第四十六話 『蹂躙』
警笛が聞こえてから少なくともすでに四時間は経過していた。
その間、オレたちは中間地点にある最終防衛ラインの砦の上で補給係としてぶっ続けで忙しなく動き回っていた。前線から次から次へと運ばれてくるエルフの応急処置だけをして、グリフォンの矢を渡す。
波のように押し寄せて来る仕事量に全身が悲鳴を上げ、ぶっ倒れかけていたがようやく俺にも休憩時間ができた。この休憩時間を利用してボールのように丸くて大きな白飯を片手に犬のように口に入れる。
塩味だけのはずなのになんでこんなに美味しいんだろう。普段ならキツイと言っているほどの塩をかけられているはずだ。だって口の中が塩の塊のせいでジャリジャリしている。酷いおにぎりのはずなのに疲れた身体にはちょうどいい。本当に泣きそうなほど感動してしまう。
だけど……
「おい!! 速く持ってけ!」
「誰か!! 手が空いてる奴はこっち手伝ってくれ!!」
「てめぇでやれよ!! 今暇なヤツなんているわけねぇだろうが!!」
「あ!?」
目の前の光景を見ているとそんな感動も引っ込み、むしろ悪い気さえしてくる。
いや、これは正当な報酬のはずだ。ここまで肉体を酷使して働いたんだから少しの休憩ぐらい許されるよな? いや、もう考えるのはやめよう。
休むという名目を果たすため俺は目線を砦の方に移した。
地面をそのまま刳り貫いたような分厚い壁と端に二つの階段が備え付けらた無駄のない砦だ。良く言えば機能的、悪く言えば魅力がない。
断崖絶壁と表現するしかない土壁にはヒュドラの足止めと、前線に物資を流通しやすいようにするための機能しかない。だから、装飾なんて言葉が忘れ去られたような砦になってしまったのだろう。
その上では、さっきまで俺がいた砦の上では屈強な男たちが汗を流して荷物を運んでいる。そしてエルフの負傷者の数が増えてきているのもここからでもよく分かる。負傷者が運ばれて来たと野太い聞こえるたびにあいつらじゃないのかと心配になってしまう。これは俺があいつらを信じ切れていないからなのだろうか?
「……前線はどうやら地獄みたいだ」
「ああ、そうみたいだな」
誰にも聞こえない程度の声量で呟いたが、前から返事が返ってきた。
砦を眺めながらおにぎりを食べていたらカツキが話し掛けてくれたみたいだ。
「こんなところで何をしてんだよ、ジン。探すのが大変だったぞ?」
「ああ、それはすまない。というかカツキも休憩かよ?」
「当たり前だろ、オレもジンと同じ時間に働き始めたんだ。休憩時間も同じじゃないと不公平だろ?」
「……それもそうか」
まあ、正直ポツンと独りで食べているのは寂しかったのでカツキが来てくれて助かった。一人より二人で食べた方が心細くならないで済む。
「ってか何でジンは一人で、それもこんな所で食べてんだよ? レインやヘルガさんたちと一緒にいればいいだろ?」
「……え、みんなは、グループで食べてんの?」
「そりゃあ、交代の時間もあるし、グループでまとまってた方が都合がいいからな」
「あ、そう、なんだ」
「…はぁ、やっぱりな。どうせ何にも知らないんだろうと思って教えに来たんだよ。ほら、早くついて来いよ。冷めないうちに行こうぜ」
「……ありがとう」
あっぶない。カツキがいなかったら本当に陰で泣いていたかもしれない。というか散々カツキのことをイケメンだ、イケメンだと言ってきたがやっぱりイケメンというのは内面から滲み出る何か特殊な成分なんだろうな……
イケメンで性格もいい奴がいるなんて学校の七不思議ぐらい信憑性がないと思っていたが、実物が目の前にあると嫉妬心すら湧かないな。何一つ勝てない現実は変わらないが、カツキなら別にいいと思ってしまう。こいつがイケメンじゃなかったらそんな世界は俺が壊してみせる。
そんなバカなことを考えながら、カツキの背中を追うために立ち上がる。
「やっぱり心配か?」
「え、な、何がだよ?」
「隠さなくてもいい。リーネルさんたちのことだよ」
俺が暗い顔で歩いていたので勘違いしてしまったのか、カツキが急にそんなことを言ってきた。
「まあ、ヒビキさんはともかくとして、リーネルさんやシュテンさんは怪我してないか不安だよな」
「そういうカツキはどうなんだ? お前のところの船長もリーネたちと同じで前線で頑張っているって聞いたぞ?」
「ああ、あの人は死んでも死なないからな。気にするだけ無駄だよ」
ハッハッハと上機嫌に笑いながらもカツキの目はいつもよりも元気がない。俺を不安にさせないようにしているだけでやっぱりカツキも心配しているんだな。
「まあ、安心しろよ。ここに運ばれてこないってことは大丈夫ってことだ。それにリーネルさんたちは今も戦ってるって聞いたからな。お互いに信じて待とうぜ」
「………待てよ、聞いたって誰にだ?」
「あー、名前は分からないけどエルフの一人だよ。オレはさっきまで怪我の治療を手伝ってたんだけど、その時に『ニンゲンのみんなは無事か?』って聞いたんだよ。そしたらエルフの一人が『まだ戦ってる』って言ってきたんだ」
「お前ってコミュ力もあるだけど基本的になんでもできるよな。ハイスペックっていうかさ。見習いたいわ」
俺も最初は治療班だったはずだけど、ヒュドラの消化液が触れた部分が溶けてぐちゃぐちゃになっているのを見て砦の裏で吐いてしまった。
母さんは俺に『医者になれば?』なんて言ったけどそんな簡単な話じゃないよ。もし医者にあんな光景を毎日のように見ることになるってことだ。一回だけでも心が擦り減っているのに、毎日なんて不可能だ。
というかあの頃は勉強を頑張って有名な大学に進学すれば、その後の人生はすべて安泰だと思っていたけど視野が狭かったようだ。こうなった時にしみじみ思う。俺って勉強だけで他は何もできないんだよな……
いや、分かっている。全部これから頑張ればいいだけの話だ。頑張る方向性が変わっただけの話なんだってことは分かっているんだ。でも、目の前で役に立たないって現実を突きつけられると途端に心が折れそうになってしまう。
だけど、まあ……
「頑張るしかないよな、結局……」
「お? どうしたんだよ急に、まあ、でも、その通りだと思うぜ? 『結局、頑張るしかない』ってのは人生の至言だ。お互いにもっと頑張らないとな」
バンバンと背中を叩かれ、ロバーツさんみたいに首に腕を回してきた。
「……アンタら男二人で何やってんのよ」
すると呆れたような顔をしたヘルガが声を掛けてきた。
「いや、そういうお前もこんな所で何やってんだよ?」
「フン、ワタシはただアセビが煩いから逃げてきたの。なんか文句あんの?」
「なんでまた喧嘩腰!?」
たぶんアセビに揶揄わせたのだろう。不機嫌だという気持ちを言い触らすように綺麗に整えられた眉をキュッと寄せて彼女はそう言った。
「まあ、ヘルガがアセビと仲良くなれたようで良かったよ」
「はぁ!? 何それ! 全然仲良くなんかないし!!」
「いや、『し』ってアセビの口癖が移ってるじゃん?」
「ち、ちが、違う!!」
彼女の鈴を転がすような可憐な叫び声がシュティレ大森林に響き渡った。
怒りのせい、羞恥のせいか、顔を真っ赤に染めるヘルガを見ると不思議なことにもっとからかってみたくなる。少しだけアセビの気持ちが分かってしまうな……
「ハッハッハ、そう言わないでよ、ヘルガさん。アセビも楽しいんだと思うよ。同性で年が近い相手と話す機会なんてそうそうなかっただろうしね」
「………フン、知らない! ムカつくヤツってことには変わりないでしょ! 偉そうだし、何にでもすぐに突っかかってくるし、捻くれてるっていうの? とにかく面倒くさい性格してるのよね、アイツ!」
「それって同族嫌悪みたいなものじゃ」
「なんか言った?」
「何でもないです」
アセビの特徴だけ羅列していくと初対面の時のヘルガとそっくりだと思う。まあ、大なり小なり自分と似た特徴を持っている人のことは嫌いになりやすいものだ。だって自分のダメな部分が目についてしまうから、見たくもない部分を無理やり見ているような気分になるから。
いや、でも、俺の経験則から言うと同族嫌悪とは最初さえ乗り切れば後はもう大丈夫だ。むしろ表面的な部分がかなり似ているので相性自体はかなりいいのではないかと思っているぐらいだ。
「二人ともお喋りはこのぐらいにして、アセビのところに戻らないと昼食を食べ損ねるぞ? 次にいつ休憩時間が回ってくるか分からないんだから今のうちに食べとかないともたないだろ?」
「それはそうだけど……」
「もう無理に行く必要もないと思うぞ、俺も少しは食べてるし」
「ええ? あの程度の量だけじゃあ後でもっと腹が減ってしまうだろ。ほら、さっさと飯を貰いに行こうぜ」
カツキはそう言うとさっさと歩き出してしまった。さっきの俺の発言はもちろんヘルガのことを慮ったっていうのもあるが、エルフの皮膚が溶けたような傷痕を見しまって胃の中の物をすべて吐いた後なのに、胃袋に何かを入れたいとは思えない。胃液の酸っぱい臭いがまだ鼻の奥に残っている。
だが、カツキの言うことが正しいってことは理解している。
この後も俺たちはヒュドラの討伐が終わるまで働き詰めになるだろう。両足を止めて休む暇がないほどに……
ならば、何とか捻出できたこの休憩の間で食べておかないと俺が過労で倒れてしまうかもしれない。しっかりと食べないと動けない。そんなことは原始時代から現代まで当たり前のように受け継がれてきた常識だろう。
「……はぁ、食欲ねぇな」
だけどやっぱり食べたくない。
さっき食べた塩の効いた小さなおにぎりだけでもういいと思ってしまっている。もうこれ以上固形物を食べることを身体が勝手に拒んでいるのだ。
特に肉類が嫌だ。治療班の時に見たエルフたちの皮膚が溶けて血管が生々しく露出した傷跡を思い出してしまうから。
「…………ん?」
カツキの後ろをトボトボという効果音が出そうなほどゆっくりと歩いているとヘルガが立ち止まっていることに気付いたからだ。
「おい、どうし――」
『どうしたんだ?』と気軽に声を掛けようとして言葉に詰まった。彼女は真剣な顔つきで小さく尖った耳をピクピクと忙しなく動かしていた。
「音が聞こえる」
「え?」
「だから、音が聞こえるの。戦笛が。だんだんとこっちに近づいてきてるわ」
俺はヘルガの言葉を聞き、彼女の真似をして意識を耳に集中させる。すると風船から空気が抜けるような音が微かに聞こえた。本当に微かにだ。普段だったら気付かない、気付いてもわざわざ意識しないぐらいの音量だ。
「あーたしかに、なんか聞こえる気がする?」
「なんでそこまで呑気なのよ。近づいて来てるのよ? 笛の音が! それって異常事態ってことじゃないの!?」
「なんだ、なんだ? どうしたんだよ、二人とも?」
遠目にはただ俺たちが言い争いをしているように見えるのだろう。前方を歩いていたカツキが様子を見に引き返してきた。
「笛の音が近づいて来てるの!」
「笛の音が? それは間違いないのか?」
カツキが『本当か』と確認するような目線で俺たちをジッと見て来る。
「間違いないかって、アンタには聞こえないの? カツキって耳が悪いのね」
「……たぶん、本当だと思う。自信はないけど」
ヘルガは自信満々に胸を張って言いきるが、俺は彼女から聞いてに言われてみれば程度なので自信はない。しかし、カツキは信じてくれたみたいで……
「…分かった。取り敢えずだけどオレがこのことを砦に伝えて確認を取ってくる。できれば、二人にも来て欲しいけどそれでいいか?」
「ええ、急ぎましょう!」
疎外感なんてものを感じる暇もなくとんとん拍子に進んでいく。俺は二人のように頭の回転が速くない。だから、いち早く状況を理解するために顔を砦の方へと向けた。するとその時――ドッンと砦から破砕音がした。
俺が振り向いたのとほとんど同時だった。足元がだんだんと冷えていくような嫌な予感がする。考えないようにしてもドッン、ドッン、ドッンと鐘を撞くみたいに何度も何度も拉げるような音が響く。
身体は芯から冷たくなり、動かせない。
だけど不思議なことで理解したくない状況のはずなのに頭だけは冴えていく。
砦から悲鳴に近い叫び声が聞こえる。
何かが落ちるような音と、慌ただしく走り去る足音が耳に入る。
逃げ惑う人々が『ヒュドラだー!!』と口を揃えて同じことを言っている。
逃げないといけない。そんなことは分かっている。
だけど、どうやって?
目の前の砦が音を立てて崩壊した。壊れた砦の隙間から巨大な何かが蠢いて、侵入してきた。『あれが、ヒュドラだ』と俺が呑気に考えていたのは現実感がなかったからだろう。
黒い影を塗り潰すほど黒々とした山のようにデカい体躯に、生気が一切感じられない罅割れた琥珀のような眼が、人間を見るや否や凶暴性を剥き出しにして襲い掛かっている。逃げ遅れて砦の影に隠れていた奴らが地面ごと巨大な顎に抉られた。
正直、ここにいるぐらいなら俺たちも前線で戦えばいいのにと考えたこともあった。砦と人数を上手く使えばヒュドラの一匹や二匹ぐらい楽勝だろうと考えていたのだ。だけど、ヒュドラの姿を一目見て、『お前が馬鹿だっただろ?』と言外にそう告げられたような気がする。
蹂躙される。今から俺たちは意志のない残虐な瞳を持つあのヒュドラに蹂躙されのだ。絶対に突破されないだろうと高を括っていた砦は紙切れのようにあっさりと破られて、俺よりも優秀だった人たちが何もできずに喰われている。
「お………い、…お、い……おい!! ジン、しっかりしろ!! オレのことが分かるな!?」
「え、あ、ああ」
「よし、意識は戻ったようだな。それじゃあ、逃げるぞ。走るんだ!」
「で、っでも、前線は、どうなって」
「……たぶん、突破されたってことはそういうことだろ。いや、考えるのは後にするべきだな。いいか、ジン。オレたちはこの場から生き延びることだけを考えるんだ! いいな!?」
「……わかった」
俺はカツキに引っ張られるように足を動かす。リーネルに、シュテンに、ヒビキ。あの三人はどうなったんだろう? あいつらはここでなく、前線で戦っていたはずだ。もしかして死んでしまったのだろうか?
そんな疑問を尋ねることができる相手は今はいない。みんなは、生きるために我武者羅になって走っている。まるで俺だけが場違いなようだ。
だけど、確かにヒュドラがこの中間地点、つまり最終防衛ラインまで来ているってことは前線は酷い状況ってことだ。最悪の場合、みんなは……
そんなことが思い浮かんだと同時にそっとヘルガの方へと視線を向ける。無意識だった。いや、もしかしたら心の何処かで答えを求めていたのかもしれない。しかし、ヘルガを見て気付いたのは自分の心根の浅ましさだけだった。
――彼女の涙がゆっくりと頬を伝う。
悔しさに耐えるように唇をキュッと噛んで、何度も涙を拭ったのか目の下は赤く腫れている。それでも前に走っているのは彼女の強さなのだろう。
ああ、そうか……
このまま彼女は家族だけではなく、故郷すらもなくなるのだ。
そのことに気が付いてもヒュドラを食い止める力がない俺は黙って足を動かすことしかできなかった。いくら頭を悩ませも彼女を励ます言葉だけは見つけることができなかった。




