精霊王
――遠州と信州の境にある、人跡未踏の地
虹のたもとが降りる場所
高天原から、地にかかる虹の橋
精霊の王の住まう場所
雨が降り、深き靄がかかる時、彼の門が開く
心から強く望む者だけが、誘われる場所――
一人の女が、峻厳な道を走っている。
息はとうに切れ、嗚咽まじりになっている。
紺の絣の着物は、所々が千切れ、小ぶりな乳房と、赤い腰巻があらわになっている。
「誰か助けて」
声にならない声が喉から絞り出された。
遠くから、男の叫び声がする。
「あっちに逃げたぞ!」
男たちは、手に手に松明を持ち、女を執拗に追いかけている。
「これだけの血だ、そう遠くにはいけない」
「絶対に逃がすな!」
男たちは、口々に叫んでいる。
女の腕からは、血が滴っている。
目が覚めると、複数の男に地に押しつけられ、腕を掴まれ、服を剥がれていたのだ。
女は必死に抵抗した。
足をばたつかせ、首を振った。
ばたつかせた足が、男の顎に当たり、男が倒れた。
それに気を取られ、腕を押さえていた男の力が緩んだ。
その一瞬で、女は、全力で男たちを振り解いた。
女を脅すための包丁を、もう片方の腕を押さえる男の足に刺す。
横には、鉞で、胴に切れ込みを入れられた男が、倒れている。
部屋を出ようと扉に手をかけたところで、腕に激痛が走った。
包丁が、腕の横の壁に刺さっている。
女は、わき目も振らず、逃げだした。
もう、暗闇の中、どれだけ逃げただろう。
厚い雲で、星空は見えず、月も覆い隠されている。
あても無く、ひたすら逃げている。
すすき野から、鬱蒼とした森に逃げ込んだ。
男たちの方から、銃声が聞こえる。
「銃だけじゃダメだ。タロも連れてこい!」
「英太郎さん、助けて……」
女は、男の名を、すがるように何度も呟いている。
女は、英太郎という男と、諏訪に行く途上であった。
二人は、遠州金谷で、旅籠で働いていた。
英太郎は、旅籠の跡継ぎで、女は下働き。
先月、結ばれ、記念に旅に出ることになった。
途中、見知らぬ村で、一件の宿に宿泊することになる。
旅の疲れか、すぐに眠気に襲われた。
目が覚めると、横で寝ていた英太郎の腹に、鉞が突き立てられていた。
暗い森の中、どれだけ走ったかわからない。
もはや、どこを走っているのかもわからない。
どうやって帰ればいいかもわからない。
ただ、ただひたすらに、森の奥へと向かって走った。
遠くから、複数の犬の鳴き声が聞こえてくる。
もう無理だと諦めかけた時に、雨が降り始めた。
「くそ、雨か、これじゃあ、タロはダメだな」
「ちっ、なんてついてる女だ」
「山狩りだ。山狩りするぞ」
女は、必死に逃げている。
もう走る体力はとうになく、ただぺたぺたと、森の中をさまよっている。
裸足の足は皮が削れ、すでに血だらけである。
雨は霧雨に変わり、濃い靄となり、女の視界を容赦なく遮った。
後ろからは、さらに増えた村人の足音が追ってきている。
「なんちゅう霧じゃ。前が見にくくてかなわん」
「雨が上がった、タロが使えるだろ」
濃い靄の先に、少し森の開けた場所に辿りついた。
女は、もう一歩も歩けない。
小さな水たまりのような泉の前に倒れ込むと、水を手酌ですくい、すすった。
甘露のようなほろ甘い水が、しみわたる。
もう一杯だけ、水を手酌ですくった。
空から、一筋の光が泉に差し込んでくる。
その光にあわせ、細い虹が、泉に流れ落ちた。
犬が近づく音がする。
女は必死に祈った。
生きたい。
生きて、なんとか英太郎さんの死を、義母さまに伝えたい。
目を強くつむり、ただただ、生きたいと望んだ。
複数の犬の唸る声がすぐ近くで聞こえる。
女を取り囲むように、唸っている。
女が目を開けると、七匹もの犬が、牙を向け、舌を出し、涎を垂らして、徐々に、徐々に、こちらににじり寄っている。
生きたい。
生きて帰りたい。
帰って、義母さまに。
女は強く願った。
犬の一頭が、大きく遠吠えをした。
一斉に、犬が女めがけて飛びかかってきた。
きゃんと一鳴き、一頭の犬が、地に横たわった。
それに合わせ、他の犬も、襲うのを止め、遠巻きに後ずさった。
女の横に、細い木の棒を持った、青年が立っていた。
草鞋に、白き薄袴、白き襖を身にまとっている。
髭は無く、長きざんばらの髪は、虹色に染まっている。
「……あなたは?」
青年は、女を一瞥すると、持っていた棒を、犬の一頭に向ける。
犬は、みるみる燃え上がり、やがて消え去った。
それを見た他の犬は、その場から逃げ去って行った。
女は、疲労で、意識が遠くなっていった。
「タロ、こっちか?」
「池の平の方だ、皆を呼べ!」
「おらのゴロを。絶対許さんからな」
逃げた犬たちは、男たちを引き連れ戻ってきた。
手に手に獲物を持っている。
一人は銃を、一人は鎌を、一人は斧を。
口々に、男を罵っている。
そのうちの一人が叫んだ。
「お前何者だ? ここで何している?」
それまでずっと黙っていた、虹髪の青年は、口を開いた。
「忌み子の裔め」
その言葉に、男の中の年長者が、いきり立った。
「お前何者だ! 何故その事を知っている!!!」
男は犬をけしかけた。
虹髪の青年は、細い棒を前に倒し、尖った先をくるりと回す。
犬に、木枯らしのような冷たい風が吹きかかると、風は犬にまとわりついた。
風の玉は小さくなり、消え去ると、犬も消え去った。
吠えることもなく。
「おらのサブを!! きさまあ!!!」
男は激昂して、銃口を虹髪の青年に向け、引き金を引いた。
虹髪の青年は、細い棒を上下に小さく振る。
男の前で、薄い壁のように土が盛り上がり、男に覆い被ると、男は、重さで倒れ、そのまま地に飲まれた。
山狩りに来た村人は、総勢で四十人を数えた。
四方に散っていた村人は、徐々に誘われるように、泉に集まってきた。
「忌み子の裔が」
虹髪の青年は、もう一度呟いた。
長老と思しき老婆が、虹髪の青年に叫んだ。
「忌み子の裔で何が悪い! この島の民は、いずれ我々にひれ伏すことになるのだ!!」
そう言うと、銃口を向け、容赦なく引き金を引いた。
だが、弾は、明後日の方向に飛んでいき、まともに当たらない。
「おめら、ぼさっとすな! 島の民は生かすな! やらなかったら、うちらがやられるんじゃぞ!!」
老婆に促されると、男衆は手に武器を持ち、一斉に女に襲い掛かった。
虹髪の青年は、木の棒を両手で握ると、ただの長い棒に見えた物が、鉾に変わる。
鉾が、青年の前で、くるりと回ると、倒れている女の前に、薄い水の幕が張られた。
男たちは、水の幕に跳ね返され、手や指を失い、もがいた。
不思議なことに、血が一滴も流れない。
それを見た村人は、恐怖に震え、その場から逃げ出そうとした。
だが、水の壁に阻まれ、右手首から先を失った。
「忌み子は消えよ」
水の壁から、氷の細矢が無数に飛び出すと、村人に刺さる。
地から、火の槍が無数に突き出し、村人を穿っていく。
一人、また一人と村人は、地に伏せていった。
最後の一人が細矢に貫かれると、虹髪の青年は、鉾を天にかざした。
黒い雨が村人に降り注ぐ。
雨粒は、村人に触れ、薄い煙を上げ、徐々に溶かしていく。
やがて、雨粒は、村人のいた場所に、地の渦を作り、全てを飲み込んだ。
女は、朦朧としながらも目を開いた。
横には、虹髪の青年が立っている。
ここまでのことが夢でなかったという絶望に、涙が溢れた。
虹髪の青年は、女を一瞥した。
「望みを」
女は、震え、声が出せなかった。
虹髪の青年は、女に向き直ると、木の棒を女に向け、頭をこつりと打った。
「望みを」
女は、青年を見上げると、震える唇で、声を発した。
「生きて……英太郎さんの死を、義母さまに伝えないと……」
虹髪の青年は、静かに目を閉じる。
「二つの願いは聞けぬ」
女は青年の威圧に脅えた。
「なら、私のことはもう良いです……義母さまに、英太郎さんの死を伝えてください」
虹髪の青年は、静かに瞼を閉じた。
木の棒で、もう一度、女の頭を打つと、女は眠りに落ちるように、意識を失い、静かに泉の中に消えていった。
一月後、英太郎の母は、使用人と、街道を信州へと向かっていた。
「本当に、そんな村があるのでしょうか」
使用人は、主人に問いかけた。
「お華が、夢枕で教えてくれたんです。私はそれを信じます」
半日ほど歩いた時、目の前に、夢枕で見た村と、同じ村が見えてきた。
何があったのか、村人は一人もいない。
集落唯一の旅籠に入ると、そこに、鉞の刺さった、白骨化した遺体が横たわっていた。
「英太郎……」
英太郎の母は、ボロボロと涙を流すと、力無く崩れ落ち、大声で喚き泣いた。
遺体には、ボロボロの紺の着物がかけられている。
英太郎の母は、かすかに、お華の声を聞いた気がした。
――高天原から、地にかかる虹の橋
精霊の王の住まう場所――