第二十五話 『シュティレ大森林』
「ほら、ハキハキ歩きなさい! このままじゃ日が暮れるわよ!」
ヘルガが列の先頭から鈴を転がすような声でそう叫ぶ。全員に聞こえるぐらいの声量で叫ぶ。だが、ざわざわと揺らぐ森が音の反響を防いでいるのかそこまで遠くには聞こえない。
「これって、いつまで歩くんだ……?」
「まだまだですよ」
「ああ、わざと遠回りしてるからな」
やっぱりそうか。さっきからグルグルと同じような道を行ったり来たりしている気がする。十メートルも行かないうちに方向感覚を失ってしまう。いや、まあ森の中だからそう感じるだけかもしれないが……
「いや、なんで遠回りなんか、しているんだよ。もっと、早く着けるなら、そっちの方がいいだろ?」
「いろいろあって人間を警戒しているんですよ。道が分からないとエルフの里にはいけませんから」
ヒビキは森を歩くのには絶対に向いていないはずの下駄でカランコロンと音を立てながら進んでいく。息も絶え絶えの俺とは大違いだ。シュティレ大森林は地面の状態も悪くて、俺は幾度となく足を滑らせて転びそうになった。ヒビキと同じような下駄なんて履いた日には自分でもどうなるか分からない。
「……ヒビキでも、分からない、のか?」
「そうですね。正直ボクでも一人では不安です」
ヒビキは素直にそう口にすると太陽が見えないほどデカい樹々を仰ぎ見る。
「ここは魔素が満ち溢れていますからね。そのせいで樹々が異様なまでに発達していると聞きますし、太陽も何も見えないここでヘルガとはぐれたらボクでも迷子になってしまいますね」
樹々の根っこから根っこへ軽々とジャンプしたヒビキを横目に、俺は木に手を当てて全身で寄りかかるように休む。掌から感じる水気がこの木はまだ生きているのだと伝えてくる。
というか全体的にこの森はスケールがデカすぎだろ!
ヘルガと初めて会った港付近はデカいと言ってもまだ理解ができた。現世でも神社であった。いや、今思えば海水を吸い上げているはずなのにあのデカさだったんだからもっとデカいのは当たり前だった。
でも、さすがにデカすぎる。
さっきヒビキが軽々と跳んだ根っこにしてもそうだ。この根っこだけを見ても力士のお腹みたいに太い。それに寄りかかっているこの木もだ。
樹齢千年以上はあるんじゃないだろうか? そう思ってしまうほど厳かな雰囲気がある。幹周りは太すぎて中身を刳り貫いても一軒家が入るんじゃないだろうか。それに樹皮もすごい。グリフォンの趾が樹皮に似ていると思っていたがこれはそれ以上だ。まるで竜の鱗に触れているみたいだ。樹皮が硬く、分厚い。生命力に満ち溢れている。こうして触れていると命を吸い上げられている気がする。
「ッ!」
俺は命を吸い上げてくるような樹々から手を離し、ヒビキの姿を追うように天を仰いだ。空は大きな葉の一枚一枚が覆い隠すように広がっている。太陽が見えないはずなのに明るく感じるのは俺の目が良くなったわけではなく、単純に、樹々が光輝いているのかもしれない。
蛍の光みたいだ。樹々が、葉が、薄っすらと光り輝いているように見える。この森には薄暗いという概念はあっても暗闇というものは存在しないようだ。このままでは昼夜の感覚があやふやになってしまう。
こうしてシュティレ大森林の不思議な空間に目を向けてみると、ヘルガが時間通りにあの港まで来たのはとてもスゴイことだったんだな。俺だったら絶対に無理だ。何百回、何千回とこの森から港まで通っていたとしても迷子になってしまう。それほどまでに滅茶苦茶な森だった。
「というか魔素って何なんだ? どうやったら分かるんだ?」
俺は意識して呼吸を落ち着かせる。ゆっくりと息を整え終わると隣で待ってくれていたシュテンに疑問に思ったことを尋ねる。
「ああ、魔素って言うのは魔法の元のことだ。それとこっちはまだ見せたことがなかったか。ほらこの石だよ」
そういうとシュテンは危険なまでに赤い光を放つ石を俺の眼前に突き付けてきた。
「これは?」
「魔光石は知ってるだろ? まあ一口に言っちまうと街灯の中身だな。そしてこれは鬼灯石だ。ドワーフどもは確か金糸雀石って言うんだったかな? まあいいか。これは魔素が多い場所で赤く光るって特性があるんだよ。理屈はよく分からねぇが……持ってるといざってときに結構便利だぞ?」
シュテンから手渡された鬼灯石は赤信号のようにうるさく光っているが、熱を発しているわけではない。それと磨かれているせいか表面がツルツルとしていて、摘まむように指で持っているのは難しい。
「こんなものもあるんだな……。なあ、魔素が多いとなんかダメなのか? いや、こんな森になったら困るっていうのは分かるけどさ」
ある日、自分の家の庭に植えた花がこんなに育ってしまったらたまったものではない。そう考えたらこんなものがあるのも自然か?
「あ、何言ってんだ? 魔素が多いと発狂して死んじまうだろ?」
「予想よりも危ないな!」
「そうよ。危ないのよ」
いつの間にかリーネがいた。リーネは最後尾にいたはずなのにここにいるということはもう追い付いてきたということだ。いや、俺が休みすぎていただけか……
「魔素が多い地域に長くいるとだんだんと船酔いみたいな感覚にうなされて、頭痛や吐き気に襲われて、最後には幻聴と幻覚の中で死んでしまうのよ。船乗りを誘惑するセイレーンの歌と同じぐらい身近で怖いことだわ。でも、安心しなさい! ジンは大丈夫だと思うわ!」
「……なんで俺は大丈夫なんだよ? いや、気休めなら別にいいんだけどさ……」
「ああ、これもついでに説明しておかないとね。私たちには魔力を貯めておくための受け皿みたいものがあるの。魔素が多い場所だと魔力が貯まりすぎちゃうのよ。貯まりすぎた魔力が受け皿から溢れだしてさっき言ったような症状が起きるのよ。でも、あなたは魔法が使えるでしょ? 魔法を使えるってね、受け皿の上に貯まった魔力を好きに使えるってことなのよ。だから、”魔法使い”であるジンなら余程のことがない限り大丈夫ってわけよ! ……まあ、魔力の受け皿が空っぽになったはずなのに魔法を使っていたからあなたは倒れたんだけどね」
「じゃあ、魔法が使えないヤツらはどうすんだよ? というか魔法って使えないヤツの方が多いんだろ? ここってやばいんじゃ……」
「だから安心しなさい! 一週間程度なら誰でもこの森にいられるから」
一週間って意外と短いな……
しかし、さっき魔法の使い過ぎでぶっ倒れたがそのことが嘘だったかのように調子がいい。これも魔素が多い影響なのだろう。
「人間たちは苦労するらしいなぁ。だが、まあ、オレもこんな所に一週間もいたくねぇなぁ」
「なんだよ人間たちはって、鬼は違うのかよ?」
「一緒にすんな。だいぶちげぇよ」
「ちょっと、シュテンも面倒くさがらないの。あ、えっと、わかりやすく説明するとね。人間、ドワーフ、エルフは体内にある受け皿に魔素を貯めて魔力に変えるっていうイメージなのよ。でも、鬼は魔素を体内で喰らうっていうイメージなの。これが鬼は魔法が使えないって言われている理由でもあるわ」
「うん、それも初めて聞いたけど……鬼って魔法が使えないんだな…」
「……まあ、そうだな。そんなちゃっちなもんはねぇが、オレたち鬼にはこれがあるからな! いいもん食って育て上げた自慢の筋肉よ!」
そう言うとシュテンは内側から張り裂けてしまいそうなほどの筋肉を見せつけてきた。体育会系の部活の人ってやたらと筋肉を見せつけてくるんだよな……
「でたよ、筋肉至上主義者が。そんなに力自慢がしたいなら俺の代わりに荷運びをやってくれよ」
「イヤだね、めんどくせぇ。それにお前は男のくせに細すぎるんだよ、もっと筋肉つけねぇとな。……オレの荷運びもやるか?」
「絶対にやらないよからな」
そんな立派な身体で仕事を押し付けてくるなよと言いたかったが俺の方が先に押し付けてたので何も言えない。
ゆっくりと太すぎる根っこを降りて進んでいく。ヒビキのように軽々と行けたらどれだけ楽か。それに”グリフォンの爪痕”が邪魔すぎる。艶々と色気のある光沢がカッコいいと思っていたのに腰に帯びてみると邪魔でしかたがない。ヒビキや親方、黒之助さんには悪いが置いていってもいいかなぁ?
というかエルフの里まで後どのぐらいなんだろう?
シュティレ大森林では時間の感覚があやふやになる。同じような景色で何処にいるのかもわからない。もしここに一人で取り残されたら、一瞬でにおじいちゃんに変わってしまうかもしれない。それこそ浦島太郎みたいに……
いや、あれは玉手箱を開けたせいだっけな。故郷に帰ると長い年月が経っており、失意のあまり開けてしまったんだった。昔から疑問に思っていたが浦島太郎の御伽噺ってどんな教訓があるんだ? 御伽噺って何かしらの教訓が込められたものなんだと子供ながらに思っていたけど……あの話だけはずっと納得ができていない。
若い漁師の浦島太郎は子供にいじめられていたカメを助けるとそのお礼としてカメは浦島太郎を背中に乗せて竜宮城に招待したんだろ? そこで、魚たちの歌や舞、数々のごちそうでもてなされて楽しい毎日を送ったそうだ。そんな楽しい時間を過ごして、お見上げに玉手箱までもらった浦島太郎がいざ陸に帰ると竜宮城と地上では時間の流れが異なるそうで自分の家すらなくなっていた。一人ぼっちになった浦島太郎は最後に絶望に打ちひしがれて玉手箱を開けるとおじいちゃんになってしまったという話だ。
うん、やっぱり何度聞いてもこの話には納得できない。
やってることがぼったくり居酒屋とかと同じだ。会計になると『百万円です』というヤツと同じだ。いや、もっと悪質か。
少し遊んだだけで一人ぼっちの孤独感を味合わせるなんて本当に酷い話だ。浦島太郎もきっと故郷から外へ出ない方が幸せだっただろう。
いや、そんなことは関係ない。今はそんなことよりも――
「なあ、リーネ。まだ着かないのか? かれこれもう三時間は歩いているだろ?」
「え、たぶんもっと歩いているはずだけど。まあいいわ。えっとね、先頭を歩いているヘルガのペースが少しだけ早くなったでしょ? それにさっきから前だけを見ていて、口数が減っているわ。だからたぶんもうすぐ見せるわよ」
そういえばさっきからヘルガの声が聞こえない。ここまで声が届かないだけかと考えていたが、目を凝らしても見えるのは豆粒ほどに小さい背中だけだ。
うん、いや、止まっているのか?
ヘルガはまったく動いていないように見える。それに最前列にいる人たちは直線気味に列をなして歩いていたのに、今はゆとりがあるというか、幅が広がっているように感じる。
俺たちは最前列にいるみんなに合流するために足元に気を付けて歩く。最前列はレインちゃんとヒビキ、アリアさんの三人がいるはずだ。完璧に止まった最前列のみんなに追いつくために時間をかけて歩いていく。
そして三十分ほど経ったぐらいでようやく追いついた。
「アンタたち、ようやく来たわけ?」
俺たちを見下すように悪態をつくのはヘルガだ。もう慣れた。彼女は俺たちが来るまで待っていたのか、木の根っこを椅子みたいに利用して行儀よく座っていた。
「いや、結構急いできたんだけど。というかヘルガが速いだけなんじゃないのか?」
「……いや、アンタが遅いのよ。やっぱりニンゲンはだらしないわね。この程度でへばってしまうなんて、アンタたちニンゲンの速度に合わせるワタシの苦労を考えてくれない?」
この前まで俺はただの学生だったんだ。お前たちのペースに合わせるだけでも大変なんだからむしろここまで頑張ってついてきた自分のことを褒めてあげたい。緑色の瞳に見下されながら、そんなことを考えていると――
「こら、ヘルガ。客人をあまり虐めてやるな」
森が話しかけてきた。そう感じるほど落ち着きをもった綺麗な声が聞こえた。
俺は聞き惚れてしまうほど美しいその声に無意識のうちに振り返っていた。するとそこにはエルフがいた。ヘルガとは違う雰囲気のエルフだ。
彼女にはヘルガのような愛嬌などが全くない。切れ長の目に腰まで伸びた髪は艶やかで虹色の輝きを放っている。砂金のごとき輝きを帯びた金の髪だ。それに加えて、エルフ特有の長い耳に、均整の取れた長い手足、そのすべてが綺麗に調和しており美という概念が彼女の内側から滲み出ている。
そんなエルフがこちらに向かって音もなく歩いて来ていた。ただ歩くという所作一つとっても上品で洗練されているように見える。
「よく来たな”海賊の娘”。我らが貴様たちを歓迎しよう」
彼女たちは爛漫に咲き誇る花ではない。才ある彫刻家がその一生をすべて捧げて創り上げた造形芸術だ。それほどの迫力がある。
そんな美しさを持つ彼女たちが森で普通に生活をしているのだ。その光景を前にしてようやく俺はエルフの里に着いたのだと分かった。




