航海日誌 『鳩ってさ……』
空が抜けるほどの快晴は神様からの贈り物だと感じる。
特に周りが海と空しかない船の上でひっくり返って空を眺めていると海と空の見分けがつかなくなる時がある。どちらも青々と澄み切っていて美しく、自分が空中に浮かんでいるのではないかと錯覚してしまうのだ。
「お兄さんには私の仕事を手伝ってもらいます!」
そんな快晴の中でレインちゃんは俺にこう言った。
こんな気持ちのいい日ぐらい仕事のことなんて考えたくないがこの船でお世話になっている身としてここで断ることができない。だから――
「うん、いいよ。何をすればいいのかな?」
面倒くさいという言葉を噛み殺し、俺はレインちゃんにそう告げた。
「助かります! 早速ですがついて来て下さい!」
そう言ってレインちゃんの後をゆっくりと付いていくと船の後方左舷側に連れてこられた。レインちゃんの仕事って何をするのだろう。まさかレインちゃんがあの屈強な男たちに混じって力仕事をするとは考えられない。
「お兄さんにはこの子たちのお世話を手伝って欲しいんです」
この子たちって何? 犬か何かな?
そんな能天気なことを思い折の中を覗き込んだら鳩がいた。たぶん伝書鳩だ。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鳩は千キロ以上離れた場所からでも自分の巣に戻ることができると言われている。
伝書鳩とはその帰巣本能を利用して遠隔地にメッセージを伝える通信手段らしい。方向感覚と長距離を飛行できるように品種改良をした鳩は軍事利用されたことがあるほど優れた交通手段だ。
無線や携帯電話が発明されていなかったら現代でも手紙を送る手段として伝書鳩が用いられていたかもしれない。それほどのものだ。
「お兄さん? どうかしましたか?」
「……なんでもないよ、レインちゃん。それで俺は何をすればいいのかな?」
「えっと、はい。ではお兄さんにはこの子たちへの餌やりを任せてもいいですか?」
「……いいけど、どうすればいいのかな?」
「そこにある袋の中に餌が入っているのですが……本当に大丈夫ですか? 顔色が優れませんが?」
「……うん。大丈夫ダヨ」
俺は勢い良く袋を手に取る。何かの穀物だろうか?
かなり独特の臭いがする。取り敢えず俺は苦手な臭いなことは確かだ。
鳩舎の中にいる鳩たちがジッと餌を手に持つ俺を見つめてくる。首を傾けてまだかまだかと見つめてくる。
……脚にあるこれの小さい筒に通信文をいれるのだろう。他にも戦時には通信文だけじゃなくて伝書鳩が持てるほどの小さな荷物を運ぶことができて、医療目的で血清や薬品等を運んでいたそうだ。
「お兄さん? 手が震えていますが、本当に大丈夫ですか!?」
「うん、大丈夫ダヨ」
「……もしかして、お兄さん。鳩が苦手なんですか?」
「………………………うん、実はね」
俺は実は鳩が苦手だ。公園やバス停にいるのを見るのも嫌だし、いたら遠回りするぐらい苦手だ。何であいつらってどこにでもいるんだ。
「どこが苦手なんですか? こんなにも可愛いのに?」
「どこが可愛いんですか? こんなにも気持ち悪いのに?」
本当に気持ち悪い。どんな生物よりも気持ち悪い。苦手だ。頼むから街に出てこないで欲しい。本当に言ったらいけないんだけど、できれば絶滅してほしい。
「何が気持ち悪いんですか?」
「全部!」
「全部って何がですか?」
珍しくレインちゃんが食って掛かってきた。いや、世話をしている動物が嫌いだと言われているんだから当たり前か……。でも言わせて欲しい!
「本当に全部だよ! 子供の頃に詳しくなれば嫌いにならないかもって無理して図鑑を読んだり、動画をみていたら本当に無理になってしまったんだよぉ!」
恐怖は無知からきていると聞いたことがある。だから俺が鳩を怖いのは知らないからだと考えて、頑張って調べていたら生理的に無理になった。
そんな心からの叫びをレインちゃんは菩薩のような笑みを浮かべて――
「お兄さんが苦手なこの子たちに最大限歩み寄ったのは理解しました。ですがもう一歩踏み込んでみませんか? まだ触れ合ったことはないはずでしょう? 餌をあげるという体験をしてみたら苦手ではなくなるかもしれませんよ。ほら、私もいます。頑張りましょう?」
「ああ、どこまで言うなら………頑張ってみるよ」
確かに触れ合うという経験はなかった。この体験を乗り越えたときもしかしたら苦手な鳩を克服しているかもしれない。だから、俺は餌の入っている袋を手に持って勇ましく一歩を踏み込んだ。踏み込んで、踏み込んで、踏み込んで――鳩舎の檻に何もいないのが見えた。
覚悟を決めて、ヤツに歩み寄ろうとこちらから踏み込んでやったのに標的は檻の中にいなかった。とんだ拍子抜けだ。俺がそんなことを考えたその刹那、足元に温かい何かが当たる。
嫌な予感がした。
とても、とても、嫌な予感がした。
「ああ、この子ったら。また脱走して、ダメでしょう! お兄さん、足元に――」
レインちゃんの言葉を理解したくなくて勝手に脳が拒絶しているのか、彼女から発せられる音のすべてを完璧にシャットアウトすることに成功した。だけど、これで実態は好転するわけではない。俺は不快感をグッとこらえて再び、覚悟を決めた。視線をゆっくりと移動させることに決めたのだ。
足元に温かい何かが当たる。足元に温かい何か当たる。汗が止まらない、止まってくれない。俺は恐る恐る視線を足元の熱源へと向けると……ヤツと目が合った。その正体に俺は気付いた。気付いてしまった。だから――
「お兄さん!!? しっかりしてください!! お兄さん!!」
俺はレインちゃんの呼びかけを無視して静かに思考を放棄した。