航海日誌 『ドキドキ勉強会!』
もう何度も足を運んでいるはずの診療室で俺の心臓は破裂しそうなほどドキドキと脈打っていた。これは風邪でもなんでもない。不整脈でもない。
これから診療室で勉強会が行われる。教師をしてくれるのはアリアさんだ。アリアさんと二人っきりで過ごすのだ。
いくら俺のことをアリアさんが異性と思っていなくとも、俺はこれでも少し前まではただの健全な高校生だったんだ。いきなりアリアさんと密室で二人っきりになるというシュチュエーションに何も思わないほど男を捨てきれていない。まあ、肝も据わっていないのだが……
というかヒビキも、シュテンもアリアさんたちを、その、異性として意識したりしないんだろうか?
ヒビキはともかく、シュテンは遊郭にもたまに一人で行ってるほどの女好きだと聞いた。そんな男がアリアさんたちを前に理性を保てているのが不思議だ。葦原が言ってた『いくら美人な姉でも家族には性欲がわかない』というのと同じ理屈だろうか? 俺も彼女たちとこの船で家族のように過ごしているうちに二人のようになれるのだろうか?
未来のことなど俺には考えるだけ無駄だ。だけど、問題はいまだ! 現在進行形なんだよ!!
いつもは静かで規則的に脈を打っている俺の心臓が耳元に置いてあるかのように煩い。まだまだ鼓動は落ち着きそうにない。
「ふー」
俺は取り敢えず深呼吸をした。落ち着きを取り戻すための原始的な方法だが意外と馬鹿にならないものだ。高校の入試の時にも緊張を軽減するために一躍買ってくれたのだ。しばらくすればいつもの俺に戻れるだ――
「ジン君、入りますよ?」
「――フッ、ゴッ、ホ」
コンコンと優しいノックが木製の扉から聞こえてきた。
いきなりのことで咽てしまったが、アリアさんが部屋に来たみたいだ。
「ッ、ドウゾ」
最悪だ。声が上ずってすまった。
さっきの失態を誤魔化して、少しでも格好つけようと思っていたのに……
「フフ、大丈夫ですか?」
「…すいません」
「こちらこそ、待たせてしまってごめんなさい。では早速ですが授業を始めましょうか?」
「え、もうですか? まだ時間は……」
「ジン君、明日も早いんですからしっかりと寝て、休んだ方がいいですよ。身体を休めるのも、この勉強会もジン君の仕事の内なんですから」
「……それって裏を返せば勉強会からは逃げられないってことですよね?」
「はい! なので一緒に頑張りましょう! 文字を読めるってすごく幸福なことなんですよ」
この勉強会はイナミ村で俺が英語ができないかもというリーネの発言によって設けられたのだが、どうやら拒否権もないらしい。だから――
「そうですね。幸い、勉強は得意なんで……さっさと終わらせましょうか! それで、何から始めたらいいんですか? アルファベットの書き取りからですか?」
「私はそれでもいいですよ?」
「……さすがに遠慮しときます」
「そうでしょう? それに今回は黄泉の国にやってきたばかりのジン君にこっちでの常識を教えようとかと思いまして……」
そう言うとアリアさんはドッサと重たい音を立てて、机の上に何かを置いた。
「これは?」
「教材です。地図に貨幣などなど。初回の授業は生活に必要な知識を学んでいきましょう!」
「なんだか、テンションが高いっすね」
いつもよりも生き生きとしているアリアさんを見ている分には可愛いと素直に感じることができるけれど、絶対に裏で働いているアリアさんは今日も疲れているはずなのにここまで頑張ってくれることに疑問を抱いてしまった。
俺よりも疲れているのだから、こんなことはさっさと終わらせて寝たいはずだ。なのにどうして俺なんかのために頑張ってくれるのだろうか?
「ごめんなさい。えっと、ですね。前は私の友人の船にいる問題児、ジェーンという子を教えてたんですけど何度も逃げられてしまってですね。今回ジン君に教えるのは挽回のチャンスだって独りで張り切りすぎちゃいましたね」
「そんな気にしなくても…」
「そうかもしれませんね。ですが、子供に頼られると嬉しくてですね。なんというか、その、妹の面倒を見ているみたいで楽しいのですよ。私の実の妹は産声を上げることなく亡くなってしまったと母から聞きました。それ以来、ずっと妹が欲しかったんです……」
照れくささを誤魔化すためにアリアさんははにかむような笑顔を浮かべた。その笑みが俺の心を打ちぬいてしまった。
姉だったのか。妹さんはどんな人なんだろう。アリアさんっていつも誰かのために動いているなー。やっぱり天使なんじゃないのか?
一瞬にして頭を支配した場違いな妄言をすべて頭から追い出して――
「……アリアさんの後悔を払拭するためなら、頑張ります。俺も頑張ってみせます。まずは何からすればいいですか?」
「…はい、では貨幣の説明からしていきましょうか」
ゴホンと可愛らしい咳払いをして気を取り直したのか、アリアさんは真剣な表情を浮かべてこう言った。
「今から授業を始めますよ? 覚悟はいいですか?」
「じゃあ、先生。よろしくお願いします!」
「フフ、よろしくされてしまいましたね。これは私も最善を尽くさなければいけません」
そして、アリアさんは地図の上にまず三枚のコインを置いた。
「これが金貨、こっちが銀貨、これが銅貨です。そして、ここからはレインに教えたときに最も戸惑っていたところのですが、こっちでのお金の単位も円と銭なんです。ややこしいでしょう?」
「……え、あ、確かに。どういうことですか?」
円や銭がこっちの通貨単位なのか? ややこしいな。金貨や銀貨に、慣れ親しんだ円って単位を用いられたら絶対に混乱する。今も頭が無茶苦茶になりそうだ。
「まぁ、そうですよね。こっちは禊木町に帰ってからにしましょうか。なら、どうしましょうかね……」
アリアさんはうーんと首を捻りながら何を教えようか迷っている。まあ、正直に言って俺にはどうしようもできない。俺の役割は教師ではなく、教え子だ。というか何も知らないんだから何もできない。
大人しくアリアさんにすべて任せるしかないと思い机の上に置いてある地図を眺めていると急に金木犀の懐かしくて甘い香りに包まれた。
「アリアさん!?」
「どうかしましたか?」
「え、い、え、何で急に背中に……」
「はい? こっちの方が地図が見やすいでしょう? まずここを見てください。これは私たちが住んでいる黄泉の国です。地図でみると意外と大きいので――」
アリアさんが後ろから抱き着くような態勢で地図を指さしてくる。金糸のように美しい髪が俺の首筋をサラサラと撫でてくる。かなりくすぐったい。何を言っているのか聞き取れない。集中できない。
「ジン君、きちんと聞いていますか?」
「ハイ!」
「……では、続きを話しますよ? こっちの黄泉の国よりも大きいのはレナトゥス大陸と呼ばれている大陸です。私はもともとレナトゥス大陸のとある町の教会で祈りを捧げていたのですが、ここ、ここです。私はこの町で海賊たちと出会ったのですが―――」
ヤバい。ヤバい。ヤバい……
アリアさんの耳元で囁くような声が俺の心を削っていく。匂いが、髪が、身体に触れる瞬間が、背中に体温が伝わってくる感触が表現できないほどヤバい、ゴリゴリと削れていく。どうしよう、何も頭に入ってこない。
俺は暴風のように激しいアリアさんの無意識な誘惑に耐えながら、初回の授業を乗り切った。乗り切っただけだ。アリアさんとの第一回目の勉強会は俺のせいで無駄に終わってしまった。




