航海日誌 『アルバム』
『船長室』とも揶揄されている、大きな屋敷の一室。とはいえ、実際のところは、ただの仕事部屋だ。大切な書類が山のように積まれ、壁際の棚にはファイルがぎっしりと詰められている。ファイルとはいったが、書類を紐で綴っただけの簡易的なものだ。滅多に窓を開けることがないせいで部屋の空気はどこか淀んでいて、紙とインクの匂いが混ざり合っていた。
その中心に鎮座する長く、大きな机はまるで戦場のような有様だった。悲惨だ。 白い紙でできた山々が、無秩序に聳え立つ。書類の塔。見積書や請求書が乱雑に積み上げられているのだ。どこから手をつければいいのか分からないほどの混沌。まるでリーネの変なところで大雑把な性格がそのまま反映されたかのようだ。書類の場所をすべて把握できているのは部屋の主であるリーネとよく手伝いをしているアリアさんだけだ。二人のどちらかがいなければ書類を動かすことができない。他の誰かが勝手に動かせば、その時点で崩壊が始まる。いよいよ誰も、分からなくなってしまう。
そんな部屋の中央で、リーネは椅子に向かい、趣味で撮りためた写真の整理に没頭していた。彼女の手元には、色とりどりの写真が広がっている。旅の途中で撮った風景、仲間たちの笑顔、食べたもの、何気ない日常の一コマだ。それらを一枚一枚手に取り、丁寧に糊をつけて、アルバムのページに貼り付けていく。こうしておけば、後で見返したくなっても、すぐに見つけられるから。それが、彼女なりの記憶の整理だった。みんなとの冒険をいつまでも忘れないように。大切に、大切に、保管していく。
「ごめんなさいね、レイン。こんなことを手伝わせてしまって」
「いいですよ。私はこういった細かい作業も好きですから」
リーネがふと顔を上げ、申し訳なさそうに微笑んだ。レインは手を止めずに、柔らかく答える。彼女の指先は器用に動き、写真の角をぴったりと揃えて貼り付けていく。その所作は、もう手慣れたものだった。彼女がリーネの船に乗ってから、それほど長い年月が過ぎているということだろう。
「そう言ってもらえると本当に助かるわ。この量はさすがに、私一人だと時間がかかり過ぎるもの」
リーネは苦笑いしながら、手元に置いてあったカメラをそっと持ち上げた。
「さっきからどうしたんですか? カメラをずっと気にしていますけど?」
「……ええ、ちょっとね。どうもカメラの調子が悪くなったみたいでね。またニコに見てもらわないとダメかしら」
リーネの声は珍しく、ほんの少しだけ沈んだ響きがあった。彼女の手の中にあるカメラは、かなり古いが、丁寧に手入れされていた。それもそのはず、このカメラは、彼女の父が遺した数少ない形見の一つなのだから。リーネが特に大切にしないわけがなかった。
「リーネのカメラって、私の記憶が正しいなら、ついこの前壊れたばかりじゃなかったですか? もしかして寿命でしょうか?」
「そうなのよねー、最近なんだかついてないわ」
コツン、と優しくカメラを机の上に置く。その音が、妙に重たく響いた。彼女の父が残した遺品の一つなのだが……最近、やけに調子が悪い。父がよく『このカメラは、三途の川で拾ったんだ』と言っていたことをふと思い出す。冗談とも本気ともつかないその言葉が、今になって妙に胸に残る。まるで、父が悪いことが起こると囁いているかのようだ。妙な、胸騒ぎが止まらない。まあ、今は、そんなことよりも――
「ねぇ、ヘルガはなんでいるの?」
唐突にリーネが問いかけた。彼女の真っ赤な視線の先には、机の隅の方で無言で座っているヘルガの姿があった。彼女は何をするでもなく、ただ腕を組んだまま、目を瞑っていた。
「さぁ、私にも分かりません」
レインは肩をすくめてそう答えた。けれど、その口元には、どこか楽し気な笑みが浮かんでいた。まるで、こうなることを予想していたかのように。すると、ヘルガは不機嫌そうに唇を尖らせて、ゆっくりと目を開ける。
「……暇そうだから、手伝ってあげる」
彼女のその一言に、部屋の時間が一瞬だけ止まった。リーネとレインが不思議そうに顔を見合わせる。ヘルガが自分から手伝うという言葉を口にするとは、誰が想像できただろう。少なくとも虚を突かれた者が、ここに二人いる。
「大丈夫ですか?」
「……何がよ?」
レインが慎重にそう問いかける。ヘルガは眉をひそめ、少しだけむくれたように返した。そっぽを向いて、窓の方を向いてしまった。外はしとしとと雨が降っている。だから、今日は外出はできないだろう。灰色の空が広がり、遠くの海も霞んで見えた。雷が落ちそうだ。けれど、彼女はすぐに視線を窓の外から机に戻し、写真の山に手を伸ばした。その様子が嬉しくて、リーネはふっと笑みをこぼす。
「嬉しいけど、あなたの気持ちだけ受け取っておくわ」
「何でよ? ワタシが手伝うのは嫌だっていうわけ?」
「いいえ、とても嬉しいわよ。でも、あなたはまだ文字が読めないじゃない。特に漢字が……」
リーネがやんわりと指摘した。そう、ヘルガはまだ漢字が読めないのだ。写真の裏には日付が書かれてあるし、アルバムの見出しにも文字が並んでいる。もし読み間違えられたら、せっかくの整理も台無しになってしまう。それを思えば、リーネの言葉は当然の配慮だった。だが、彼女の言葉に、ヘルガはぴくりと眉を跳ね上げた。その反応がどこか子供っぽくて、レインは思わず口元を押さえて二人のやり取りに笑いをこらえた。
「発音は完璧でしょ? エルフを舐めないことね! そんなもの、もうとっくに覚えたわよ!」
「……ちょっと待ちなさい。私が前に手伝いを頼んだとき、あなたは漢字が読めないって言って断ったわよね?」
「あれは、めんどくさそうだったからよ。レインから本を借りて読んでるし、アリアも口煩く言ってくるからね。日常生活で使うくらいの漢字はもうとっくに覚えているわ」
「……ヘルガ。あなたって、本当に……」
自信満々に胸を張るヘルガを見て、リーネは呆れたように頭を抱える。文句を言いかけて、けれど途中でふっと言葉を切った。今はいい。彼女がこうしてここにきて、わざわざ手伝おうとしてくれている。それだけで、十分だった。気持ちはいっぱいだった。すると、ヘルガは近くにあった写真の一枚を無造作に手に取った。ジンが映っている写真だ。初めてこの屋敷に寝泊まりした記念に、リーネが寝起きの彼の顔をシャッターに押さえたのだ。寝起きのジンが、ぼんやりとした表情でこちらを見ている。髪がちょっとだけ跳ね、目は半開き。口元は寝惚けたように閉じている。それを目にしたヘルガがくすりと笑った。
「ふふ、何この変な顔?」
「ちょっと、笑うのは可哀そうでしょう?」
ヘルガはどこか楽し気で、けれど少しだけ優しさが滲んだ声で笑った。リーネもつられるように笑いかけたが、さすがにそれは我慢した。写真の中のジンは、確かにひどい顔をしていたけれど――それでも、どこか愛おしくて、思い出すたびに胸が温かくなる。そんな一枚なのだ。ここにあるのは、そんな一枚になるものばかりなのだ。そこでふと、レインが手を止めて、アルバムのページをめくりながら首を傾げた。
「あれ? こうして見ると……お兄さんの写真って結構多いですね。アリアさんにシュテン、それにノギさんたちも多いです。それに比べて……私やヘルガの写真がやけに少なくないですか?」
「そう?」
「あ、よく見たらヒビキのもあまりないわね」
リーネは首を傾げながら、アルバムを覗き込む。確かに、ジンの写真はあちらこちらに散りばめられていた。ヘルガの指摘を受けて、レインのページをめくる指先が止まり、三人の間に、ふと静かな間が生まれた。そして、問い詰めるかのように二人はリーネのことをじっと見た。リーネは一瞬たじろぎ、視線を泳がせた。
「な、何よ。そんな目で見て。あ、あなたたちにはいつでも会えるでしょう? だから、わざわざ撮る気にならなかっただけよ。ただ、それだけよ。特別なことなんて何にもないわよ?」
「……本当に?」
「本当よ、何でそんなに疑っているの?」
「……別に?」
ヘルガが素っ気なく答えた。けれど、その目はしっかりとリーネのことを観察していた。その視線の奥にあるものを、自分に向けられた意味を、ヘルガ自身が気付いていなくともリーネは気づいている。けれど、今はそれを言葉にするつもりはなかった。それは、野暮というものだ。そんなことを考えていると、レインが躊躇いがちに薄い唇を小さく動かした。
「で、でも。それは、私たちも同じじゃないですか?」
「それは……何でかしらね? でも、ふとした瞬間に思ったのよ。今、私がここにいるみんなを写真に収めないと、きっと後悔するって。直感ってやつかしら。理由なんて、はっきりと分からないけど。ただ、胸の奥がざわついて……この幸せな時間が、いつまでも続くわけじゃないって、そんな気がしたの。だから、せめて形に残したかったのかしらね。彼らがこの場にした証を、私と一緒に過ごした日々の軌跡を、ちゃんと残して写真に残しておかないとって」
「ふーん、よく分からないけど。まあ、好きにすればいいんじゃない?」
ヘルガが再び、そっけなく言いながらも写真をそっとアルバムの上に置いた。少しだけぎこちないような、照れくさいような雰囲気が、三者の間に漂う。それは不快というわけではなく、どこかくすぐったいような感覚だった。その空気を破るように、リーネは勢い良く立ち上がった。
「何よ、二人とも。そんなに拗ねないでよ。分かった、分かったわよ! ほら、二人ともこちらを向きなさい! 私が特別に、二人のことを世界で一番可愛く撮ってあげるわ!」
リーネはカメラを手に取り、にやりと笑った。彼女のその笑顔は、どこかいたずらっぽくて、いつも通りの彼女らしさが戻ってきていた。カメラのレンズをヘルガとレインに向ける。ゆっくりと二人に狙いを定めるようにして、シャッターに指をかけたその瞬間。
――ピッシャーン
突然、曇天を裂くような鋭い雷鳴が、窓を打ち付けた。窓ガラスがびりびりと震え、部屋の空気が一瞬で張り詰める。真っ黒な空は、稲妻の閃光で一瞬だけ白く染まった。まるで昼と夜が入れ替わったような衝撃だった。
「今の雷、かなり近かったわね。二人とも大丈夫……って、ヘルガ? あなた何やってんの?」
リーネが振り返ると、そこには思わぬ光景があった。ヘルガは、いつの間にか机の下に潜り込んで、レインの身体に抱き着いたまま、小刻みに震えている。だが、すぐに気配を察したのか、むすっとした顔でこちらを見上げてきた。その姿は、まるで『別に怖くないけど?』とでも言いたげだ。だけど、彼女の少しだけ尖った耳の先がほんのりと赤くなっているのを彼女は見逃さなかった。
「……あなた、まさか雷が怖いの?」
「別にッ、怖くないわよ! ただ、森に住んでいた時は『空鳴り』って見えなかったから。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、驚いただけよ! あんなにピカピカ光るなんて知らなかっただけ!」
「それが、怖いってことじゃないの? レインは知ってたみたいね。いつから知っていたのかしら?」
ヘルガが開いた口から、早口の言い訳がぽんぽんと飛び出す。語気を強める。その必死さが、かえって彼女の動揺を際立たせていた。大切なぬいぐるみを抱きしめるように、レインにしがみついた姿勢で、言葉だけが空回りしている。彼女の姿を見ても落ち着きを払っている。慣れている。つまり、レインはヘルガが雷が苦手なことを、すでに知っていたってことだ。
「えーっとですね、私が知ったのは三日くらい前の夜ですかね? 私が寝ている最中に、雷に怯えたヘルガが部屋に勝手に入り込んできたんですよ。布団の端を引っ張って、何も言わずに潜り込んできて……」
「ちょっと言わないでって言ったじゃない!
ヘルガは顔を真っ赤にして叫んだ。その声は怒っているというよりも、恥ずかしさを隠すためのものだった。レインもレインで大変だったに違いない。今も、ユキみたいな無表情のまま、ヘルガの勢いにされるがままになっている。ヘルガは、呆れたようなリーネの視線に気づいたみたいだ。
「違うわよ、リーネ。空がピカピカと光るのが嫌なだけで……ワタシは怖がってなんていないわ!」
「……でも、あなたの魔法もピカピカと光るじゃない。それと同じよ?」
「ワタシはいいの! ワタシは!」
ヘルガはぷいっと顔を背け、レインの腕の中でさらに身を縮こまらせた。けれど、この瞬間にリーネの中で何かが繋がった。点と点が繋がって、一本の線になった。今日一日の出来事が一つの意味を持って浮かび上がる。窓の外を見たがすぐに写真の整理を始めたヘルガの不自然な挙動。ずっと笑いを堪えていたレインの様子。今日、部屋に入ってきてからの彼女たちの行動を思い出した。ヘルガがこの部屋に現れたタイミング――そして、リーネは、ある最悪な可能性を思い至った。まさか、と思いながらも、口を開いた。
「……ねぇ、ヘルガ。あなた、もしかして……雷が怖いからこの部屋にいたの? 私を手伝ってくれたわけじゃなくて、ただ怖いから? ついでに、私の手伝いをしていただけ?」
リーネの声には驚きとほんの少しの寂しさが滲んでいた。先程までの嬉しさが、少しだけ揺れた。自分のために来てくれたんだと思っていた温かなその気持ちが偽物だったと知って、ぐらりと揺れる。ヘルガは一瞬だけ、言葉に詰まった。だけど、すぐにふてぶてしい表情を作り、フンと鼻を鳴らして言い放った。
「……ええ、そうよ。何、悪いの?」
彼女の態度は、まるで開き直ったかのようだった。いや、実際に開き直っているのだ。ちょっぴりと尖った耳をぎゅっと押さえて、塞ぐようにしてうずくまる。リーネの瞼とこめかみが、ピクピクと痙攣し始める。ストレスかもしれない。彼女はふーっと長く息を吐いた。そして、手に持っていたカメラを見て、少しだけ力を込めて握りしめる。彼女の目が、何かを思いついたみたいに、いたずらっぽく光った。
「レイン、そのままヘルガの身体を押さえておきなさい! その情けない顔を、カメラに収めて、バラまいてあげるわ! アルバムに保存してあげる!」
リーネはカメラを構えながら宣言すると、ヘルガはびくりと肩を震わせた。レインは無言のまま、ちょっとだけ楽しそうに、腕に力を込める。ヘルガを逃がさないように、体重をかける。けれど、エルフの血が流れている彼女にとって、人間の少女一人分の重さなんて気にも留めるものではなかった。
「や、やめなさいってば! レイン、この裏切り者!」
ヘルガはそう叫びながら、レインごと勢い良く立ち上がり、そのまま部屋の外へと逃げ出した。バタバタと足音が遠ざかっていく中、リーネの指がシャッターを切る。
――カシャッ。
シャッターの音が、雷鳴よりも鮮やかに部屋に響いた。二人が出て行った後、部屋に取り残されたリーネはゆっくりとカメラを確認する。カメラのレンズを押さえるように手を突き出したヘルガと引きずられているレインが液晶に映し出されている。少しピンボケしているけど、二人ともどこか楽しそうで、風に揺れる彼女たちの柔らかな髪が躍動感を添えていて、まるで一枚の物語を感じ取れる作品になっていた。そんな、写真だった。リーネはその写真を見つめながら、少しだけ薄い唇の端を持ち上げた。
「ふふ、まあ今日のところはこれで勘弁しておいてあげるわ。ただでさえ海賊の夏は、皆忙しいからね。この続きは……ロバーツの古代ドワーフの遺跡から無事に帰ってきたらかしらね。ヘルガの歓迎会の時に、皆で写真を撮りましょうか」
リーネの呟いた声は、誰に届くわけでもない。けれど、確かに優しく、部屋の中に溶けて行った。笑っているのか、呆れているのか、彼女は自分でも良く分かっていなかった。だけど、胸の奥にあったわだかまりが、妙な胸騒ぎが、ふっとほどけていくのを感じた。窓の外では、まだ雨が静かに降り続いている。その雨音が、まるで遠い記憶を呼び起こすように、心地良く耳をくすぐった。
リーネは鼻歌を歌いながら、そっと写真をアルバムの数泊のページに差し込んだ。そのページには、まだ何も書かれていない。指先で一枚一枚アルバムの確認するかのようにページをめくっていた。写真を手に取る。彼女は静かに席に戻り、再び写真の整理を始めていた。アルバムのページの向こうに広がるのは、過ぎ去った日々とこれから訪れる未来の気配。そして今は、リーネはこれからのことに想いを馳せていた。まだ空白のページを、彼女は丁寧に、慈しむように綴っていく。窓の外に落ちる雨の音が、まるで彼女の大切なその時間を祝福するように、優しく響いていた。




