第三十一話 『躊躇い』
「……何やってんだろ、俺」
あの後すぐにでもヘルガに謝らないといけないと思っていたのにそんなこともできないまま俺は里を隠れるように歩いていた。あの水場にはあれ以来近づいていない。というか用事がない限り自分の部屋から出ていない。
自分で言うのは嫌だがこれでも最初の方はそれでもと頑張っていたんだ。だが、いざ謝ろうとヘルガのもとへ行く途中に彼女の泣きそうなあの顔を思い出して足が竦んでしまうのだ。そして『明日でいいや』『明日こそは』と自分の行動に言い訳をしてこの様だ。どんどんと部屋からでる頻度が減っていた。
彼女の姿を見かけるたびに頭では謝りに行こうと考えているのに足が動かない。今ではヘルガの緑色の瞳がこちらを向くと目を逸らしてしまうようになっていた。
二週間経ってしまったが今からでもと部屋から出てヘルガのことを探していたのだが、どうやら彼女は他の里へ行ってしまったそうだ。俺の勇気は空振りに終わった。
俺は人生で人を怒らせた経験というのがない。学校では真面目が取り柄だったので先生に注意すらされたことがない。現世ではそれほど多くの人と関わってはこなかったが、仲が良い人もいた。日向や葦原がそうだ。この二人とは悪友のような関係だったが揉めたことはない。
人に謝るってこんなにも怖くて、勇気がいることだったんだな。そんなことを考えながら未練がましくエルフの里を徘徊していると――
「……うぁ…ぃ」
「おい!? 大丈夫か?!!」
胸を押さえて蹲っている男を見つけた。とても苦しそうだ。俺は急いで駆け寄ると男の背中をさすってあげた。確かこの男はシュテンとチンチロをしていた男だ。名前は知らないが昨夜も楽しそうに酒を飲んでいたはずだ。なんで、こんなことに。
いや、こんなことを考えている暇はない。一刻を争う危機かもしれない。だから俺は限界まで息を吸い込んでホヴズから貰った嘴のような笛を思いっ切り吹いた。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「これは、魔素酔いだな」
耳を劈くような音が辺り一帯に響くと数十秒ほどでエルフたちがこの男を回収してくれた。警戒状態だったのが逆に良かったのかもしれない。すぐに駆け付けてきたエルフたちに抱えられて回収された男は今ベットに寝かされて安静にして過ごしている。
「魔素酔いって、もしかしてあれか? シュテンが言っていた発狂して最後には死ぬとかいうやつか?」
「ああ、そうだ。それの初期症状だな。予想してたよりもかなり早えな」
シュテンにしては珍しく苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。まあ無理もないか。この人とも酒の席ではいつも仲が良さそうだったからな……
「どうする? 魔素酔いが起きたってことはこの森から出ないといけないんじゃないのか?」
「……そうだな、死んだわけじゃないんだ。でも船に戻るのか」
「まあ、気持ちは分かりますが仕方ありませんよ。リーネに伝えてみんなで戻りましょう」
うん? 何で二人ともそんなに面倒くさそうな表情を浮かべているのだろう。どうせ魔素酔いの対策で一度は船に戻らないといけないのに。
いや、そうか、そういうことか。ヘンリーさんがどれだけ優秀な人でも一ヶ月で準備できることなんて限られている。武器の調達は何とかなっても人の確保には時間がかかる。ということは最悪の場合、俺たちの力で積み荷を運び出すのを手伝わないといけないのか。つまり二度手間になるのか。
「ノギが倒れたって本当!?」
勢い良くドアが開いたと思ったらリーネが部屋に入ってきた。
「ああ、大丈夫だ。ただの魔素酔いだ」
「そうなの、良かった」
安心して緊張がゆるんだのかほっと息を吐いた。よほど心配だったみたいだな。ゆっくりと俺たちの方へと近づいてくるリーネが手に何か紙を持っていたのに気付いた。
「なあ、リーネ。その手に持ってるのは何だ?」
「これはね、ヘンリーからやっと届いた手紙よ。さっきホヴズがノギが倒れたって伝言と一緒に持って来てくれたの」
ノギっていう名前なのかこの人。まあ、それよりもギリギリヘンリーさんの手紙の方が気になるな。ノギさんが大丈夫なのを確認したリーネはすぐに封も切っていない手紙をビリビリと音を立てて破ってしまった。
「もう、下品ですよ」
「いいじゃない、他に誰も見ていないんだから」
「いや、それよりもヘンリーさんは何て書いているんだ? どれぐらいで着くとかさ」
「もう、待ちなさいよ。今読んでいるんだか……やった!!」
手紙を見たリーネは急に喜びだした。
「何だよ。なんて書いてあったんだ」
「見て、見て、ほら! ロバーツが私たちの状況を理解してすぐにこっちに向かっているんだって! だから、たぶんあと数日でくるわ!」
四人でヘンリーさんの達筆な文字で書かれた手紙を読んでいく。相変わらずの英語でまだ慣れないが綺麗な文章で読みやすい。なんで船長同士でここまでの差があるんだよ。なあ、ドレークさん。
アリアさんの一ヶ月の英才教育の結果、俺はヘンリーさんの手紙を読める程度には英語ができるようになっていた。これは素直に嬉しい。
「ああ、ロバーツのヤツが来るのか。なら戦力としては十分だろうな」
「え、ロバーツさんってそんなに強いのか?」
「強いぞ。あいつが獣人なことも身体能力も高いし、船員も粒ぞろいだからな」
「獣人ってそんなのもいるのかよ? もう分んねーよ」
「いるらしいな。つっても俺もあいつ以外知らねぇからな。珍しいし覚えるぐらいならあいつの魔法とでも思った方がいい。そっちの方が楽だぞ」
いや、獣人って気になるだろ。見た目は特徴的な眼帯をした武張ぶばった感じの男だ。あの眼帯を外すと変身するとかだろうか。待て、もしかして……
「……もしかしてドレークさんも?」
「あいつ以外知らねぇって言ってんだろうが、話聞けよ」
「ちょっと二人とも、話を聞きなさいよ! ほら荷物をまとめて行くわよ!」
「え、行くってもう船に戻るのか?」
「そうよ。ロバーツたちを迎えに行かないと! あ、でもジンは魔法が使えるからヒビキたちと居残りでも大丈夫よ。どうする?」
お前も魔法が使えるだろうがというのは野暮かもしれない。リーネは何かするときには自らが最初に行動をするタイプだ。そんなリーネだから大勢の人が慕ってついていくのだろう。だが、正直三時間も歩くのはキツイから嫌だ。行きたくない。だけど――
「…じゃあ、行こうかな」
そう口にしていた。この村を出るとヘルガと顔を合わせないですむと言った後ろ向きな決断だったがリーネは満面な笑顔を浮かべてこう言った。
「それじゃあ、行きましょうか!」
シュテンがノギという男を背負うのと同時にみんなで部屋を出た。一時間もしないうちにエルフの里から船に戻る準備は終わった。やっぱり俺はまだヘルガと話す勇気がない。リーネの太陽のような満面の笑みに照らされると一層自分のこういう部分が情けなくなってしまう。俺は暗い気持ちを隠しながら自分の荷物をまとめてこの里を一度去ることにした。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「何だかもう懐かしく感じるな」
「まあ、二週間もいなかったからね。そう思うのも無理ないわ」
リーネたちと片道三時間の道のりを終えるともうすっかり日が沈んでいた。夕日のせいで怖いほど海が赤く染まるのを見てようやく昼夜という概念を取り戻した。
やっぱり波の音を聞くと安心する。腹の底から振動が伝わり耳の奥に残るほど余韻がある。これはシュティレ大森林にいた時には絶対に聞こえることがないものだった。もう船が俺にとっては家のような感覚だ。
「なあ、今更なんだけどこの船って名前はないのか? 漁船みたいに」
「ないわよ。まあ、正確には私たちの海賊団の人数がヘンリーが決めた規定よりもかなり少ないから船の名前を登録ができないのよ。正式にはまだ六人よ。最低でも三十人はいないとね」
そういう規定があるのか、結構ちゃんとしてるんだな。
「さてとさっそく荷物を積み込みましょうか、と言いたいところだけどヒュドラ討伐の緊張のせいか、みんないつもよりも疲れてるわね。明日にして取り敢えず船で休みましょうか。ここなら里の中にいるよりもかなりましなはずよ」
リーネの動きにつられるように後ろにいるみんなに視線を向ける。行きの道のりよりもぐったりとしている。顔色の悪い奴らもチラホラといる。
「情けねぇなと言いてえけど、森は居心地が悪いしな。オレですら気分が悪くなったんだ。仕方ねぇか」
「あれ、シュテン。鬼は魔素の影響を受けないんじゃなかったか?」
「人間みたいな魔石病の危険はねぇけどな。腹いっぱいの状態でずっと生活してるって考えると気分が悪いだろ? そういうことだ」
シュテンはそう言い残して「酒を飲むぞ! お前らも付き合え!」と何人かの男を引っ張り船内に入っていった。こいつらは本当に逞しいな、というか酒ってそこまで美味しいのか?
そんなことを思っているとアリアさんが俺の目の前を通り過ぎた。
「あ、アリアさん。ちょっとだけいいですか?」
「はい。いいですよ?」
みんながゾンビのように俯いて船に帰っているのを横目にピンピンとしているアリアさんと一緒に樹の影へと移動する。この人本当はエルフなんじゃないかというぐらい元気だな。まあ、みんなの前で話すような内容でないがほとんどみんな疲れているので大丈夫だろう。
「ここまで来れば聞こえませんよ、では話を伺いましょうか」
アリアさんは俺に微笑みを浮かべてそう聞いてくれた。本当は呼んだ俺の方から切り出さないといけなかったのにな。
「えっと、ですね。その、アリアさんが俺に最初に、その…」
「ジン君、ゆっくりでもいいですよ。私は逃げませんから」
ヘルガとのことを伝えたいのに思うように言葉が出てこない。喉に何か巨大な物が詰まったかと思うほど声が堰き止められている。こんな時でもアリアさんは待ってくれる。彼女の優しい青色の瞳が俺の不安を和らげて安心させてくれる。普段は割と雑な性格をしているのにこんなときには母のように接してくれるから俺は彼女のことを頼ってしまうのだろう。
「エルフの里に着いたときに、約束したじゃないですか……そのヘルガと仲良くして欲しいって」
「はい、そうですね」
「それで格好つけて頑張りますと言ったんですけど、その失敗して、今喧嘩みたいになってるんですよ。なのでアリアさんとの約束は守れそうにないって伝えておきたかったんです。それだけです」
「はい、そのことには気付いてましたよ」
「え、気付いてたんですか?」
「だって明らかにジン君はヘルガのことを警戒してたじゃないですか、まるで会いたくないみたいに。女の子はそういう空気に敏感なんですよ?」
「……そうなんですね。覚えておきます」
確かに普通に話していたのにある日を境にまったく話さなくなったら何かあったのではないかと疑ってしまうのが人間という生物だ。いや、そのことに無闇矢鱈と触れないだけでも優しいな。人の心の傷を気にせずに踏み込んでくる人はどこにでもいる。俺のように……
「それで何が原因なんですか?」
「いや、それが分からないんですよ。俺が彼女を怒らせたのは確かなんですけど、いくら考えてもどれが彼女の逆鱗に触れたのか分からないんですよ」
俺はこの二週間の間ずっとヘルガのことを考えていた。かなり勝気な性格でエルフという種族に誇りを持っている。人間嫌いな少女。それがあの時、彼女のことを怒らせるまでの俺の彼女に対してのイメージだ。だから、あそこで気軽に悩みを相談できた。ヘルガと俺は全く違うと思ったからだ。
「分かりました。なら質問を変えましょうか。ジン君はまだヘルガと仲良くしたいですか?」
「え、いや、でも――」
「ジン君の心の内を知りたいのです。はいかいいえで答えてください」
「はい、ヘルガと仲直りしたいです」
本当にアリアさんとリーネは本質が似ていると思う。まるで大広間のカーリと同じようなことになってしまった。
「それが答えです。何で彼女が怒ったのか正直な話私には分かりません。いや、それは誰にも分からないのかもしれません。私たちと積極的に会話をするのも初めて見ましたから。知っていますか、彼女はいつもは結構大人しいのですよ?」
「想像できません」
「そうですよね、私も彼女があそこまで絡んでいる姿は想像できませんでしたから。いつも里でも一人で何かを考えている姿をホヴズさんが心配そうに眺めていたのを覚えています」
「……何でそんなにヘルガは俺のことを気にかけてくれるんでしょうか?」
「分かりません。ですがジン君には何か気に入る点があったんでしょう。それが分かるのも彼女だけでしょうが……」
俺の知っているヘルガとみんなが知っているヘルガはまったくの別人だ。いや、そう言えば二週間前のあの日はテンションが低いと感じるほど無愛想だった。あれがみんなが見ている彼女の姿だったんだろうか? そんなことを考えていると再びアリアさんが口を開いた。
「そういえばちょうど今から二週間ほど前、私がホヴズさんと話をしているとヘルガが急にホヴズさんの手を掴み連れて行ったことがありましたね。彼女のその様子が珍しいと思ったのでよく覚えています。泣きそうな、でも怒っているような、そんな表情をしていましたね」
たぶん。あの日だ。俺と怒鳴るように別れたあの後だ。そういえば『ホヴズ兄にワタシのことも聞いていたのね』と言っていた。そこで何か勘違いが合ったはずなんだ。それさえ分かれば誤解が解ける。
アリアさんなら知っているだろうか? そう思い彼女の青い瞳を見たが踏みとどまることにした。それをアリアさんから聞くのは卑怯なことに感じたからだ。
「……何かに気付いたって顔をしていますね?」
「……少しだけ、ヘルガとの間に誤解があったかもしれません」
「そうですか、なら私から彼女に伝えておきましょうか? 誤解があると」
「……ありがたいけど遠慮しておきます。自分の口で言いたいので」
「なら、もう大丈夫そうですね。ここは冷えるので私はもう船に戻りますが……ジン君はどうしますか?」
「もうちょっとだけ、ここで海を見ています。相談に乗ってもらって、ありがとうございました」
アリアさんに深く一度だけ頭を下げる。二週間も無駄にしてしまったが彼女のおかげでやっと、本当にやっとヘルガと向き合うことに決めた。エルフの里に戻ったらきちんと彼女に謝ろう。そしてまた現世の話でもしよう。つまらないと言われても彼女と仲良くしたい。
不思議なものだ。彼女と関わった期間はほとんど一日だけだ。なのに嫌われたくないと思っている。それはきっと――
俺は海の向こうに沈んでいく夕日をジッと見ながらそんなことを考えていた。まず里に帰ったら絶対にヘルガを探して謝ろう。俺は二週間前と同じように再び決意を固めた。いや今度こそ、今度こそは絶対に……




