第二十三話 『霧の中』
俺はシュテンに診療室に運ばれていつものベッドの上で横になっていた。もう見飽きてしまった天井はシミの位置も変わらないので数えるものがない。
これでは暇を潰せない。身体は動かせないのに、意識だけがはっきりとしているのも困ったものだ。そう考えていると、どこか懐かしくて甘い金木犀のような香りがした。
「大丈夫ですか、ジン君?」
「……はい、あと少し休めば動けそうです」
アリアさんが困ったような表情で、ベッドに横たわる俺の顔を静かに覗き込んできた。本当にいつもこんなことになってすいません。忙しいアリアさんに迷惑を掛けようとしているわけではないんですが……
俺はようやく口が動かせるくらいには回復していた。手足には、長時間正座したときのような痺れが残っていて、まだ思うように動かせない。それでも、さっきまでと比べれば、だいぶマシになってきたと言える。というか、さっきまでが酷すぎた。
「あまり無茶はしてはいけませんよ。お金のために体を壊すなんて本末転倒です」
「はい、本当に反省してます」
「ならいいですけど。……でも、ちょうどよかったかもしれませんね」
優しげな声で、聞き捨てならないことを言われた。思わず聞き間違いかと思って、ギョッとした顔でアリアさんを見つめたが、一向にこちらに視線を向けてくれない。……どうやら聞き間違いではなかったみたいだが、それはそれで問題発言じゃないのか。
え、ちょうどよかったって、なんで?
俺の身体は動かせない。指一本すらまともに動かせない。文字通り、木偶の坊だ。本当に何もできないはずなのに一体、何がちょうど良いっていうんだ?
そんなことを考えているとコンコンと優しいノックの音が聞こえ。続いて、ガチャと鈍い音が響いた。誰かの手によって診療室の扉が静かに開けられたみたいだ。
「……アリアさん。私に何か御用ですか?」
「あ、レイン。もう来てくれたんですか? 他に用事があるならそっちから片付けてきても良かったのですが……」
「全然構いませんよ。あの子たちに、ご飯をあげてただけですから……それで、なんでお兄さんがここに? 甲板で魔法を使って小遣い稼ぎをしているって聞きましたけど?」
「いやー、面目ない」
魔法を使いすぎて倒れたなんて聞いたらレインちゃんはなんて思うのだろう。情けないと笑ってくれるだろうか、それともドン引きされるのだろうか? いや、どっちも嫌だな。できることなら倒れた理由を話したくない。
というか、なんでレインちゃんがここに呼ばれたんだ?
レインちゃんは、朝と昼の決まった時間に、必ず動物たちに餌をあげている。鶏だの鳩だの、俺の嫌いな鳥類ばかりがこの船に乗船していて、見た目や動きがキモすぎて、俺はお世話係を一日で辞めてしまった。あのときは、心の底から本当にレインちゃんがスゴイと尊敬した。俺には無理だ。不可能だった。
そして今、いつも通りなら動物たちに餌をあげる時間のはずだ。
なのに、なんで診療室なんかに来ているんだ? 診療室には基本、人がいない。医療室の方が設備も整っているからだ。ここには船酔いをした新入りくらいしか利用していない。俺以外に利用しているのを見たことがない。
「アリアさん。なんで、レインちゃんがここに?」
「レインを呼んだのはジン君のためですよ。リーネからジン君がグリフォンの巣に行く途中で”ユキ”に襲われたと聞きました。それは間違いないですね?」
「「……はい」」
「私はジン君にもレインにも危険な目にあって欲しくないんです。だから、そのようなことが二度と起こらないように対策が必要だと思いませんか?」
「「……はい」」
「ではレイン。早速ですが、ユキに変わってもらえませんか? ユキにジン君の匂いを覚えさせておきましょう。心配はいりません、いざとなったら私が身を挺してでも、ユキを止めて見せますから。ユキにはジン君を傷つけさせません」
「…………はい、そうですね。お兄さんの安全のためにいつかはしないといけないことですもんね」
そういうとレインちゃんは何かを決意するように、固く目を閉じた。
ギュッと目を閉じたレインちゃんは、ゆっくりと深く呼吸を整えるとシュルルと心地良い音を立ててリボンのような髪留めをほどいた。サラサラと彼女の綺麗な黒髪が肩に落ちる。
その途端、だんだんとレインちゃんの顔色が悪くなってきた。血色が悪くなり、死人みたいに……いや、死人よりも青白い顔になっていった。その爪は獣のように鋭くなり、開いた眼は黒目と白目の境界が曖昧で、まるで焦点は合っていなかった。
そこには初めて会った時と同じようなレインちゃんの――いや、”ユキ”の姿があった。
「ヴウウッ!」
唸り声を上げたユキは犬のように鼻を鳴らし、警戒しているのか後ろに飛んで俺と思いっ切り距離を開ける。喉の奥から血でも吐くような呻き声を上げて、俺を睨み付けるように低い姿勢を保つ。四足で地面を這うように低く構え、いつでも襲うことができると見せつけるみたいに威嚇してくる。
「……ユキ。この人はあなたのことを傷つけません。だから、大丈夫ですよ?」
アリアさんは静かに近寄り、優しくユキのことを抱きしめた。慈愛に満ちたその姿にユキの警戒が解けていくのが分かる。しばらくユキは身体は硬直させていたが、ゆっくりと強張った筋肉が弛緩していくように頭を上げる。地面を這うような態勢から、二本足で立ちあがった。
そして、アリアさんはユキの警戒が完璧に緩んだタイミングで手を引くようにベッドに寝ている俺に近づけてきた。
「ユキ。この人はジン君と言って、私たちの新しい仲間です。あなたとも友達になりたいそうですよ。ね、ジン君?」
「え、ああ、はい。よろしくね、”ユキ”?」
「ヴ?」
いきなり変わったレインちゃんにどう対応すればいいのか分からずに取り敢えずアリアさんの真似をしてユキの名前を呼んでみた。するとユキはキョトンと頭を傾げるとベッドに横たわっている俺の上に飛び乗ってきた。
「えっちょ、なんだ!? いきなり、どうしたんだ?」
「ジン君、そのまま大人しくしてください」
「で、でも――」
ユキはそのまま頭を擦り付けてクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。
可愛いらしい女の子に馬乗りにされて匂いを嗅がれるという特殊な状況に落ち着いたままでいられるわけがない。そこまで俺は大人じゃない。
俺がユキを何とか身体の上からどけようとするが身体に力が入らない。
「落ち着いて下さい。大丈夫ですよ。ただ、ジン君の匂いを覚えているだけですから」
「いや、そんな犬じゃあるまいし。というか本当に必要なんですか!? これって!」
こんな会話をしている間にもユキは止まってくれない。
腹のあたりから胸まで舐めるように移動してくる。ユキのひんやりとした肌が手に当たるたびに俺の意思とは関係なくドキっとしてしまう。
「はい、必要なことです。それとユキの爪には毒がありますのであまり動くと危ないですよ」
「それは先に言って下さい!」
なんだ。なんなんだ。この状況は!
アリアさんに見られながらレインちゃんに、ユキに匂いを嗅がれている。顔がとても近い。ユキは首のあたりから耳や髪へと鼻を擦り付けるように移動してくる。
というか背徳感がすごい。
いつも必要以上に近づいてこない、異性とは適切な距離感を保っているレインちゃんにこんなことをされていると考えるだけで頭が沸騰しそうだ。
「ユキが満足するまでジン君は絶対に動かないでくださいね?」
「……それってどれぐらいですか?」
「五分ぐらいですかね。……十分ぐらいかも」
「どっちですか!?」
俺は腹筋が攣りそうになりながらもユキを受け入れるために天井を見つめて平常心を取り戻す。飽きるほど見た天井のシミを再び数え始める。天井のシミという存在にこれほど感謝したのは生まれてからこれが初めてだった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
レインちゃんとユキは意識の繋がりや記憶を共有しているわけではないようで、すべてが終わった後にレインちゃんから「大丈夫でしたか? 怪我はありませんか?」と聞かれたときには俺は悟りを開いたかのように落ち着いていた。
自分で自分のことを初めて褒めてあげたいと思った。
俺の返答をレインちゃんは心配に感じたのか腰に付けた袋を「もち米です」と渡されたときには困ったが、どうやらキョンシーの毒は蒸す前の生のもち米かゆで卵を傷口にあてると緩和するらしい。どういう理屈だよ。
「よく頑張りましたね、ジン君」
「……滅茶苦茶頑張りましたよ」
痺れていた手足がやっと感覚を取り戻したのはユキに匂いを嗅がれている最中だった。両腕が自由に動くようになったのでユキを身体から降ろそうと手を伸ばしたらアリアさんと目が合った。睨んでいるわけではないのに怖いと感じるのはアリアさんぐらいだ。
アリアさんの視線を受けて、俺はユキからの行為を自力で我慢しないといけなくなった。これならまだ動けない方がよかったなぁ……
そんなことを考えながら合計二十分ぐらい耐えていた。二十分だ。アリアさんの予想から十分も過ぎている。よく頑張った。
というか俺って臭くなかったかなと今更だが心配してしまった。自分の体臭は分かりずらいと言うが、俺はまだ若いし大丈夫だろ。強いて言えば汗臭いぐらいだ。
そうやって自分を励ましながら俺はアリアさんと甲板に戻っていく。
「ほら、ジン君。もうすぐレナトゥス大陸が見えてくるころですよ。気を取り直して楽しみましょう!」
「それは楽しみっすけど」
アリアさんもリーネと同じで必要なことを最後の方に言うタイプなのか。
いや、この二人は傍から見ていると姉妹のように仲が良い。もしかしたらリーネがアリアさんの影響を受けているのかもしてない。
まあ、どっちにしても俺からしたらやめて欲しいのだが……
アリアさんの言う通りいつまでも過ぎたことを気にしていてもしかたない。これがレナトゥス大陸への二回目の上陸だ。せっかくなら楽しまないと損だ。
そう気を取り直して甲板に出る扉を開けると目の前にはレナトゥス大陸が――見えなかった。いや、大陸だけじゃない。霧が濃くて何も見えない。
辛うじて見えた人影は大き目の海賊帽子を被っていたのでリーネだと分かった。
「なあ、リーネ。この霧はなんだ?」
「うん? ジンじゃない。もう体調は大丈夫なの?」
燃えるように赤い瞳は霧の中でもかなり目立つ。
「それはもう大丈夫だよ。いや、それよりもこの霧って……」
「ああ、この霧はヘルガの魔法よ」
濃霧の中で俺とリーネとアリアさんの三人がお互いの表情が分かるぐらいの距離で話をする。ヘルガって確か報告会で聞いたことがあるな、なんだっけ?
「私たちをエルフの里まで案内してくれるエルフの少女のことですよ」
思考を先読みしたようにアリアさんが補足してくれる。
俺ってそんなに考えていることが表情に出ているのだろうか?
「なあ、リーネ。霧の中でも船を泊めれるのかよ」
「心配いらないわ! ほら、港を見て光っているでしょう?」
リーネが指をさした方向に目を凝らしてみると船着き場があった。
その船着き場は霧の中でもはっきりと停留できる場所がわかるように橙色の温かな光を放っている。空港の滑走路のようだ。
「というかこの霧が魔法って、ヘルガさんってエルフの仕業なのかよ? 俺たちが来るのが分かっているのはずなのにこんな霧を出すなんて、危ないだけだろ? なんでこんな嫌がらせみたいなことをするんだ」
「……仕方ありませんよ。彼女は人間が嫌いなうえ目立ちたがり屋なんですから」
なんだその面倒くさい性格は……
エルフが人間嫌いとかはゲームなどの設定でよく見かけるが、人間嫌いが目立ちたがり屋なんて聞いたことがない。どこか矛盾しているようにも感じる。
また厄介そうな性格の人が現れた。いやこの場合は人ではなくてエルフというのが正しいのか?
そんなくだらないことを考えていると俺の目の前を不規則な動きをする光の塊が横切った。あきらかに船着き場を囲うように照らしている光とは違う。そんな優しい光じゃなくてもっと懐中電灯を直接目に当てられたぐらいの眩しさがあった。
その光の塊は俺の周りをフラフラと不規則に動くと船着き場の奥にある巨大な森へと帰っていった。その光の塊の正体を特定するために森の方へ頭を向ける。するとそこには一人の少女がいた。
大自然を思わせる翡翠色の瞳に太陽の光を反射して虹色に光っているようにも見える金緑色の髪の毛は芸術品のように美しい。妖精のような可愛らしい顔立ちにちょっぴりと尖がっている耳が彼女の種族としての矜持を示しているようだ。
そんな少女が狩人のような服に身を包み。木の上で弓を曲げている。
「遅いわよ。ニンゲン!」
いくら強気なセリフでも鈴を転がすような声で言われると拍子抜けだ。
だが俺は彼女の声に反応できなかった。いや、正直に言うと反応できなかったわけじゃない。そんなことを気にしている余裕がなかっただけなのだ。
――エルフだ、エルフがいる。
俺はその事実で頭がいっぱいだった。
俺にとって、エルフとはゲームや映画にでてくる想像上の種族だった。森の中で暮らし、とても美しく若々しい外見を持っている。魔法の力を持っている種族というイメージがあった。そして、同時に現世では絶対に出会うことがない架空の種族でもあった。
だが、目の前には木の上に立って俺たちを見下しているヘルガと呼ばれているエルフの少女がいる。そんな御伽噺や神話の世界に紛れ込んでしまったかのような光景に俺の胸が独りでに高鳴っていくのを感じた。
――これが俺とヘルガの初めての出会いだった。




