第五十話 『泥まみれ』
俺の身体は風の精に連れられて空中に浮かんでいた。
空高くを漂っている俺の身体からは体重どころかまるで重力という概念がなくなってしまったのではないかとさえ感じる。
俺は空中でフワフワと綿毛のようにゆっくりと上下左右に回転しながら舞い上がる。そしてそれを止めることができない。空中ではプールのように水の抵抗がなく手足をばたつかせても態勢を整えることができない。
そして質の悪いことに水のように身体は沈んでいくのではなく、どんどんと空へ浮かんでいるので本当に自分の力ではどうすることもできない。高度だけがどんどん上がっていく。恐怖が俺の頭を支配していた。
まるでジェットコースターに乗っているかのような感覚だ。ジェットコースターがレールの上をガタガタという音を立てて、ゆっくりと頂上まで登るまでの間に味わった恐怖を思い出した。あれと同じように徐々に恐怖を駆り立てられる。
青空は綺麗な緑で埋め尽くされている。色彩豊かな霊樹の葉っぱに覆われた空は雲一つ見えない。なので、遠近感が上手く掴み取れない。自分が今どれほどの高さにいるか確かめるためにちらりと地上に視線を向ける。
「……ッ」
地上を見るとかなりの高さになっていた。全員の頭頂部がはっきりと見える。みんな死に体のまま猛威を振るうヒュドラの対処で手一杯のようで俺の存在に気付いている者はヘルガを除いて誰もいない。
ゆっくりと身体が上下左右あらゆる方向に回転する。突風に吹き飛ばされたことだけは理解できたが、なんでこんなことになってしまったは理解できない。だけど、俺の命は助かった。ヒュドラに喰い殺されて死ぬ運命は変わった。
まあ、このままだと死因が落下死に変わるだけなんだけど……
そんな不謹慎な冗談が頭に浮かんだ次の瞬間――お釈迦様が天から垂らしてくれた蜘蛛の糸が切れた。俺の身体を巻き上がらせた風が止み、泥濘んでいる地面へと真っ逆さまに落ちてしまった。
「うわぁぁ!!!」
情けない悲鳴を上げて落ちていく。
情けない悲鳴を上げて落ちていく。
情けない悲鳴を上げて落ちていく。
「ヴッ!」
俺はぐちょという音を立てて人体の構造上最も重い頭側から落ちた。泥の中に頭から突き刺さるような態勢で深く沈むことになった。
太陽の温かい日差しがシュティレ大森林の大きすぎる樹々と葉っぱのせいで差し込まないせいか泥の中はとても冷たくて、思うように息ができなかった。
土の味だ。口の中まで泥が入ってしまったのかじゃりじゃり、ざらざらとした舌触りがする。最悪だ。手をついて泥から頭を引き上げようとしても地面と接した部位から沈んでいく。声が出せない。やばい、このままだと窒息死する!
「…ッ……っ……!」
俺は逆さまに埋まった身体を何度も揺らし、脱出を試みる。顔面に泥が押し付けられることも厭わず、逆立ちの態勢を保ったまま、足を前後に勢い良く揺らす。振り子のように下半身を激しく揺らし続ける。
「…………ッ! ………ッゴ、ゴホ!!」
背筋と腹筋を限界まで使い、三回目の試行でようやく頭が抜けた。喉にまで入り込んできた柔らかい泥の塊を吐き出すように、何度も咳き込む。何度も咳き込む。これはもう、デジャブってやつだ。グリフォンの巣でもまったく同じ経験をしたぞ。
というか、俺は残りの人生で後何回、紐なしバンジーをしないといけないんだよ!
「ちょ、ちょっとアンタ大丈夫?」
「ゴッ、ア゛、んァ、あ゛あ、なんとかな!」
口の中にある異物をすべて吐き出すため、肺に残っていた酸素を使い切った。泥中で溺れたせいで、体内を巡回する酸素をほとんど吐き出したのだ。きっと今、俺の顔は酸欠で赤くなっていることだろう。舌を動かすたびに、じゃりじゃりと不快な感触を感じる。臭い。クッソ。泥が、胃の中にまで入り込んでいないだろうな……?
鼻の奥に水が入ったときのようなツンとした痛みがある。プールの授業で経験したことがある。あれと同じく不快な感覚だ。
うがいをするための水が欲しい。喉の奥を洗いたい。じゃりじゃりとした感覚がいつまでも消えてくれない。しかも、視界も最悪だ。眼鏡が泥で汚れて、前が見えない。それに加えて、全くと言っていいほど鼻が利かない。脳に泥の臭いが染み込んでしまったかのような気がする。つまり、今の俺はほとんど情報を得ることができない状態になっていた。
顔面に泥土が張り付いて、制服と髪の毛が泥水を吸って重くなっている。本当に、最悪な気分だ。だが、そんなことよりも――
「ヒュドラは、ヒュドラはどこだ!?」
俺は身体ごと跳ね起きた。泥に覆われた眼鏡を指先で拭い取り、視界を確保しながら全方位を警戒する。
「……ジン、落ち着いて。あれを見て」
急いで駆け寄って来たヘルガが俺の肩を叩き、みんながいた方向へと指を差す。そこには、三つの頭が転がっていた。潰されたヒュドラの頭だ。どうやら、俺が空中に巻き上がっている間に、すべてが終わっていたらしい。
ああ、まただ。俺はまた、みんな喜びを分かち合うことができないんだな。彼らとの喜びの温度が違う。そんなことを考えながら、俺は邪魔な眼鏡を外した。
正直、これは伊達眼鏡だからわざわざ泥を拭いてかけ直す必要なんてない。だけど、眼鏡はもう俺の身体の一部になってしまっている。真面目に見られたいと、過剰なまでに他人の目を気にしていた俺の名残だ。成績のために、教師の前で真面目な生徒を演じていた頃の名残だ。
「ねぇ、そんなことより見た!? さっきワタシ魔法が――」
すると、彼女は少しだけ尖がっている耳をピコピコと動かしながら、全身で『私の話を聞いて欲しい!』とアピールしてきた。テンションが普段よりも高い。だけど、鈴を転がすような声で話しかけられると、邪険にするのも気が引ける。なので仕方なく俺は、彼女の言葉に耳を傾けていると突然、彼女の声が聞こえてこなくなった。
不思議に思った俺は彼女のことを見ると震えいる。小刻みに震えている。いや、これはただ笑いを堪えているだけだ。
「どうしたんだよ? というか、何がそんなに面白いんだ?」
「い、いや、アンタ……顔。その顔!!」
ヘルガは俺の顔を指さして、腹を抱えて笑っていた。
「な、なんだよ」
「だって、アンタ、顔が」
『何をそこまで笑うことがある?』とわりと真剣に考えたが分からない。俺はただ眼鏡をとっただけ――ああそういうことか。パンダになってるのか。眼鏡の部分だけ泥がついていなくて、まるで汚れたパンダみたいになっているんだ。
「ッハハ、ハハハ、変な顔!」
「…………それよりもさっきのあれって?」
「え、あぁ。忘れてたわぁ。ワタシね、さっき魔法が使えたの。アンタも見たでしょ?」
やっぱりそういうことだったのか。突然、身体を吹き飛ばすほどの風が巻き起こった。あれはエルフの魔法だ。エルフ風に言えば『風の精の加護を受けた』ってやつだ。問題は、誰が窮地に陥った俺を助けてくれたかだけだったけど、まあ、考えるまでもなくヘルガしかいないよな……
あの状況で動けるエルフは、彼女一人しかいなかった。ホヴズやカーリ、他のエルフのみんなとはかなりの距離が開いていたはずだ。ということは、理由は分からないけど、彼女はついにエルフの魔法を使えたということになる。『閃光』や『霧』を出す魔法ではなく、エルフの代名詞とされる『風の魔法』を使うことができたのだ。あの瞬間、彼女は風を操って俺の窮地を救ったのだ。
「………それは、おめでとうだな」
「え、ちょっと! もっと喜びなさいよ! アンタに――フフッ」
「お前は人の顔で笑いすぎだろ!」
思わずツッコんでしまったが、別に怒っているわけではない。というか魔法が使えた嬉しさよりも俺のパンダ顔のインパクトが勝つなんて思わなかった。あれほどまでにヘルガは、エルフの魔法に執着していたのに……
「フフフ、いいじゃない。ワタシが面白いんだから」
心底楽しそうに、ヘルガは笑った。純粋な子供のような笑顔だった。
俺は彼女の言葉に衝撃を受けていた。その一言で、俺の胸で渦巻いていた黒い感情が、ふっと晴れた気がする。胸がすっと軽くなるような気分だった。そうだ。そうだよな。他人と比べる必要なんて、なかったんだ。
喜びも、悲しみも、悔しさも、他人と比べる必要なんてなかったんだ。だって、自分自身がどう思ったかが最も大事なんだ。俺は生きている。俺たちは生きている。生きていたことが、ただ嬉しい。それで、良かったんだ。そんなことで良かったんだ。
「フフフッ、ハハ、ハハハ」
今まで遠慮していた感情が、小さな爆発を起こしていた。喜びも、無力感も、嫉妬も――全部、今の俺を構成している大切な要素の一つだ。いらないなんてことは絶対にない。俺も、彼女と同じように自分から生まれた感情をもっと大切にしよう。そう決めた。
感謝の気持ちを込めてヘルガを見ると彼女はまだ笑っていた。彼女のその姿をずっと見ていると、少しの苛立ちと、仕返しがしてみたいという幼稚な気持ちが芽生えてしまった。だから俺は、腹を抱えて笑っている彼女に――
「そらっ!」
「ちょ、ちょっと何すんのよ!」
「決まってるだろ、仕返しだよぉ!」
俺は、三日間大雨が降り注いだかのように水気を多く含んだ泥を、彼女に向かって飛ばした。
「あ、もう、やめてよ!」
「そんなに俺の顔が面白いなら、お前もお揃いにしてやるよ」
「きゃ!! ジン、アンタよくもやったわね!」
そう言うとヘルガは俺の足を引っかけて、泥の中に沈めてきた。俺も負けじと、彼女の足を片手で掴み、見事に転ばせる。生まれてこのかた、全身を泥にまみれて遊ぶなんて経験はなかった。海辺で服が汚れないように、砂遊びをしていた記憶ならある。それも面白いと思ってはいなかったはずだ。やることがなくて、ただ時間を潰すためにしかたなくしていただけだった。
だから、高校生にもなって泥遊びをする日が来るなんて思わなかった。ヘルガと俺は、ひとしきり泥遊びをしたあと、緊張の糸が切れたのか、体力が限界になったのか分からない。だが、いきなり身体に力が入らなくなった。なので、そのまま大の字に倒れ込んで、二人で空を見上げていた。というか、冷静になるとなんでこんなことをしているんだ?
「フフ、楽しいわね」
「……ああ、そうだな」
まあ、いいか。今はただ、この愉快な気持ちに身を任せよう。
気が付くと俺は笑っていた。
ヘルガと一緒に笑っていた。
こんなにすっきりとした気分のまま人と笑い合ったのは、いつ以来だろう。思い出せないくらい、昔なことだけは分かる。俺は感情を素直に表に出すことができていた。
何が面白いのか、まるで分らない。きっと、後で思い出しても、何がそんなに面白いかったのかは分からない。説明できないだろう。
――だけど、ただ楽しい。
二人は、まるで子供の頃に戻ったかのように……いや、二人は年相応な少年と少女として、泥まみれのまま笑い続けた。虫の音さえ聞こえないほど静かなシュティレ大森林に、二人の笑い声が響く。その笑い声は、しばらくの間、止むことがなかった。




