第四十八話 『幕引き』
数秒遅れてカツキが、そのさらに数秒遅れてヘルガが動き始めた。
俺とすれ違った人たちからは『何やってんだ、この馬鹿は?』という視線を向けられたが、少数の人間は意図を汲み取ってくれたのか、愚かな行動を止めようとしたのか分からないが、俺の後ろに続くようについて来てくれた。
大多数の人間はそのままヒュドラから距離を取ろうと走っていたが、意図を理解した少数の人たちで立ち向かうように、さっきまでとは逆方向へ走り出した。
巻き込んでごめん、本当にごめん。
そう思いながらも足は止めない。ヒュドラを中心として、左右に広がって囲むようにみんなが走る。ヒュドラの背後に回るために。運が良かったらそのまま後ろに抜けれるが、運が悪ければ溶けた俺の死体がヒュドラの胃の中で発見されることだろう。一か八かの大勝負だ。
だけど、この分の悪い博打に勝たないと俺たちは生き残ることができないと本能が告げてくるのだ。
俺がしていることは最前線のみんながまだ生きていることに賭けて走るっているだけだ。ヒュドラをこの場に釘付けにするために自分たちが餌となって体力が尽きるまで走るだけだ。
ヒュドラが魔素が濃い地に引き付けられるというリーネから聞いた仮説が正しいのなら、エルフの里がある方へと逃げるのは愚策だ。
いずれ追い付かれて喰い殺されるだけだ。もし左右に逃げれても森で迷えば終わる。ならば、思い切ってヒュドラのことを横切るしか助かる道はない。
というか最前線のみんなが全滅しているにしても、していないにしても、俺の行動が正しかったんじゃないのか?
いや、考えるのは後にしよう。生き残って初めてこの行為に意味が生まれる。
迷うな進め。足が恐怖で竦んだその時が、俺がヒュドラの餌になる番だ。そうやって自分に発破をかける。
「くらいなさい!」
鈴を転がすような声が真後ろから聞こえた。次の瞬間タンポポの綿毛のような光の球体が俺の頭上を通り過ぎて、ヒュドラの眼前で炸裂した。
閃光が走る。視界が真っ白に染まった。
シュティレ大森林の薄暗い闇をすべて吹き飛ばす閃光が俺たちとヒュドラの両者を襲った。これはヘルガの魔法だな。よし、いいぞ。これでヒュドラの視界も……いや、蛇に目眩ましって通用するのか?
まあ、いいか。ないよりましはあった方がいい。それにヒュドラの暗澹とした姿を物理的に直視できなくなったことで迷いなく走れる。
今にも消えそうな蝋燭の火が、激しく燃える。息がかかるだけでも吹き消してしまいそうな命の炎が生命の危機を前に激しく燃える。
死神が差し出してきた新たな蝋燭に火を継ぐために俺たちはヒュドラに立ち向かっている。頭が三本しかないおかげで生き長らえている。
ヘルガが魔法で生み出した閃光を片手で遮る。前に、前に、と走りながら……
悲鳴が聞こえてきた。遠くの方から、斜め右側から、後ろから、四方八方あらゆる角度から悲鳴が聞こえてくる。何も見えない。何も見えない。聞きたくない。
飛び散った赤い液体が雨のように降ってくる。
死にたくない、ごめんなさい。巻き込んでごめんなさい。
雑念を振り払うように足を動かす。下を向いたまま何も見えないような態勢を維持して走る。何度も転びそうになりながらも顔だけは地面を見ている。上は絶対に向かない。
何も見てない。
何も見てない。
ごめんなさい。
だけど、そんなことを考えていると右斜め前から生き物の強く気配を感じた。生臭くて、暖かい風が吹いた。髪が揺れる。そしてなぜか『ああ、消える…』と俺はそう思ってしまった。次は俺の番だ。死神がわざわざ俺の蝋燭に灯っていた小さな火を吹き消しに来たのだ。
「…ッ!!! グ!」
死ぬんだと頭が理解した瞬間――後ろから何者かに首根っこを掴まれて、そのまま遠くに連れていかれた。空中で俺は倒れ込むような態勢になり、制服に首を絞められながらも、視線だけを動かして助けてくれたその人物を視認する。
「レインちゃん。いや、ユキか!?」
「ヴぅー」
俺が声を上げると、ユキから呻き声が返ってきた。
焦点が定まっていない虚ろな目と死人みたいに、いや、死人よりも青白い顔をしたユキと呼ばれる少女が俺を助けてくれたようだ。アリアさんに言われて匂いを覚えさせていたおかげで俺は助かった。
「いった!」
俺はユキに連れられてヒュドラの背後に回っていた。勢いよくユキに投げ飛ばされて霊樹に頭をぶつけてしまった。
いや、こんなことをしている場合じゃない。みんなはどうなった?
俺が急いで顔を上げると――
「弓を取れ!!!」
「もし弓がねぇやつは石でも投げろ!!」
「怯むな、走れ!! 走りながら撃て!!」
閃光が晴れていた。ヒュドラの姿を再び目視できたのはそれからだ。
ヒュドラを囲むように放たれた矢が黒い鱗にことごとく弾かれる。グリフォンの爪が混ぜ込まれている頑丈な矢じりのはずだが、ヒュドラの鱗には全く通用していない。それでもみんなは手を動かし続ける。
気付けばそこは吹き飛ばされた砦の破片が、矢が、銃弾が、怒号と悲鳴が飛び交う戦場になっていた。
「しゃらくさいし!!」
アセビがそんな掛け声と共に空高く舞った。彼女は人間では決して届かない高さまで跳び上がると、そのままヒュドラの頭目掛けて落っこちてきた。力任せな太刀筋だ。いや、こんなデカい化け物に剣の技術なんて関係ないだろうけど……
アセビの可憐な装飾が施されている二対の剣も弓矢と同様に弾かれてしまった。よく見ると刃が少しだけ欠けてしまったみたいだ。それでも攻撃は終わらない。全く通じない攻撃を止めない。銃声と、悲鳴と、矢が空を切る音が鳴り止まない。
ヒュドラが長い首を地面に叩きつけるだけで人が簡単に吹き飛ぶ。首を振り回して暴れるだけで人が死ぬ。目の前で繰り広げられる命のやり取りはまるでバカげた映画を見ているかのように現実感がない光景だった。
俺もみんなが逃げる時間を稼ぐためにせめて少しでも加勢しようと、砦の傍に落ちてあった弓を拾うために行動を起こす。ユキの焦点の定まっていない瞳に見守られながら霊樹の根っこから下りる。俺の胴体よりも太い根っこだ。
ゆっくりと、慎重に足が地面に着いた瞬間――地面が水気を帯びて、泥濘るんでいることに気付いた。
「どうやら少しだけ休み過ぎたみたいですね」
カランコロンと下駄を鳴らす音が聞こえた。青年の声に引っ張られるように上を見上げると十数人の影がヒュドラに向かって襲い掛かっていた。今度は死神たちがヒュドラの寿命の蝋燭を吹き消しに来たみたいだ。
「”血染め”、久しぶりの御馳走ですよ」
そう言うとヒビキは二本差しのもう一つ、いわゆる脇差をぬるりと抜いた。禍々しく赤みがかった刀だ。真っ赤な薔薇のような刀だ。その刀をヒビキはヒュドラの巨大な目玉に突き刺した。
「ハハ、やはり魔力を多く含んだ血は美味しいですか?」
傍から見ると刀に話し掛ける不審者だ。だが、”血染め”と呼ばれた刀は持ち主の声に反応するように変貌を遂げた。赤みがかった刃がさらに禍々しく黒ずんでいく。血が風化して固まるように黒くなっていく刃は先ほどよりも容易にヒュドラを斬り裂いた。
ヒビキに続いてホヴズとカーリの姿が見えた。いや、よく見たらリーネがカーリに抱えられている。遅れてロバーツさんとシュテンの二人が現れた。
「…風刃よ!!!」
ホヴズの掛け声に合わせてエルフの戦士たちがヒュドラに向かって目に見えない刃を放った。あれがヘルガが言っていたエルフの魔法か? 泥沼に沈んで足掻くヒュドラを見ながら俺はそんなことを考えていた。
確かに最強と呼ばれるだけの理由はある。一方的に空からあれをされるだけでも俺たちは何もすることができない。嫌な音が辺りに響く。風の刃でヒュドラの首が抉れて血が飛び散る音だ。
その血飛沫すらもヒビキは避けている。まるで紫陽花のように鮮やかな着物の上に透明な羽衣でも着ているみたいだ。そんな人間離れした動きをしながらヒビキは残された最後の頭を斬り落とした。三つの巨大な頭がエルフが生み出した泥沼に沈んでいった。
「合わせなさい!!」
断頭されたヒュドラの傷口からは鮮やかなピンクの肉が蠢いている。気持ち悪い。その傷口に向かってリーネは炎を走らせた。
カーリが放った風の刃の影響を受けてさらに威力を増したリーネの火炎がヒュドラの身体を優しく包み込みように燃え上がった。鉄板で焼いていた生肉が焦げてしまった時のような不快な臭いがする。
炎が燃えて、燃えて、完全に消えた後には真っ黒になったヒュドラだけが残されていた。いや、まあ、もとから真っ黒だったけど……
硬かったはずの鱗がもっと脆くなったというか、鱗から木炭になったような感じがする。木炭のような鱗が表面からボロボロと剥げている。ヒュドラがまだ生きているからだ。その証拠に四つの足がピクピクと動いている。
頭を落としたはずなのに死んでいない。俺は警戒するようにその様子を睨み付けていたが……
「随分と、呆気ない幕引きでしたね」
ヒビキはそう言うと刀を鞘にしまった。ヒュドラの血で赤黒く染まった刀身が鞘に隠れて完全に見えなくなった。彼のその仕草を見て俺は本当にヒュドラ討伐が終わったのだと理解した。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
靴が自分の身体の重さで少しだけ沈む。
裏側がぐちゃぐちゃになるほど酷く水気を含んだ地面の感触を味わっていた。
「うっわ、最悪だ。靴が…」
「あ、いた! ジン、アンタは大丈夫だった?」
「あんたも、あんな無茶するなら事前に言ってくれよ」
「二人とも無事だったのか!?」
俺が声のする方へと振り返るとヘルガとカツキの姿があった。だけど……
「おい、カツキ、お前怪我してるじゃないか」
「ああ、これのことか? 心配するな、この程度ならどうってことない」
「流れ矢が掠ったみたいよ」
カツキの肩のあたりが真っ赤に染まっていた。よく見たらヘルガの頬にも軽く傷がある。
「なに、怪我の八割は味方のせいだって言うぐらいだからな。もう少し下だったら危なかったが、今回は運が良かった。あの状況で生きてるんだからな」
豪快に笑い飛ばすカツキに俺は何て反応すればいいのか分からない。俺が何もしなかったらカツキが怪我をすることもなかっただろう。
「そろそろボクも混ざっていいですか?」
「ああ、お疲れ様です。結構強敵だったんじゃないですか、ヒビキさん」
「……そうですね。期待していたのですが、ガッカリです。まあ、器は良かったですよ。不死身に近い再生力を持っていて、巨体から繰り出される一撃は満点でした。あ、あと隠し玉の毒は面白かったですかね。ボク一人だったら勝ち目はなかったでしょう。ですが、所詮中身が蛇ですからね。つまらない相手でした」
カツキがヒビキの相手をしているのを傍から見ていると……
「おっと、なんだ?」
「…ヴぅぅ」
軽い衝撃を感じ取り、首だけを動かして振り向くとユキが呻き声を上げながら俺の背中に突っ込んできていた。焦点の定まらない目はどこか不満げに見えたので感謝の気持ちを込めて頭を撫でてみる。
「ああ、そうだった。助けてくれてありがとうね、ユキ」
「ヴぅ!」
ユキの頭を軽く撫でると嬉しそうに頬を緩ます。いや、変わっていないな。全く変わっていない。俺の手の平に頭を擦り付けているのに表情筋はピクリとも動いていない。本当にこれで正解だったのか?
「ユキ、ボクの傍からあまり離れてすぎてはいけませんよ。シュテンから君を監視しておけって言われてるんです。距離が遠すぎるといざと言うとき止めることができません」
「ヴゥ!!」
ヒビキがユキに近づくと彼女はアリクイが威嚇するような可愛らしいポーズを取った。俺を襲ったという前例があるからかユキにはしっかりと監視がつけられているようだ。どうでもいいがこいつが生き物に好かれている姿が想像できないな……
「今失礼なことを考えませんでしたか?」
「そんなことより、お前は”あれ”を手伝わなくていいのか?」
「……そうですね。手伝ってもいいですが、ボクじゃなくてもできることですしね。後は彼らに任せましょう。あれは故郷を守った彼らの手柄です。あ、これはボク個人の意見なのでジン君は手伝ってもいいんですよ?」
「意地悪なことを言うなよ」
俺はゆっくりとヒビキとユキから視線を外す。
するとそこにはリーネとシュテン、エルフのみんながヒュドラから鱗を剥ぎ取り、巨大な牙を抜き取り、呼吸をするだけで死に至るほどの猛毒を一カ所に集めたりと解体作業ってやつを行っていた。
ヒュドラの頭をすべて落としてからすぐに解体作業が始まった。討伐成功を喜んでいる余韻すらなかった。
ヒビキやエルフの風の刃で削ぎ落した部分を火の魔法が使えるリーネたちが跡形もなく燃やして灰にする。文字通り灰燼に帰すってやつだ。まあ、端的に言えば俺たちは今ヒュドラ討伐の後片付けをしているのだ。いや、でも不死身と評されるほどの再生力は今も健在で、俺には何もできることがない。
いくら俺が無力感に苛まれていても解体作業は順調に行われている。
神話にも登場する巨大な蛇の姿を模した多頭の怪物。今思えば俺が直接目撃したのはヒビキやエルフの戦士、リーネやシュテン、ロバーツさんに追い詰められて弱り切ったヒュドラの姿だったのだろう。
まあ、それでも脅威であることには変わらないんだけど……
ヒュドラの巨体まだピクピクと動く。あんな風になっても生きているなんて凄まじい生命力だ。だけど、これから泥沼から引き上げられて表面だけではなくすべて剥ぎ取られて、跡形もなく燃やされてしまうのだろう。
ここにはもう灰すらも残らない。ヒュドラがここにいた痕跡すらも残らない。そんな末路が約束されている。
だけど、俺の胸にはモヤモヤとした得体のしれない感情が渦巻いていた。ヒュドラ討伐には成功した。だけど……
いや、これはヒビキの言う通りだな。
俺は結果に不満を持っているわけではない。むしろ死ななくて良かったと心の底から思っている。でも、これで終わりなのかという感情を引きずっていることも確かだ。
だって、俺たちを恐怖のどん底に突き落としたヒュドラが、エルフの里に数多の被害を齎したヒュドラが、こんなにもあっさりと死んでしまうなんて思わなかったからだ。拍子抜けしたのだ。
リーネとロバーツさん、気高きエルフの戦士たちが現状の資源や戦力をフルで活用して、万全の態勢で臨んだはずのヒュドラ討伐はこんなにも呆気ない幕引きで終わりを告げたのだから……




