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第八十九話 『東へ』


 リーネたちが古代ドワーフの遺跡、人喰い迷宮に行くために船で海の上を航海していた頃。甲板の上で潮風に吹かれながら、ジンが遠くに霞む水平線を眺め、次の冒険に怯えると同時に胸を高鳴らせていた頃にまで――時は、少しだけ遡る。だから、人喰い迷宮を攻略を終えるよりもかなり前の話だ。


 場所は、人喰い迷宮から遥かに西。野を越え山を越えた先にある山中の洞窟。外界からは隔絶されたその場所で、ヴァイキングたちは一度、身を寄せ合っていた。ドワーフたちの参道から逸れた洞窟の奥深く、湿った空気が重く沈み、岩肌を伝う水滴がぽたり、ぽたりと音を立てる。天然の効果音。それを突き破るように、ドワーフの男の怨嗟の声が洞窟内に木霊した。


「クッソ、がッ!」


 怒りに任せて振るわられた拳が、洞窟の壁に叩きつけられた。鈍い音が響くとともに、岩肌に深い罅が走った。壁を裂いた。拳を振るったのは、青みがかった髪を持つドワーフの男――その名は、ザフィーア。鍛え上げられたドワーフの戦士の逞しい腕から放たれた重苦しい一撃は、硬い岩をまるで薄氷のよう砕いてしまった。


 荒い呼吸を何度も繰り返し、握る手はまだ震えている。ザフィーアの背後には、ドワーフたちの戦士だけでなく数十人のヴァイキングたちが休息を取っていた。身長、年齢、種族、全てが異なる彼らの唯一の共通点は、疲れ果てた目の下に深く刻まれた(くま)くらいなものだろう。疲労と寝不足、そして極度に張り詰めた緊張感が、彼らの顔を一様に険しくしていた。


 ヴァイキングたちの精神をここまで追い詰めた原因は、海賊との三度にわたる好戦だ。一度目はこちらから仕掛けた。先制攻撃、奇襲だった。だが、二度目、三度目は向こうからの報復だった。海賊たちの報復は、噂には聞いていたが、ここまでとは思わなかった。執拗で、粘着気味で、徹底していて、執念深い。まるで蝮のようだ。その報復の激しさに、ヴァイキングとドワーフの連合軍は次第に消耗していった。だからこそ、彼らはこの洞窟に身を潜め、次なる一手を練っていた。


 海賊たちと深い確執があるヴァイキングとドワーフの両者は、手を組み、和解交渉という名目でエドワードの海賊を呼び出し、隙を突いて、奇襲するまでが作戦だった。結果だけ見れば、奇襲はギリギリ成功したと言える。だが、船を奪うという最終目標は達成できなかった。当初の目的だった『船の奪取』は叶わなかった。空っぽな勝利で、自分や仲間たちの士気を上げることしかできなかったのだ。悔しい。その感情を分かち合うことができる相手は、ドワーフの戦士の中には誰一人としていないだろう。なぜなら、ザフィーア自身が『一矢報いた、奇襲は成功したのだ!』と、仲間を騙したのだから。


 目的に勘づいていたのか、それともただの偶然か。交渉の場に現れたのは、わずか一隻。遠巻きに控える武装船団の影が見えたときには、さすがに肝が冷えた。作戦は不完全なまま終わることが、交渉が始まる前から確定したからだ。だが、戦士として和解はありえない。あそこまで我らの神を侮辱され、唾を呑みことは、絶対にない。そして何より、彼の無謀についてきてくれた仲間たちが納得しない。だからこそ、ザフィーアは最後の判断をウィリアムに任せたのだ。和解ではない、好戦でもない、第三の選択を彼が見出してくれることを願って。


 だが、その願いはあっさりと裏切られた。エドワードのせいだ。あちらがいきなり発砲してくるとは、完全に想定外だった。本来なら、聖戦の火蓋を切るのは、こちらだったはずなのに。


 エドワードの命を奪い、動揺した乗組員の命も奪い、そして彼らの船を――その造船の技術を奪う。それが、本来の予定だった。だが、現実は違った。そして、さらに不運なことに、ケルベロスにも襲われた。補給路は断たれ、連絡も途絶えた。仮初の勝利の美酒に酔う間もない。だが、酔いを醒ますような海賊の報復は、そこからさらに苛烈さを増すばかりだった。流れるように続く二度、三度の襲撃。ヴァイキングとドワーフの連合軍は補給が足りないまま撤退戦を余儀なくなれた。防戦一方だった。それは、敗北と屈辱の連続だった。


 ザフィーアの拳が砕いた岩の破片が、足元にぱらぱらと転がる。その音は、彼らの敗北を作戦の失敗を静かに物語っていた。未熟な自分への怒り、作戦が上手くいかないことへの焦り、不自由なモグラのような生活を強制されることへの苛立ち。そのすべてが込められた一撃だった。彼のその行為を責める者は誰にもできない。攻める気力すら、皆の中にはも残っていなかったから。だが、ただ一人――洞窟の奥から嗤った者がいた。洞窟の奥から、くぐもった笑い声が漏れた。ウィリアムだ。ウィリアムはザフィーアの心を慰めるような一撃を見て、静かに、だが確かに嘲笑っていたのだ。


「……貴様、何が可笑しい! 何を嗤っている!」


 ザフィーアが怒声を上げる。すると、ウィリアムは肩を激しく震わせながら、嗤いが堪え切れないといった様子で、口元を覆った手の隙間から声を漏らした。


「フ、フフフ、ァ、ハハハハハ、ッ! いや、今のオマエの姿がただただ滑稽でよぉ。最初の威勢が嘘みてぇじゃねぇか? 海賊たちを皆殺しにしてやるんじゃなかったのか? 一度や二度の負けでそこまで取り乱すとはぁ、心がすでに負けを認めてるってことじゃねぇのか!」


「――き、き、貴様の責任だろうがぁ! もっと、貴様が、貴様がぁ!」


「オレにはまだ吠えれるのかよ。負け犬もここまで極めたら、嗤い(げい)にすらならねぇんだなぁ?」


「……クッ!」


 ウィリアムは左手で不健康な灰色の髪を整えながら、ゆっくりと自分の頭を撫で上げた。そして、自身の左足を喰らうために這い寄ってきた一匹の蛆虫を摘まみ上げると、口元へ運び、鋭い奥歯で噛み潰した。ぐしゃり、と小さな音がした。ザフィーアは黙り込むしかなかった。戦士の誇りにかけて、同盟相手を……爆発で左足を失った同盟相手を責めることができなかったからだ。


 怒りの炎は、急速に冷えていく。だが、それでも、あの嗤い声だけは許すわけにはいかなかった。ウィリアムは、ついこの前まで意識不明の重体だった。いや、重体だったのはほんの最初だけだ。彼は自身の魔法によって、命は繋がれ、傷はすぐに塞がった。だが、爆発で千切れた左足だけは戻れなかったようだ。膝下から先を失ったその足は、包帯すら巻いていない。ウィリアムは、あえてその傷を隠そうとしなかった。むしろ、ザフィーアに失った左足を見せつるけるように、誇示するように、左足を前に突き出したまま、彼はゆっくりと言葉を続ける。


「まあ、落ち着けよ。あっちには、船長であるエドワードのヤツの姿がなかったんだろ? つーか、アイツが生きていたら、二度目で止めたはずだ。ケルベロスに襲われたせいで、こっちは速攻の襲撃に対応が遅れてたんだろ? 結果、甚大な被害を受けた。おめぇら、何も備えてなかったみてぇだからな。それは仕方ねぇヨ。それは、な?」


「……何が言いたい?」


「むこう様は、感情的になって引き際を誤った。ありゃ、エドワードの野郎の指示じゃネェな。奴なら、あそこで引いて、立て直したはずだ。じっくりと、オレたちをいたぶり苦しめてたはずだ。確実に殺すためになぁ。あそこで、オレたちの敗北は決定的になるはずだった。だが、三度目の襲撃。あれが妙だ。あれのせいで、痛み分けになっちまったからなぁ。感情的になる理由は、何だ? ……こりゃあ、オレの憶測だが、アイツらの頭であるエドワードを失ったんだ。死んだのか? いや、あの程度で死ぬようなタマじゃねぇ。せいぜい、重症ってとこだろうな。つまり、奴らは重傷を負ったエドワードのヤツの仇討ちをしようとしたんだよ」


 再び、彼は左手で光沢のない髪の毛を撫でるように掻き上げた。手や脚の皮膚、唇などカサカサで砂のような白い粉を吹いている。だが、その目だけは違った。洞窟の暗闇の中で彼の目は鋭く、怪しく光る。ギラギラとした野心と執念が宿ったその光こそ、ザフィーアがヴァイキングなんぞと同盟を組むと決意した、決定的な理由だった。


「……ここまでくれば、何が言いてぇか分かるよな?」


 ウィリアムはわざとらしく間を置き、ザフィーアの目をじっと見つめていた。まるで思考を止めるなと命じているかのように。そして、独り言を呟くように、誰に向けるでもなく言葉を落とした。ザフィーアに向けているようで、ザフィーアに向けていない。まるで、もう一人の自分に言い聞かせているかのように見えた。


「つまり、消耗しているのはオレたちだけじゃねぇってことだ。絶対に、補給する時間(ひま)を取らなきゃならねぇ。それに加え、向こうさんはエドワードと戦力の大半を台無しにしたんだぜぇ? オレたちは今、アイツらには襲われねぇ。最終目的は達成できなかったが、宣戦布告はもう済ませちまったんだ。今さらグダグダ言ってもオセェってこった」


「ならば、どうする? 奴らの船を拿捕できなければ、こちらから攻め入ることはできんぞ? 攻め入ることができなければいずれ負ける。数の差で包囲され、補給は完全に断たれ、干上がる。……必負だ。ここにいる我らは、独自の判断でこの聖戦を決行した。ならばこそ、同族からの支援や増援は期待できないぞ」


「船は奪えなかったが、十分近くで見たんだろ? ドワーフどもには造船技術がねぇといっても、モノ造りに関しちゃあ一流なはずだろ? 何とかならねぇのかよ?」


 ウィリアムは肩を竦め、口角をわずかに吊り上げてそう言った。だが、ザフィーアは唇を噛みしめながら、押し黙るしかなかった。しばし沈黙し、やがて低く呟いた。


「……我らは『海の波に嫌われた種族』だ。遥か昔、我らの先祖様たちは、この大陸に迫りくる波に立ち向かった。砦を築き、『魔剣』を手にし、憎き耳長(エルフ)どもと同盟を組み、波を退けようとしたのだ。だが、幾度挑んでも波は死ぬことなく、砦は海に沈み、仲間は呑み込まれた。波を退けることには成功したのだが……我らの種族は呪いを受けた。海を受け入れることができなくなった。やがて、先祖様は海に背を見けることにした。山を越え、谷を渡り、内陸へと暮らしを移した。認めよう、それは敗北だった。その敗北は、我らの体に、心に、血に、しっかりと刻み込まれている。海に挑むことを忘れ、波の音を忌み、水平の向こうに沈む太陽すらも恐れた。判かったか? 我らの種族は、海に見放された。いや――海そのものに、呪われたのだ」


「泳げねぇ言い訳にしちゃあ……よく考えてあるじゃねぇか。つーか、溺れるのが怖ぇから船は造れねぇってことだろーが? 言い訳が長いのは、愚者(ばか)の証明だろ?」


 ウィリアムはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らし、皮肉げに嗤った。彼の一言にはまるでドワーフの戦士として戦いの歴史を神話そのものを茶化すような響きを持っていた。ザフィーアの目尻が、怒りで釣り上がる。だが、対面する彼の目はまったく笑っていなかった。その奥底には、何か別の意図が潜んでいるのが分かったからだ。ザフィーアは彼が何を考えているのか探ろうと口を開こうとした——その瞬間、洞窟の奥からかすかな気配が忍び寄ってきた。洞窟の空気が揺らいだ。邪魔者が洞窟の中に入ってきた。ドワーフの戦士としての本能が、経験が、即座に異変を察知する。敵襲か、とザフィーアは反射的に腰の後ろに手を伸ばし、神への献身(アイゼルナー・ヴィレ)をその手に取った。


「……はぁ、はぁ……ぃ、た、助かった」


 すると、洞窟の入口からか細い声が聞こえてきた。息も絶え絶えで、今にも消えてしまいそうなほど弱弱しい。ザフィーアとウィリアムが同時に顔を上げ、闇の奥にいる人物を見つめる。そこに現れたのは、ドワーフの同胞ではない。恐らく、ヴァイキングの一員だろう。


「……誰だ、貴様は?」


 ザフィーアは無意識のうちに呼吸を浅くし、耳を澄ませた。油断はしない。冷たい金属の感触が、彼の拳に確かな現実を与える。何か怪しい素振りをすれば、即座に頭蓋を叩き割ることができるように万力の力で神への献身(アイゼルナー・ヴィレ)を握る。


「ッ、ビョルンです! ラグナルの息子()、ビョルンです!」


「…………ぁー、ビョルンじゃねぇか! ハハハハ、ッ、生きてたのか、ビョルン! ケルベロスに襲われて死んじまったかと思ったぜぇ!」


 だが、ザフィーアはすぐに強めた警戒を解くことになった。ウィリアムが突然、彼の緊張を切り裂くように陽気な声を上げたからだ。ぎょろんと、目玉を回すように男の全身を舐めるように、注意深く見渡したかと思ったら、何かを思い出したように立ち上がり、フランクな態度で男に近寄った。片足になったばかりのくせに、器用なものだ。ザフィーアは彼のその豹変ぶりに驚き、眉をひそめたが、彼の背後の影に隠れるようにいた数人の人間たちを見て、評価を改めた。もちろん良い方にだ。


「……このニンゲンどもは、貴様が連れてきたのか?」


「ぁ、はい! オレがここまで連れてこれたヤツらです! あ、安心してください! 海賊どもにここはバレていないはずです。つけられないように細心の注意を払ってきましたから!」


「……そうか、よく生きていたな」


 ザフィーアは思わず賞賛を口にしていた。男の後ろから、ゾロゾロと現れたのは明らかに負傷をした者たちだった。つまり、この男は負傷者たちを率いてここまで辿り着いたということだ。ザフィーアは改めて、男の……ビョルンの全身を深く観察してみることにした。若い男だ。かなり、若い。ニンゲンの年齢はドワーフの目には分かりづらいが、それでも若いことだけは分かる。二十三か、二十四、少なくとも三十年も生きていないだろう。ヴァイキングの中でも、まだまだ下っ端なのはずだ。服が貧しく、奇妙な格好をしている。いや、ザフィーアの感覚が年寄りになっただけで、若者の間で流行っているだけかもしれない。


 全体的に細身の体つきだが、よく鍛えられた腹筋が上着の隙間から露出している。鉄の腹筋。ニンゲンの戦士の筋肉だ。その上着の下には、使い込まれた鎖帷子が覗いていた。腹部は堂々と露出しているくせに、脇や肩、背中はしっかりと守っている。何を、どこを守りたいのかよく分からない。やはい、ちぐはぐな格好だ。少なくとも、モノ作りに誇りを持つドワーフの琴線に触れるようなものではない。美意識に到底そぐわない。


 チラリ、とビョルンと名乗った男の背後に控えるように身体を休めている者たちへと視線を移す。ボロボロ、ズタズタ、という表現が似合う。血に染まった包帯、破れた鎧。疲労に沈んだ顔。戦士というよりもまるで浮浪者だ。少人数。人影は四、五つしかない。疲弊しきっており、即戦力にはならないだろう。彼らには、まず回復の時間が必要だ。だが、その瞳だけは、しっかりと前を――ビョルンの背中を見つめていた。熱い信頼を滲ませていた。


 ケルベロスの襲撃から逃げ延びたというのは、伊達ではない。賞賛に値する。今はまだ、下っ端かもしれないが、将来は大物になるだろう。荒削りで、未熟な部分も多い。だが、彼の立ち姿には風格なようなものがあった。必死に立ち上がりながら、物怖じせずウィリアムに向き合う彼のその瞳に、その姿に、ザフィーアは戦士としての資質を見出していた。 


「おいおい、そんなことはどうでもいいだろ? 今は。ビョルン、お前らずいぶんとボロボロじゃねぇか? よくぞまぁ、ここまで生きて辿り着いたもんだ。……で、誰にやられたんだ? クソ海賊どもか、それとも犬畜生か? オレたちが仇討をしてやるよ?」


「……いやぁ、兄貴にそこまでしてもらうわけには……」


「水臭ぇこと言うなやぁ。ここにいる連中は全員、家族みたいなもんだろ? 一蓮托生ってやつだ。オマエの傷はオレの傷だし、お前らが流した血は、俺が流した血でもある。だからよぉ、正直に言ってくれ。オマエたちを襲ったのはどっちだ? オレはオマエの兄貴みてぇなもんだろ? だったら、教えてくれよ? なぁ?」


 ウィリアムは肩を竦め、軽く笑いながら言葉を突き出す。最初はビョルンも苦笑しながら首を振っていたが、彼の誠実な言葉を受けて、目を見開く。彼の背後にいた人間たちも同様だ。かすかな光が差したような、希望を見出したような顔をしている。ザフィーアは黙ってその様子を見つめていたが、心の奥底で嫌な予感がじわじわと広がっていくのを感じた。何かが起こる前に、彼がウィリアムを止めようとしたが――それよりも早く、ビョルンが口を開いた。


「そうですね、オレたちを襲ったのはケルベロスっす。直接、姿を見たわけじゃないっすけど……オレはケルベロスが出たって報告を聞いた瞬間、ここにいた連中を一先ずはドワーフ、彼らが造ってくれた武器庫の中に避難させました。それで運よく助かったんっす。あ、でも、こいつだけは途中で拾いました。見知った顔っす。海賊に襲われて怪我をしてたみたいなんで……」


「刺し傷に、打撲かぁ。オマエらが傷だらけなのは、途中で海賊と戦闘になったからだなぁ?」


「はいっ! こいつが、スヴェンが怪我して、止めを刺さされそうになってたんで……助けるために好戦しました!」


 ビョルンが指を差した先にいたのは、負傷者の中でも一段と傷が深い男だった。顔は洞窟の壁と同じくらい青白く、胸元の訪台はすでに血で真っ赤に染まっている。酷い傷だ。一目で、助かる見込みが薄いと判断できるほどの重症だった。どうやら、スヴェンという名前の男は彼らしい。これから剣を持つどころか、命が持つかどうかも分からない。ここにある医療具は、水は、ただでさえ貴重なのだ。そして、これからもっと貴重になるだろう。無駄にするわけにはいかない。ザフィーアが瞬時に残酷な思考を巡らせたところで――


「そうか、そうか! ご苦労だったなぁ!」


 ウィリアムが粘着質な笑みを浮かべた。ニタニタと媚びるような笑みだ。そして、男娼のような手つきで彼はゆっくりとビョルンの肩に左手を置いた。左でが、肩から首へ、耳へ、頬へと、じわじわと這うように移動していく。人懐っこそうなビョルンも、さすがに不快そうに顔を背ける。だが、ウィリアムの手は蛇のようにしつこく追いかけ、ついに彼の左手はビョルンの顔面をがっしりと掴んだ。握力だけで、頬骨が潰されそうなほど力強い。ビョルンは戸惑いながらも、抗議するように彼の左手を掴んだ。まさに、そのときだった。


 パン、と何かが爆ぜる音がした。次の瞬間、天井まで血飛沫が上がった。骨。肉片。も混じっている。ビョルンは声を上げる暇すらなく、一瞬のうちに絶命した。命を絶たれた。精悍な顔面の半分が抉れ、頭蓋の内側から破裂ような傷口が赤黒く口を開けていた。ザフィーアはその光景をただただ唖然と立ち尽くすしかなかった。ウィリアムは血に濡れた左手をゆっくりと引き、まるで何事もなかったかのようにぼそりと呟く。


「本当に、ご苦労だったなァ……」


 合図もなくウィリアムの背後に控えていた男が動いた。老兵――そう見えたのは錯覚だった。実際には、そこまで年老いているわけではない。だが、そう錯覚するほど、どっしりとした威圧感がある。年輪を越えている。獰猛と狡猾が同居したような人相。目元には深い皺が刻まれていて、苦労してきたのが分かる。その男が、無言のまま、長斧を容赦なく振り上げた。そして、ビョルンが引き連れてきた者の中から一人を殺してしまった。


 頭部を、容赦なく叩き割る。鈍い音。ニンゲンが、生き物の頭蓋が割れる鈍い音。それが、洞窟の中に響いた。柔らかな脳漿が、ごちゃりと地面に飛び散った。その場にいた者たちは、ビョルンと苦労を乗り越え、命からがらケルベロスから逃げ延びた者たちは悲鳴を上げる間もなく、全員の命が潰えた。そして、最後にウィリアムはビョルンを――いや、ビョルンだったものをぐしゃりと踏み潰し、スヴェンへと近づく。スヴェンは悲鳴を上げるように、這うように、必死になって距離を取ろうとしていた。だが、足はもつれ、無様に、命乞いのように足掻く。だが、捕まった。捕まってしまった。彼の左足が、スヴェンの左手にじっくりと触れる。味わうように、愛おしむように、指先が皮膚をなぞる。スヴェンの左足をじっっくりと触れる。その仕草は、弱った獲物を前にした捕食者のそれだった。


「……おめぇ、いい脚してるナァ?」


 そして、呻き声を漏らすスヴェンに向かってそう言い放ったのだ。再び、パンッ、と何かが爆ぜる音がした。スヴェンの左足だ。血飛沫が飛び散る。洞窟の岩肌に赤い花が咲いた。スヴェンの口がわずかに開き、声にならない悲鳴が漏れた。だが、すぐにその声も止んだ。彼にはもう、苦しみはなかった。痛みもない。彼は生物から、物言わぬただの骸へと変えられたのだから。ウィリアムの左手によって。ウィリアムはスヴェンの千切れた左足を拾い合えると、ゆっくりと自らの左足の傷口へと押し当てる。ごぼりっ、と血と血が混じり合ったような嫌な音が響く。肉が蠢き、スヴェンの足がウィリアムの傷口へと吸い込まれていく。肉が絡み合い、皮膚が縫い合わさり、骨が軋みながら噛み合う。それは、異様な光景だった。まるで異形の化け物のように、スヴェンの左足を食らい尽くしたウィリアムは両脚でしっかりと立ち上がった。


 ザフィーアは、ようやく我に返った。怒りと混乱が胸を満たし、喉の奥から何かが込み上げてくる。それは、皆も同様だ。敬意を払った相手を、むざむざと目の前で殺されて何も言わぬほどドワーフの戦士の名は安くない。目の前で起きた惨劇を焼きつけるように彼らの遺体を見つめ、ザフィーアは低く、怒りを押し殺した声で抗議の言葉を発した。


「おい、こいつは……」


「ァ? ぁー、うー、ああ、そうか。オマエらって初対面だったなぁ? 失念してたよ。こいつはなぁ、ラグナルの息子なんだよ。あ、ラグナルっていうのはなー、ヴァイキングを結成したヤツの名前だ。つまり、オレの前にヴァイキングを率いてたヤツってことだ。先代っていうんだっけな? ボクは、随分と世話になったなぁ。酷いヤツだったんだ。冷酷でよー。当時、下っ端だったオレらは、散々な扱いだった。特にオレは、顔が整ってるって言われて……あー、そうだった。ボクは変態の『ウィリアム』のヤツに売られたんだ。銃や剣や大砲とか、海賊と戦うために必要なものを売ってくれる、少年(おとこ)好きの変態野郎だったなぁ。だから()()は、商人が嫌いなんだ。だけど、兄貴分を名乗っていたあいつが——」


 ウィリアムの声が、急に掠れた。どこか不安定で、ふらつくような彼の足取りが、ピタリと止まった。その場にいた誰もが、彼の様子の変化に気づいた。右脚が痙攣し、彼の身体がぐらりと傾く。額に浮かぶ汗、焦点の合わない目。発作だ。ウィリアムは何かを思い出そうとしているみたいだった。不気味だ。その姿は、先ほどまで狂気に満ちた男とはまるで別人のように、どこか脆く、壊れかけていた。顔を押さえて嗚咽のように声をひりだす。


()()は、ボクら……ぁ? 何言ってんだ、オレわぁ? 『ウィリアム』って誰だっけ? オレは、ボクの名前は……」


「……チッ、またか」


 誰の者とも知れぬその舌打ちが、洞窟の空気をさらに重たくした。鋭い舌打ちをした本人は、ウィリアムの背後に控えていたあの男だった。彼は一瞬だけつまらなそうな顔をしたかと思ったら、ウィリアムの顔面を殴り飛ばした。壁まで吹き飛ぶ。今度こそ、本当に何が起こったのか分からなかった。ウィリアムに忠実な部下のような顔をした男が真っ先にウィリアムに手を上げる暴挙に及んだことに理由を見出すことができなかった。だが、そのときだった。彼は突然、平常心を取り戻したみたいだ。うわごとを呟き続けることがなくなった。そして、自身の頭を撫でるように左手で髪を整える。血に濡れた左手で髪を撫でるたびに、赤黒い線が、額や髪の毛を塗り潰していった。


「……戻ったようだな、()()()()()


「ああ、戻ったよ。クソ野郎。『骨なし』のイーヴァル様のおかげでオレは正気を取り戻すことができましたぁーよ? 兄弟を殺されても顔色一つ変えない下種が! 今度やったら、てめぇの穴が一つ増えると思え。クソがしやすくなるようなドデケェ、ドデケェ、下品な穴だ」


「礼は不要だ。ビョルンは不出来な弟だ。アイツにはヴァイキングとして大成する(さい)がなかった。ならば、今のうちに処理した方が都合がいい。神輿は軽いに越したことはないが、多すぎても困るのだ。よく知ってるだろ? それよりも先に川で水浴びをしてこい。血がべっとりとついてしまった」


「なら、てめぇが先だ。どうやら説明して欲しそうな面をしているドワーフ(アホ)どもが、そこにいるからなぁ。イヴァールはビョルンどもの血を浴びた連中を連れて、水浴びにでも行ってこい。血も臭いも、皮膚ごとすべて洗い落としておけ! ぁ? てめぇら、いつまでボケッとしてやがんだ! オレの命令だ、さっさと行動しろ! じゃねぇと、ビョルンの馬鹿みてぇにぶっ殺すぞ!」


 ウィリアムは洞窟の中に響き渡るような怒声を放った。まるで別人が乗り移ったかのように、口調も態度も変わっていた。彼の怒声を真っ向から受けた男――確か、イヴァールと呼ばれていた男は、微かに肩を竦めた。そして、血に汚れた長斧を無造作に肩に担ぎ、「来い」と短くに命令を出した。感情の起伏が一切なかった。ヴァイキングたちは戸惑いながらも怖いのか、命令に黙って従っていた。洞窟の入口へと消えていった。睨むように男の背中をじっと見ていたウィリアムは、ヴァイキングの連中が完全に姿を消したのを確認すると同時に、深く息を吐いた。その吐息は、わずかながらニンゲンらしさが戻っていた。


「悪かったな。ツマラナイものを見せちまった」


「……構わん。それよりも何故殺した?」


 ザフィーアは目を細める。足元に広がる血溜まりの中、未だにドバドバと血が流れ続けている遺体を――ビョルンの遺体を見つめながら、低く問いかける。ウィリアムは『まだそこかよ?』と呆れたような目でザフィーアたちドワーフを見つめる。彼の態度には、苛立ちと倦怠が滲んでいるのが誰の目にも理解できた。


「決まってるだろ? こいつらは、ケルベロスに臭いを覚えられた可能性がある。この大陸で生きてんなら知ってるはずだ。ケルベロスの執念深さを。生き延びたんじゃなく、遊ばれてる可能性がある。生き残ったんじゃなく、生かされたんだ。ケルベロスに追われながら、海賊たちからも逃げるのは至難の業……いや、さすがに不可能だ。だから、殺した。リスクを断ち切るためになぁ」


 不機嫌そうなウィリアムは血に濡れた左手を軽く振りながら、まるで竈の前で雑談でもするかのように言葉をつづけた。彼は一度、視線をビョルンの遺体から逸らし、洞窟の天井を見上げるようにして、ふっと息を吐いた。


「ついでに、誰だっけ? ス、ス……まあ、いいやぁ。そこの死体(ヤツ)はケルベロスじゃなくて、海賊に襲われたって言ってただろ? アイツは腹芸ができないヤツだった。つまり、ケルベロスに臭いを覚えられてねぇってことだ。だから、足を(もら)った。どうせ、死にかけてたんだし、助けられねぇ。ケルベロスから逃げ延びたってだけじゃあ、オレたちも追われるかもしれねぇ。迷惑だ。だから、殺した。それのどこに文句がある?」


 ウィリアムの左手の指先からポタ、ポタ、と血が滴り落ちる。洞窟の静寂の中に不気味なリズムを一定な間隔で刻んでいた。やがてザフィーアは顎髭を撫で、口を開いた。彼のやり方は、思考は理解できた。確かに一理ある。最善だ。最善ではあるのだが、ザフィーアは背後にいる同族を先導してきた者として言わずにはいられなかった。


「……そのやり方では、いずれ誰もついてこなくなるぞ?」


「ついてこなくなるだぁ? 何、寝惚けたこと言ってんだ? 後先のことなんてどうでもいいだろ? オレはここで因縁に、海賊どもと蹴りをつけるつもりだ。オマエらだってこの聖戦にすべてを賭けたんじゃねぇのか? 同族どもの思惑を無視して、裏切って、勝手にオレらと手を組んだ。もう引き返せはしねぇだろうがぁ?」


 ウィリアムはそう言うと、口元を歪めて笑った。覚悟の重さを量るように、ザフィーアの顔をじっと見つめる。そこでようやく彼は自身の間違えに気が付いた。彼の笑みはどこまでも冷たく、どこまでも孤独だったことに。ヴァイキングたちとドワーフの戦士は、目指すべき場所こそ同じでも、辿る道も、やり方も、手段も、歩き方も、何もかもが違い過ぎるのだ。ついていけない。そんな想いがザフィーアの沈黙の奥に確かにあった。それでも、ザフィーアは感情の一切を押し殺し、次の問いを投げかけた。この先の道のりを知るために。


「……これからどうするつもりだ?」


「ぁー、そうだなぁ。これから、これからはー、東に向かう」


「……それは、何故だ?」


 ザフィーアは眉をひそめた。ウィリアムはにやりと笑う。その粘着質な笑顔は、何かを企んでいる者特有の底知れない気配があった。


「おめぇらドワーフみてぇに国を、壁を持たないオレたちが。どうやってケルベロスに出くわさないように逃げ回っていたと思う? 簡単だ。見つからないように、こっそりと後をつけていたんだ。定住せずに、ケルベロスの(ケツ)を追い回するみてぇに移動し続けるンだ。これから、たぶんだがヤツは東に行く。海賊どもと一戦ぶちかましちまったせいで、血の臭いを嗅ぎつけてきたみてぇだが、何もしなければこの時期は大陸の東側に消える。それに、海賊どもの目をくらまさなければならねぇ。おめぇたちは知らないだろ? 安全な場所にいたてめけらは、ケルベロスの生態も、ヴァイキングの生き方をほとんど何も知らねぇはずだ!」


 ザフィーアは無言のまま、ウィリアムの言葉を受け止めていた。言葉も常識も違う者に何を言っても無駄になると諦めたからだ。諦観。彼の表情は何も変わらない。だが、内心では何かが軋んでいた。ウィリアムはそんな彼らの沈黙を勝手に肯定と受け取ったのか、さらに言葉を重ねる。


「まあ、予定外なことは認めるぞ。オレだってなぁ。本当はあそこで船を奪えていたら、今頃もう黄泉の国だ。てめぇら、ドワーフの戦士は『聖戦』って名の戦争をおっぱじめることができて、街々を襲い、男を殺し、女を凌辱できたはずなのになぁ? 残念でしかたがねぇだろ?」


 彼の言葉に唯一、ザフィーアの眉がぴくりと動いた。感情の揺らぎを示す、わずかな兆候。彼のスッと表情が抜け落ちた中に、燃え盛る怒りが潜んでいた。


「訂正しろ、ウィリアム。我らが行うのは侵略ではない。これは、()()だ。正義のための戦いだ。我らが鉄を打ち、黄金を整え、鉱石を磨き上げ、神々に捧げた品々。それを何の畏れもなく奪い去った。だから、こうなったのだ。我々が正義で、ムコウが悪だ。向こうが先に手を出したのだ。奪うからこうなったのだ。我らにとって、あの供物がどれだけ大切な意味を持つか、貴様らには理解の外なのだろう。いや、理解しようとすらしていないではないか! ならばこちらも、力で、流血で、武力を以て、わからせるしかないではないかぁ!」


 力強く、足を踏み鳴らす。岩壁に反響し、まるで号砲のような音を奏でる。ザフィーアの声が次第に熱を帯び、洞窟の奥にまで響き渡った。その怒声は、演説というよりも、もはや咆哮に近かった。背後に控えるドワーフの戦士たちも同類だ。彼らの目には信仰の炎が宿っていた。興奮を焚きつけるように、彼の説教のような……いや、説法のような言葉を続ける。


「王亡きこの地に、我らが武勇を知らしめる時が来たのだ。我らが使えた偉大なる王はもういない。だが、我らが神は死んでいない! 我らが鍛えた鋼は、未だに鈍らず。我らが掲げた信念は、未だに折れず。我々が愛した神に、誓って。三度言おう! これは、聖戦だ。我らの信仰を踏み躙り、神聖なる黄金を穢した海の向こう側にいる海賊(ぬすっと)どもに反省を促し、鉄槌を下し、神罰を与えるための聖戦だ。聖なる戦いなのだ! 我らが立ち上がらねば、誰がこの理不尽に抗うのだ!」


 ザフィーアの声は、耳を打つような鋭さで洞窟を満たした。握り締めた拳を天高く掲げ、さらに声を張り上げる。ザフィーアの拳は、今にも点を突き破らんばかりに固く握られている。その姿を見た背後に倣うドワーフたちは、まるで何かに取り憑かれたかのように拍手を始めた。最初は一人、二人、やがて洞窟全体が自然と拍手の音に包まれる。嵐。まさに、拍手の嵐。中には、落涙する者もいた。しばらくの沈黙の後、ウィリアムが口を開いた。


「ぁー、終わったかぁ? 煽ったオレが、言えた義理じゃねぇのは理解()かっちゃいるが……どいつもこいつも、いつまで過去のことを気にしてんだ? つーか、ドワーフの聖戦(それ)は自分の都合を一方的に押し付けた、ほとんど難癖みてぇなものじゃねぇかぁ? グリフォンを殺すな、とかよぉ」


 心底、飽き飽きした様子でウィリアムは吐き捨てるようにそう言った。そこには皮肉も、嘲笑もない。ただ深い疲労と、冷え切った灰のように乾いた諦めがあった。まるで、すべてに興味を失った者のようにウィリアムは蚊を追い払うような仕草でザフィーアたちを追い出した。


「ほら、疑問には答えてやったんだ。てめぇらもさっさと血を流してこい。ついでに、頭も冷やしておけよ。盛りついた気狂いに、背中を任せるほど危険なことはねぇ。穴掘りは得意なんだって? やるんだったら、海賊どもにしとけ。それまでは、オマエらの武器はそっと磨くだけにしとけよぉ。()り合う前に、暴発したなんて男として、戦士として、笑い話にもならねぇだろぅ?」


「……くだらん」


 ザフィーアはウィリアムの嘲笑に短く、しかし鋭く返した。こいつの言葉にこれ以上付き合う気はなかった。睨みつける同族たちを静止する。そして、ザフィーアはウィリアムに背中を見せて洞窟の入口へと歩を進めた。もうヤツには、何も期待していない。こいつらは戦士ではないのだ。ただ、己の信じる道を、ここにいる同族たちと共に突き進むだけだった。だが、洞窟を出るその直前、彼はふと足を止め、血に濡れた遺体へと視線を落とす。血に濡れた遺体は、痛ましく、命からがら帰還した戦士への仕打ちとしては最低もいいところだった。だから――


「蛮勇……いや、『剛勇』だったな。貴様――いや、貴殿の勇気と行動は我らがしっかりと覚えておこう。無念だろうが、ここで静かに眠るといい。我らが用意した拠点(はかあな)でな」


 その静かな呟きは、誰に向けたものでもなく、ただ亡き者への弔いだった。ヴァイキングは同じ志を掲げた戦士などではなかった。ただの漂流者であり、蛮族だ。だからこその、礼賛だった。戦士としての矜持を守るために礼儀を尽くす。まるで自分たちは侵略者ではなく、誇り高き戦士であると、己に言い聞かせている儀式のように見えた。


 ザフィーアは静かに覚悟を決めていた。こいつらには、まだ利用価値はある。海賊どもに神罰を下すために、我々は悪魔と契約したのだと。代償が、どれほどになるのかはまだ分からなかった。だが、後戻りはできない。この血に濡れた道を進むと決めたのは、ザフィーア自身なのだから。そして、彼らは太陽の光が差し込む洞窟の入口への歩き去ってしまった。





 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※





 やがて、ザフィーアたちが歩き去った後の洞窟の中には再び、静寂が訪れた。ウィリアム以外の人間の気配は、完全に消え失せていた。残されたのは、生々しい血の臭いだけ。ウィリアムは血に濡れた自身の左手に目を落とす。まだ人間の温もりが残っている赤黒い液体が、べっとりつ張り付いている。その手をじっと見つめながら、ゆっくりと、深く、溜息を吐く。


 ビョルンの血だ。アイツとは、何かと関わることが多かった。先代のヴァイキングの長、クソ野郎(ラグナル)の息子のくせに、妙に明るくて、素直で、いいヤツだった。知恵と度胸と根性とイカレ具合が足りないだけで、イーヴァルのような腐れゴミとは大違いだ。だからこそ、殺さなくて済むように、懐柔した。言葉を選び、態度を和らげ、何度も手を差し伸べた。いつ謀反が起こるのか分かったものじゃなかったから。オレに牙を向けさせないために、何だってした。


 だが、無駄だった。今となっては、もう何を話していたかも思い出せない。何を喋ったか、何を好きだったか、どんな顔か、どんな声か――すべてが、霧の中に溶けていく。記憶が薄れてきている。あいつは、死んだ。生き返ることはねぇ。だから、もう忘れっちまった。


「……」


 ウィリアムは調子を整えるように、左手で不健康な灰色の髪を整えながら、ゆっくりと自分の頭を撫で上げた。額にこびりついた血を拭いながら、ゆっくりと頭を撫でる。自分の中の心を縫い合わせるように。『ツギハギ』のウィリアムは再び、心を、記憶を、縫いつける。切って、刻んで、縫いつけて。切って、刻んで、縫いつけて。そうして、何度も何度も、自分という存在を繕ってきた。


 魔法で身体を再生するたびに、当然ながら激痛が走る。怪我をしてるんだからなぁ。肉が裂け、骨が軋み、神経が焼ける。息ができなくなるほど、焼けつくような激痛だ。死ににくいからといって、痛くねぇわけじゃねぇ。死なねぇだけで、死ぬほど()てぇ。激痛を誤魔化していくうちに、正気を取り戻していく過程で、もう自分の本当の名前すら思い出せなくなっちまった。ぐちゃぐちゃだ。殺しちまった相手の悲鳴と殺してきた相手(てき)の発言が頭の中で切り貼りされて……ツギハギされて、自分の存在がぐちゃぐちゃになる感覚。名前も、過去も、感情も、すべてが継ぎ接ぎの記憶の底に沈んでいった。


 たまに、正気を取り戻せたと思ったら、イーヴァルのクソにすぐに戻されちまう。腐臭のような声、歪んだ嗤い、血の味。気づけば、また自分の意識はこちら側に引きずり戻されている。だが、先程の『事故』で思い出したこともあった。約束。断片的に、だが確かに蘇った。オレは、誰かと約束をしたはずだ。そうだ、そうだった。オレはそのために、ヴァイキングの長にまで上り詰めたんだったぁ。ゴミ山の頂に、這い上がって。それは、かつてオレが……オレたちが夢にまで見た、たった一つの願い。糞に塗れ、血に汚れ、男たちの慰み者にされ、それでもなお、抱き続けたたった一つの願い。


「もうすぐだぁ、もうすぐ、オレたちの国が手に入るぞ。だから、見ていてくれよ……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。名前も、顔も、思い出せない。でも、確かにいたはずだぁ。確かに、約束したはずなんだぁ。記憶の輪郭はぼやけているのに、胸の奥に焼き付いた熱だけは、今も消えずに残っている。そこで、ウィリアムはゆっくりと顔を上げて、洞窟の入口へと視線を向ける。差し込んでくる太陽の光が、彼の顔を照らす。その目には、かすかな光が宿っていた。それは希望か、執念か、あるいは狂気か――もはや判断できなかった。ウィリアムは差し込む光に向かって左手を伸ばし、血に濡れた拳を固く握った。


「てめぇらは聖戦のために。オレたちは国を奪う(つくる)ために。それぞれの夢のために……せいぜい、協力してもらうぜぇ、ドワーフども」


 ウィリアムの独り言。過去の痛みと、夢への執着が込められていた。それは、彼の中で燻り続ける火種。彼の中で彼を焼き付けている火種そのもの。誰にも消せない。誰にも触れさせることはない。だけど、確かに燃え続けている。執念と執着の炎。それが、今の彼を突き動かしていた。血と鉄と、裏切りと神々への誓いが交差する戦いの幕が、今、静かに上がろうとしていた。


 リーネたちの知らない遥か遠くの場所で、破滅の音が微かになり始めていた。それは、翼を求め、太陽に近づいた青年の末路を告げる鐘の音。その結末が、とっくの昔に決まっていたとしても――ウィリアムはなおも太陽を目指し続ける。焼け落ちるその瞬間まで、夢を手放すつもりは毛頭なかった。これは、彼らを助けてくれなかったこの世界への復讐。誰も救ってくれなかったあの日の報復。運命を狂わせる歯車になろう。それが例え、関係ないヤツらに莫大な不幸を振りまくとしても。それは、それで構わない。パンドラの箱を開けるのは、常に自分でなければ気が済まない。それが、ウィリアムという人間の本質なのだから。




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