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第十四話 『蜘蛛の糸』


 右手から縄が出た。


 言葉にすればなんとも間抜けなものだ。 


 いや、言葉にしなくとも見るだけで間抜けだとバレてしまう。そのぐらい滑稽な姿だった。この魔法はきっと誰からも羨ましがられることはないだろう。


 俺がこれを、この縄を魔法だと判断したのは現世だと有り得ない現象だったからというなんとも論理的でつまらない理由からだった。それだけだった。


 こんな魔法でどうすればいいんだよ。


 さっさと諦めてしまえよと頭の中にいる誰かが囁いてくる。


 俺の魔法にはリーネみたいな可憐さはない。ヒビキのような優雅さもない。ただ泥臭い。俺の生き方がそのまま体現したかのような魔法だった。


 だが、俺の身体は直感的に魔法の用途を理解していた。その魔法の用途を身体が理解すると同時に本能が告げる。熱く告げる。


 ――ここが分水嶺だ。生と死を分かつ境界線なのだと。


 シュルシュルと音を立てて、右の掌から出てきた粗い縄は俺の身体が地上へ落下するよりも速くグリフォンの太い首に絡まった。


 グリフォンの太い首にしっかりと絡まったズタボロの縄を俺は腕力だけで無理やり手繰り寄せる。右手はグリフォンに掴まれたときにできた切傷のせいでほとんど動かせない。なので左手の力だけで自重を支え、縄を手繰り寄せていく。


「死に……た…くな…い!」


 俺は死ぬ気でグリフォンの背中にしがみついた。


 背中を覆っている鎧のような羽毛は風を掴み取るために柔らかい構造のはずだが、羽軸の部分は針金のように硬い。乗馬するようにグリフォンに跨ると羽にズボンが引っ掛かって破れてしまう。針山の上を歩かされているかのようだ。


 痛い。痛い。だが、それでも耐える。


 グリフォンは首に絡まった縄を引き千切るように暴れる。背中に跨っている人間を不快に思ったのかグリフォンは俺を振り落とすように暴れ始めたのだ。大木のように太い首に自身の両腕を回て、魔法で生み出した縄を手綱の代わりにしっかりと握った。腕に何重にも粗い縄を巻き付けて、落とされないようにグリフォンの背中にしがみつく。しがみつく。しがみつく。


 前方からの風圧に耐えるために両目を瞑ったがジェットコースターのように上下左右に回転しながら空を飛んでいることは感覚的に理解できた。


 俺は太腿に羽が突き刺さるのも、右肩から噴き出してきた血も厭わずに縦横無尽に駆け回るグリフォンの背を不格好に跨っている。離さない。離せない。


 太腿、腹、両腕、左頬、と接触している四つの部位でグリフォンの高い、火傷しそうなほど高い体温を感じる。


 俺はグリフォンの次の動きを頭の中で予測しながら、それに合わせて自分の身体を操る。馬なんか乗った経験はない。イナミ村でもやっていない。それでもやらなければならない。そうでなければ落ちて死ぬ。


 俺にしては頑張ったよ。もう十分だろ。さっさと諦めてしまえば楽になれる。この握っている手綱を離せばこれ以上苦しい思いをしなくて済む。頭の中で再び誰かがそう囁いてくる。いや、これは俺だ。俺が囁いるのだ。


 諦め癖がついてしまった、必死に毎日を生きるようとも思っていなかった頃の”俺”がオレを否定してくる。とっくに自分に期待しなくなっていた過去の己が何をしているんだらしくないと囁いてくる。それでも……


「死にたく……ない!!」


 自分に言い聞かせるように言葉を発する。


 粗い縄を握り締めていた左手は肌が擦れて徐々に血が滲む。


 縄も俺の血を吸っているので赤く、赤く、血が滲んでいた。


 そうだ。そうだよ。そうだったんだよ。簡単なことだったんだ。


 鷲の両翼を大きく広げたグリフォンが空を駆ける。踏み締めるように空を走っている。風切り音が煩くて、他の音は何も聞こえない。


 耐えれる。耐えれる。まだ耐えれる。


 そう思った瞬間――グリフォンの前脚と獅子の下半身がさらに少しだけ、ほんの少しだけ膨張した気がした。


 グリフォンが本気で俺を殺そうとしている……


 背中に跨った不届き者を振り落とすために、天誅を下すために、グリフォンが全力を挙げて俺を殺そうとしてきている。


 そんな予兆を即座に察知した俺は思考という行為を続けることで、目の前の残酷な現実から逃げることにした。


 あの時の俺もただ死にたくなかったから三途の川から逃げたんだ。だからミレンのことを突っ撥ねて逃げたんだ。俺はずっとただ死にたくなかっただけなんだ。


 さっきよりも天高く昇っていく。天空から大地まで一直線に急降下するために昇っていく。背中に跨る俺を振り落とすために回転しながら雲よりも高く昇る。


 天高く昇る。


 天高く昇る


 天高く昇る。


 止まったと身体で感じた瞬間――グリフォンが急降下した。


 大地まで落ちていく。


 大地まで落ちていく。


 大地まで落ちていく。


 大地まで落ちていく。


 ただ俺は空中に振り落とされないために、血が滲んだ縄をもっと強く握り締めることしかできなかった。目を瞑って、口を閉じて、下を向いていた。急降下によって生じた風の勢いを殺すために。


 縄に滲んだ血が濃くなっていく。濃く滲んで、濃く滲んで、濃く滲んで、ただ振り落とされないように全身に力を込めて歯を食いしばる。歯を食いしばって、痺れ始めた左腕をさらに酷使する。


 ――本能だ。生存本能が恐怖を飲み込んでいた。


 大気が震える。圧力で身体が潰れてしまいそうだ。


 風を搦め取るように羽搏くグリフォンは背中に跨る不届き者を必死に振り落とそうと何度も何度も旋回し、降下する。


 そうだ俺は……夢がなくても、希望がなくても、未練がなくても、思い残したことがなに一つなかったとしてもただ生きていたい。



「死にたくないっ!!!!!」



 腹の底から声を上げた。


 俺が俺を奮い立たせるために叫んだ。上体を起こして叫んだ。生きたいと吼えていた。心臓から全身をめぐる血液が沸騰したかのように熱かった。


 グリフォンの強靭な四肢も、丈夫な翼も、凶悪な鍵爪も俺にはもう何も見えていない。態勢を安定するための鞍もない。ズタボロの手綱しか持たない俺には遠心力によって浮かぼうとする下半身を抑えるだけで精一杯だ。


 いや、むしろ他の脅威に神経を裂くことがないのが救いなのかもしれない。


 俺の頭の中で囁いてきた声も凄まじい速度が生み出した風切り音で何も聞こえない。耳が聞こえない。目を開けれない。風の寒さで身体の感覚が鈍くなる。風圧のせいで呼吸ができなくて息苦しい。溺れているかのようだ。


 そんな状態でも手綱だけは離していない。もしも空中に投げ出されてもこれを掴んでいればチャンスがあるからだ。生き残るチャンスが……


 振り落とされないように両腕に残ったすべての力を込めると音もなく縄が千切れた。身体が再び空中へと投げ出された。状況が上手く理解できなかった俺はゆっくりと目を開ける。いや、目を開けれてしまった。


 網膜を太陽の光に焼かれる。千切れた縄の端くれが視界に入った。千切れた縄と背中に感じる浮遊感が現実を突き付けてくる。グリフォンの背中から振り落とされた。そのことを頭で理解した瞬間



 ――ダメだ。死んだ。


 

 空中で溺れるように手足をばたつかせる。いや、もう本当に無理だ。頭が真っ白になっている。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。


 浮遊感から何もなかった俺の背中が地面に着くのを感じて……


「イ…ッ……タ……あ……」


 身体が地面に着いた。下手くそだったが着地はできた。


 物凄い、強烈な痛みが背中に走った。落ちた衝撃で肺の空気が押し出された。それよりも、なんでだ。なんで俺は無事なんだ? なんで死んでいないんだ?


 そんな疑問が頭に浮かんだ。


 だから俺は落下地点から目だけをゆっくりと動かして空を見上げた。すると……


 ――グリフォンが怒りを含んだ眼で天空から俺を見下していた。


「よくやった! よく足掻いたな、ジン!」


 真っ黒な腕が俺の視界を横切った。シュテンだ。


 俺の身体はシュテンに小脇に抱えられるように担がれたみたいだ。そして、そのままシュテンに運ばれる。荷物のように雑な扱いで運ばれている。


 だが、やはりと言うべきか怒りを含んだ眼で俺を見下していたグリフォンが襲ってきた。


 シュテンとグリフォンの鍵爪がどんどんと距離が縮まって、縮まって、背中を掴みかけたその刹那――甲高い金属音が辺りに響く。


 シュテンとグリフォンの間に素早く入ったドレークさんが鈍器のような剣で鍵爪を弾いていたのだ。


「……無事、か?」


「ああ、心配はいらねぇよ。ただちょっと血を流しすぎている。応急手当はしないとまずいかもな…」


「……そうか」


 ドレークさんは両刃の剣をグリフォンに対峙するように構える。


「……撤退だ。シュテン、早くしろ」


「言われねぇでも分かってるよ。てめえら、撤退だ! とっとと帰るぞ!!」


 シュテンは小脇に抱えていた俺を土嚢袋のように肩に担ぎなおして、ドレークさんに背中を任せて来た道を走って戻った。シュテンが走るたびに俺の視界が激しく揺れる。そんな中でもドレークさんの足元にイサヒトさんから貰った短刀が落ちてあるのが分かった。


「……それ、を…」


 声が出せない。桜の意匠が凝らしてある短刀が目の前にあるのに拾えない。


 もうピクリとも身体が動かない。


 せっかく貸してもらった短刀なのになんの役にも立てずに終わらせたくない。せめて持って帰りたい。だが、俺のそんな願いは叶わずに、ドレークさんとシュテンは俺を抱えて短刀を置いていってしまった。


 薄れていく意識の中でも銃声と鋭く響く金属音、それと少しの悲鳴が周囲から聞こえてきた。リーネたちは大丈夫だろうか、上手くこの場を切り抜けることができているだろうか。


 そんな不安を強く感じたがもう限界を迎えていた。重たい瞼が下がっていく。下がっていって、下がっていって、ついに視界が真っ暗になってしまった。


 暗闇の中には音だけではなく、周囲にいたはずの人々の気配すらも遠のいているみたいだ。俺の心に静寂と安寧がようやく訪れて安心してしまった。死という緊張感のせいで強張っていた身体から完全に力が抜けてしまったのか


 ――俺はそのまま意識を失った。


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