第四話 『海賊!?』
アダムとイブの話を知っているだろうか?
まあ、簡単に説明すると最初の人類として神により生み出された二人は悪い蛇に唆され禁断の実を食べてしまい、エデンの園を追放されたという話だ。
この話にはまだ続きがあり、神は厳しい罰を与えた。
蛇には腹ばいでなければ動けない姿へ、
男には労働の苦しみを、
女には出産の苦しみを、
それぞれに課したのである。
これは『すべての人類があがなうべき原罪』だ。
中学生のとき美術の授業でたしかそんなことを先生が言っていた。
俺はそれを聞いたときに心の中で疑問を持った。
『なんで?』と……
だってそうだろう? この二人が知恵の実を食べたのは自己責任であって俺たちとは全然関係ないことだ。
禁断の果実を食べたアダムとイブ、それに蛇が罪を受けるのは分かる。
現代の日本の法律に照らし合わせて言ったら窃盗に窃盗教唆と立派な犯罪だからな。だけどその罪を俺たちにも背負わせるのは納得がいかない。
そもそもこの二人はなんで禁断の果実を食べたんだろう。
もし知恵の実なんてものを食べなければ、二人はそのままエデンの園で豊かな生活ができたはずだし、罰を受けなくてよかったはずなのに。
そんなことを授業中に考えていた記憶がある。
なぜこんなことを思い出したのかは分からない。
だが、この状況を昔の俺が見たらなんて言うだろう。
いや、分かる。『何やってんだよ、この馬鹿は……』だ。
なぜわかるかだって?
俺がいまそう思ってるからだよ。
何やってんだよ、この馬鹿は……
アダムやイブと同じことをしている。
いや、もっと愚かしい。
だってそうだろう?
アダムとイブは罪を犯して罰として楽園から追放されたが、俺は楽園に行けるはずだったのにそれを突っ撥ねて楽園へと向かう舟から逃げだしているのだから。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……ッ……は………っ…」
荒い息を吐きながら、一心不乱に手足を動かす。
ただでさえ疲労のせいで手足は鉛のようになっているのに、
制服が水を吸って重い。
眼鏡がずれて前が見ずらい。
茶色の髪が張り付いてくる。
鬱陶しい、きつい、邪魔くさい……
「何してんだジン!? 溺れちまうぞ、はやくつかめ!」
そういうとミレンは赤い手をこちらに差し出してくれた。
心配と驚愕を合わせたような味のある表情をしている。
本当に何やってるんだろうな……
俺だってこんな馬鹿なことしたくないんだよ。
でも俺の意思に関係なく身体は波をかき分け進み続ける。
ミレンは俺が止まることがないと判断したのか、
あるいはじれったくなったのか無理やりにでも掴もうと手を伸ばす。
だがミレンの赤い手になぜか言い知れぬ恐怖を覚え、本能が警鐘を鳴らす。
どこかもっと遠くへ行かなければ……
無様でも、醜くても、少しずつ前へ。
そもそもなんで俺は逃げたんだろう。
逃げなければ天国に行けるとミレンが言っていたじゃないか。
ミレンを信じられなかった?
いや違う。ミレンは嘘なんかついていない。
こんな状況でも俺の心配が先だったんだヤツだ、あの言葉に嘘はない。
それにそんな回りくどいことをしなくても、鬼ならば力尽くで俺を押さえつけることもできたはずだ。
未練があるのか?
いやそれはない。そんなものがあるはずない。
大切な友達はあの二人ぐらいだし、親は俺に期待していない。
兄貴のことは嫌いだ。もう比べられなくていいと思うと清々する。
それに夢もなにもなかったんだ。後悔するほどの人生を歩んでこなかった。
怖くなった?
それこそ今更だろう。
天国がどんな場所かわからないが、トラックに轢かれて死んだあの時の方がよっぽど怖かった。
覚悟はさっき決めたはずだ。
思い残すことは何もない。何も思いつかない。
でも……
背後からミレンの手が迫るのが分かった。
そうだった……俺は、ただ……
なぜ逃げたのか、俺の中でその答えが出る瞬間―—
「海賊だ!海賊がでたぞ!!!」
遠くの方で男の叫び声が聞こえる。
叫び声につられ、顔を向けるとこちらに向かってくる一隻の船がある。
この霧のせいで、誰も分からなかったのだろう。
その船は霧を払い、小舟を蹴散らし、法螺貝のような汽笛を鳴らし近づいてくる。その汽笛は腹の内側まで揺らすほど大きく、迫力があった。
「くっそ、海賊どもが!」
ミレンは咄嗟に俺に伸ばしていた手を引っ込めて、
態勢を整えようとしたが、ミレンの小舟はそのまま転覆した。
「うわぁ、、」
情けない悲鳴が聞こえた。
俺の悲鳴だ。
ミレンが転覆したその近くで、
そのまま俺は船が生み出した大きな波に飲まれた。
水中で身体が回転する。
もうどっちが上かわからない。
やばい…溺れる……誰…たすけ…
言葉が泡になって消える。
酸素が足りない。
思考が止まる。
霧がかかったかのように頭の中が白く染まる。
もうダメだ、意識が…
そう考えた直後――
襟を誰かに掴まれ身体を水中から引き上げられた。
助けられた?
誰に……ミレンか?
視線だけで背後の襟を掴んだ人物をとらえた。
その人は流れような風体でぞくっとするほど艶めかしい。
孔雀のように青を基調とした色鮮やかな着物を羽織った青年だ。
束ねられた長い黒髪が、風に吹かれてサラサラと揺れている。
女性か?と思ったが、
恵まれた体格と鍛え抜かれた身体が男だと証明している。
それに驚いたのは何もこの青年の顔だけではない、
この青年は水面に立っていた。
水面に人間が立つ。目の前のそれは……その事実は、美術館で額装された絵画を初めて目にしたときのような衝撃があった。そんな完成された神々しい光景に唖然としていた俺を無視して、
青年は俺を掴んだまま勢いよく跳ねた。
――いや、飛んだ。
水面から空中へと飛んだ青年に襟を掴まれたまま、
つまり首を絞められて、声にならない悲鳴を上げ、船の甲板に投げ飛ばされた。
「…ゲッ、…はぁ、は…?」
腹の中の水を吐き出し、空気を吸う。
船の甲板に俺の間の抜けた声だけが虚しく響いた。
情けない四つん這いに似た姿勢のまま、顔だけを動かして辺りを見渡すと、金色の髪の優しそうな女性、黒いチャイナドレスのような服に身を包んだ少女、黒い肌に角の生えた屈強な男、その他にも多くのガラの悪い男たちがこっちを見ていた。
「ありがとう、ヒビキ」
「いえ、構いませんよこれぐらい。それよりもどうしましょうか、彼?」
ヒビキと呼ばれた先ほどの青年はカツンと木を打ち付けたような軽快な音を下駄で鳴らし、ガラの悪い男たちの中でも一際目立つ燃えるような赤色の目をした少女と会話していた。だが、そのことを知る余裕もないほど俺はもう頭がいっぱいいっぱいだった。
海賊、ならここは海賊船?三途の川に?は?意味がわからないっていうかさっき水面を飛んだ?はぁ?
ダメだ状況が飲み込めない。
鬼だの、三途の川だの、海賊だの、いろいろなことが起きすぎた。
三日間寝不足になったときのように頭が回らない。
無意識にずれた眼鏡を戻そうとするが、ピクリとも動かない。
さっき泳げていたのは火事場の馬鹿力ってやつか。
そういえばさっき何か……
回らない頭を必死に働かせて、忘れた何かを思い出そうとした。
だが、不意に刺すような、値踏みするような視線が気になり顔を上げる。
すると上方から燃えるような赤い瞳の少女がこちらをジッと見つめているのに気付いた。何かを言いながら俺に近づいてくるが、もう本当に限界のようだ。周りでがやがやという騒ぎ声を聞きながら、再び意識を手放そうとしたその刹那――
「あなた私たちの仲間になりなさい」
「……はぁ?」
少女のその言葉だけがはっきりと俺の耳に届いた。