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第四十話  『警笛』


 昨夜の記憶がない。いや、正確に言えば、宴の途中から記憶が抜け落ちている。ノギさんたちと飲んでいたところまでは覚えている。そこまでは鮮明なんだ。だが、その先がまるで海の中に沈んだように、すっぽりと消えていた。たぶん、初めてのお酒に浮かれて、調子に乗って飲み過ぎたせいだろう。というか、本当に記憶って飛ぶんだな……と、どこか他人事みたいに思った。


 次に目を覚ましたとき、俺は自室のベッドの上にいた。もちろん、ベッドの横には誰も寝ていなかった。もしノギさんが安らかな顔をして寝ていたら、トラウマどころの騒ぎじゃなかった。本当に失礼だが、想像しただけでも背筋がゾッとする。


 ――いや、問題はそこではない。


 問題は、よりにもよってヒュドラ討伐の当日の朝に、酒を飲み過ぎたせいで体調不良になっていたのだ。全身が重たくて、頭がガンガンとした。酔いは抜けていたが、万全を期して臨むつもりだったヒュドラ討伐の出鼻を、自分の手で挫いてしまった。自業自得の体現者。まさにそれだった。シュテンに口を酸っぱく注意していたのに、自分がなるとは思わなかった。まあ、それも朝だけの話だ。昼頃になると体調は元通りになってしまったんだけど。これが、若さか。


「……やっと、頭痛がなくなってきた」


「あのー、ボクの記憶違いでなければ……ジン君は二十歳までお酒を飲まないって言っていませんでしたか?」


「言ってたよ。ただ断れなかっただけだ」


「そうですか。ですが、次ははっきりと言った方がいいですよ? まあ、ジン君も宴を楽しめたようでよかったです」


「………うるさいよ。というか、ヒビキはさっさと行けよ。お前は俺と違って作戦の要なんだろ? こんなところで道草を食ってる場合じゃないはずだ」


「はい、そうですね。では、また。次に会うのはボクが夢に一歩近づいたときです!」


「ああ、頑張れよ」


 紫陽花のような鮮やかな着物を揺らした青年は、いつも通り胡散臭い笑みを仮面のように貼り付けていた。羽織をばさりと翻すと、魔法を行使したみたいだ。彼の足元の地面が魔法で弾むように盛り上がり、まるでトランポリンの反発力を得たかように、ヒビキの身体はふっと宙へ跳ね上がった。次の瞬間には、もう俺の前から姿を消えてしまった。いや、もう完全に見えなくなってしまった。


「はぁ。スゴイ元気だな……」


 ヒビキの残像を見送ると同時に、俺も歩き出す。呆れ半分、感心半分で、溜息を吐きながら歩を進める。


「えっと……確か、もうすぐ着くよな」


 昨日、必死に頭へ叩き込んだ地図を頼りに目的地に向かって歩く。地図と言っても、俺が勝手に頭の中だけで作ったものだ。正確性は期待できない。シュティレ大森林はただでさえ方向感覚が狂いやすい。四方を同じような霊樹に囲まれ、太陽も月も見当たらない。深呼吸をすると胸の奥まで冷気が入り込んでくるかのようで、身体の内側の機能から凍らされるかのような錯覚を覚える。それに、魔素の影響か、霊樹や魔光石の結晶が常に薄暗い光を放ち、昼夜の境界をあいまいにし、時間の感覚を奪っていく。森全体が、外界とは別の時間で動いているようだった。


 頼りになるのは自分の感覚だけだ。エルフの里と、ヒュドラの住処であるヴァイト沼地を直線で結び、その線を頭の隅で意識し続けることで、なんとか方向感覚を保っている。おかげで、大まかな地図を手に入れた。まあ、エルフの皆が築いた砦がなかったら、確実に迷子になっていたけど。


 なので、ヒュドラ討伐後には役に立たなくなる。一過性の知識だ。というか、エルフのみんなは迷わずにシュティレ大森林の中を移動できるって、本当にスゴイことだな。スゴイ技能だ。俺には到底真似できそうにない。どうやってるんだろう?


「あ、アンタやっと来たの?」


「お兄さん、珍しいですね。遅刻ですよ?」


 声をかけられた瞬間、胸の奥でふっと緊張が解けた。あれ、もう着いたのか? やっぱり俺が作った地図は迷子にならないが距離感はガバガバだ。本当にエルフたちには簡易的なものでもいいから地図を作製して欲しいな。いや、それがエルフの外敵対策と言うんだから仕方がないんだけど。そんなことを呑気に考えていたが、声を出さなかったのは、それよりももっと驚くことがあったからだ。


「ごめん遅れて。というか、レインちゃんとヘルガか……随分と珍しい組み合わせだな?」


「そうでもないでしょ? 決めつけないでよね」


「確かに……そうかもしれませんね」


「え、ちょっと!」


「へ、ヘルガさん。冗談ですよ?」


「……そうよね? 良かったわ」


 ヘルガは一瞬、レインちゃんの冗談を真に受けたのか、本気で悲しそうな顔をした。普段の勝気さからは想像できないほど繊細な表情。だが、すぐにいつもの強気な表情に戻ってしまった。その一瞬のギャップが、少しだけ可愛いと思ってしまったのが悔しい。いや、それよりも彼女がレインちゃんと話している光景を見るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。あの夜からまともにヘルガと話すことはできなかったけれど、彼女が以前よりも素直になったように見える。彼女が良い方向に変わったようで……その変化が、たまらなく嬉しい。嬉しくてにやけてしまう。まるで自分事のようだ。というか、やっぱり少しだけ気まずいみたいだな。


「ジン、アンタもその気持ち悪い顔はヤメテくれる? 遅刻してきた分際で!」


「遅刻ってそんなに遅れてないだろ。作戦開始前だ。それに気持ち悪い顔なんてしてないだろ? ねえ、レインちゃん!」


「……ハハ、ハ」


「え、本当に気持ち悪かった?」


「ソンナコトナイデスヨ」


 レインちゃんは言い終わる前に、俺の顔から目を逸らしてしまった。地味に刺さる。ヘルガだったらいつもの軽口だって笑って流せていたが、レインちゃんのその反応は真面目に傷つく。俺って、どんな顔をしてたんだ?


「ま、まあ、それよりもさ。これって、どうゆう状況なの? もうヒュドラ討伐って始まってるのか?」


「……流したわね。ヒュドラ討伐は始まってないわよ。まだ笛の音が聞こえてないもの。アンタが遅刻しなかったら大丈夫なことだったのにね」


「朝、急に作戦が変わるなんて予想できないだろ! いや、俺が早く起きていれば大丈夫だったのか」


「そうよ! 現にワタシたちは対応できているでしょ! 意識の差ね!」


「……腹立つけど、俺が悪いから言い訳できない」


 ヘルガの言葉は容赦ないが、反論できない。そうだ。ヒュドラが予想より早く森に迷い込んだせいで、作戦は急遽変更された。お腹を空かせた大蛇のせいで、俺たちはより速く行動を起すことを強いられていた。カーリたちの予想よりも早く、魔素の濃いシュティレ大森林に迷い込んでしまったせいで作戦を一部見直すことになったのだ。


 見張り役だったのエルフたちもいたのだが、近づけない条件下では限界があったらしい。シュティレ大森林の奥深くに潜り込んだヒュドラを見張り続けるのは、いくらエルフでも不可能だったみたいだな。まあ、俺たちも酒を飲み、楽しんでいたので、エルフの仕事にケチをつける権利はない。文句を言う資格はない。むしろ、夜中まで頑張ってくれたエルフに対して、遅刻をして申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 俺たちは今、討伐前の『捜索』をしている。討伐を開始する前にしなければいけないことが増えた。霊樹が林立する巨大な森の中で、ヒュドラを探し出すという地味で重要な作業をしなければならなくなった。砂漠で大きな石を探すかのような、気の遠くなる苦行でもある。


 機動力の高いヒビキやエルフたちは扇状に散開し、虱潰しでシュティレ大森林を探っている。発見次第、各自で笛を鳴らしてから作戦開始。戦力が分散するのは好ましくないみたいだが、仕方がない。状況が状況だ。ちなみに、俺が現状を把握できているのは、昨夜のうちに聞いていたわけではない。朝、ホヴズが心配そうな顔で部屋に来て『いいかい? オレたちのこの笛が鳴ったら戦闘開始の合図だ』と丁寧に説明してくれたからだ。俺に貸していた笛を取りに来たついでに、全部教えてくれた。本当に感謝しかない。ホヴズが起こしてくれなかったら、俺はまだ深酒のせいで眠りこけていたかもしれない。起こしてくれてありがとう、ホヴズ。


「あ、ジンがやっと来たし。うちらにすべて押し付けてビビッて逃げたと思ってたし!」


 アセビが腕を組み、ふんぞり返るようにそう言い放った。彼女の声はいつもよりも少し大きくて、どこか拗ねたようにも聞こえた。


「アセビ、いくらなんでもそんなヤツいないだろ。自分のことを棚に上げるがエルフの里の危機なんだろ? いくら俺でもそこまで薄情じゃないぞ」


「それがな、あんたはまだ知らないだろうがいたんだよ。オレたちの船の新入りにな。情けない話だけどな。昨日の宴の時にわざと酒を多めに飲んで戦えねぇって吹きやがったんだよ。本当に情けない」


 カツキは鼻で笑いながらも、どこか悔しそうに眉を寄せた。彼のその表情は、仲間の弱さに怒っているというよりも、裏切られたような気持ちが滲んでいる。


「……まあ、仕方がないわよ。これはワタシたちの故郷の話で、部外者のアンタらに命を賭けろっていうほうが変だもの。手伝ってもらっているだけでもありがたいもの」


「そう言われるとこっちも助かるが、面目ねぇな。最近は覚悟もない馬鹿が増えちまってよ。エルフはお得意様なんだから助けないとこっちも困るって話なのにな」


「気にしないでいいわよ。ニンゲン、いや違ったわ。えっとアンタってなんて名前だったかしら? 見たことはあるけど覚えてないわ!」


「……自信満々に言うなよ。オレはカツキだ。月の香りって書いてカツキだ。初めて会ったときに名乗ったはずなんだけどな?」


「ごめんなさい、聞いてなかったわ。その時は、アンタに興味がなかったの。でも、安心してもう覚えたから! 一度覚えたら、忘れることはないから!」


 ヘルガは悪びれもせず、さらりと言い切った。その堂々とした態度に、逆に清々しさすら感じる。


「……まあ、それならいいか」


「珍しい、カツキがショックを受けてるし! でも、商人上がりで『交渉人』なんて呼ばれてどこか調子乗ってたみたいだし、いい薬なんじゃない? あんたに興味がないヤツもいるし!」


「うるさいぞ、アセビ。オレは調子になんか乗ってねぇよ。ただ、人から忘れられたことがないだけだ。それが自慢だったのになぁ。あーあ、例外が一人うまれちまったな」


「で、でも安心しなさい。顔は覚えていたから、覚えてなかったのは名前だけよ! 今はもう覚えるわ!」


「一応、話したことはあるんだけどなぁ。まあいいか、顔は覚えてくれていたらしいし。これで人から忘れられたことがないって言えるよな? なぁ、二人はどう思う?」


「はい、大丈夫だと思いますよ」


「ギリギリじゃないか?」


 俺とレインちゃんは、ほぼ同時に落ち込んでいるカツキに声をかける。カツキはがっかりとした様子で、肩を落としていたが、その顔はどこか嬉しそうだった。周囲は異様なまでに静かだが、空気の奥底には張り詰めた緊張が潜んでいる。ここはヒュドラ討伐の中間地点。呑気に話している俺たちがいるここが、ちょうど中間地点なのだ。ヒュドラ討伐の包囲網、前線への補給線の中心であり、そして同時に最終防衛ラインだ。この先には、エルフの里に残した怪我人やアリアさんなどの非戦闘員がいる。ここを突破されたら終わりだ。負ける。ヒュドラが本当にここに来たら、俺たちにできることなんて何にもない。どうしようもできない。この森では大砲も役に立たないし、戦闘力が足りない俺たちにはヒュドラから逃げ回るしか選択肢がないのだ。


 というか、ヒビキのヤツも俺と同じくらいの時間に出発していたが、戦いに間に合うのだろうか?


 俺がそんなことを考えていると、隣にいたヘルガのちょっぴりと尖がっている耳がピクリと動いた。エルフたちの鋭い聴覚が何かを捉えたかもしれない。気になってヘルガの様子を見てみると、彼女の視線がアセビに向けられているのが分かった。ジッ――と、音が聞こえてきそうなほど、真剣に、彼女はアセビのことを見つめていた。その観察するような視線が、アセビの気に障ったようだ。アセビは不機嫌そうに眉をひそめ、噛みつくように口を開いた。


「なによ。うちの顔を見つめて。先に言っとくけどうちにそっちの趣味はないし! ヒビキ一筋だから!  エルフの顔がいくら整ってるからって、うちの方が可愛いし。調子に乗って口説いてこないことだし!」


「趣味って何を言ってるの? それに口説く? ワタシにはアンタが口にすることが理解できないわ。難しくって」


「……もういいし! なら顔を見つめてくんなし! うちに聞きたいことでもあんの!」


「……本当に、アンタがあの『半鬼』なの? オニとニンゲンの血が混じった?」


「……そうだけど。何? この角が見えないの?」


 アセビの声が一段と低くなる。瞬間、空気がピリッと張り詰めた。まるで森の温度が一度下がったような錯覚を覚える。俺でも分かる。ヘルガは今、彼女の地雷を踏みぬいてしまったみたいだ。だからだろう、カツキは慌てて二人の間に割って入った。


「落ち着けって、それとなんでアセビは喧嘩腰なんだよ」


 さっきまでの和やかな空気が、一瞬で険悪なものに変わった。俺とレインちゃんは成り行きを見守るしかなかった。わたわたと視線を交わすが、割って入る勇気はない。こういう時、カツキがいてくれるのは本当にありがたい。本当に良かった。心の底からそう思った。本当に……


「別に喧嘩腰ってわけじゃないし! もともとうちはエルフの無自覚に人の神経を逆なでして、見下してくるところが大嫌いだったし!」 


「……わかったよ。ヘルガさん、疑問があるならオレがアセビの代わりに答えるよ。できる限りね。そっちの方がたぶん早い」


「………いや、ワタシは彼女と話してみたいわ。早いとか遅いとかじゃなくてワタシは彼女と話がしたいの」


 ヘルガの声は荒々しいわけではない。だが、強い意志がこもっていた。ヘルガの翡翠色の瞳がまっすぐとアセビのことを射抜いた。その真剣さに、アセビも一瞬だけたじろいだ。


「って言ってるけどどうするんだぁ? このままじゃあ、アセビの方が悪者扱いだぞ?」 


「ちょっと! カツキはどっちの味方なわけ? うちの味方じゃないし?」


「オレはいつも素直な方の味方だな」


 カツキのふざけたような返しに、アセビはムッとしながらも、深呼吸をして荒ぶる気持ちを落ち着けた。少しだけ冷静さを取り戻したみたいで、彼女も何かを考えるように視線を落とし、角の付け根あたりをぽりぽりと掻いた。


「……分かったし。あと話は聞いてあげるけど次にうちのことを『半鬼』って読んだら、一生口を聞いてやらないから。その呼ばれ方、嫌いなの。内向的すぎて人の嫌がることが分かんなくなってるわけじゃないでしょ?」


「ええ、それでいいわ」


 アセビは猫のように背伸びをし、肩の力を抜いた。日に焼けた健康的な肌が、霊樹の淡い光に照らされて眩しく光る。きっと、彼女なりのルーティンのようなものなのだろう。気持ちの切り替えるための儀式だ。そのストレッチが終わると同時に、顎をクイッと上げて、ヘルガに続きを話すように促した。


「アンタって噂が本当ならオニとニンゲンの血が混ざってるのよね? それで苦労とかしなかったの?」


「はぁ!? うちに聞きたいことって、そっち系のことだし? それって、別にうちに直接聞かなくてもいいでしょ! それこそ、カツキに聞いたら面白おかしく脚色を入れて話してくれたし!」


 ヘルガの問いは、逆にアセビの神経を逆撫でしたみたいだ。怒っているというよりも、触れたくない部分を突かれたときの反射に近い。彼女の過去の傷が、ふと顔を覗かせたような気がした。アセビは語尾を荒げるが、ヘルガは逃げずに向き合った。


「………陰口みたいになるじゃない。それは、ワタシが嫌だと思ったからアナタから直接聞こうってしてるのよ。いや、アナタの口から直接聞いてみたいの」


「そこまでして聞きたい理由は何だし? うちもあんまり他人に聞かせるような話じゃないって思ってるんだけど?」


「それは……ごめんなさい、言いたくないわ」


「あんたは話したくなくてうちには話せってこと? それって、ずいぶんと我が儘じゃない?」


「ええ、そうね。だから、無理強いはしないわ。嫌なら嫌って言ってほしいわ」


 ヘルガの緑色の瞳がアセビのことを見据える。その視線は強く、しかしどこか優しさを含んでいた。そのまま数秒間、真剣な空気が張り詰める。アセビはふっと息を吐き、再び、肩の力を抜いた。ヘルガの逃げずに向き合おうとする視線が、アセビの胸に何かを刺したのだろう。彼女の声は、意外なほど柔らかくなっていた。


「でも、いいわ『言いたくない』っていうのも立派な理由だしね」


「……アセビって甘いよな」


「お兄さん、また怒られますよ。それにここは『甘い』ではなく『優しい』というべきです」


 俺がボソッとそう呟くと、レインちゃんが小声で注意をしてくる。その表情は困っているみたいだった。アセビは俺の声が聞こえたみたいで、気まずそうに鼻を鳴らしながらも、ヘルガの問いに答え始めた。


「そうね、苦労はしなかったって言ったら嘘になるし。うん、苦労したわ。うちは山奥の村で産まれたし。周りに人間しかいなかったから、母さんはうちが子供の頃に流行り病で死んだみたいで味方なんていなかったし」


 語り始めたアセビの声は、どこか遠くを見ているようだった。彼女の積み上げえてきた過去が、霊樹の光に照らされて浮かび上がる。横顔は大人びて見えて、影が揺れるたびに、彼女の過去の重さが少しずつ形を持って浮かび上がってくる。


「恨んだことはないの? 血のせいにしたことは?」


「あるわよ! そりゃあね。村のみんなはうちを除け者にしたし、石も投げられたことがあるわ! 母を身籠らせた(クズ)の顔は見たことがないしね。そんな理不尽なことが何度もあったわ! ほんと『死ね!』って感じだし!」


 ヘルガの問いは、ただ知りたいという純粋な気持ちが滲んでいた。アセビは拳を握り締めて、悔しさを吐き出すように言葉を続ける。彼女の拳の震えには、自分自身に対する強さと誇りがあった。過去を乗り越えてきた強さが宿る。彼女がどれほどの孤独と戦ってきたのか、少しだけ垣間見た気がした。


「でもね。うちはうちのことが大好きなの。だからあんな奴らに負けてたまるかって、すべて過去にしてやるって決意して村を出たの。そしてヒビキの言っていた”海賊”ってのになるために都会まで来たし! それがうちの全てよ!」


「……アンタ強いわね」


「うちはずっと強いし! まあ、ヒビキに助けられなかったらうちは『天狗』に食べられてお腹の中にいたけどね!」


 アセビは頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうだった。アセビのこれまでの人生は、誰かに与えられたものではなく自分で掴み取ったものなのだと分かる。彼女のその勝ち誇った表情を見たカツキが、すかさず口を挟んだ。


「何度もヒビキさんとの馴れ初め話を聞いたが、それでよく海賊船を間違えたよな」


「うるさいし! あの時は余裕がなかっただけだし! あと半分ぐらいは船長のせいだし! ……まあ、でも後悔はしてないから! ヒビキはいなかったけど海賊になって初めて家族ができたしね!」


「……そうなのね。アンタが愛されてるのは見てて分かるわ」


「そうよ、みんなうちのことが大好きだからね。でも、腕っぷしが弱いヤツらばっかりだからうちが守ってあげないと。あ、安心しなさい! あんたらのこともうちが守ってあげるわよ、コウハイども!」


 アセビは慎ましい胸を張り、俺とカツキのちょうど真ん中辺りに指を突きつけてきた。どうやら彼女が言う『腕っぷしが弱いヤツら』の中に俺たち二人が含まれているみたいだ。


「なあ、俺たち弱い判定されてるんだけど」


「事実だろ。オレたちがこの中で下から一、二位だからな。腕相撲でも絶対に勝てないぞ?」


「……男として、情けないな」


「……ああ、ホントにな」


「ちょっとあんたら、返事は?」


「「はい、お願いします。先輩!」」


「よし、それでいいし」


 俺たちが頭を下げるのを見たアセビは満足そうに頷くと、再び、ヘルガへと視線を戻した。


「それで、他に聞きたいことはある?」


「ないわ。話してくれて、その、ありがとう」


 ヘルガはモジモジしながら礼を言った。その姿は珍しく、どこか初々しい。アセビは急に素直になった彼女の変化に気付いたのか、目を丸くし、心底驚いたように声を上げた。


「意外だし! エルフってお礼が言えるんだ?」


「……それってどういう意味よ? ワタシたちのことをバカにしてるの?」


「事実でしょ? あんたらエルフって絶対に『フン』って反応しかしないし。回りくどくネチネチしてくるし!」


「フン、そんなわけ――」


「そうそう、その顔だし! またネチネチされるし!」


「………ちょっと、アンタね!」


 今のは本気でイラっときたのか、ヘルガの眉がピクリと跳ね、次の瞬間にはアセビに噛みつくように言い返していた。アセビもそれに負けじとさらに応戦する。俺たち三人は、完全に蚊帳の外だ。ただその応酬を眺めるしかない。というか、今ってヒュドラ討伐の最中なんだよな。こんなに緊張感がない空気が生まれるとは思わなかった。


「お兄さん、あの二人って実は気が合うと思いませんか?」


「あー、それちょっと思った。最初は仲が悪すぎてどうしようかと思ったけど」


「仲が悪いってか、アセビは内弁慶気質だからな。身内にはだいぶ優しいけど、それ以外には基本噛み付くクセがあるんだ」


「たぶんやめさせた方がいいよ、それ」


「……オレもそう思ってるよ」


 三人でそんな話をしながら、ヘルガとアセビのじゃれ合うような言い合いを見守る。さっきまでの張り詰めていた空気が、険悪な雰囲気が、嘘のように消え去り、胸の奥がふっと軽くなる。俺もようやく安心できた。というか、あの険悪な雰囲気に巻き込まれると、息をするのにも気を遣うからな。呼吸がしづらいんだよ。だから、やめて欲しい。


 不満を心の中で漏らしてみたが、心はもう完全に緩みきっている。今はただ、ヘルガが誰かと、人間と普通に話している姿を見るだけで、胸の奥が温かくなり、微笑ましい気分になってしまう。昨晩のことがあったからか、まるで頑張る孫娘を見ているお爺ちゃんの気持ちだ。いや、アセビは鬼の血が混じっているから、正確にはただの人間ってわけでもないんだけど。


「なあ、昨晩ヘルガさんと何かあったのか? 雰囲気が優しくなってる気がするが?」


「え、な、なんでだよ? 何もないけど。なんでだ?」


「やっぱりジンは嘘が下手だな。走ってヘルガさんの後を追うのを見たんだよ。ってかさっきからあんたらは互いを見ているときの目が変に意識している感じがする。わざと自然に振舞おうって不自然さがあるんだよ」


「……目敏いっていうか、もう気持ち悪いな。何もないよ。ただ自分の本音を話し合っただけだ」


「そうか、仲直りは無事にできたようだな」


「ああ、お前のアドバイスのおかげだ。相談に乗ってくれてありがとな。あの言葉に走り出す勇気を貰った」


「別にそれはあんたが勝手にやったことだよ。……頑張ったんだな、ジン」


 カツキの言葉を上手く返すことができなかった。『頑張ったんだな』って、誰かにそう言われたのは久しぶりだ。俺のしたことが、初めて第三者に認められたような気がする。何て言うか、照れるな。でも、悪い気がしない。どう返せばいいか分からずに口ごもっていると、急に腕を引っ張られた。何だと思い隣を見ると、いつの間にか近づいてきたヘルガが腕を掴んでいた。


「ねぇ! こいつ嫌いなんだけど。ジン、アンタどうにかしてよ!」


「………」


 アセビから揶揄われて逃げてきたことはすぐに分かった。だが、それ以上にヘルガはいつの間にか俺のことを名前で呼んでいることが衝撃だった。いつもは『フン、ニンゲン』とかそんな呼び方ばかりだったのに。戸惑った。名前を呼ばれるだけで、こんなに心臓が跳ねるとは思わなかった。平静を保つだけで、表情に出さないだけで精一杯だ。


「どうしたのよ? ワタシの顔に何かついてるの?」


「ああ、いや、何でもない」


 ヘルガの問いかけに、俺は曖昧に笑ってごまかした。昨晩、エルフの里の外れにある水場での出来事を思い出す。霊樹の光が揺れて、彼女の横顔を淡く照らしていた。あのときのヘルガは普段の勝気さとは違って、どこが不安そうだった。もし、ヒュドラ討伐が失敗したらどうなるのか。彼女の家族は今も前線でヒュドラを探している。後方には傷ついた仲間がいて、里には守るべき人たちがいる。


 二週間しかいない俺以上に、彼女の方がずっと重いものを背負っている。何とかしたいと思っているはずなんだ。ヒュドラに敗れれば、彼女たちは住む場所を失う。命すら失うかもしれない。カーリが言っていた。シュティレ大森林は、ヘルガの同胞たちが眠る場所だ、と。守りたいと思った。なんとかしてやりたいと思った。昨日の彼女の焦る気持ちが、ようやく俺の中にも落ちてきた。理解できた。だから、だから――


「頑張ろうぜ、ヘルガ」


「ええ、当たり前じゃない」


 昨日と同じセリフを、昨日はなかった決意を込めて口にした。ヘルガは当然のように頷いたが、俺にとっては必要な儀式だった。

「っていうか、それ昨日も言ったでしょ? 言われなくてもワタシは頑張るわよ。さっきからやっぱりアンタちょっと変よ?」


「……いい雰囲気ですね」


「昨日の深酒でも残ってるんじゃないか?」


「あんたらさ、もっとうちを見習って緊張感を持ったら?」


 だが、ヘルガには上手く伝わらなかったみたいだ。まあ、別にそれでもいい、格好つけたいわけじゃない。ただ、もう一回お前と同じく本当にエルフの里を守りたいって伝えたかっただけだから。というか、外野は空気を読んで黙っててくれないかな。外野の三人が茶々を入れて来る。さすがに、ちょっと恥ずかしんだけど。頼むから黙っててくれ。全部台無しだ。俺が三人に対してそんなことを考えていると――遠くから、耳を劈くような鋭い音が届いた。


 最初は風の音かと思うほど小さかった。だがすぐに、それは違うと分かった。笛の音だ。笛の音が、足音のように一定のリズムで近づいてくる。どんどんと近づいてくる。波紋のように広がり、霊樹の間をすり抜け、森全体を震わせる。笛の音は甲高い悲鳴のようで、耳に刺さる。耳の奥に残って、薄気味悪い余韻を引きずる。聞くだけで、胸の奥がざわつく。無理やりにでも生物に危機感を抱かせるような、そんな音だった。


「なあ、これって……」


「ええ、どうやら始まったみたいね」

 

 ヘルガの声は落ち着いているようで、わずかに震えていた。背中に冷たいものが走り、身体が強張る。寒気を感じる。涼しいはずなのに、寒いはずなのに、緊張のせいで額に汗が滲んできた。胃の奥がぎゅっと縮まり、モヤモヤとした吐き気のようなものが込み上げてきた。


 ――これは合図だ。


 エルフの誰かがヒュドラを発見した合図。前線ではもう、作戦が次の段階に進んでいる。討伐が始まる。エルフたちが、地の精の力で泥沼を生み出し、ヒュドラの動きを封じた後、九つの首を斬り落とし、傷口を燃やす。その決戦が、ついに始まったのだ。中間地点にいる俺たちでさえ、緊張しているのだ。前線の恐怖は、前線で感じる死の恐怖は、想像もつかないほどだろう。死を身近に感じながら戦っている皆は、俺たち以上に酷い状況になっているに違いない。だって、覚悟を決めても、怖いものは怖い。誰かが胃の中の物を吐いていてもおかしくない。


 リーネたちは無事だろうか?


 そんな不安が胸を締めつけるが、俺たちにはどうしようもない。ここにいるメンバーには戦う力がない。少なくともヒュドラとの戦闘で役に立たないと判断されたメンバーの集まりだ。俺も含めて。いくら自身の無力を呪っても、時間は無情に進む。笛の残響が消えても、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。時間は進む。決して止まることはない。ただ、俺には願うことができる。祈ることだけはできる。エルフも、海賊も……皆が、無事にエルフの里に戻ってくることを。


 ――こうして、俺たちのヒュドラ討伐作戦が始まった。


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