に打ち上げられたんだ。
「………チッ…」
痛みを誤魔化すために煙草を吸おうとしたが海に落としてしまったようだ。いつも煙草が入っているはずの胸のポケットには何も入ってねぇ。遊女から貰った煙草入れすらもなくなってやがる。まあ、仮に無事だったとしても海水のせいで意味がなったかもだけどなぁ……
「おい、今、人がなかったか?」
「はぁ? 何とぼけたこと言ってんだ? ここにオレたち以外いるわけねぇだろ」
「ハっ、お前まだ昨日の酒が残ってんじゃねぇのかよ?」
「………ッ!」
木を背にしたまま息を殺す。オレはそっと人の声がした方を気配を消して覗き込んだ。男が三人で固まるように屯していた。状況はかなり最悪だ。ここら一帯にはあんなガラの悪そうなヤツらしかいねぇ。見るからに学のねぇ馬鹿面だが、お利口なことに首輪代わりの笛だけは全員が身に付けている。
ここは敵地だ。ウィリアム、いや”ツギハギ”野郎はまだ経験こそ不足しているが、部下の教育はしっかりと行き届いているらしい。少しだけ見直してやる。かなり厄介だ。あそこで確実に殺してしまいたかったが、たぶん生きているだろうな。
前の”ヴァイキング”どもはもっと楽に出し抜けたんだがなぁ……
魔法か、神器かは知らねぇが息の根を止めるにしてもあの再生力だけは面倒だなぁ。いや、このことはロロネーがヘンリーに報告しているはずだ。あのクソ眼鏡が今頃情報を頼りに裏工作を始めてるころだろうから、オレはここから助かることだけを考えて行動すればいい。
ヴァイキングと戦闘をしたツヴィリンゲ岬から流されたとしても距離がそこまでない。なら、一番近いのはムッシェル港だな。海辺の町にはドワーフどもが寄り付かねぇし、あそこはヘンリー商会との交流がある。あの町に紛れ込んで商会に保護を頼めばいい。そのことはヴァイキングどもも察しているはずだ。逃げ込むなら近場の町だと。なら、アイツらに見張られる前に急がねぇといけねぇな。
だが問題は銃が残り数発しかねぇ。銃の火薬がまだ生きていたらこの状況でも切り抜けることもできるだろうが、無暗な銃声は敵を呼ぶだけだ。足に括りつけてある二本のナイフだけじゃ、三人同時に仕留めるのは難しい。もし、仕留め損なったらあの笛が合図になって敵がうじゃうじゃとここに向かって来ちまう。
オレは足音と気配を殺して、樹々の隙間を縫うように走った。影から影に飛び移るように移動してヴァイキングどもの捜索を掻い潜る。山歩きには慣れている。
もともと山賊だった経験がこんなところでも活きることになるとはなぁ、夢にも思わなかったぜ。だが……
「ッ、クッソたれ!」
材木の破片が腹に突き刺さっていたせいで身体を動かすたびに激痛が走る。体力の消耗が激しい。このまま休みながら行かねぇとムッシェル港には到底辿り着けねぇな。
「まさか、オレが一番先とはな…………ジョン。おめぇの次は絶対にヘンリーのやつか、ロバーツの馬鹿だと思っていたぜ」
独りになって周りに気を遣わなくて良くなったせいか、珍しく弱音を吐いてしまった。ジョンの次に死ぬのはあの二人だと思っていた。前者は過労で、後者は馬鹿すぎて、理由は正反対でもオレが最初に死ぬかもしれねぇなんてな。可能性すら考えたこともなかった。
「このオレが神とかいう面も知らねぇ野郎に祈る日がくるとはな。これでオレもアリアの仲間入りか。まあ、酒が飲めるならなんでもいいがなぁ……アン、お前がもしこのことを聞いたら一緒に笑ってくれるか?」
そう言うとオレは胸元に他人の目から隠すようにつけていた金塊のネックレスを丁寧に外した。貝殻のように見えるがただの金塊だ。それほどの価値はない。いや、価値で言ったらそこそこの値で売れはするだろうが、オレにとってはそんなはした金以上に特別な意味のある品だった。
「アン、お前との約束は必ず守る。だから……」
オレは祈るようにギュッと力強く握り締めた。金塊の冷たさが手の内に広がる。本当はこの先の言葉も口に出したかったが、なんとか声を噛み殺す。これ以上口にすれば戻ってこれない気がしたからだ。
もしオレが下手をこいてヴァイキングに見つかることがあっても盗まれないように貝殻のように見える金塊を樹洞の中に放り込んだ。これで捕まったとしてもオレの大切な物がヴァイキングの糞どもに取られることはないし、誰にも見られることはないだろう。命よりも大切な宝を隠して、オレは再び走り始めた。
ナイフで十字の傷を目印として残しておくがほとんど意味をなさないな。我ながら未練がましい。まあ、だが、生き残ることができたらアイツらを使って探させればいいだけだしなぁ。
オレは命よりも大切な宝を隠して再び走る。腹を押さえながら足を動かす。太陽から方角は分かっている。やはり体力を回復させるためにどこかに身を隠して、夜の闇に紛れて移動した方がいい。――突如、森の気配が変わった。
経験と言う感覚的な話になるが間違いない。森に住まう生き物どもが何かを警戒している。ジッと息を潜めて恐怖が通り過ぎるのを待っているような。子供が親に怒られないようにしている時みてえな緊張感がこの森に生まれた。
「うわぁあ!!!!」
「ば、バケモンだぁ!!!!!」
後ろの方から悲鳴が聞こえた。それを合図としてオレは身を隠れるのを一度止めて全速力で山を走った。
傷のせいで腹がいてぇが関係ねぇ。警鐘を鳴らす本能に従って無我夢中となって走る。走る。走る。だが心ではなく身体の方が先に音を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ、クッ、ソ……が、これだから、年は取りたくねぇよなぁ」
若い頃は身体に傷を負っても精神だけで乗り越えられることが多くあった。若さ故かもしれないが、心が折れない限り何度でも諦めずに挑戦できると思っていた。だが、哀しいことに現実はこれだ。年を取ると心ではなく身体が先にダメになる。いくら言い聞かせても心から湧き上がるあの感覚すらも老いてしまっている。
「はぁ、ッ、だが、年を食ってもオレは、オレのままだった。この、夢は死んでも醒めねぇ、醒まさせねぇぞ……」
オレは身体を引きずるように気配を消して進み続ける。歩くような速度で前に進む。身体は言うことを聞いてくれねぇが、夢の残滓で身体を引きずる。
すると……最悪なことに森が開けた。眼前には紫色の花が広がっていた。
「この花は、トリカブトか?」
トリカブトは山賊だった頃に散々世話になった。だから、自分で言っておいてなんだがこの花がトリカブトとは似て非なるものだとはすぐに分かった。
がらでもねぇが見惚れちまった。花鳥風月とは良く言ったものだ。まあ、花は花でも花天酒地の方がオレの好みだがな。どっちも同じ花なら食えねぇものより、食える方がいい。
「ハハ……チッ、おめぇかよ……」
オレの口から乾いた笑い声が零れた。きっとこれから起こる出来事、いや、オレ自身の結末を頭で先に理解してしまったからだろう。
この花には見覚えがあった。この目で直接見たのは過去の一度きりだがなぜか印象に残っている。それと同時にさっきからずっと背後から感じていた張り付くような不快な視線の正体にも気付いた。
後ろをゆっくりと振り向く。するとデカい巨体が足音すら立てずに樹々の隙間から縫うようにそいつは現れた。執着心が強いヤツだ。きっとオレという獲物が弱り、確実に仕留められる機会をどこかでずっと伺っていたのだろう。
「蜂蜜を混ぜた菓子はリーネが好きだったよなぁ。だが、生憎オレは甘いものが苦手でよぉ。持ち歩いてねぇんだわぁ……」
そいつの名は”底無しの穴の霊”を意味するらしい。神話ではハーデースとか言うヤツが支配する冥界の番犬、冥府の入り口を守護する番犬とされている。死者の魂を冥府に来るときはそのまま通すが、冥府から逃げる亡者は貪り食っちまう、鬼、獄卒と似たような仕事を忠実に全うしているらしい。
まあ、こいつにそこまでの知能があるとは思わないがな……
「久しぶりだな、”ケルベロス”。オレはまったく会いたくなかったぜ」
三つの頭を持つ犬。その犬の怪物がオレとの再会を歓迎するようにバカでけぇ声で吠えた。文献じゃあ青銅の声で吠える恐るべき猛犬とあったが、オレには青銅で吠えるという表現が気に入らなかった。魂を引っ張るように地の底から響くこの声が青銅なんかで表現できるわけがねぇ。
「おめぇもしつこい野郎だなぁ。デケェ図体のくせして女々しいやつだ」
ケルベロスの大きな瞳がジッと、穴が開くほどジッとオレことを見ている。三つの頭は警戒しているのか口を閉ざしている。しかし、獣としての本能までは隠せていない。その証拠に鋭い牙からは涎が垂れ流れている。
「……まあ、これが穢れた血を持つオレには、相応しい最後だよなぁ……」
親の代から山賊稼業で生計を立てていた。そして彼自身も幼き頃から盗みを働き、暴力を用いて、周囲の村に住む人々を恐怖に陥れていた。そんなどうしようもないバカなガキだった。リーネルの父親”ジョン”に出会うあの日までは……
「くっ、くっ、ははははははは! これがオレの最後かよっ! このエドワードを首を取るのが、こんな駄犬だって? ははははははっ! っ! さぁ、オレは死ぬぞ! エドワードが死ぬぞ! 見ているか、ジョン! 見ているか、オレが殺したクソ野郎どもぉ! そして、アン! ついに、ついに、オレがそっちに行くぞぉ! 夢を、約束を果てさないまま、おめぇらのところへ行っちまうぞぉ? フフフっ、くっ、はははははははっ、はははははははッ!」
精神が壊れたかのような高笑いだった。こうなったのは目の前にいるケルベロスのせいではない。絶対に助からない運命を、悟って狂ったわけじゃない。彼が、エドワードが狂っているのは元々だ。
恥ずべきことだらけの海賊人生を面白おかしくやってきた。積み上げきた数々の悪行の報いが、こんなつまらない最期だとは笑えてしまう。やりたいことをしてきたはずが、信念を曲げずに貫いてきたはずが……本当に成し遂げたかったことは、最も守りたかった約束を守れそうにない自分自身を嘲笑しているのだ。だが、一頻り自身のことを笑い終えた彼は、ようやく落ち着きを取り戻した彼は、ケルベロスに向かって睨みを効かせて――
「……まあ、そこそこ面白かったぜぇ」
そう人生最後の負け惜しみをそして、本心から湧き上がる気持ちを口にした。そして、柄にもなく穏やかな笑みを浮かたエドワードは――次の瞬間、懐に隠し持っていた銃を抜いていた。
彼は最後の悪あがきとしてケルベロスに銃口を向けて素早く銃の引き金を引いた。すると一発の曇った銃声が上がった。
ただし、パンッと無機質な銃声がエドワードの場所を知らせるように野山に響くことはなく、火薬特有の硝煙の匂いはいつまで経っても生じなかった。一瞬の静寂が訪れ、紫色の花に血が飛び散った。グ、ボトンといつもと比べて遥かに軽くなったエドワードの身体が紫色の花の上に崩れ落ちた。
エドワードの上半身はケルベロスの巨大な顎によって食い千切られて、下半身しか残されていなかった。下半身からは真っ赤な血が噴き出して広がっていく。
銃声の残響はなく、ケルベロスの咀嚼音だけがこの場に残された。
数分立ってようやくケルベロスは咀嚼を終えた。ケルベロスは完全に動かなくなったエドワードの遺体を一瞥すると満足そうに頬を歪めて来た道を戻っていった。
エドワードは黄泉の国に存在する海賊団の中で最も船員が多く、どうしようもない悪童を束ねるクソガキどもの親玉として知られていた。彼は顔を顰めるほど癖の強い酒が好きで、暇になるとよく遊郭に入り浸っていた。
酒に酔うといつもは人目から隠すように付けている純金のネックレスを右手で弄りながら、人魚の話をし始める。『オレがケツの青いガキだったころよ、オレは本当に人魚と出会ってよー』と鬱陶しいほど何度も何度も話し始める部分を除けば遊女たちからは結構好かれていた。そんな男だった。
リーネルの父親と共に一時代を築き上げ、大海賊を率いる船長となったエドワードの最後は誰からも看取られることなかった。彼の最後はまるで冬の凍えるほど冷たい海に身投げをしたかのように独りっきりで寂しいものだった。
エドワードはアンという人魚の少女との約束であり、古くからの夢である人魚がいる海には終ぞ辿り着くことができなかった……




