第二十四話 『五里霧中』
この状況を四字熟語で表現するのなら五里霧中だ。
五里霧中と辞書を引けば『物事の様子や手掛かりがつかめず、方針や見込みが立たずに困ること、また、そうした状態』と載っている。
まさにこの状況を表している。こんな濃い霧の中では何も見えずに手探りで前に進むしかない。そう思っていたのにこの海賊たちは慣れているのか霧の中でも迷いなくそれぞれの作業に取り掛かっていた。
だからこの場において俺だけが何もできないでただ突っ立っている。
仕事の順序を覚えたばかりだがここで俺が手伝ったとしても逆に皆に迷惑をかけてしまう。なのでこれはサボっているかのように見えてしまうが、足手まといにならないようにという俺なりの気遣いなのだ。
まあ、そんな言い訳をしてみたが、かなり苦しいのは自分でも分かっている。
仕事のない俺はずっと上の空でヘルガさんの姿を目で追っていた。
俺が心待ちにしていたレナトゥス大陸への二回目の上陸はエルフの少女ヘルガさんに会ったことによって掻き消された。そっちの方が衝撃的だったのだ。
エルフについてみんなから断片的な情報を聞いていたがそれでも実物を見るとだいぶ違う。何が違うって動いているのだ。俺の前で。
というかやっぱりエルフって耳が尖がっているんだなぁ
そんなことを考えていると翡翠色の瞳と目が合った。ヘルガさんが俺の視線に気付いてしまった。急いで目を逸らしたが間に合っただろうか?
「ねぇ、ニンゲン。さっきからジロジロと見て何か用?」
鈴を転がすような声が隣から聞こえてきた。ヘルガさんに話しかけられたことを理解すると同時に自分の好奇心を呪った。何もすることがないからとジロジロとヘルガさんを見るんじゃなかった。
「いや、用はないですけど……」
「うん? アンタ初めて見る顔ね?」
「……はい、初めましてリーネの船の新入りです。平坂仁と言います」
ヤバい、めっちゃ緊張する!
あのエルフと話をしている。ゲームとかでしか見たことがないあのエルフと!
「ワタシはヘルガよ。最初に言っておくけどワタシはアンタに興味ないから! アンタの名前なんか覚える気ないし、ニンゲンって呼ぶから!」
「あ、はい。ヘルガさん」
「違うわ、ヘルガ様よ!」
「はい、分かりました。ヘルガ様」
「それでいいのよ、ニンゲン!………調子が狂うわね、やっぱりヘルガでいいわ」
彼女はヘルガ様と呼ばれると腕を組んでフンと上機嫌に鼻を鳴らしたが、すぐに不機嫌になってしまった。なんでだ?
まあ、これ以上機嫌を損ねないために言われた通り彼女のことはヘルガと呼ぶことにしよう。
「ところでニンゲン、何でアンタはこんな場所で突っ立っているの? 他のニンゲンたちは何か忙しそうだけど?」
「ああ、俺は新入りだからだよ。ここで大人しくしていることが新入りの主な仕事なんだ」
「……それって要するに役立たずってこと?」
そうだけど言い方があれじゃないか?
というか誰の魔法のせいでこうなったと思っているんだ。この霧がなかったら俺も頑張っていたはずだ。そう言いたかったがヘルガの言う通り現状の俺はただの役立たずにほかならない。言い返すこともできずに黙った俺の前でヘルガは顎に手を当てて何かを考えている様子だった。
「そうね、ニンゲン。暇そうなアンタにワタシの話し相手という役目を与えるわ! 光栄に思いなさい!」
何かを考えている様子だったヘルガが急に飛び上がったと思いきやそんなことを言ってきた。人間嫌いと聞いていたのに何でこんなに親切にしてくれるんだろう。それともアリアさんの間違えで人間嫌いのエルフは別にいるのだろうか?
そんなことを考えているとヘルガの背後から赤い瞳が覗き込んできた。
「あらどういう風の吹き回し? あんなに人間が嫌いって言っていたのに」
「……フン、ただの気紛れよ。エルフは可哀想な生き物にも優しく手を差し伸べるのよ。アンタたち人間と違ってね!」
「ねえ、それってどういう意味?」
いきなり貶された。
まあ、最悪それ自体はいいのだが。ヘルガは人間嫌いなのならどうして話し相手になって欲しいなんて言ったのだろう。エルフの矜持で無理に可哀想な生き物に手を差し伸べてくれたのだろうか?
いや、自分のことを可哀想な生き物なんて思いたくはないんだけど……
それに彼女と話していても不思議なほどに不快感などがない。彼女の態度はお世辞にも良いとは言えないが、どこか愛嬌がある。これもエルフという種族が持つ魅力の一つなのだろうか?
俺はヘルガの体育教師がペア組を作れなかった生徒は先生と組もうかと言ってくるような優しさを甘んじて受けることにした。まあ、これもせっかくの機会だ。人間嫌いのエルフが気紛れでも俺と会話をしてくれるのなら有難い。
「そうね、あなたはとても優しいもの。……ああ、そうだ。言い忘れるところだったわ! 私たちはあと一時間ぐらいかかりそうなの。そうなるとヘルガが暇でしょう? でも心配はいらなかったみたいね。それまではジンがヘルガの話し相手になってあげて」
「違うわよ! ワタシがこのニンゲンの話し相手になってあげてるの! 間違わないで!」
「……そうね。じゃあ、ヘルガ。悪いけどジンの話し相手になってくれないかしら?」
「最初からそう言えばいいの!」
リーネが面倒くさそうに顔を歪めるのを初めて見たかもしれない。いや、確かにちょっと面倒くさいけど……
というかリーネは一時間って言ったな、だいぶ時間がかかる。
いや、待てヘルガと一時間もなにを話せばいいんだ?
「じゃあね。私はもう戻るから仲良くしなさいよ」
そんなことを考えているとリーネはアリアさんのもとへと戻っていった。え、本当に一人でヘルガといるの? チャンスとは思っていたけど一応初対面なんだし、こういうのって誰かが仲を取り持ったりするのが普通じゃないのか?
「……ねぇ……ねぇってば!」
「え、あ、な、何だ?」
そんなことを考えているとヘルガに話しかけられているのに気付いた。話題を探しているなかで急に話し掛けられたので挙動不審になってしまった。
「だから! なんでアンタだけそんなに服が違うのって聞いてるの!」
「ああ、これは現世の制服っていう……そうだ、まず学校って知ってる?」
「ガッコウ? ウツシヨ? アンタ何言ってんの?」
「………ああ、そういうことか」
彼女は知らないのだ。学校とかそんなこと以前の問題だ。彼女は人間について知らないのだ。言ってたじゃないか、エルフは自然と共に生きていて滅多に森の奥から出てこないと。
ということは俺がこの一ヶ月間で学んだこっちの常識も彼女には通用しない。彼女は俺なんだ。一か月前の俺なんだ。そう思うと気持ちが少し楽になった。
「俺は現世ってところから来たんだ。分かりやすく言うなら別の世界ってやつ? あー学校っていうのは教育機関、人を人にするために必要な知識を学ぶ場所のことで、この服はそこに通う生徒、学校で教育を受けている人が着ている服なんだよ」
当たり前のことを説明するのは難しい。普段はここまでかみ砕いた説明をしないからだ。だが俺がリーネたちにしてもらったように俺も彼女に同じことをしよう。分からないということは恥ではなく、分からない人に手を差し伸べれないことが恥だから。それに彼女が少しでも人のことを理解して好きになって欲しいから。
「……アンタ頭がダメになったの?」
ああ、うん。そうか。……うん。
いや、こっちが当たり前の反応だ。俺がもし現世にいたころにエルフやドワーフをまるで本当に実在するかのように話されたら同じ反応をしただろう。うん、だから全然気にしていない。本当に気にしていない。
「要するにアンタのセイフクっていうのはウツシヨって地域では半人前が着ている共通の服ってこと?」
「なんか思想が強いな……まあ、もうそういうことでいいよ」
歪んでいるとは思うが、社会に出ていないことを半人前と定義するならそうなんだろう。そんな窮屈な社会で生きたいと思わないが……
「まあそうよね。アンタは顔立ちからして偉いって感じじゃないし、それに偉いニンゲンはもっと派手な服にジャラジャラとした金属を身に付けているものね!」
「…そうね」
ヘルガの偉い人間への偏見が、俺の金持ちへの偏見と全く同じで何も言えなくなってしまった。
「でもそうね。ワタシもウツシヨって地域は聞いたことがないわね。……ねぇ、ニンゲン。アンタの故郷の話を聞かせないさいよ。ほんのちょっとだけど興味が湧いたわ!」
「故郷か…」
ヘルガは表情が見えないように顔を背けてそう言った。だが、それでは隠しきれない笑みを浮かべていた。それにしても故郷か。そうだ、何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。現世の話をすればいいんだ。それならば話せることがたくさんあるじゃないか。
「いや、でも何から話そうか……」
「なんでもいいわよ。退屈じゃなければ」
話せることが多くても困るものだ。だが、どれを選んでも退屈はしないだろう。俺がこっちの話を面白いと感じるように現世での話も面白いと感じるはずだ。不正解なんかない。そう信じないと話し始めることができない。
「空だ」
頭を悩ませているとヘルガが魔法で出した霧が晴れてきた。薄くなったと言った方がいいかもしれない。だが、太陽が微かに見えるぐらいに落ち着いたのは確かだ。
そしてそれと同時に最もインパクトがある話を思いついた。
「なあ、”ニンゲン”がいつか空を飛ぶって言ったら信じるか?」
これは人間に翼が生えるとかそういう話じゃなくて飛行機やロケットの話なんだけど。まあ、語り始めは大袈裟にすればするほどいい。相手が俺の話に少しでも興味を持った時点で勝ちなんだから。
「はぁ? どういうこと。エルフじゃないんだから、ニンゲンが空を飛べるわけないでしょ?」
「え、エルフって空飛べるの?」
見たところヘルガには羽もないもついていない。ということはやっぱり魔法の力なのか? いや、魔法って何でもありじゃないか。なんで俺のは縄なんだ。もうちょっと派手でもよかったんじゃないのか?
「いや、そうじゃなくて。飛べるんだよ。”ニンゲン”はいつか、月まで!」
きっと誰に言っても信じてくれないだろう。でも本当のことだから。
この世界でも変わらずに独り美しいままの月に、手を伸ばしても届くはずのない月にドワーフでもエルフでもなく人間がたどり着いたのだ。これよりスゴイ話があるだろうか。
「………嘘ね。退屈な作り話だわ」
「本当なんだって、いや、信じられないのも無理はないけど……」
「ニンゲンが空を飛ぶなんて到底信じられないわ、それにワタシたちよりも上に行こうとするなんて許せないもの」
「ああ、そうか……そうだ、さっき言ってたけどエルフって本当に飛べるのか? 良ければ見せて欲しいんだけど?」
「…イヤよ。なんでワタシがニンゲンの言うことを聞かないといけないの」
「……そうかよ」
嘘じゃないのか。なんて口に出しそうになったがヘルガとの関係が悪くなるだけなのでやめておこう。それにしても退屈だったか…。自分の中ではけっこう面白い話だと思ったんだけどな。
「ちょっと、ニンゲン。なんで話すのをやめるの? 続きは?」
そんなことを考えながら、どうしようかと黙っているとヘルガが急に話の続きを求めてきた。
「え、いや、だって退屈だって」
「退屈とは言ったけど、やめろなんて言ってないでしょ。早く続きを話して」
「ええ……」
本当にヘルガは面倒くさい性格をしていると思う。
こいつたぶん興味があるけど、素直に口にできないだけなんだ。どんなに俺が面白い話をしたとしてもきっと『退屈だった』と言うに違いない。だけど、まあ、暇つぶしになるし別にいいか。
「なら、乗り物つながりで今度は車の話をしようか」
「クルマ?って何それ」
「車っていうのはな、…というかまず馬車って知ってる?」
「バカにしてるの? あの馬を走らせてるやつでしょ。たまに森の外を走ってるのを見るわ……」
「そうそれ、車っていうのはそれを進化させたヤツなんだ。まあ、簡単に言うと馬を使わないでもっと速く移動できるようにしたものなんだよ」
「はあ? どういうこと? グリフォンにでも引かせたの?」
「いや、その発想の方が凄いけど……えっとなエンジンっていうのが――」
最初は一時間も何を話せばいいのか分からなかったけど。話してみると時間が足りない。ヘルガの反応がいいのも俺の口を滑りやすくっていうと意味合いが変わるが、軽くしているのは確かだ。
こうして俺たちの一時間はあっという間に過ぎてしまった。




