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第八十八話 『星を戴いて出で、星を戴いて帰る』


「もう、朝なのね」


「……ということは、徹夜だったんだな」


 リーネの疲れが滲むその一言に同意するように俺は口を開いた。ちょっとした肉体労働の後、俺たちは迷宮の入口から……いや、出口からのそのそと這い出るように歩いてきた。足取りは重く、まるで全身の骨の代わりに鉄骨を入れられたかのようだった。靴底にまとわりつく土の感触は、迷宮の冷たい石畳とはまるで違っていた。柔らかく、乾いた地面は反発することがない。反発することがないということは、受け入れてくれるということ。そして受け入れてくれるというのは、歩くのが楽になるということだ。


 地上に出た瞬間、目の前に広がっていたのは夜の名残をわずかに残した淡い朝の光だった。突き抜ける空はすでに白み始めていて、西の地平線の向こうからは、じわじわと太陽が顔を覗かせていた。その光は迷宮の暗闇に馴染んだ俺たちの目を、疲れ切った身体を、容赦なくあぶるようにじりじりと肌を焼いてくる。太陽の日って、浴びるだけでも体力が減るんだな。新しい発見だった。まるで持続ダメージの魔法を受けているかのように、じわじわと俺の中にある何かを削ってくる。


 朝日が見える。朝日が見えた。つまり、俺たちは徹夜であの迷宮の中を彷徨っていたのだ。眩い太陽の光に全身を照らされながら、しばし無言で立ち尽くしていた。俺たちはこの人喰い迷宮からの脱出に、成功したのだ。


 あー、疲れた。疲れた。何が一番疲れたって、身体よりも……いや、身体も十分疲れているのだが、それ以上に心が疲れ果てていた。人喰い迷宮の暗闇がもたらす不安。ミノタウロスという名の怪物と曲がり角でいきなり接敵するかもしれない命の危機。一歩踏み出すたびに、左右のどちらに進むのかを選択するたびに、命を賭ける覚悟を強いられるあの最悪な空間。それらに同時に襲われたのだ。そのすべてが、容赦なく精神を削ってきた。不安と恐怖と緊張と絶望が、絶え間なく押し寄せてくる。


 息が詰まる。どんなに図太い神経の持ち主でも、耐えられない。耐えられるわけがない。張り詰めた神経は、とうに俺の限界を超えていた。今、こうして朝の光を浴びているというのに、奇跡的に地上に戻ってこれたはずなのに、死の気配が俺の中にこびりついて離れない。俺の心はまだ迷宮の中を彷徨っているかのようだった。この迷宮が俺たちの背後に影を落とし続けてくる。


「……」


 ヤバいな。精神がすり減っている。かなり参っている。自分でも分かる。このままじゃあ、しばらくの間、マイナスのまま戻れなくなってしまう。健全なる精神は健全なる身体に宿る、というが今の俺は精神も身体も健全とは言い難い状態だ。精神はもちろん、身体も限界なんだ。腕の、太腿の、全身の筋肉が千切れそうだ。全身に流れる魔力も底をつき、鼻血が抜けて、ぶっ倒れた。


 というか、眠たい。今すぐに眠たい。すべてを忘れて気絶するように、もう眠ってしまいたかった。緊張の糸が切れたからといって、ここまで一気に疲れが押し寄せてくるとは思わなかった。ミノタウロスから逃げ惑うだけなら、ここまでではなかった。だけど、()()の地下室での肉体労働が俺の体力を完全に削り切ってしまったらしい。そんなことをぼんやりとした頭で考えていると、ふと視線を感じた。こちらを視線を敏感に感じ取った。ぴくりと反応して顔を下げると、少し離れた場所で、何か言いたそうにこちらを見ているハイレッディンさんの姿があった。彼はウルージの近くで何かを話している。傍には誰もいない。天幕の中には、二人だけしかいない。まさに兄弟水入らずってやつだ。まあ、二人は盃を交わした()兄弟なんだけど。


「……なあ、ふと疑問に思ったんだけど。何で迷宮から出られるようになったんだ? ノリで迷宮から脱出できたけど、ワープ現象のせいで出られなかったのに何で急に出れたんだ?」


 俺は眠気と疲労で霞む意識の中で、ぽつりと疑問を口にした。無駄口を交えたその問いは、ストレッチをするように肩をぐるぐると回していたリーネに向けたつもりだった。彼女は凝り固まった筋肉を解すように、無言で身体を動かしていた。言い換えると、暇そうだったからだ。 だが、返ってきた声は、別の方向からだった。


「それは――」


「……この『迷宮』が、死んだからよ」


 視線を横にずらすと、そこにはヘルガがいた。答えようとした口をわずかに開いたリーネを、彼女が一言で制した。遮るように、彼女の不機嫌そうな声色がいきなり割って入ってきた。


「迷宮が死んだって、どういう意味だ?」


 俺は思わず聞き返した。言葉の意味は何となく分かる。だが、理解が追いつけない。迷宮が死ぬとは、どういう状態を指すのか。俺の問いにリーネは肩を竦めるようにして、あっさりと答えた。


「そのままの意味よ? 迷宮の内部に流れていた魔力の奔流が霧散したでしょう? まるで心臓が最後に強く鼓動するみたいに。あれが、死の兆候よ? 魔力を血液のように巡らせて、生命活動を維持していたけどもう意味を失った。あれはもう古代ドワーフの遺跡ではなくただの瓦礫よ」


 感覚派の二人の説明では俺の理解が遠く及ばない。曖昧で、ふわふわとしていて、どこか現実味がない。だから、もっと詳細な説明を求めるように、今度はヒビキの方を見る。ヒビキは俺の視線に気付くと、眼鏡の位置を直す演技をしながら、静かに口を動かした。


「古代ドワーフの遺跡は完璧なんですよ。完璧すぎるがゆえに、ミノタウロスを閉じ込めるという役割がなくなった瞬間、存在意義を失ってしまった。『魔剣』の一種である古代ドワーフの遺跡は、迷宮内にミノタウロスがいなくなったと判断した時点で死んでしまったんです。それだけ、脆く儚い。諸行無常の響きあり、とはいいますが……どれだけ美しい作品でも、傷がつくと無価値になってしまうとは寂しいものですね」


 なるほど、と言いたかったけど、上手く口を動かせなかった。理解はできた気がする。だけど、納得はできなかった。あれほどの恐怖と死の気配に満ちた空間が、ただミノタウロスがいなくなったというだけであっさりと死んでしまうだなんて、信じられない。俺の、俺たちの命を奪おうとした悪意の煮凝りのようなこの迷宮は、もっと強大で、もっと悪辣で、もっと不滅のものだと思っていた。俺の中に言いようのない虚しさに似た感情が、じわじわと広がっていた。


「……ヒビキは、ここにずっと住みたいみたいなことを言ってなかったか? 出入りが自由なら餓死することはないんだ、夢が一つ叶ったんじゃないか?」


 俺は少しだけ皮肉を込めて言い放つ。あの時の、意趣返しのような気持ちも多少はあった。疲労と眠気のせいで、口調が緩んでいるのかもしれない。だけど、彼はそれを咎めることなく、むしろ楽し気に笑った。


「ははは、いじわるですね。確かに、ボクが口にした台詞ではありますが……今の古代ドワーフの遺跡は、この『魔剣』はボクにとっては何の価値もありません。地下で見つけた『あれ』に比べれば――」


「ヒビキ」


 誰かが彼の名前を呼んだ。彼の名前を呼ぶ声が鋭く響く。リーネの声だ。彼女は明確な警告の色を帯びた声色で、彼の名前を呼んだ。ヒビキはすぐに口元に手を当て、軽く頭を下げた。



「……おっと、そうでしたね。ボクとしたことが、失態を……いえ、口が過ぎました」


「……わざとでしょう?」


「さぁ? どうでしょうか?」


 リーネはただじっとヒビキを見つめていた。彼女の燃えるような瞳は、まるで真意を探るように鋭く、だけどどこか呆れたようでもあった。ヒビキは彼女の視線を受け止めながら、悪びれた様子もなく微笑んだ。あくまで軽やかに振舞っていた。その不自然な反応を見るだけで、俺たちが何かを隠し事があるのは明らかだった。


「……まあ、いいわ。とにかく、これからしばらくは近隣の領主に事情を説明して回らないといけないし、迷宮から持ち帰ったお宝の換金や分配の手続きもあるわ。後始末って、地味なのに一番手間がかかるのよね。これからもっと忙しくなるわ」


 リーネは小さく溜息を吐くと、話題を切り替えるように言った。彼女の言葉に、アリアさんが軽く頷いた。


「……まあ、自然環境にも多少は影響がでるでしょうし。説明は必要ですよね」


「ぇぇ?」


 思わず変な声が漏れた。環境問題はセンシティブな話題だ。高校の授業でも時間を取って、ちゃんとやったぐらいにはセンシティブな話題だ。レインちゃんもぽかんと口を開けて驚いている。俺たちの反応に気づいたのか、リーネは「違うわよ! そういう意味じゃなくてね」と慌てて手を振るように補足した。バタバタと身振りを交えながら、早口で続ける。


「迷宮から漏れ出した……いえ、地中から吸い上げている膨大な魔素が漏れ出したせいで、ここら一体の魔素の量はしばらくの間、多くなるかもしれないけど……それも古代ドワーフの遺跡が歪めていたせいだしね。川の流れを堰き止めていた巨大な石がなくなったみたいなものだし。シュティレ大森林みたいなことにはならないでしょう……たぶん、だけどね?」


「……たぶんって」


 最後の一言に、俺は思わず顔を顰める。たぶんってなんだよ。そのたぶんが一番怖いんだっての。安全じゃなくてもいいから、せめて安心をくれ。リーネの言葉を聞いてから、俺は背後の人喰い迷宮を振り返った。天に届くんじゃないか、と錯覚するほど巨大な構造物。俺たちが命の危機に見舞わられながら、一晩で脱出することができた古代ドワーフの遺跡。悪辣で、卑劣で、邪悪な迷宮に、俺は最後に別れを告げるように全体像を静かに見つめていた。そんな中、ヒビキがふと口を開いた。


「ですが、ボクたちにとってこれは朗報でもありますね」


「……朗報ですか?」


 アリアさんは首を傾げながら、訝しむようにヒビキに問い返す。彼女の声音にはやはりまだ警戒の色が濃く残っていた。


「はい、朗報です。だって、アステリオスはミノタウロスではないことを。この迷宮自身が証明してくれたんですよ? これ以上に明確な答えが、他にありますか?」


 ヒビキはにこやかに頷きながら、言葉を続ける。すると、アステリオスを背負っていたシュテンがまるで文句をいうように低くぼやいた。まだ眠っているアステリオスの顔をちらりと見下ろしながら、口を開く。


「……だから、無駄に甘かったのか」


「おやおや、シュテンは大変ご立腹のようですね。ミノタウロスを殺すという約束は守れませんでしたが、ミノタウロスを退治することはできました。なので、いい加減機嫌を戻してくださいよ」


「……ハッ!」


 シュテンは鼻で笑った。その短い一言に、彼の苛立ちと言葉にできない複雑な感情がすべて詰まっていた。それ以上は何も言わず、彼はアステリオスを背負ったままゆっくりと歩き出した。彼の行動を皮切りに、リーネが俺たちの方へと向き直る。彼女の表情のおかげで、さっきまでの張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


「私はアリアと、それからウルージやロバーツと一緒に、迷宮内に取り残されている子たちの救出について話し合ってくるわ。状況が落ち着いたわけじゃないし、やるべきことは山ほどあるけど……一先ずは、あなたたちは身体を休めなさい。今はそれが一番大事なことよ」


「……アイアイ、船長」


 彼女の船長命令に、俺はようやく深い息を吐くことができた。長い夜が終わり、ようやく朝を迎えたのだと遅れて実感が胸に染み込んでくる。返事をする気力ももうなく、俺たちはのそのそと這うように再び、移動を始めた。すれ違う人たちは、一瞥をくれるだけで特に声をかけてくる者はいなかった。それが、逆にありがたかった。無駄な体力を消耗しなくて済むからだ。


 ふと、思い出したように周囲を見渡す。カツキとトール君の姿は、どこにも見当たらなかった。ヒビキは死んでいないと言ってくれた。だから、俺は信じている。たぶん、二人はまだ人喰い迷宮の中を彷徨っているのだろう。根拠はないが、二人は生きているはずだ。そう信じている。だから、俺はリーネの命令を守ることにした。今は休む。それが、次に備えるために必要なことだ。


「……」


 ミノタウロス——いや、アステリオスのことは、これから慎重に話し合うことになるだろう。リーネとアリアさんが、きっと上手くまとめてくれるはずだ。俺たちが口を挟むよりは、よほど確実に、穏やかに。そして、『あれ』は――地下室で見つけた『魔剣』。いや、『魔剣』と思わしきものは放置することに決まった。発見()なかったことにしたのだ。あれを、外に持ち出すことはない。あれは、永遠の闇の底に沈めておく。誰にも語らず、誰にも明かさず、ただ墓までこの話は持っていく。それが、俺たちの選んだ答えだった。


 風が吹いた。迷宮の外に広がる草木が、ざわざわと音を立てて揺れる。その風は、黴臭い迷宮内の空気を洗い流すように、肺の奥まで清らかに満たしてくれた。清々しい。まるで世界全体が少しだけ浄化されたような、そんな気がした。そして――


「……ふぅ」


 俺は小さく息を吐いた。迷宮に足を踏み入れる前、荷物を整理していたあの石の階段。その一角に、俺はそっと腰を下ろす。陣を取るように背中を壁に預け、重たい身体を預ける。全身の力が抜けていく。まるで地面に溶けていくかのような感覚だった。目を閉じると、瞼の裏側に、迷宮での出来事がゆっくりと浮かび上がってくる。湿った空気。石畳に響く足音。遠くで聞こえた、誰かの叫び。


 身震いするような寒さが、背筋に這い上がってきた。だけど、もうあそこに戻る必要はない。もうあの場所に行く理由なない。だって、もうミノタウロスはいないのだから。だって、もう人喰い迷宮は死んでしまったのだから。脅威はない。後は、当初の目的を、迷宮を彷徨っている人たちの捜索を手伝うだけで終わる。そして俺は、自分の心を慰めるように意識を手放した。まるで夢の中に沈んでいくように、ゆっくりと地下での出来事を思い出す。ゆっくりと、深く、深く――





 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※



 

 壁に、天井に、床に、まるで苔のようにびっしりと魔光石がこびりついていた。脈打つように淡く緑色の光を放ち、部屋全体に神秘的な雰囲気を醸し出していた。そして、その中心にある深紅の剣。まるでこの場の主が誰であるかのように、ひときわ異質な存在感を放ちながら、深紅の剣は静かに鎮座していた。黒曜石のような台座に突き立てられたその刃は、まるで血を吸い続けてきたかのように濃く、深く、赤い。だが、その色はただの赤ではない。燃えさしの炭の奥に潜む熾火のような、あるいは地獄の業火のような、見る者の心を焼き、魅了するような赤だった。


 濡れた魔光石が放つ緑色の輝きとは、あまりにも対照的だった。静謐と狂気。癒しと破壊。生と死。この部屋を彩る二つの色は、まるで相反する世界が同居しているかのようだ。緑の光は俺の心を落ち着かせようとする一方で、深紅の剣は心の奥底を搔き乱してくる。その狭間で、俺の意識はゆっくりと引き寄せられる。俺は、無意識のうちに一歩、踏み出していた。心臓の鼓動がやけにうるさくて、喉が渇く。


「……これが、『魔剣』」

 

 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。誰に向けた言葉でもない。ただ、目の前の光景が事実かどうか確かめるように、呟いた。それほど、『魔剣』は圧倒的だった。美しい。いや、番う。美しさだけだったら、ヒビキが腰に佩いた刀の方がよほど洗練されていた。だが、欲しいと思ったんだ。興味はない。人を傷つけるだけに生み出された武器に正直、あまり魅力を感じない。でも、それでも――目の前にある『魔剣』は欲しいと思ってしまった。心の底から、手に入れたいと願ってしまった。


 理性が警鐘を鳴らしているのに、欲望がそれを押し流してくる。まるで、剣が俺の中にある何かを、加虐性を見透かして、引き寄せているかのようだった。見る者の欲望を引き出し、心の奥底に眠る衝動を暴き出す。


 ――この剣には、抗いがたい力があった。


 深紅の剣に向かって、ゆっくりと手を伸ばす。二の腕から指先にまで、無意識のうちに力が入っていた。指先が光の境界線を越えた瞬間、空気がわずかに震えた。冷たい。だけど、それ以上に何かがこちらを見ているような感覚があった。魔剣が、俺を試している。そんな錯覚を覚えるほど、俺は心を奪われていた。


 だが、そのときだった。俺が部屋に踏み入る前に止める者がいた。ヘルガだ。振り返ると、ヘルガが俺の制服の端をそっと掴み、歩みを止めてくれた。心配そうな顔をしてこちらをじっと見ている。おかげで『魔剣』が眠る部屋に入らずに済んだ。


「ちょっとアンタ、大丈夫? 何かに取り憑かれているみたいよ?」


「……あー、ごめん。あ、ありがとう」


 彼女の声は、まるで冷水を浴びせられたように俺の意識を現実へと引き戻した。足元がぐらりと揺れた気がする。俺は歩みを止められたおかげで、何とか正気に戻れた。危なかった。もし、あのまま誰にも止められてなかったら……どうなっていたか分からない。想像するのも怖い。


 ふと、隣に目をやると、リーネも『魔剣』を手に取ろうと一歩踏み出していた。その表情は普段の彼女からは想像できないほど無防備で、陶然としていた。目は虚ろで、まるで夢の中を歩いているかのようだった。その腕を、アリアさんがしっかりとつかんでいた。決して離すことはない。リーネのことをアリアさんが止めていた。彼女の指先に力がこもり、リーネの手首を必死に引き留めていた。


「大丈夫ですか?」


「……ええ、もう大丈夫よ。アリア、心配かけてごめんなさい」


 アリアさんの声は低く、伺うようで、だけど切実だった。リーネの心から案じる気持ちが込められている。リーネは一瞬、はっとしたように目を見開き、そしてゆっくりと後ずさった。彼女の頬と額には、うっすらと汗が滲んでいた。彼女もまたあの『魔剣』に魅されて、心を囚われかけていたというのだ。その事実が、背筋を冷たくする。あの『魔剣』は、ただの武器なんかじゃない。あれは、触れた者の心を冒し、狂気の渦に引きずり込む『何か』だ。俺が額の汗を拭いながらそんなことを考えていると――


「――ッぶねなぁ!」


 背後から鋭い叫び声が聞こえてきた。シュテンの声だ。普段の彼が出すことがない大きな声に、心臓が跳ねる。反射的に身体もびくりと跳ね、俺はまるで猫のように素早く振り返る。だが、目に飛び込んできたのは、思いもよらぬ光景だった。


 レインちゃん……いや、今はユキと呼びべきだな。レインちゃんからユキの姿へと変わった彼女が、勢い良く後方へ飛び退いていた。鋭い警戒心。まるで何かに弾かれたかのように、床を滑るようにして『魔剣』から距離を取る。彼女は、まるで敵意を向けるように身構えている。まさに獣だ。彼女の動きはまさに獣の本能に突き動かされたような俊敏さだった。


 氷のように冷たい無表情の中には、驚きと恐怖、そしてほんのわずかな警戒の色が浮かんでいた。全身の毛を逆立てるように『魔剣』のことを睨みつけている。突然の回避行動にシュテンが巻き込まれてしまったみたいだ。彼はバランスを崩し、よろめきながらも背中にいるアステリオスを地面に落とさないように何とか踏み止まっていた。


「お、おいユキ!? なんだよ、急に……?」


 シュテンは戸惑い気味にそう尋ねる。だが、ユキは答えなかった。ただじっと『魔剣』を見つめたまま、微動だにしない。今にも飛びかかりそうな緊張感が帯びていた。その異様な空気の中で、俺は咄嗟にこの場で一番、武器に目がない危険人物――ヒビキに視線を向ける。俺たちですらこんなことになったんだ。一瞬で、あの剣に心を囚われかけたのだ。ヒビキが一秒たりとも耐えれるわけがない。彼のことだ、すでに手を伸ばして、試し斬りをしていてもおかしくはない。そう思って、ヒビキのことを見た。だが、彼は静かに深呼吸を繰り返していた。目を閉じ、肺の奥から息を吐き出すように、心に溜まった欲望を吐き出すように、ゆっくりと。まるで自分の内側に渦巻く巨大な衝動と、戦っているように見えた。そこで俺の視線に気付いたのか、ふと目を開けて、にこやかに笑った。


「……安心してください、ジン君。ボクは心も強いですから」


 ヒビキを最後に、俺たち全員がようやく落ち着きを取り戻した。心を引きずり込む恐るべき『魔剣』を前にして何も起こらなかったことに、ほんの少しだけ、俺は胸を撫で下した。誰もが口を噤んだ、静まり返ったその空間に、ぽつりと一人の声が落ちた。


「……どうすんの、これ?」


 ヘルガの声だ。鈴を転がすような。だけどどこかたどたどしいその声が、地下の石壁に反響して広がっていく。彼女は『魔剣』を見つめながら、眉をひそめている。小さな肩が、わずかに震えているのがわかる。恐怖か、あるいは興奮か……その両方かもしれない。俺だって彼女と同じように震えている。手のひらがじっとりと汗ばんでいた。


 誰もが言葉を失っていた。目の前にあるのは、伝説の存在。本来ならば、とうの昔に技術の伝承が途絶え、失われた『魔剣』。いや、『魔剣』の可能性がある武具。文献の中でしか語られず、すでに現存しないと聞かされていたそれが、その可能性があるものが、今、こうして目の前にある。大発見だ。歴史を塗り替えるかもしれない、途方もない大発見だ。もちろん、持ってかえるに決まっている。『魔剣』の持つ価値なんて正直、俺にはよく分かっていない。だけど、スゴイものだということは、嫌というほど分かった。スゴイ。きっと大金になる。命懸けでこの人喰い迷宮に足を踏み入れて、ようやく辿り着いたこの場所に隠されていた『魔剣』。これには、命を賭けるだけの価値はあったはずだ――そう思いたかった。


 だが、予想外なことに、リーネは反応は芳しくなかった。眉をひそめ、じっと『魔剣』を見つめたまま何かを深く悩んでいる。熱を孕んだ彼女の燃えるような赤い瞳はとても冷静で、可憐で活発な印象を受ける口元をぎゅっと固く結ばれていた。その横顔には、決意と迷いが複雑に絡み合っていた。そして、そして――


「これは、この剣は……持ち帰らないわ」


 と、彼女はそう口にしたのだ。彼女の声はあまりにもはっきりとしていた。それこそ、聞き間違いなどあり得ないほどに。まるですでに何度も自分の中で繰り返し考え抜いた末に出した結論のように、迷いのない口調だった。信じられないものを見るような気持ちで、俺はリーネを見つめた。彼女の声を、言葉を、頭の中で何度も反響する。異なる意味を見つけ出そうとして、何度も繰り返していた。


 持ち帰らないって、これを? あのリーネが?


 俺の他にも、ヘルガとシュテンが同じように驚いていた。ヘルガは目を丸くし、シュテンは「は?」と小さく声を漏らした。ユキは依然として唸るような低い声を喉の奥で響かせたまま、『魔剣』から視線を外そうとしない。アリアさんはどこか納得したように目を細めていた。リーネの言葉を予期していたかのように、静かに深く頷いている。隣のヒビキは、物欲しそうな顔をしていた。とても口惜しそうだ。だが、何かを言うことはなかった。


「私たちは何も見なかった。『魔剣』なんて発見しなかった。これから私たちがすることは、古代ドワーフたちがこの遺跡に残した過去の記録や莫大な財宝を『祭壇』に上げて、後で回収することよ。それだけ、いいわね?」


「……な、なんでだ? やっぱりあれは『魔剣』なんだろ? なら、持って帰ればいいんじゃないか? あれをドワーフに売れば、リーネが好きな大金が手に入るかもしれないんだぞ? それなのに、なんで――」


「――戦争が起こるからよ」


 リーネはしばしの沈黙の後、まっすぐに答えた。彼女の声は鋭く、俺の欲望まみれの思考をぶった切るようだった。戦争という単語に、空気が凍り付いたのを肌身で感じる。思わず、息を呑んだ。


「この『魔剣』の存在は公表してはいけない。もし公表したら、レナトゥス大陸を……いえ、この世界全体を巻き込むほどの戦争が起こる、可能性があるわ」


 彼女の言葉はただの予想ではなかった。確信と恐れが混じっている。まるで、すでに未来を見てきたかのような重く沈んだ響きを与えていた。そして何より、アリアさんとヒビキの二人が黙っているという事実が、妙な現実味を裏打ちしていた。普段なら何かしら口を挟むだろうに、今はただ沈黙を守っている。それが、かえって不気味だった。


「戦争って……」


「さすがに大袈裟なんじゃないの? たかが剣一本に戦争だなんて……いくらドワーフでも、そこまで馬鹿じゃないでしょ?」


 俺が思わず呟くと、すぐに別の声が被さった。ヘルガだった。腕を組み、眉をひそめるようにリーネに翡翠色の瞳を向けている。彼女の態度には、疑念と皮肉が混ざっていた。だが、彼女はリーネの言葉を否定しながらも、完全には否定しきれていないのが、彼女の声の揺らぎに現れていた。そして、彼女はさらに言葉を続ける。


「それに、もし『魔剣』の存在で戦争が起こるなら……この迷宮はどうなるのよ? これって『魔剣』の一種なんでしょ? なら、ドワーフが大嫌いなあんたらが、こうして中に入れている時点でおかしな話じゃない? 破綻してるでしょう?」


 筋の通らないことを見過ごせないヘルガの性分が、今まさに顔を出していた。だが、理屈としては正しいと思う。俺も似たようなことを考えていた。この迷宮自体が魔剣だと教えられた。なら、海賊と、リーネたちと仲が悪いドワーフが俺たちが迷宮を調査することを許すのかと。


「いえ、破綻なんてしていないわ。私たちは、正式に領主の許可を得てここに入っている。そして、そのことは古代ドワーフの遺跡に入ることをドワーフたちは黙認しているの。かつて、彼らもこの迷宮の攻略を試みて、失敗した過去がある。だからこそ、見て見ぬふりをしているのよ。私たちが失敗したら嫌いなヤツらも損をして愉快だし、成功したら私たちが換金したお宝の数々を商人から買い戻せばいいだけだもの。でもね、ここでは、『魔剣』という呼び名であることが重要なのよ。目の前の『魔剣』が、剣の形をしていることが問題なの」


「疑問に思ったことはありませんか? 『呪具』『神具』と呼ばれている中で、なぜ一つだけ『魔剣』という名指しされているのかを」


 アリアさんの問いかけに、俺は言葉を失った。確かに、言われてみればそうだ。疑問に思ったことがある。三つの中で一つだけ『剣』という単語が入っていることに。俺が考え込むように視線を落とすと同時に、リーネは一歩、魔剣に近づく。彼女の視線は、鈍い光を放つ刃にまっすぐ注がれる。そして、アリアさんの説明を補足するように口を挟んだ。


「もともとわね、『呪具』『魔具』『神具』って名前で統一されていたらしいんだけどね。でも、ある日、ドワーフたちが文句を言ってきたの。『魔具』ではなく『魔剣』という名前に変えろって。『我々が神に捧げてきたものは剣なのだから、『魔具』ではなく『魔剣』と呼ぶ方が相応しい』ってな具合ね。それほど、彼らには思い入れがあるのよ」


「……何よそれ、めんどくさいわね」


 皆の気持ちを代弁するように口を開いたのはヘルガだった。彼女は肩を竦め、溜息交じりにそう言った。リーネは、そんなヘルガの素直な反応に小さく微笑む。


「そうね、確かにめんどくさいわね。でも実際、彼らは過去にも『魔剣』絡みで数々の問題を起こしている。レナティウス大陸では『魔剣』って単語は、もはや禁句のような扱いなの。そんなところに、本物の『魔剣』を彼らが大っ嫌いな海賊が手に入れた、なんてことを公にしたらどうなると思う? 火薬庫の中にマッチを投げ入れるみたいなものよ。どうなるかなんて火を見るよりも明らでしょう?」


「それが、戦争につながるってことか」


 実感はまだ湧かないが、俺もリーネの言っていることが見えてきた気がする。でも、そんなくだらないことで戦争なんて……という気持ちがまだまだ消えてくれない。だが、もともと両者がグリフォンの件で対立していたり、険悪な状態にあるという情報を事前に知っていると冗談とも思えないのが、逆に怖い。というか、冗談みたいな理由で喧嘩をするって人間関係でもよくあることだからな。些細な言葉の行き違いや、誤解、プライドの衝突とかな。そういえば、葦原と日向の二人も最初は喧嘩(ぎくしゃく)してたんだっけな?


 まあ、それはいいか。でも、それが国家規模になってるんだから、一瞬で戦争へと変わるよな。小さな火種が大きな戦火になる。誰かの怒りで、誰かの煽りで、誰かが引き金を引く。そうなってからでは、もおう襲い。だから、リーネの言い分にもある程度は納得できる。気を遣って、『魔剣』をここに放置するだけで、戦争が避けられるならそれに越したことはない。俺たちが今ここで何を選ぶかで未来が変わるのだとしたら。彼女の言っている重みを、俺はようやく実感し始めていた。


「さぁ、分かったら、ここにあるお宝をすべて上に上げてしまいましょう? これが、今回最後の力仕事よ。気力を振り絞りましょう! シュテン、怪我を負ったあなたには悪いけど、後でそこの入り口は塞いでおいて? 臭い物に蓋をするみたいに。私たちは地下で数多くのお宝を見つけたけど、『魔剣』なんて見なかった。それでいいわね!」


 そんな俺の思考を断ち切るように、リーネは手を叩いて皆の注意を惹いた。彼女はくるりと振り返り、シュテンに視線を向ける。彼はアリアさんにアステリオスとユキを預けると無造作に拳を握りしめ、近くの石壁を軽く叩いた。鈍く、重い音が地下にこだまし、石壁は無様に罅割れた。まるで『これなら、拳で十分だ』と確認するように。彼は自らの拳で『魔剣』のある部屋の入口を塞いでしまおうとしているのだろう。


 特に誰も反論はしなかった。沈黙が、同意の代わりとなって地下に広がる。そして、自然と俺たちは再び動き出した。金の延べ棒がぎっしりと詰まった木箱。溢れ出すほどの金貨。床に零れるほどの銀貨。箱の隙間に挟まっている銅貨。芳醇なアルコールの香りを放つビールの樽。それぞれを抱え、慎重な足取りで、狭い通路を通って『祭壇』に運び上げていく。


 俺も黙々と作業に没頭していた。あの地下の空間に、長く留まることを本能的に避けていたのだと思う。ただ一人、ヒビキだけは最後まで『魔剣』から目を離さなかった。瞼の裏側に焼きつけようとしているように。彼の視線はまっすぐに『魔剣』へと注がれていた。彼の漆黒の目には好奇心とも、執着ともつかない、複雑な光が宿っていた。だけど――


「ヒビキ! アンタ、何ぼーっとしてんのよ! 手ェ動かしなさいよ、手を!」


 途中でサボっていたのがばれて、ヘルガに怒られていた。ヒビキは肩をすくめながらも渋々と荷物の山へと向かった。未練がましく、時折盗み見るように振り返りながら、ようやく手伝いを始めた。彼が協力もあって、作業はおよそ一時間ほどで終わった。サイズの関係で、すべてを運び出すことはできなかったが、運び出せるものはすべて運び出した。ただ『魔剣』だけを、あの部屋に残して。塞いでしまった。誰もがその存在に触れず、語らず、ただ黙って背を向けた。そして、人喰い迷宮からの脱出を目指してまっすぐに歩いた。それが、今できる最善の選択だと信じて。希望の縄を手繰るように、俺たちはこの迷宮から脱出した。





 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※




 いつの間にか、俺は寝ていたらしい。泥のように深く、意識が海底に引きずり込まれるような眠りだった。目を覚ました今になって、ようやく自分がどれほど疲れていたのかを冷静に俯瞰することができる。想像以上に、疲労が身体に蓄積していたみたいだ。いやまあ、当たり前か。思い返してみれば、人喰い迷宮の中で、俺は命を削るような無茶を繰り返していた。


 凶暴なミノタウロスに追いかけ回されて、必死になって逃げ回ったし、どこまでも続くかのような暗闇の中を手元の灯り一つで不安と恐怖が苛まれながら進んだし、魔法を使って縄を生み出し過ぎて鼻血を流しながらぶっ倒れた。最後のが運搬作業が地味に一番身体に堪えたな。ヒビキが見つけた地下室から『祭壇』まで金銀財宝を運搬するという重労働だ。そりゃあ、疲れるに決まっている。過労死ラインだ。いや実際に、何度か本当に死んでいてもおかしくなかった。というか、まだ生きているのが奇跡なぐらいだ。我ながらしぶとさには定評があるのかもな。

 

 俺が呑気にそんなことを考えていると、ふと柔らかな音が耳に届いた。チチチ、と小鳥のさえずりが、森の方から響いてきた。風が頬を撫で、日差しが頬を叩く。まぶたの裏側なはずなのに、強烈な光が差し込む。耐えられない。だから、仕方がなく俺は起きることに決めた。


「……っ、ウ……ここは?」


 喉が渇いていて、声が掠れる。上手く喋れない。身体を起こそうとするが、重たく冷たい何かに邪魔されいるような感覚。冷凍食品にでもなった気分だ。それに、枕の具合が妙に心地が良くて身体を起こすのは諦めた。柔らかくて、いい匂いがする。金木犀の香り。吸い込まれるほど甘く、泣きたくなるほど懐かしい匂いだ。リラックスする。心が解れる。二度と目覚めたくない。身体はまだ疲労が抜け切っていない。まだ目が覚めたらあれが夢だった可能性もある。もっと寝たい。この幸せを享受したい。


「ジン君、お目覚めですか?」


「……ぇ?」


 そのとき、すぐそばから聞きなれた声がした。焦点の合わないぼんやりとした視界の中で、その声の主を探すように顔をちょっとだけ傾ける。そこには、微笑みを浮かべた女性のシルエットがあった。その笑顔は、まるで朝の光のように優しく、穏やかで、だけど現実味だけがどこにもなくて――俺は、まだ夢の中にいるのかもしれないと思った。


「……天使?」


「ふふ、まだ寝惚けているんですか? 私です、アリアですよ?」


 彼女の声に、ようやく意識が現実に引き戻されていく。ああ、そうか。アリアさんか。でも、なんでアリアさんの声が近くから聞こえるんだ?


 ぼんやりとした頭で、状況を整理しようと頑張ってみる。首を少し動かすと、すぐ目の前に彼女の顔があった。だから、近く……耳の近くで囁くような声だったんだ。そして、頭の下には、柔らかな感触がある。ほっそりとしているのに弾力に似た柔らかさがあって、沈み込んで、ほんのりとした温もり。脳味噌という名の辞書に検索をかける。


 ――この感触、この位置、この距離感。


 だが、導き出される答えはたった一つ。この心地良さの正体に気付いた瞬間、脳内で警報が鳴り響いた。心臓ア跳ねるように脈を撃ち、顔がじわじわと熱を帯びていく。これって、まさか、まさか……アリアさんの膝枕。


「うわぁ! 膝枕だ!」


 湧き上がる感動と脳内で導き出した答えが、順々に口から漏れ出した。最後に『やったぁ!』と叫ばなかったのはこれが夢ではなく現実だと気付いたからだ。俺は慌ててアリアさんの膝の上から頭をどけようと上体を起こすが、それはアリアさんの手によって阻止された。


「いきなり立ち上がってはダメですよ? それに、静かにしないとアステリオスとユキが起きてしまいます」


「……ぇ、あ、本当だ。ユキだ」


 アリアさんの白磁のように滑らかで、ほっそりとした指先が、そっと俺の髪を梳いた。彼女のその仕草が何故か少し色っぽく思えて、自然と心臓が早鐘を打ってしてしまう。ドキドキする。鼓動がうるさい。だから、俺はそれを悟られまいと、心の中で鼓動に『落ち着け』と何度も自分に言い聞かせながら、顔だけをそっと横に向ける。すると、視界の内に眠る二つの小さな影が目に入ってきた。一つは台車の上で毛布をかけられて寝ているアステリオスだ。丸まって、胎児のように静かに眠っている。問題は、もう一つの方だ。ユキだ。彼女は俺の身体の上に横たわって眠っていた。まるで犬のようにぴたりと身を預けて眠っていた。小さな手が俺の胸辺りに添えられ、頬をすり寄せるように、すやすやと寝息を立てて……いや、いやいやいや、ちょっと待て。これって、今、どういう状態だ!?


 俺は再び、固まった。頭の中が真っ白になる。動けない。いや、動くわけにはいかない。動いてしまったらユキを起こしてしまう恐れがあるからだ。アリアさんに膝枕されて、ユキには覆いかぶさられている、って何をしでかしたらこんなことになるんだ。記憶がない。俺は階段で休んでいただけなのに。本当に何もしていない。本当の、本当に身に覚えがない。俺は無罪だ。いや、有罪ではあるんだけど。俺には、本当に身に覚えがないんだ!


 そして、俺は助けを求めるようにアリアさんのことを見る。目を食いしばって、必死な形相で助けを求める。目を大きく見開いて、口を開けかけては閉じる。声は出さずに全力で訴えかける。アリアさんはそんな俺の視線を受け止めると、ふっと穏やかに微笑んだ。


「先に言っておきますが、こうなったのはユキのせいですよ?」


「え、ユキの?」


「はい、私たちが目を離した隙にユキが自由に動き回ってですね。どうやら、構ってもらう人を探していたみたいなんですよ。それで、寝ているジン君のニオイを辿って行ったんです。気付いたときには、ジン君はユキに地面を引きずられていたんですよ? その様子を見た他の船の乗組員が慌てて報告に来てくれて……それで、私がこうして三人の様子を見守っていたというわけです」


「あー、通りで身体が痛いわけですね」


 アリアさんはまるで面白い絵本を読み聞かせてくれるみたいに語ってくれた。その口調には、俺の不敬罪を責めるような響きは一切なく、むしろどこか楽し気ですらあった。


「随分と、ユキと仲良くなったみたいですね? 私が引っ張ってもギュッと掴んでジン君から離れなかったんですよ?」


「コツも何も、特に……アリアさんのあれのおかげじゃないですか? エルフの里に着く前の。あれ以外で、ユキと絡んだことはないですよ」


「ふふ、なら良かったです」


 アリアさんは満足そうにそう微笑んだ。懐かれるのは、悪い気がしない。俺は昔から、動物ってやつにあまり好かれない体質だった。それなのに、ユキはこうして俺にも懐いてくれる。友好的だ。でも、問題は俺が特に彼女から好意的な感情を寄せられることをしていないってことだ。アリアさんに力技で臭いを覚えさせたぐらいだ。それで、こんなに助けてくれるなんてな。それ以外に、ユキとは特別な接点があるわけじゃない。後、アリアさんが膝枕をしてくれる理由はどこにもない気がするが……まあ、いいや。役得だ。素直にこの境遇を受け入れておこう。それにしても――


「……そういえば、ユキに何度も助けられてるんだな。俺って」


「ヴッ?」


 ヒュドラに潰されそうになったときも、ミノタウロスに潰されそうになったときも、彼女は迷うことなく、身を挺して俺なんかを庇ってくれた。そのたびに、俺は命拾いをしてきた。ユキがいなければ、今ここでこうして空を見上げることもなかったかもしれない。というか、俺っていつも潰されそうになってるな。そんなことを思いながら、俺はユキのことをじっと見つめる。頭を撫でようとしたが、嫌がるだろうなと思い触れる寸前で手を止める。すると、ユキは身動ぎをし始めた。どうやら、起こしてしまったようだ。


「あら、いい御身分じゃない? まるで、どこぞの王様みたいよ?」


 その声に振り向くと、人混みの中からリーネが近寄ってきた。くすっと笑いながら、からかうように言葉を投げかけてきた。明るい声で、しっかりと刺さることを言ってくるうちの船長はさすがだ。帽子は無いけど、脱帽した。俺は思わず苦笑いを浮かべながら、言葉を返すタイミングを探していた。だが、俺が言葉を探し終えるよりも先に、リーネが行動した。


「あ、覚えているうちに、これを返しておかないとね」


 リーネはそう言うと、腕に巻きつけていた黄金の(リング)を外すとアステリオスへと返した。そっとしゃがみ込むと、その小さな手に優しく握らせた。


「返していいのかよ、せっかくお前が見つけたお宝なのに?」


「何を言ってるのよ、ジン。仲間内でネコババはご法度でしょう? ましてや私は船長よ? 乗組員(クルー)からの信用を失った船長がどんな末路を辿るのか……アリア、教えてあげて?」


「……順当に行けば、代表者との決闘による揉め事の解消。もし負ければ、最低でも島流しにはなるでしょうね」


「重たいって!」


「ふふふ。まあ、もともとそれはミノタウロスの角にあったものだからね。黄金の輪(それ)も、アステリオスの手元に戻るのをきっと悦んでいると思うわ。彼にとって、それはただの装飾品じゃないみたいだし。なら、目が覚めたときに馴染みのある品がある方が、きっと安心するでしょう? それに、いくら私でもね、海賊の流儀に則って、仲間から奪ったものを『お宝』として懐に入れるような、頂戴するような真似はできないわよ。そういうのは、誇りを失った蛮族(けもの)のすることよ?」


 俺は咄嗟にツッコミを入れてしまった。肩をすくめながら、物騒なことをさらりと言ってのける二人に戸惑いを隠せなかった。だが、二人の口元に浮かぶ含み笑いを見て、ようやく俺を揶揄うための軽口だということに気付いた。彼女たちの絆の証なんだと、ふと実感する。あれからそれほど時間は経っていないはずだが、こうして冗談を言い合える関係にすぐに戻れるなんて。だけど、ふと現実に戻される。俺たちがこうして無事に戻ってこれた一方で、また人喰い迷宮の暗闇の中に取り残された者たちが大勢いるのだ。


「そんなことよりも、人喰い迷宮の中に残されたヤツらの捜索はどうなったんだ? ハイレッディンさんたちとの話し合いは?」


「……あなたね、何を言ってるの? ウルージたちとの話し合いなんてとっくの前に終わったわよ。ほら、空を見なさい。もうお昼の方が近いわよ?」


 そう言って、リーネは呆れたように天を指差した。彼女の指につられるように、俺もゆっくりと天を仰ぎ見る。青空だ。そこには、澄み切った青空が広がっていた。太陽は迷宮から出たときよりも遥かに高く昇り、眩しい光が樹々の隙間に差し込んでいる。ついさっきまで、夜の名残をわずかに残した淡い朝の光はもうない。世界は明るく、穏やかで、何事もなかったかのように進んでいく。俺を置き去りにして。というか、ヤバい。俺って、あれから何時間寝ていたんだ?


「……なぁ、リーネ。俺は何をすれば――」


「一応言っておくけど、あなたがすることはもうないわよ?」


 リーネは俺の言葉を遮るように、そう言った。彼女の口調は明るく、軽やかだったが、どこかに優しさが滲んでいた。これ以上は頑張らなくていいと肯定してくれているかのようだった。起こしかけていた上体を再び寝かせる。


「ロバーツが現場で指揮を取っているし、ヒビキもアセビもすぐに動いてくれたわ。救助班ももう動いているわ。迷宮へと何度も出入りしている。ジンたちがぐっすり寝ている間にも、時間は平等に動いているのよ。だから、もう心配しなくていいわ。あなたの出番は、またちゃんと来るわ。私たちの仕事は、この後よ。それまでは、一緒にアステリオスの監視でもしていましょう?」


「気を落としたらダメですよ。ジン君が魔法で生み出した縄が救出の際にとても役に立っています。もう十分、活躍しているんです。ですので、今はゆっくりと休んでください」


「……あれもアリアさんのアイディアだったと思うんですけど。まあ、いいや。役に立ってるんだったら、もう何でもいいです」


 アリアさんがそっと補足を添えてくれたおかげで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。自分のしたことで、誰かの役に立っている。その事実に、少しだけ救われた気がした。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。俺は照れ隠しのように、空をもう一度見上げた。青空はどこにいても変わらずに、どこまでも広がっている。天に向かって落ちていきそうなほど、気持ちの良いラムネ色の空だ。再び、目を閉じてしまおうか――そう思った瞬間、腰の部分に違和感を覚えた。硬い。ゴツゴツとした何かが、その存在をじわじわと主張してくる。それは、銃だった。リーネから貸してもらった、あの銃。俺はそっと手を伸ばし、腰に触れる。


 冷たい金属の感触が、命の重みを思い出させる。ちらりと視線を横に流し、アステリオスの寝顔を見やる。そうだよな、他人(おれ)が勝手に使うよりも持ち主(リーネ)に使われた方が道具自身も嬉しいよな。俺はアリアさんの膝枕からゆっくりと立ち合がり、ユキには「ちょっとごめんな」と声をかけて、そっとどいてもらった。まだ少しふらつく足取りで台車から降り、リーネの前に立った。そして、ベルトの間に挟んでいた銃を抜き取り、彼女に差し出す。


「リーネ、これ返しておくよ」


「えー、いいの? ジンは銃の方が、上手かったじゃない。せっかくだから、まだまだ貸しててあげるわよ?」


「ちょっと癪だけど、やっぱりそうだなー。上手いってよりも偶然だったけど……別に満更ってわけじゃないんだよな。あれだけ頑張って練習した剣よりも、よっぽど実用的だったし」


「なら、いいじゃない。船に戻るまで持っておきなさいよ。壊されたらさすがにショックだけど……汚すぐらいなら全然気にしないわよ? 綺麗にして返してちょうだい?」


 リーネは軽く笑いながら、肩を竦めた。俺は苦笑しながら、銃を見つめた。あのときの、引き金を引いたときの感触。耳に残る銃声。硝煙の香り。自分の手の震え。ミノタウロスの目玉にまっすぐと着弾した銃弾。達成感。すべてを覚えている。すべてを思い出せる。だが――


「まあ、でも返すよ」


「一応、理由を聞いてもいいかしら?」


「いや、特に理由らしい理由はないんだけどさ。そうだな、強いて言えば……」


 リーネは少し驚いたように目を丸くした。純粋に疑問のようだ。俺も言いかけて、ふと言葉に詰まった。自分の心の中には確かに何かがある。だけど、それを上手く言葉にするのは難しかった。難しい。俺が小さく息を吐くように、銃を見ていると台車の上から「ヴッ!」という呻くような声が聞こえてきた。ユキの声だ。そのとき、不意に俺は思い出した。ユキではなく、レインちゃんの言葉を。そして、迷宮内での彼女たちの言葉を思い出す。人喰い迷宮の中で交わした彼女たちとの会話を思い出す。


『……そうですか。でも、お兄さんに銃はあまり似合っていないと思います』『私は、武器を持つと……魂が武器に引っ張られて、形を変えてしまうだと思うんです。その変化が、とても恐ろしいんです』『お兄さんはすでに身に着けている剣や銃に安心感を得ているんじゃないですか? それが……異常でなくて何なんですか?』『……お兄さんには、そうなって欲しくありません』


『私たちの戦力じゃあ、もしミノタウロスと接敵しても逃げるだけしかできないわね。仕方がないから、予備のピストルはジンに貸しておくわ。弾丸は一発しか装填できないから、いざという時に使いなさい』『でも、やっぱりそれはあなたが持っていなさい。もう火薬は入れてあるから。後は撃鉄を引いて、狙いを定めるだけよ。ミノタウロスに効く威力は期待できないけど、何も無いよりはマシでしょう?』『……やっぱり、見立て通りね。ジンには銃が似合わないわ』


 あのときは、正直少しだけムッとした。散々の評価だ。そこまで言う必要はないんじゃないかと、今でも思う。でも、彼女たちの言っていたことも少しだけ分かる気がする。剣では届かない場所に、銃なら届く。それも気軽に引き金を引くだけで。生き物の命を奪うくらいの威力が、そこにはあった。ヒビキに稽古をつけてもらった剣よりも、リーネに借りた銃の方が有益だった。だけど、俺らしくはない。銃は、性に合わない。あの一発で、何かが変わってしまった気がしてならなかった。握っていると、どこか自分が自分でなくなるような気がする。自分の力以上の力を持つと、人は変ってしまう。身に余る。だから、だから――


「……やっぱり、俺には似合わないみたいだ」


「……そうね。あなたは、そっちの方がいいみたいね」


 ようやく絞り出した言葉は、理由としてはかなり弱い部類のものだった。いや、理由にすらなっていなかった。だけど、これが今の俺の包み隠さない本音だった。リーネはしばらく黙って俺を見つめていたが、やがてふっと笑った。きょとんとした彼女の笑顔が少しだけ揺れる。まるで、何かを思い出したかのように。そして、彼女はそっと手を伸ばし、俺が差し出した銃を静かに受け取った。


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