第八話 『田舎にて』
「おーし、もうすぐで休憩時間だ。全員休んでねぇできりきり働け!」
雲一つない青空にシュテンの低い声が響く。
燦燦と輝く太陽に黒い肌が照らされながら、手に着いた土をズボンで拭っている。あの日、リーネたちの仲間になった日から現世にいたころでは一生経験しないだろうと思うことばかり体験した。
まずは最初の仕事は船の甲板の掃除だった。これは船長であるリーネも含め船員が当番制でやっていることらしい。素足で立つには船の上は熱く、みんなでずぶ濡れになりながら甲板をブラシで掃除していくのは結構やりがいがあった。やっぱり俺にはコツコツと地道な仕事の方が性に合うようだ。
次の仕事はレインちゃんの手伝いという名目で鳩の世話を任せられた。緊急で連絡をする際には伝書鳩でやり取りをするらしい。つるつるとした羽が……いやこの話は止めておこう。思い出したくない……
まあこの日々の挑戦から得た教訓は自分のことは自分が一番よく知っているというが、自分じゃわからないことも多くあるというものだ。例えば俺は意外と船酔いに強いなどだ。
思い返せば現世でも車やバスで酔ったことがない。修学旅行で隣の席に座っていた友達がバスで酔って苦しそうな姿を見て、なんでこんなことで酔うのだろうと思ったこともある。このように改めて自分を振り返ってみると意外なことに気づくものだ。これもリーネたちの仲間にならないと解らなかったことだろう。
まあそんな話はこの状況とはまったく関係ない。今俺の目の前には広大な海ではなく、なぜか田園風景が広がっていた。
潮風とは無縁の空気が、湿気を含んだ豊かな土の匂いを運んでくる。道の脇には水路が引かれており、その水路の中をメダカほどの小魚がちょろちょろと群れを作って動き回っている。東京などの都会では決して見ることができない長閑な景色だ。
そんな景色の一部となっていた三人の男は田んぼの一角で鍬を振り上げ、懸命に働いていた。
「……なあ、ヒビキ」
「はい。何でしょうか?」
耕す前の土に足を取られないように気を付けながら、首に巻いていたタオルで汗を拭う。農作業のときにはヒビキであっても地味な装束になるらしい。当たり前だけど見慣れない。
「俺たちはいま何をしているんだ」
「畑を耕しているんですよ、それがどうしました?」
振り下ろした鍬で地面を掘り起こすように耕し、また鍬を振り上げる。そんな動作を繰り返しながらヒビキは返事をくれた。鍛え上げられたヒビキの肉体にはこの程度苦ではないのだろう。
汗だくになりながら土いじりをする。これも贅沢な体験の一つと言うならそうなのだろう、だがあえて言わせてもらう。
「これのどこが海賊なんだ!!!」
雲一つない青空には俺の声も良く通った。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
俺が海賊として彼らの仲間になってから二週間ほど経過した。
出航してから最初の八日目でこの村についた。九日目の朝は早かった。まだ日が昇ったばかりの海を横目に見ながら、シュテンの手伝いをしたときと同じように船から荷を下ろしていた。前に手伝ったときよりも数倍重い木箱を抱えて船から降ろす。その作業を繰り返し、昼をかなり過ぎたあたりでやっと終わった。
全身の筋肉が悲鳴を上げるのが感じ、腰を下ろしたのも束の間、すぐに荷物をまとめて村長に案内された平屋へと向かった。(もちろん男女は別だ)
その日はもう何を食べたのかなんて記憶もない。あとでヒビキから聞いたが村の使われていない平屋に到着すると気絶するように寝てしまったらしい。よっぽど疲れていたのだろう。
だが問題は次の日からだ。ここからがイナミ村での地獄という名の労働の始まりだった。
翌朝、シュテンから顔に水を掛けられて無理やり起こされた。まだ寝惚けている頭に鍬だけを渡されて、日が沈むまで一日中ずっと耕作していた。
シュテンとヒビキの指導のもと鍬を振るうたびに、腕が棒のようになっていくし、太陽の熱が体力を奪い、汗のせいで喉が渇く。昔の運動会でももっと気を遣うだろ。本当にいい加減にしてくれよ。……まあ、こんなことを五日ほど繰り返していた。
「ようやくツッコみましたね、真面目というべきか不器用というべきか」
「五日か……賭けはヒビキの勝ちだな。しょうがねぇから晩飯のとき一品やるよ」
「はい、それで手を打ちましょう」
また俺で賭けをしてやがったのか。まあ、もういいけどさ……
海賊船の一員として過ごしているうちにこいつらのことで分かったことがある。この二人は思っていたよりもただのおっさんと子供だった。
「そもそもなんで農業なんか手伝ってんだよ、仕事が終わったんならさっさと街に戻ればいいんじゃないのか?」
「そうは言ってもジン君、一宿一飯の恩は返さなくてはいけませんよ」
「わかってるけどさ……詐欺にでも遭った気分だ」
つい最近までバイトすらしたことがない学生がこんな農村でいきなり荷運びに農作業など肉体労働をさせられているんだ。むしろ音を上げずにここまで頑張ったことを褒めてほしいぐらいだ。
やや広い畦道に座り込み三人でおにぎりを食べている。
畦道は虫や蛇が出ることがあるので、見つけやすいように近くの草を踏み倒して座ることがコツだそうだ。目を閉じると湿気を含んだ豊かな土の匂いと微かなせせらぎの音が聞こえる。こんな青空の下で何かを食べるというのはいまだになれない。
でも心なしか普通のおにぎりよりも美味しく感じる。ピクニックの時がご飯が美味しいとはいまでも迷信だと思っているが、労働の後のご飯が美味しいのは本当のみたいだ。塩気が疲れた身体に染み渡る。
ガツガツと喉に流し込むようにおにぎりを頬張っていると――
「調子はどうですか?」
「あ、アリアさん!!」
背後から急に話しかけられた。おにぎりが喉に詰まるかと思った。
なんとか口いっぱいの米を嚥下して、ゆっくりと振り返るとアリアさんが申し訳なさそうに水筒を差し出してくれた。それをありがたく受け取り、二人の姿を観察する。
アリアさんはいつもの修道服ではなく私服だった。ゲームに出てくる村娘みたいな服装だ。癖一つない、流れるような金髪に黒色の修道服もよく合うと思っていたが、こういう服も似合うのか……
まあ、それはさておきアリアさんの横にいる人は誰だろう? 村長ではない。村長は初日に平屋まで案内してくれた腹がでっぷりと出ている男のはずだ。こんなに痩せてなかった。
そんな俺の視線に気づいたのかアリアさんは一歩前に出て――
「紹介していませんでしたね、この人は――」
「イサヒトだ。リーネルのとこの新入りなんだよな、話はさっき道中でアリアから聞いたぞ」
イサヒトと名乗った目の前の男はどこか精悍な顔つきで、目の下には浅い傷が残っている。若い頃は女性に好かれていたんだろうなと思わせる男だった。綺麗な白髪で、無駄な肉はなく、鶯色の落ち着いた着物に帯を付けただけの着流しだ。
年齢的にはそれぐらい妥当なのだろうが、うちのじいちゃんは死ぬ寸前まで逞しく太っていたせいか細い老人たちを見るとすこし不安になってしまう。
「イサヒトさん、病気はもう大丈夫なんですか?」
「ああ、だいぶ良くなった。もうすぐ復帰してやるとヘンリーのやつに伝えといてくれ、布団で寝てるだけだと身体がダメになっちまう」
「もう年なんだから無茶すんなよ、そろそろ若い奴に席を譲ったほうがいいんじゃねえか?」
「おい、俺を年寄り扱いするなよ。まだまだ現役だ! というかお前たちが老けなさすぎるだけで、俺もまだ若い方だからな!」
結局イサヒトさんは何をしている人なんだろう。
ヒビキやシュテン、アリアさんとも仲良さそうだが元々は仲間だったのだろうか?
これは共同生活をしているうちにヒビキから教えてもらったことだが、リーネの海賊船の正式なメンバーはアリアさん、ヒビキ、シュテン、レインちゃん、俺の五人しかいない。
一緒に荷運びをしていた他の人は数を揃えるためにリーネが頼んで手伝ってもらっているだけだそうだ。普段は自警団などをしているらしい。
四人の会話の盛り上がりが収まってきたころに顔を向けると、興味深そうにこちらを見つめる視線と目が合った。
「おい、お前さん、名前は?」
「あ、はじめまして、平坂仁です。お世話になってます」
「平坂……」
ヤバい。なんの話をしていたか聞いてなかった。
「どうしました? イサヒトさん」
「いや、ちょっと知り合いに似てたもんでな。気にしないでくれ」
イサヒトさんは誤魔化すように咳払いをした。
似ているってリーネの親父のことか? そういえばシュテンも何か言ってた気がする。まあ何でいいか、人には聞かれたくないことの一つや二つぐらいあるだろう。もし少しでも地雷を踏みぬく可能性があるならば、聞かない方がいい。
「……ジンって呼べばいいのか? まあ、何でもいいよな。俺はもともとは製紙連合会の会長だったが、もう半分ぐらい隠居しているようなもんだな。病気になっちまってなぁ。こっちで療養するつもりだったがヘンリーに頼まれてお前らの手伝いをしている。まあ、困ったことがあったら村長じゃなくて俺に言えや。できる限り面倒見てやる」
「はい、ありがとうございます」
会長ってとても偉い人だったのか?
そんな人と話す機会なんてないからどうやって話せばいいかわからない。
そもそも俺なんかが話しかけるのも失礼になるんじゃないか……
まずヒビキたちはどうやってこんな人と知り合ったのだろう?
「……イサヒトは会長を務める前にボクらと同じ船に乗っていたんです。こんなに格好つけてますが、初めての航海でこの人――」
「バカ、隠してんだから言うんじゃねぇよ! バレたら俺の沽券に関わるだろうが!」
ヒビキが俺の思考を読んだように話を進めてくる。
やっぱりイサヒトさんもリーネの船に乗っていたのか、なぜか親近感が湧く…
というか初めての航海で一体何をやらかしたのだろう。
さっきまでとは逆に俺がイサヒトさんに興味深そうな視線を送ると、気まずそうに顔を背けてしまった。本当に聞かれるのが嫌なのだろう。
「…そういえばレインがお前らを探していたぞ、手紙を持ってな。そっちに行った方がいいんじゃな――」
「その必要はないわ」
話題を変えようとしたイサヒトさんの試みは失敗に終わった。
遠くからリーネとレインちゃんが手紙を持ってこちらに歩いてきていたからだ。まあ、流石にこれは同情する。このタイミングの悪さは俺も似たような経験がある。せめてもの情けというわけではないが、俺もイサヒトさんの試みに微力ながら協力しよう。
「リーネ、その手紙は何なんだ?」
「せっかちね。そのことを話にここまで来たのよ」
リーネはわざとらしく溜息をつくと手紙を渡してきた。
二枚折にされた手紙を開き、五人で覗き込むように読んでいく。だが一つ問題がある。
「英語わかんないんだけど」
「え、そうなの……アリア教えてあげれる?」
「大丈夫ですよ。ジン君、せっかくなので私がみっちりと教えてあげます!」
リーネとアリアさんが慰めるように気を遣ってくる。
自分の名誉のために言っておくと英語がまったく読めないわけではない。
小学生のころ母から誕生日に貰ったハリーポッターの原書を読んだことがあるぐらいにはできる。だが筆記体は読めない!
しかも羊皮紙に書かれたこれはミミズが這っているみたいな癖のある筆跡なのだ。慣れないと読めないだろこんなの。
「そんなことよりなんて書いてあるんだこれ?」
「ドレークから連絡が来たのよ、これでやっと出発できるわ」
「は? どういうことだ、ここが目的地じゃないのか」
「そんなわけないでしょ、ここにはただドレークとの合流地点に近いからお世話になっただけよ。まあ、イサヒトのお見舞いもかねていたけどね。元気そうでよかったわ」
「当たり前だ! この程度でくたばるわけねえだろ」
そうは言うがイサヒトさんの身体は杖がないと立って歩けないほど細い。きっと寝たきりの生活で筋力が低下しているのだろう。
「ちょっとまて、ここが合流地点っていうならどこに行くんだよ」
ドレークさん?からレインちゃんの管理している伝書鳩に手紙が来たことは理解できたが、そこまでだ。手紙の内容が読めないからリーネがこれから何をしたいのかわからない。というかヒビキとシュテンは本当に読めているのだろうか?
見下しているわけではないがこの二人が英語を話しているイメージができない。
俺はそんな失礼な考えていたが、リーネの「決まってるでしょ」という一言に意識を戻された。いつも自信満々な彼女の挙動は赤い瞳に宿った熱に呼応するように希望と期待が込められているように感じる。この場にいる全員の視線が彼女自身に集まるのを待つように一呼吸置いてから、リーネは言った。
「グリフォンの巣よ」
それを聞いたシュテンが面倒くさそうに、ヒビキは嬉しそうに、アリアさんとレインちゃんは覚悟を決めたように笑っていた。これがリーネの冗談じゃないなら、俺たちはこれから怪物の住処に行くらしい。




