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第二十九話 『了承』


「ヒュドラって蛇の怪物のことだよな?」


 静まり返った大広間に、俺の声はよく響いた。カーリ頭を下げたことで生まれた沈黙を破るように、思わず口を開いた。我ながら、場の空気が悪くなる前に口を開けたのはスゴイことだと思った。まあ、単に空気が読めてなかっただけだけど。


「……ああ、そうだ。我らエルフの間で伝承されてきたヒュドラとは、巨大な胴体に九つの首を持つ大蛇の化け物のことだ」


 カーリはゆっくりと頭を上げると、俺の問いに丁寧に答えてくれた。彼女の声は、静かで落ち着いていたが、どこか切羽詰まったものを同時に感じさせた。感情的になった自分を恥じるかのように、言葉を選びながら話しているのが伝わってくる。


「おい、ジン。聞くことが違ぇだろうが!」


 シュテンが苛立ったように声を荒げる。彼の視線は俺からカーリに向けられていた。その目には、怒りというよりも、焦りや苛立ちが混ざっているように見えた。


「なぁ、カーリ。そもそもなんで討伐なんだよ? お前たちエルフの同胞の仇討なら勝手にやってろよ。それをオレたちが手伝うのは筋が通らねぇだろうが!」


 シュテンの言葉はまるで火打石を打ちつけるように場の空気に火花を散らした。大広間は、俺が味わいたくなかったピリピリとした緊張感に包まれる。空気が一気に重くなり、誰もが次の言葉を放つのが嫌になるような沈黙が流れた。


「ヒビキはどう思ってんだよ、お前いつもこういうことには口煩いだろ?」


「……はい。もし事情がそれだけならば、ボクも彼らの死に様を黙って見届けるつもりですよ。ですが、誇り高いエルフがボクたちを頼ったという事実を踏まえれば、報復ではなく、もっと別の事情があるのでしょう」


 シュテンの矛先がヒビキに向く。その問いには、どこかで自分の考えを肯定してほしいという思いも滲んでいた。本気でリーネを関わらせたくないのだろう。だが、ヒビキの声は芯のある響きを持っていた。普段は好戦的な彼だが、今はシュテンよりも遥かに理性的だった。彼の言葉には感情ではなく理屈で物事を見定めようとする冷静さがあった。


「あ? なんだよ。別の事情って?」


「シュテン、少し落ち着いて下さい。それを今から聞くのでしょう? ボクに聞くのは、それこそ筋違いです」


 シュテンが食ってかかるように問い返す。だが、ヒビキは淡々と返す。その冷静さが、逆にシュテンの苛立ちを煽っているようにも見えた。


「……鬼という種族の気質はニンゲン以上に愚かしいようだな。話の途中に割り込み、あれこれと文句をつけるな」


 カーリの言葉は冷たく、容赦がなかった。その一言が場の空気をさらに張り詰めされる。シュテンが怒ると分かっていながら、あえて煽るような物言いだった。


「はぁ!? お前が遅ぇのが悪いんだろうが!」


「……他責か、ますます愚かだな」


「うるせぇよ! つーか、エルフどもはなんでいつも上からなんだよ! 気に入らねぇな!」


「取り敢えず二人とも落ち着ましょう? ね?」


 レインちゃんが慌てて二人の間に立ち、必死に場をなだめようとする。小柄な身体で両手を広げて、シュテンとカーリの口喧嘩のような言い合いを止めるために懸命に耐えていた。その姿は、まるで嵐の中に立つ一本の細い木のようで、見ているこちらが心配になるほどだった。


「レイン、安心しろ。我らは常に冷静だ。目の前にいる、どこの馬の骨だか分からない男と違ってな」


「あ!?」


「だーかーらー、落ち着いて下さい!」


 この二人、本当に相性が最悪だな。エルフとしての誇りを何よりも重んじていて、何より一言多いカーリと、海賊として筋を通すことを重視している短気なシュテンでは会話が成立しない。まさに水と油だ。混ざることのない二つの性質が、今まさに火花を散らしている。噛み合わない二人を見ていると、レインちゃんは本当によく頑張っていると思う。勇気がスゴイ。俺には無理だ。俺は気まずそうに黙っているだけだし、ヒビキは心底興味がなさそうに遠くを見ている。


 そして、もっとスゴイのはアリアさんだ。アリアさんはまるで子供の喧嘩を見守っている母親のように、微笑みながら静かに座っている。同じ円卓を囲んでいるはずなのに、俺たちとは別の卓にいるかのように落ち着いている。胆力がスゴイ。ただならぬ風格だ。きっと、海賊として数えきれない修羅場をくぐってきたんだろうな。踏んできた場数が違う。そうじゃないければ、あそこまでの貫禄は出せないはずだ。


「………ヒュドラの話に戻すがいいな?」


「ああ、そうしてくれ!」


 俺が呑気にそんなことを考えている間に、レインちゃんの頑張りもあって、二人の言い争いは一旦収まったようだった。だが、二人の険悪な様子を見る限り、またいつ火がついてもおかしくない。場の空気は、まだどこかピリピリとした緊張感を孕んでいた。


「貴様らにも無駄な時間を取らせてすまなかったな。まずは先ほどのシュテンの問いに答えよう。貴様らはヒュドラの生態を知っているか? 不死身とも思えるほどの凄まじい生命力を持ち、体内で生み出した猛毒はその残り香を嗅いだだけで、嘗ての我らの同胞が三日三晩苦しんだ後に死亡したと、父から聞いたことがある。それほど強力な毒を持つ怪物だ」


「それぐらいは教養としてヘンリーたちに教わったわ。それで、あなたたちは何で討伐にこだわっているの? 続きを聞かせて頂戴?」


 リーネの声色は優しかったが、その奥には確かな関心と警戒が滲んでいた。彼女は義理や人情や感情で動く人間ではあるが、それでも乗組員の命がかかった場面で何も考えないで二つ返事をするような人間ではない。彼女の問いには、真意を見極めようとする鋭さがあった。


「……『レルネーの沼地』。いや、『ヴァイト沼地』は、遠い昔とても美しい場所だった。『魔女の瞳』と呼ばれるほど碧々とした湖は、我らですら魅了されるほど綺麗で、美しかった。だが今は、誰も寄り付かない死んだ大地となってしまった。これが、なぜだか分かるか?」


「……ヒュドラのせい?」


「そうだ、ヒュドラは魔素を喰い荒らし、生きている。あの化け物はただそこに存在するだけで、どれほど豊かな大地も魔素を吸い尽くし、腐らせてしまうのだ。そして、『ヴァイト沼地』の魔素をすべて食らいつくし、目を覚ましたヒュドラが次に狙っているのは――我らエルフが住む、このシュティレ大森林だということだ。これでなぜ我らがヒュドラの討伐を貴様たちに頼んだのか、分かったか、シュテン?」


「……いちいちオレに噛み付いてくんなよ」


 シュテンが不機嫌そうに顔をしかめる。だが、カーリの言葉に込められた切実さは誰の耳にも届いていただろう。


「あーちょっとごめん。俺まだ理解できてないんだけど。つまり、ヒュドラがこの森に来たらどうなるんだ?」


「……だから何度も言わすなよ、ニンゲン。ヒュドラが魔素を喰い荒らすとここにある霊樹がすべて枯れ果てるのだ。この説明なら理解できるか?」


「それだけならヒュドラから逃げればいいだけなんじゃないのか? この森から移住とかしてさ?」


 わざわざ死ぬかもしれない危険を侵さないでも、さっさと尻尾を巻いて逃げてしまえばいい。同胞の仇討なんて、諦めてしまえばいい。この俺の考え自体が、海賊たちには……いや、この世界では特殊なのかもしれないな。受け入れられないのかもしれない。すると、カーリは静かに目を伏せながら、口を開いた。


「……それも一理ある。我らエルフは、ニンゲンやドワーフと違い魔素の濃さに関係なく生きていけるからな。だが、ここは故郷なのだ。私の父の代から、ここで生きてきた皆が眠る場所なのだ。できれば――いや、やめよう。これは貴様らに聞かせる話ではないな……」


 俺がカーリに聞いておいてなんだけど、その話を途中で止めるのはズルいと思う。だって、さっきまでカーリと関わりのなかった俺ですら、今はなぜか、彼女のために何かできないかと考えてしまっている。まあ、力を貸したいと思っても、ヒュドラとかいう怪物相手に俺に何ができるんだって話になるんだけどさ。


「……それで返事を聞かせてもらおうか”海賊の娘”」


 カーリの視線がまっすぐにリーネへと向けられる。彼女の語り口は静かだったが、どこか焦りを含んでいた。リーネは先程の意趣返しのようなに、いつもの調子で軽く返した。声にはほんのわずかも緊張感がなかった。彼女もまた、カーリの本気を感じ取っているはずなのに。


「あら、カーリ。せっかちね? いつものあなたらしくないわよ?」


「ああ、我らはもう覚悟を決めたのでな。たとえ貴様らがいなくとも、我らエルフは里同士の隔たりを超えて団結し、ヒュドラ討伐へと乗り出すつもりだ」


「本心では助けて欲しいと思っているくせに?」


「………」


 カーリはもう、相手を心から気に掛けることもできないほど追い詰められているのだろう。その証拠に、リーネの皮肉交じりの返しを意に介していない。そんな余裕すら、今の彼女には残されていないようだった。ただ、綺麗な翡翠の瞳が、じっと俺たちのことを観察している。


「おい、リーネ。応えてやる道理はねぇ。さっさとここから帰った方がいい」


 そう真っ先に口を開いたのは、シュテンだ。非情だが、冷静だった。彼の声には怒りというよりも、冷めた現実主義が滲んでいた。


「勘違いすんなよ、カーリ。オレがお前のことが嫌いだからこんなことを言っているわけじゃねぇ。ただ、オレたちに旨がねぇから言ってんだ」


「何だ。貴様たちはあの()でこちらに貸しがあるのではなかったか? それにシュテン、貴様は蛇退治は得意だと聞いていたのだがな」


「あー、蛇って……八岐大蛇のことを言ってんのか? こっちとしては、あんなこともう二度と経験したくねぇんだよ。それに、あの()って言っても、借りはちゃんと返したはずだろ? それを、この場で持ち出してくんじゃねぇよ」


 シュテンの声のトーンが少しだけ落ちた。八岐大蛇――その名を聞くだけで、彼の中で何かが疼くのだろう。過去の出来事が、彼にとってどれほど苛烈なものだったか、もう二度と思い出したくもないという気持ちが言葉の端々から伝わってくる。


 シュテンとカーリの言い合いが、またじわじわと熱を帯びてきた。言葉の節々に、過去の因縁のようなものが滲んでいた。揺さぶりをかけようとしているのが見て取れる。それにしても、八岐大蛇だのあの件だの俺にはもうよく分からない。その綱渡りのような緊迫した空気の中、ふとリーネを見ると、彼女は両目を固く閉じて黙っていた。何かを真剣に考え込んでいるようで、まるで周囲の声が届いていないかのようだった。


「ボク一人だけなら協力しても構いませんよ。ヒュドラの武功を挙げることができれば、ボクの目的にさらに一歩近づけますから」


 ヒビキの大きな声が、場の空気を切り裂くように響いた。俺と同じくらい……いや、俺以上に空気が読めていない男がそこにはいた。彼の無邪気な口調とは裏腹に、彼の言葉には冷静な計算が含まれているようにも……いや、本当に空気が読めてないだけっぽいな。


「お前は黙っていろよ。そのイカれた考えにオレたちを巻き込むんじゃねぇよ!」


 シュテンはすかさずに怒鳴り返す。だが、ヒビキはまったく動じた様子がない。むしろ楽し気に肩をすくめ、まるでこの状況すらも遊びの一環のように受け入れているっみたいだ。


「まあ、いいじゃないですか。それにボクは八岐大蛇退治に参加できなかったんですから。さっきからソワソワとしているレインはどう思いますか?」


「わ、私ですか!? 私はあまりそういうことには役に立てそうにないので……アリアさんはどうですか?」


 レインちゃんはまさか自分に矛先が向くなんて思ってもみなかったようで、慌てて視線を逸らした。頬がほんのり赤く染まっているのが分かった。彼女のような大人しい性格の持ち主には、この場の空気はさぞ重たく感じられるだろう。俺も似たようなものだから、スゴイ共感できる。


「私の意見はいつもと変わりませんよ。リーネの意向に従います」


 アリアさんの言葉が大広間の空気を震わせた瞬間、円卓の机を囲む全員の視線が、自然とリーネに集まったのが分かった。この場の空気が、まるで一点に収束するような感覚だった。俺がもし今のリーネの立場だったら、冷や汗をかいて吐き気に襲われていることだろう。ただでさえ、人前で喋るのが苦手だからな。だが、リーネは先ほどまでと変わらず、燃えるような赤い瞳を閉ざしたままだ。何も反応がない。その沈黙が、かえって場の緊張感を高めていく。


 何も反応しないリーネの様子に、耐えかねたのか、それとも呆れてしまったのか、この静かな大広間でしか気付かないほど、カーリは小さな溜息を漏らした。


「…………貴様の父、ジョンならば即断しただろうな」


「おい、カーリ。それ以上口を――」


「よし、決めたわ!!!」


 カーリにシュテンが怒鳴りかけた、その瞬間たった。リーネが再び、バンッと大きな音と共に思いっ切り立ち上がった。その勢いに、俺は一瞬だけたじろいてしまった。燃えるような赤い瞳が、真っ直ぐと衝突寸前だった二人のことを見つめている。カーリとシュテンの間に割って入るように、彼女の視線が鋭く突き刺さる。


「レイン、今すぐにヘンリーに連絡して、武器と人をたくさん送ってもらいましょう! だから、早く伝書鳩を送ってきて!!」


「はい、分かりました!」


 レインちゃんが椅子から勢い良く立ち上がり、大広間から駆け出していった。その背中は小さいけど、どこか誇らしげで、嬉しそうにも見えた。彼女の小さな背中を黙って見送っていたシュテンが、ぽつりと口を挟んだ。


「おい、ちょっと待てよ。リーネ、もしお前がジョンのことを気にしてんなら頭を冷やせ! あいつがいくら馬鹿だったとしても利益がなけりゃ――」


「大丈夫よ、シュテン。利益ってのは、なければ作ればいいのよ。私はそうヘンリーに教わったわ!」


 リーネの言葉はまるで鋼のようにしなやかで、強かった。決して曲げることはないと、暗に告げているかのようだった。彼女の中にある信念が、言葉の一つ一つに宿っているのが分かる。その堂々とした態度に、シュテンはもはや何も言わなかった。すべての不満を飲み込んだように見えた。


「……何が望みだ?」


 カーリの声はわずかに和らいだ。彼女は何かを察したみたいだ。リーネの言葉の裏にある覚悟を、ようやく受け止めるような、そんな柔らかさがあった。彼女はもう、試すような言葉を投げかけることを止めていた。


「うーん、そうね。ならそこにあるユニコーンの角が欲しいわ! いくらあって困るものじゃないし!」


 意気揚々と彼女が指差したのは、カーリの背後に布で綺麗に包装されて置いてあるものだった。あれがユニコーンの角なんだろうか? 俺は実物を知らないから何も言えないが、ヘルガに案内された水場で見かけたそれは、白く光を放ち、月明かりを閉じ込めていたかのような神秘的な輝きを放っていた記憶がある。


「ああ、それで構わない。討伐に成功した暁にはこのユニコーンの角をくれてやろう。だが本当にそれだでいいのか?」


 カーリの声にはどこか意外そうな響きがあった。拍子抜けしたような声だ。もっと高価なものを要求されるとでも思っていたのかもしれない。だがリーネは、にっこりと笑って頷いた。


「ええ、構わないわ! それに絶対に助けるって最初に言ったでしょ!」


 彼女の中ではもうとっくに答えが出ていたのだろう。彼女の言葉には一切の迷いがなかった。その潔さに、なぜだか分からないが俺も思わず胸が熱くなった。


「……そうか、ならば一つだけ謝らせて欲しい。先ほどは悪かった」


 そう言うと、カーリは静かに頭を下げた。彼女の姿はこれまでの彼女からは想像できないほど素直で、どこか人間味があった。その一例には感謝と敬意、そしてわずかな悔しさが滲んでいた。誇り高いエルフの長が、自分からこうして頭を下げる姿に、場の空気がまたいい方向に少し変わった気がした。


「父のこと? 別にいいわよ。ああ、でも勘違いはしないでね。父なら助けたとかは関係なく、私は私だからあなたたちを助けるの! それでいいわね!」


 リーネの声はまるで夜の焚火のように温かく、そして力強かった。彼女は父親の影に縛られることなく。自分の意志でこの決断を下したのだと、はっきりと宣言した。その姿に、カーリもまた、わずかに目を細めてうなずいた。その表情は安堵と敬意が入り混じったような、柔らかなものだった。


「……ああ、それでもいい。力を貸してくれるのならば」


 赤と緑の瞳が、静かに交差する。互いの覚悟を確かめ合うように、まっすぐと見つめ合い――そして、手を取り合った。リーネとカーリ。海賊船の船長とエルフの里の長という、まったく異なる立場の二人が、今この瞬間、同じ目的のために手を結んだ。固く手を取り合ったのだ。瞬間、大広間に漂っていた緊張が、ふっと和らいでいくのを感じる。彼女の決断に待ったをかける者は、この場にいない。否定するものはこの場にはいない。だって、リーネが決めたことだから。


 こうして俺たちは、ヒュドラ討伐に参加することが決まった。それが、どれほど困難を伴うものかも知らない。けれど、確かな一歩を踏み出したのだった。人間とエルフの歩み寄りを今、俺はこの目で見ている。そして、その中心にいる人物は、大き目の海賊帽子を被り、燃えるような赤い目をした、『海賊の娘』と呼ばれている少女――リーネだった。


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