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航海日誌 『コスプレ少女?』


 前日の昼から降り続けていた雨は、朝になってようやく止んだ。だけど、地面はまだぐっしょりと濡れていて、ぬかるんだ土が靴の裏にまとわりつく。靴が汚れてしまうから、外出したくない。窓の外を見れば、灰色の空が低く垂れ込めていて、世界全体が湿気を含んでいるかのようだ。どんよりとしている。外に出る気力なんて、目が覚めた瞬間にすっかりと消え失せていた。そんな、ある梅雨の日。


 部屋のドアが、控えめにノックされた。誰だろうと首を傾げながらドアを開けると、そこには神妙な面持ちをしたレインちゃんが立っていた。いつもの花が咲くような笑みはなかった。緊張しているみたいだ。普段のどこか柔らかく、穏やかな雰囲気を纏っている彼女が、今日はやけに表情を硬くしている。前髪が額に少し張りついていて、彼女が緊張で汗をかいているのが見て取れる。こうして、彼女が何のアポイントもなく俺の部屋を訪ねて来るのは、これが初めてのことだった。


「……お兄さん」


「はい。何でしょう?」


 小さく、けれどはっきりとした声。何かを決意したような重みが彼女の声から滲んでいる。名前を呼ばれた瞬間、俺は身体ごと彼女の方を向いた。正座するように、身体を向ける。自然と背筋が伸びてしまう。すると再び、無言の時間が流れた。俺の部屋の中の空気は、しとしとと雨の名残が染みるようだ。静かに緊張が高まってくる。俺から視線を合わせると、レインちゃんは目を伏せた。彼女の薄い唇が、何かを言おうとして、また閉じる。まるで言葉を探しているように、ほんのわずかに眉が寄る。まだ時間がかかりそうだな、と油断していたそのとき――彼女は一度、深く息を吐き、意を決したかように顔を上げた。


「お兄さん!」


「はいっ! な、何でしょう?」


 レインちゃんは突然、声を張り上げた。驚きのあまり、声が裏返りそうになる。目と目が合い、視線がぶつかる。彼女の大きな瞳に吸い込まれていくかのような錯覚を覚える。彼女はまっすぐに俺を見つめていた。顔をじっと見られている。彼女の勢いに、俺は思わず背筋を伸ばし、顔を正面からずらすことができなくなっていた。


「……あ、あの、今日は折り入って頼みたいことが……お願いがありまして……」


「お願い?」


「は、はい!」


 俺が思わず聞き返すと、レインちゃんは小さく頷きながら、ぎゅっと両手を握りしめた。彼女はゆっくりと、だが慎重に口を開いた。声は震えていたが、しっかりと俺の耳に届く強さを持っていた。そのすべてが、彼女の真剣さの表れだった。要件は分からない。まだ分かっていない。だけど、今日の彼女の様子から、ただならぬ空気だけは、ひしひしと伝わってきた。息苦しい。俺は意識的にと呼吸を整え、身構える。何故か、俺まで緊張してきた。そうやって、俺が、息を呑んで彼女の言葉の続きを待っていると――


「実は、お兄さんが着ている制服を着てみたいんです!」


 彼女の口からその言葉が放たれた瞬間、時間が一拍、止まったような気がした。耳に届いたはずの彼女の声が、言葉が、脳の中で上手く意味を結ばない。鈍器で後頭部を殴り飛ばされたかのような衝撃。思考の歯車が空回りを始めたようだ。俺の耳がバグったのだと、ただの聞き間違いであり、ただの勘違いなのだと、そう思って彼女に視線を送る。だが、彼女は顔を真っ赤に染めながら、もじもじと恥ずかしそうに足元を見つめていた。レインちゃんの瞳には、冗談の色は一切ない。本気だ。彼女は本気で俺の制服を着たいと言ってのけたのだ。勘違いでないことを理解したとき、俺の思考は完全にフリーズした。


「……ぇえ?」


 しばらくの沈黙の後、思わず間の抜けた声が漏れた。風船が小さな穴が開いたせいで、しゅるしゅつと中の空気が抜けて行くような声が喉の奥から漏れてしまった。緊張感に包まれていた雰囲気が、ふっとどこかへ吹っ飛んでしまった。あまりにも予想外の一言に、頭の中が一瞬で真っ白になった。何か重大な告白でも始まるのかと身構えていた。心の準備をしていた。それがまさか、制服を気合というお願いだなんて。その落差に、心も頭もついていけていない。緊張の糸が切れたというよりも、別の次元に放り出されたような感覚だった。


 レインちゃんは、まだこちらの反応をうかがっている。頬を染め、視線を宙に泳がせながらも、どこか覚悟を決めたような表情をしていた。その姿は、なんだか妙に可愛らしく、余計に混乱してしまう。頭を冷ますための時間が、どうしても必要だった。だから一先ずは、俺の頭が冷静になるための間、彼女の真意を確かめるために口を開いた。彼女がなぜ、そんなことをお願いしてきたのかその理由について聞くことにした。





 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※





「えーっと、それは……理由を聞いても、いいのかな?」


 言葉を選びながら、俺はそっとレインちゃんに問いかけた。声の調子は、思っていたよりもずっと柔らかくなった。彼女の気持ちを無下にしたくない。だけど、やっぱり気になる。なぜ、そんなことを言い出したのか。だって、俺の制服は男物だ。そもそも、サイズが違う。例えば、いきなり俺が年上の先輩に『先輩の、セーラー服が着たいです!』なんて頼んだらどうなる。例えば、リーネに服を貸してくれなんて言ったら――アリアさんに殺される。叱られるではなく、殺される。絶対に、この屋敷での居場所がなくなる。


 ……いや、待て。前提が、だいぶ違うな。何が違うって、俺が顔を真っ赤にして、存在しない年上の先輩にそんなお願いをしている姿を想像してみたら、その時点でもう完全にアウトだ。絵面的に酷い。ただの変態じゃないか。通報されても文句は言えないレベルだ。


 まあ、そんなことは今はどうでもいい。それよりも、目の前のレインちゃんだ。彼女の真剣な表情を見てしまったからこそ、俺はちゃんと理由を知りたかった。すると、彼女は、ぴくりと肩を揺らした。彼女はしばらく黙ったまま、指先をいじりながら、何かを考えているようだった。言葉を探している。そして、ほんの少しだけ顔を上げ、俺の目を見た。彼女の瞳の奥に、ためらいと決意が同居しているのが分かった。


「……笑いませんか?」


 揺れる気持ちを押しとどめながら、レインちゃんは小さく唇を動かした。その一言には、まるで薄氷の上を歩くかのような、かすかな震えを帯びている。彼女にとって、これはきっと勇気を振り絞った問いかけだったのだろう。俺の反応ひとつで、彼女の心を簡単に傷つけてしまうかもしれない。ならば、俺がすることはひとつ。できる限り気にしていないふりをして、彼女の不安を和らげることだけだ!


「うん、大丈夫。大丈夫だから、安心してほしい! もし、レインちゃんが本当は男の子だとしても俺は受け入れるよ。コノハで慣れたから! いや、コノハって、男の子なのか、女の子なのかそもそも分からないけど。とにかく、大丈夫だから!」


「……」


「え、嘘。まさか本当に?」


「ち、違いますよ!」


 やってしまったかもしれない、と冷や汗が背中を伝う。恐る恐る問いかけてみると、レインちゃんの顔が一気に真っ赤に染まった。ぴしゃりと返された声に、俺は思わず背筋を伸ばす。よかった。怒らせてしまったことは悪いけど、どこかホッとしている自分がいるのも確かだ。


「そっか。な、なら、何で?」


「……私は昔から、身体が弱くてですね。病気がちで、学校というものに行ったことがないんです。大学の教授をしていた義父が、ずっと勉強を見てくれていたので、学ぶことには困りませんでした。でも……制服って、テレビや本、カタログでしか見たことなくて。だから、ずっと呆然とした憧れみたいなものがあるんです。あの、みんなと同じ服を着て、学校に行くということが、どんな感じなのか……」


 レインちゃんは少しだけ視線を落とし、静かに口を開く。さらに言葉を続ける。


「元気になって、やっと病院の外に自由に出られるようになったと思ったら……すぐに事故に遭って、気付いたら、こちらに来たので……」


 レインちゃんは、ふっと笑った。彼女はこちらに気を遣わせないようにふっと笑った。だけど、その笑みはどこか影を落としていた。無理に作った笑顔であることは一目瞭然だった。


「……そうだったんだね」


 俺は、ただそれだけを返すのが精一杯だった。彼女の言葉の重みを、軽々しく受け止めることなんてできなかった。俺の知っている現世(せかい)の話、だけど俺の知ることのなかった現世(せかい)の側面。そうだよな、制服を着てみたいなんて変な頼みだと思っていた。でも、それはただの興味や好奇心なんかじゃなかった。未練。彼女の中に残る現世への未練。なら、俺はその願いを叶えてあげたい。今はただ、彼女の気持ちに寄り添いたかった。だったら、俺にできることは決まっている。俺は立ち上がると、何のためらいもなく、上に着ていた制服のボタンを外し始めた。ボタンが千切れそうな勢いで、制服の上着を脱ぎ捨てる。


「……え?」


 レインちゃんが小さく声を漏らすのが聞こえた。だけど、俺はもう迷っていなかった。このくらいの願いを叶えてやれなきゃ、俺が俺をもっと嫌いになってしまう。覚悟の脱衣。俺は制服の上着をレインちゃんに差し出す。俺に残されたのは、乱れたワイシャツ一枚だけになった。


「……ほら、どうぞ。似合うと思うよ?」


「え、えっと。そこまで勢いをつけて脱がれると……戸惑いが勝る、といいますか……」


「大丈夫、気にしてないから!」


「私が気にしてるんです! もっと会話をしてください!」


 ぴしゃりと返される言葉の数々に、俺は目を丸くした。レインちゃんは制服を受け取る手をそっと伸ばしかけて、ぴたりと止める。頬を染めたまま、視線を泳がせて、戸惑いを隠しきれない様子だ。だけど、やがてそっと俺の制服に指先が触れた。おずおずと手を伸ばし、ゆっくりと受け取った。まるで壊れ物でも扱うように慎重に、彼女は制服を胸に抱いた。そして、そして――


「……に、似合ってますか?」


 彼女の声は、少しだけ期待感を含んでいた。着替える瞬間を見るのは気まずいなと思い、俺はしばらく視線を逸らしていた。彼女の声に導かれるように再び、視線を彼女の方へ向けると――そこには、制服の上着をふわりと羽織ったレインちゃんの姿があった。息を呑む。袖は長く、指先がすっぽりと隠れてしまっている。肩もぶかぶか、まるで制服に着られているような印象だった。だけど、似合っている。


「おー!」 


 思わず声が漏れた。言葉にならない感情が滲んだ声が出た。似合っていた。間違いなく、似合っていた。だが、レインちゃんは恥ずかしそうに制服の袖をそっと掴み、不安げな視線でこちらを見つめてくる。彼女の大きな瞳には、どこか怯えたような色が浮かんでいる。


「や、やっぱり……似合いませんよね」


 小さく呟いたその言葉は、彼女の自信のなさと、ほんの少しの諦めが滲んでいた。表れていた。だけど、俺はもうすでに分かっていた。その不釣り合いなサイズ感こそ、かえって彼女の華奢さを引き立てている。アンマッチさが、逆にいい。魅力がある。今の彼女の姿は、どこか守ってあげたくなるような、そんな不思議な引力を持っていた。


 ――マズイ。何か変な扉が開きそうだ。


 彼女は、制服の袖をぎゅっと握り締めたまま俺の反応を待っていた。その可愛らしい仕草が、また一段と胸にくる。しかし、俺の語彙では彼女の持つ魅力をそのまま言葉にするのが難しいと判断した。自信がなさそうな彼女を励ましたい。彼女の未練を少しでも掻き消してあげたい。だから、俺は感情をそのまま吐き出すために、ゆっくりと口を開いた。


「いや、スゴイ似合ってるよ! ビックリした!」


「ほ、本当ですか?」


「本当! 可愛いよ!」


「か、可愛いですか?」


「うん。今のレインちゃんは、世界で一番可愛い! 自信を持って!」


 声が弾む。レインちゃんは、ぽつりと呟きながら、制服の裾を持って見下ろす。頬が、さっきよりもさらに赤く染まっていた。ほんの少しだけ照れたように、口元をほころばせる。さっきまでの無理して作っていた笑顔よりは百倍いい。俺はもっと褒めてやると意気込んで、さらに褒めようと拳を握った。そのときだった。すると――コン、コン。突然、部屋の扉が上品にノックされた。


「ジン君、声が廊下まで響いていますが、大丈夫ですか?」


 アリアさんの落ち着いた声が扉越しに響いた。俺とレインちゃんは、同時にびくりと肩を跳ねされる。あまりにも絶妙なタイミングに、心臓が跳ねる。アリアさんはドアから顔だけを覗かせた。そして、彼女の視線が部屋の中にいる俺たちの姿を一瞥した瞬間、彼女の表情が、ぴたりと止まった。視線の先には、俺の制服を着たレインちゃん。そして、乱れたワイシャツ一枚で立ち尽くす俺。レインちゃんは制服の袖をぎゅっと握ったまま固まっている。俺もまた、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。


 アリアさんはしばし無言のまま、俺たちを交互に見つめていた。彼女の口元が、ゆっくりと綻ぶ……いや、その笑みはどこか引きずっていた。彼女の湖面のように穏やかな青色の瞳が冷たくなった。ドン引きされている。絶対に、ドン引きされている。


「……なるほど。お二人とも、仲がよろしいようで。ですが、昼間からはそういう行為をするのは控えるべきです。少なくとも、鍵くらいは閉めるべきです」


 その言葉には、何とも言えない含みがあった。優雅な微笑みの奥に、冷たい光がちらりと輝く。氷の刃を首元に突きつけられているような錯覚に陥る。俺は、何か言い訳をしようと口を開きかけたがいきなりのことで言葉が出てこない。レインちゃんの方を見ると、制服の袖に顔を埋めて、耳まで真っ赤に染めている。まるで小動物のように震えていて、今にも消えてしまいそうだった。ヤバい、終わった。色々な意味で終わった。


「では……あ、後でジン君にはお話があるので、私の部屋に来てください。ご安心を。このことは黙っておきますので」


 そう思った矢先、アリアさんはふっと微笑みを深め、何事もなかったかのようにそう言い放った。最後に添えられた微笑みは、まるで処刑宣言のように重かった。鋭利な刃のように俺の心に突き刺さる。彼女が扉を閉める音が、やけに大きく耳に届いた感じた。部屋の中にしんとした沈黙が落ちる。俺は、レインちゃんの方をちらりと見た。絶対に、何か変な勘違いされたよな。というか、冷静に考えて中学生くらいのレインちゃんに、俺は何をやってんだ。ヤバい、訂正しないと、屋敷から追い出される!


「あ、アリアさん! 違いますよ! 違いますからね!」


 俺の視線が、虚しく閉じた扉に吸い込まれる。そして焦りに任せて、部屋から飛び出すようにアリアさんを追いかける。情けない声が、屋敷中に反響する。誤解を解かないと、俺の未来が危うい。だが、アリアさんはまるで何も聞こえていないかのように、一度も振り返ってくれなかった。やがて、自室の前で立ち止まるとようやく俺の話を聞いてくれた。レインちゃんから、制服を着てみたいと言われて貸しただけだ。やましいことは何一つない、と必死に説明した。すると、勘違いだとちゃんと分かってくれた。


 その後も、大変だった。その後の方が、大変だった。レインちゃんの様子を見たアリアさんも好奇心を掻き立てられたみたいで『私も着てみてもいいですか?』と提案してきた。断り切れなかった。アリアさんが制服を羽織ると同時に、今度はタイミング良くリーネが部屋を訪ねてきた。また、同じようなことの繰り返しだ。リーネを説得して、上着を貸すと今度はヘルガがうるさいと部屋を訪ねてきた。ヘルガにいたっては数秒の沈黙の後に『……変態!』という一言だけ言い残して、自室に帰ってしまった。話を聞いてもらえず結局、三日かけて事情を説明するのに羽目になった。



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