第十話 『魔法』
太陽がちょうど真上に来る頃にようやく馬車が走った。
まあ、走ったと言っても所詮は馬に木製の荷車を引かせているだけなのでかなり遅い。沖縄の石垣島で体験した水牛に押させる牛車とほぼ変わらないぐらいだ。
「馬車って案外ゆっくりなんだな…」
「馬車なんてこんなもんだろう、よく街中を走っているが乗ったことないか?」
「いや、ないけど」
「ならこれが初体験かよ……苦労するぞ、あんた」
目の前に座っている男は心配するように柔和な顔を歪ませた。
そんな穏やかな雰囲気の中数十台の荷車に人とモノを窮屈と感じるほどに積んで、二頭の馬で整備されていない土道をゆっくりとした速度で進んでいく。
とても今からグリフォンのもとへ行くなんて思えない。
ヒビキが話してくれた行商人もこんな雰囲気で町から街へ旅をしながら商売をしていたんだろうか。それなら少し羨ましい。俺も一回ぐらいやってみたかった。
ガタガタと揺れる荷車の上で隣を並走している人たちの雑談を効果音にゆっくりと空を見上げる。
社会人が歳を重ねるとともに都会の喧噪から離れて田舎で穏やかに余生を過ごしたいと考えるのはこんな長閑な気持ちを味わいたいからかもしれない。
そんな思考を現実に戻して、馬車の同行者へと視線を向ける――
「あのーところで、どちら様でしょう?」
「うん? ああ。ロバーツ船長のところで世話になってるカツキだ。月の香りって書いてカツキだ。なかなか洒落てる名前だろ? カツキでいいぜ。みんなそう呼んでるからな。……まあ、なんだ同じ馬車に乗り合わせた縁ってやつだ。しばらくの間だがよろしく頼むよ」
「これは丁寧にどうも平坂仁です。よろしく……カツキ」
最近は特に初対面の人間と話す機会が多くなれてきたころだが、ここまで気さくに話しかけられたのは初めてだ。直近で挨拶したのがドレークさんだったので会話が成り立つだけでも俺からしたら有難い。まあ、これは感覚が麻痺しているだけだろう……
お互いの顔がはっきりと見えるような位置に丸まって座っている。初対面の人とはできるだけ素早く要件をすませて長話は避けるように生きてきたのだが、不思議なことにカツキと一緒でも不快感や気まずさなどの悪感情は生じない。
きっと人との距離の詰め方が上手いのだろう。
敵対することを考えさせない優しげなたれ目に濃い眉毛が彼自身の柔らかな性質を助長している。とにかく馴染みやすい、ヒビキとは別のタイプのイケメンだ。
「よろしくな、ジン。ところでよ話は変わるんだがあんたも新入りか?」
「そうだけど…あんたもってことはカツキも新入りなのか!」
「いや、オレは二回目だ」
「なんでだよ!」
くっそ、ツッコんでしまった。なんか悔しい。
「ハハ、オレはうちの新入りたちの付き添いだよ。それにドレークさんと話してみたかったしな」
「ドレークさんと……それは緊張するな」
「やっぱり緊張するよな!!」
カツキが激しく頷くと吊り下げていた首飾りが左右に揺れた。
ドレークさんと二人っきりになったら何を話せばいいんだろう……また、あの目で見られると想像すると身体が震えそうだ。いや、でもなんか俺とカツキとの間に結構な温度差がある気がするが気のせいだろうか?
「それよりも付き添いってどんなことしてるんだ? というかサボって俺なんかと話してていいのかよ」
「ああ、同じぐらいの年のやつを見つけてつい声を掛けちまっただけだよ。……実は付き添いってもうあんまりやることがねぇんだよ。ここまで送り届けただけで八割がた終わってるんだ」
「そうかよ……ならいいけど」
同い年ぐらいだったのか、年上だと思っていた。
「ちなみにだけど後の二割の役割って何なんだ?」
「役割ってほどのことじゃないけど、まずオレ自身のことだしな。……ただみんなで怪我せずに帰るそれだけだ」
「怪我って、死人は出てないってリーネたちが……」
「死人は出てなくても、怪我人はよくでてるよ。グリフォンの巣に行くんだから当たり前って言えば当たり前なんだけどな。まあ、よく言うだろ? 虎穴に入らずんば虎子を得ずってやつだ。リスクを冒さなければリターンは得られないぞ」
怪我人がよく出るのか。俺もやっぱり怪我、いや最悪死ぬんじゃ……
というかリーネもそんな叙述トリックみてぇなことしてくるんじゃねえよ。やっぱり俺もアリアさんと船に残るべきだったかもしれない。
「そんな辛気臭い顔すんなよ、怖がらせちまったみたいで悪かったな。ほら、よく言うだろ傷は男の勲章だって。それに死人がでてないんだから大丈夫だよ。心配すんな、ジン」
心配すんなといってもできれば痛い思いなんてしたくない。
「……なあ、思いついたんだけどよ。グリフォンと会話ってできないのかな?」
これは俺が恐怖で頭がおかしくなったわけではない。グリフォンといえばゲームや漫画、小説などでも人間と対話している場面が多くあった気がする。少なくとも葦原が勧めてきたラノベの多くにそんな描写があったはずだ。
俺の話を聞いたカツキは真面目な顔で考える仕草をしたが、それは一瞬だった。さっきまでの真面目な顔はどこに行ったのか、カツキは眉を下げてくすりと笑い出した。
「グリフォンと話すってドワーフの御伽噺かよ? いや、確かにグリフォンは賢いって聞くぜ。黄金や宝石を価値のあるものって認識しているし、滅多なことがない限りドワーフは襲わないしな。でもな、どこまでいっても所詮は獣だ。グリフォンと会話するなんて、それこそ神でもないとできないだろうよ」
やっぱり無理だよな……まあ、本当に期待したわけじゃないけど。
そりゃあそうだよな。それが出来るならとっくの昔に誰かがやってるはずだ。
そんな風に頭の中で結論を出して、視線をカツキの方へ戻すと彼がゴソゴソと自分の鞄を漁っていたのに気付いた。
「何やってんだよ。カツキ?」
「怖がらせちまったせめてもの償いとして面白いモノを見せてやる、オレの宝物だ」
そういうとカツキは鞄から一冊の本を取り出した。
その本の装丁は豪華とは言えないが、丈夫な作りだ。数々の旅でついたと思われる薄い傷からはカツキがこの本と過ごした年季を感じる。
「これがお守りなのか?」
「いや、これもそうだが、ジンに見せたかったのはこっちだ。これをお守りとしていつも肌身離さず持ってるんだよ」
そう言うとカツキは俺に見えるように本を開いた。
しかし、何かが本の間に挟まっているようだった。
その物体をカツキが二本指で摘まむように持ち上げた。
眼前に持ち上げられたそれは風に靡くほどふわふわとしているはずなのに芯は針金のようにしっかりとしている。
直接触れてはいないが軽そうなのに頑丈そうだと相反する感想を抱いてしまった。俺はその物体の用途自体は知っている。
それはどんな鳥でも持っている風を掴み大空へ飛ぶための器官だ。何も特別な形はしていない。それは――
「グリフォンの羽だ」
カツキが本の栞みたいに挟んでいたのは羽だ。グリフォンの羽だった。
確かに言われてみれば鷹の羽に似ている。
羽軸は透明感のある綺麗な白色で、鉄の芯が入っているかのようで押してもしっかりと跳ね返ってくる。また、羽弁には独特な模様があるが指の腹で触れてみると繊細で滑らかなで驚くほど艶やかだった。
まあ端的に言えば鷹の羽よりもはるかに高級そうなものだった。
「まあ、これは貰ったものだけどな。だいたいグリフォンの羽自体にはあんまり使い道がないんだよ。矢に使うのはいいが、あれは羽よりも矢じりに用いるグリフォンの爪がほとんどの価値だしな。ただプレゼントとしてはかなり人気なんだよ」
カツキは何かを懐かしむようにグリフォンの羽を優しく撫でる。そのどこか育ちが良さそうな仕草が妙に様になっている。まあ、考えてみれば羽なんてペンか、矢羽根、布団ぐらいしか使い道を知らない。
そんなことを考えていると馬車の外側から真っ黒な腕が伸びてきて、カツキの羽をそっと奪った。
「なんだ、面白いものをもってんじゃねぇか」
「うわ、もうビックリした!」
「シュテンさん久しぶりですね、もう交代の時間なんですか」
「ああ、そろそろだからな。それよりもグリフォンの羽なんて何処で手に入れたんだよ? 売れば三日はいいもの食えんぞ」
「これは社長と、姐さんがオレに記念だと言ってくれたんです」
「ヘンリーところのメイドか? そんなものよりも美味いものを奢ってくれた方がお前も嬉しんじゃねぇか?」
「まあ、『美食家』と呼ばれているあんたにはその方が嬉しいのかもしれないけど……俺にはこっちの方が何倍も嬉しかったですよ」
突然シュテンが交代の時間を知らせるために俺たちの間に乱入してきた。
カツキの和らげな雰囲気から人との付き合いが上手そうだとは感じていたが、やはり顔が広いみたいだ。まあそれよりも……
「なあシュテン、『美食家』って何だよ。ヒビキの『音鳴り』みたいなものか?」
「あーうっせぇよ、ジン。そんなことはいいからさっさと馬車を変われ、交代の時間は平等だろうが」
「どうしたんです? 仲間なんだからそれぐらい教えてあげたらいいのに」
「カツキもうるせぇぞ、お前もさっさと馬車から降りろ!」
不機嫌そうにシュテンは眉を顰めて、俺らの襟首を掴み力尽くで馬車から引きずり落そうとしてくる。二人で顔を見合わせるとすぐに抵抗のすべがないと諦めて、シュテンに馬車から外へ投げ出された。
……まあ、こんな風に順調に時間が過ぎていった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ドワーフの参道に着いたぞ! 今日はここで陣を取る」
日が傾き、夕焼けが森を赤く染め上げたころ。
ドレークさんの副官みたいな人が遠くから声を張り上げてそう言った。
「――ッ、腰痛てぇ」
ぐっと背伸びをするとポキポキと音が鳴る。
カツキの言ってた『苦労するぞ』の意味がようやく分かった。
荷車に人が座ることなんて考えられていないのか車輪に石が巻き込まれて揺れるとその反動で腰に衝撃が来る。それに積み荷のように丸まって座っていたせいか全身がもうバキバキだ。
同じような姿勢だったはずのカツキは「じゃあまたな」と言いそそくさとキャンプの設営を開始していた。俺と違い馬車の旅に慣れているのかもしれないが、それにしても余裕が過ぎる。腰が鉄でできてるんじゃないのか?
まあ、でもこれはカツキだけの話ではない。
リーネは近くの草を踏み倒しながら落ちている枝をかき集めているし、レインちゃんは慣れた手つきで細い枝から中ぐらいの太さの枝を縛り上げている。
シュテンは木の下にテントを建てるためか杭を素手で地面に打ち付けているし、ヒビキにいたっては俺の胴体ぐらいの丸太を腰にある刀を抜いて、一刀両断に切り捨てた。……丸太って刀で切れるんだな。
辺りを見渡して俺と同じく腰を押さえているのは新入りだけだろう。
ドレークさんから聞いていたドワーフの参道は大層な名前のわりに殺風景なものだった。見える範囲に建物などはない、陰鬱とした樹々と小さな水辺があるだけの広場といった方がいいかもしれない。
だがさっきまでの狭い土道ではなく滑らかな砂利道に変わっただけでも馬車に乗っていた身からしたら嬉しいものだ。これで馬車の揺れが最小限に抑えられる。
「ジンもう腰は大丈夫か? 大丈夫ならそろそろ手伝え、思ったよりも日没までの時間が少なねぇ」
「ああ、もう大丈夫だ。取りあえず何をすればいい?」
「なら、焚火の準備をしておいてくれ」
本当は全然大丈夫じゃない。
我慢できないほどの痛みはないが、いますぐ横になりたい。
だがここで働かないで晩飯だけねだるのは筋が通らない。
俺はここにいる人たちに比べて何にもできないかもしれないが、それは何もしないでいい理由にならない。
なので俺はイナミ村でシュテンから教わったように焚火を作る。
レインちゃんが持って来てくれた細い枝から中ぐらいの太さの枝を段階を踏んで徐々に組み立てていく、そして最後に木の下にあった落ち葉を搔き集めて燃え広がりやすいようにしたら完成だ。
「シュテン、マッチか何か持ってないか」
「ああ、ちょっと待ってろ。すぐに行く」
シュテンは何処からか取り出したマッチ箱の側薬にマッチ棒を強く擦りつけたが、先端がボロボロと崩れ去ってしまった。たぶんマッチ自体が旅のせいでダメになっていたんだろう。
「ちっ、くっそが、火がつかねぇな。 リーネ頼んでいいか?」
「いいわよ、まかせて頂戴」
勢い良く返事をしたリーネは俺の組み立てた焚火の傍にしゃがみ込み、指を近づけていく。何をするんだと注意深くみていると――
リーネの指先から火花が散った。
その火花が焚火に密着すると同時に僅かな煙を上げて、燃え広がっていく。
「ヒビキ……今のは何だ?」
「ああ、妖術ですよ。いや魔法と呼ぶんでしたっけ? まあどちらでもいいですね」
まだ丸太を切っていたヒビキがあっけらかんとそんなことを言ってきた。
「魔法って、あの魔法か!? そんなもの本当にあるのか?」
「はい、ありますよ。それにボクが三途の川で溺れていたジン君を助けたときに魔法を使っていたんですが覚えていますか?」
そういえばヒビキは三途の川の水面に立ち、そのまま勢いよく飛んでいた。今思えばあれも魔法だったのか……
「ボクが君を鈍感と評価したのはそういう部分があるからですよ。そこは直した方がいい。鈍感、いや客観的ともいえる君ですが自分の理解できない事象に直面したら思考を放棄する癖があります。そこを直せなければきっといつか痛い目を見ることになるでしょう」
「そうか? まあ肝に銘じておくよ」
気が済んだのかヒビキは丸太を切っていた刀を鞘に納めて、焚火を囲むように腰を下ろした。ところで一晩では使いきれないほど積まれた木材はどう処理するつもりなんだろう。
「……なあ、魔法って俺にも使えるのかな」
現状役立たずな俺もリーネのように火を操る魔法でも使えれば少しでも価値ができるはずだ。そんなすがるような思いでヒビキの方に顔を向ける。
「可能性はあるんじゃないですか」
「本当か!」
「でも魔法が発現すること自体が稀なんですよね。条件もわかりませんし。ボクとリーネ、あとは少し特殊ですがレインの三人しかこの中で魔法を使える人間はいません。シュテンは鬼なのでそもそも魔法は使えませんし」
ヒビキは諭すような口調でさらに続ける。
「それに魔法が発現しても特別なものとは思ってはいけませんよ。この刀と同じようにそういう道具として割り切ってしまったほうがいいです。そんな博打に頼るよりもじっくりと自分を磨いてできることを増やす方がジン君には合っていると思いますよ」
「そうか、そうだよな」
一度深呼吸をして気持ちを整える。焚火には人の精神を落ち着かせる効果があると聞いたことがあるがどうやら本当みたいだ。いつもより早く気持ちの切り替えができた。
余計なことを考えずにただ目の前の炎に身を任せることで自分の五感が覚醒していくのが分かる。しかし、五感が敏感になっていくと今度はぴちゃぴちゃという水音が神経に触れた。
視線だけを水音のする方へ向けると水辺には一列に並んで水を飲んでいる馬がいた。白、黒、焦げ茶と自然の草木よりも色とりどりだ。
「なあ、ヒビキ。ずっと思ってたんだが荷車に対して馬の数が多すぎないか?」
馬車を引くのには最低でも二頭の馬がいれば十分のはずだ。だがここにいる馬は数十頭を優に超える。予備だと言われればそれまでだが、それにしても少し過剰すぎる気がしないでもない。
「はい、ここにいる多くは囮として利用します」
「こいつらを囮にするのか? 確かグリフォンって俺たちを襲うんだろ?」
「いえ、そんなことはないですよ。これはボクが初めてグリフォンと対峙した時に気付いたんですが、群れの中でボクたちを無視して馬を襲う個体がいたんですよ。そこで分かったんです。グリフォンにもボクたちと同じくプライドがあることが。ボクも昔は武器を持っている人がいると見境なく決闘を申し込んでいたので気持ちは分かります」
さらっとヤバいことを言ってたが取りあえず無視しよう。
「なら、馬たちを隠したほうがいいんじゃないか? ドワーフの参道にはグリフォンが寄り付かないとしても絶対ではないんだろう?」
「そうですね。空から見えないように簡易的ですが馬小屋を建てたほうがいいかもしれません」
「そうか……俺も手が空いているから、ちょっと手伝ってくるよ」
パチパチと火の粉の爆ぜる音に背を向けて、小さな水辺のある方へ向かって歩く。すると濃色のチャイナドレスを着たレインちゃんがいた。珍しく萌え袖の中から可愛らしい両手が見えている。
「お疲れ、俺が変わるよ」
レインちゃんは水辺のある方向からゆっくりと歩いていたので馬の世話をしてくれていたんだと判断して労うような声をかけた。だがそれを無視して、突然レインちゃんは俺の胸に犬のように頭を擦りつけてきた。
「えェ、ちょっとどうしたの、レインちゃん!?」
柄にもなく動揺してしまったが、すぐに我に返った。そういえばレインちゃんも今回が初参加と言っていた。動物が好きな彼女のことだ、ヒビキが口にした馬を囮にするという作戦にショックを受けてしまったのかもしれない。そこまで考えると彼女の震えている肩に手を添えて――違和感に気付いた。
「レインちゃん?」
彼女の体温が驚くほどに冷たかったのだ。
それに彼女は何度も名前を呼んでいるのにピクリとも反応しない。
何かあったのではないか、そう思った俺は恐る恐るレインちゃんの顔を覗き見ると……するとレインちゃんは焦点の定まらない虚ろな眼差しをしていた。そして死人みたいに、いや死人よりも青白い顔をしている。
この顔色の悪さを俺はよく覚えている。初めてアリアさんと一緒にレインちゃんと会った時と同じだ。何度も、何度も頭を壁に打ち付けるという自傷行為を繰り返していたあの時だ。だけど、それを思い出したとしても俺はどう今の彼女と接していいのかわからない。どう対応すればいいのかわからない。
彼女は俺の胸板に頭を激しく擦り付けいる。まるで飼い犬が主人の臭いを嗅いで覚えようとしているかのようだ。レインちゃんみたいな可愛い子に突然抱き着かれても喜びよりも戸惑いが勝ってしまうんだな。
その証拠に時間が経つと段々と気まずくなる。俺は彼女をどう扱えばいいか分からず一先ず距離を取ろうとレインちゃんの頭に手を伸ばした瞬間――
「レイン、止まりなさい!!」
リーネの声が遠くから聞こえた。一括するような鋭い声だ。
だが、リーネの声は今のレインちゃんには届かなかったようだ。彼女の頭に触れようとしていた俺の手を食い千切るみたいに噛み付いてきた。ただ事ではないリーネの声に俺はヤバい感じて急いで手を引っ込めたので無傷だったが、もし噛まれていたら俺の指は飛んでいただろう。それほどの威力があった。
「ヴッ、ア!」
さらにレインちゃんは口を開いて俺の腕を狙って噛み付こうとしていた。だから、俺はレインちゃんから転ぶように逃げる。ヤバい。危なかった。地面を転んで距離を取っていないと彼女に噛まれていた。
訳も分からないこの状況だが、レインちゃんが俺を襲ってきているという事実だけはなんとか理解して飛び上がるように身体を起こす。そして首から上だけを捻って、背後を、彼女の姿だけは視界内に収めようと試みる。
俺が急いで背後を振り返るとそこには……獣のように鋭い爪で俺の右目を狙ってくるレインちゃんの姿があった。彼女の手が、指が、爪が、右目に迫ったその直前で――彼女はヒビキに力尽くで抑えられた。
「ストップですよ、レイン。……あ、それと大丈夫ですか、ジン君?」
「ヴヴー」
その目は何も語りかけてこない。何かに魂を奪われたような虚ろな目で両手をバタバタと暴れ回っている。異常な言動からは思考力を感じられない。冷静に判断したとしても狂乱したとしか思えない。
「大丈夫だった二人とも? アリア、レインを……そうだったわね。アリアはいなかったわね。レインは私が面倒を見ておくわ」
そういうとリーネは彼女を胸に抱き、安心させるように頭を撫でる。
頭を撫でながらリーネは遠くに張られていたテントの中にレインちゃんと一緒に隠れてしまった。
まだ状況を理解できていない俺はレインちゃんに襲われたという事実に腰を抜かしていた。ヒビキは情けない姿勢の俺に優しく手を差し伸べて――
「彼女はキョンシーなんですよ」
と、そんな衝撃的なセリフを口にした。黒よりもさらに深く、濃い闇が鬱蒼とした夜の森を覆い隠してしまった気がする。彼のそんなセリフを最後に夜の闇は不気味さを取り戻していった。




