1-7 木登りをしたい
近隣に助けを求めてみるが、こんな夜更けだ。みんな寝ている頃だろう。こんな夜中にわざわざ地図を買うためだけにコンビニに向かっている私たちがおかしいのだ。
しかし、そんなとき、偶然にも、話し声が聞こえてきた。下を見る勇気がなかった私は、空に向かって叫ぶ。
「そこの人! 助けて!」
緊急事態だと気がついたのか、走ってくる足音が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
声に釣られて下を見ると、街灯に照らされて、その姿がくっきりと浮かんでいた。そこには、琥珀髪と桃髪の──、
「やあ、まなちゃん。新しい遊び?」
「今から丸焼きですね」
まさかの、見覚えがありすぎる二人だった。──あかりとマナだ。
正直、知り合いにこんなところを見られるなんて、恥でしかないが、背に腹は変えられない。たまたま通りがかったのが彼らだったのだから。
「降りれなくなったの! なんとかして!」
それを聞くと、二人は木の上の私と地上にいるネコとを見比べる。
「なんでそんなことになったの?」
「ネコが降りられなくなってて、助けようとしたらひっかかれて──って、いいから、先に助けてってば!」
「ああ、なんと、おいたわしい……。強く生きてくださいね」
「見捨てないでくれるっ!?」
呑気に尋ねてくるあかりと、からかってくるマナ。なぜよりにもよって二人なのか。とはいえ、言葉通り立ち去る気は、おそらくないだろう。だか、ふざけ合っている体力と心の余裕はない。
「お願いだから、早く、ここから降ろして……」
「ふーん、まあ、助けるからには、当然、何かしてくれるんだよね?」
「……あんた、もしかして、さっきの聞いてた?」
「ん? 何の話?」
あかりは白々しく見えるような、本当に知らないようにも見えるような様子で、頭に疑問符を浮かべた。確かに、ネコに向かって見返りを求めると言ったのは私だ。同じ目に合って、同じことを要求されても文句は言えない。
そういえば、まゆはと、高さを無視して下を見ると、完全に飽きたらしく、先ほどのネコを追いかけて遊んでいた。相変わらず、心がない。
「私にも、何かしてくださいますか?」
「助けてくれたらね──あっ」
瞬間、手足の力が抜け、重力に引っ張られる。上も下も分からないような状態に、私は咄嗟に目をつぶる。──しかし、その落下が、痛みもなく突然、止まり、直後、背中に感触を得た。私は恐る恐る目を開ける。眼前には、黄色の瞳があった。
「お怪我はありませんか?」
少しずつ、噛み砕くようにして、状況を理解した。手足の力が抜け、木から落ちた私を、マナが何らかの方法で落下から守り、腕で受け止めた、といったところか。
「……心に深い傷を負ったわ」
「元気そうで何よりです。それでは、約束通り、手伝ってくださいね」
その笑顔に、私は何か、とんでもない約束をしてしまったのではないかと、後から気づいた。もう遅いけれど。
***
地に足を下ろした私は、混乱したまま、しかし、まゆの手はしっかりと握る。
そして、なぜか、あかりとマナも一緒に地図を買いに行くことになった。
「今どき地図買う人って、もはや、絶滅危惧種じゃない?」
「は? 何言ってんの? 買う人がいるから売ってるに決まってるでしょ?」
「だってさ、地図とかもはやスマホで出せるじゃん?」
「あたしはスマホなんて持ってないから。それに、全員が持ってるわけじゃないでしょ」
「まあ、そうなんだけどねえ」
まだ何か言いたげな様子のあかりを視界から外し、反対を見ると、ふと、マナが虚空を指でなぞっているのが目に入った。
「何してんの?」
「少しばかり、緊急のクエストが入りまして」
スマホというやつは、本人以外には見えないらしい。クエストというと、ゲームか何かだろうか。そういうことにはあまり詳しくない。だが、
「歩きながらやるのは危ないわ。家に着いてからにしなさい」
「はーい」
虚空を指で二回つつくと、マナは私の背後から抱きつき、頭に顎を乗せてきた。身長差がはっきりと分かってしまうのに加え、押さえつけられると背が縮みそうなので止めてほしい。今からせめて、十センチは伸びる予定なのだから。それを、無言で訴えると、マナは渋々離れていった。
「それにしても、痛そうだねえ」
「もう少しゆっくり近づけば、驚かせなかったかもしれないわね」
ネコにひっかかれた傷を見る。肘の下をガリッといかれた。かなり痛い。
「魔法で治さないの?」
──魔法。そう、本来、これくらいの傷ならば、誰でも魔法で簡単に治せる。この世界で魔法は、ご飯を食べるのと同じくらい当たり前に存在する。ご飯を食べたことのない人間はこの世にいないだろう。しかし、
「あたし、魔法使えないから」
私は、魔法が使えなかった。魔法が使えなければ、スマホも使えないし、傷も治せない。世界の文明は魔法とともに発展してきた。
ただ、魔法には永続的な効果がないものが多いので、それを補うために科学文明も発達した。空飛ぶ車も、乾燥機のついた洗濯機も、星空のような夜景もある。とどのつまり、私が生活を送る上で、生活に大きな支障はないのだ。
とはいえ、この世界で魔法が使えない人など、かなり珍しいため、いつも、なかなか信じてもらえないけれど。
「へー、魔法使えないんだ。なるほどねえ。ちょっと傷見せて」
あかりがひっかき傷に手をかざすと、その周辺が柔らかい色の光に包まれる。
「あれ? 治んないなあ……」
「魔法が使えない人間の魔力分子は非活性になるから、あたしに魔法は効かないわよ、って、それより……疑わないの?」
「何を疑うんですか?」
マナが桃色の髪を揺らして、黄色の瞳に疑問の色を湛える。あかりもその答えを待っているかのように、私に視線を向ける。
「あたしが魔法使えないって話」
「いや、魔法使えてたら、そもそも木登りしないでしょ。風で包んで降ろしてあげればいいんだから」
「それが万人にできるかと言われると、微妙ですけどね」
「あー、そっかあ。でも、魔法使えても、普通、木には登らないよねえ?」
「まなさん、優しいですね」
あかりに馬鹿にしたように言われ、マナには花が咲いたような笑みを向けられ、私は眉間にシワを寄せる。
「あたしはただ、見返りを求めてただけ。それに……そう、木登りがしたい気分だったの」
「あ、なるほどねえ。登りたくなる形してるもんね」
「その感覚はこれっぽっちも理解できないわ」
「まなさん、好きです。愛してます」
あかりのてきとうな肯定を否定すると、急にマナに後ろから抱きつかれて、またしても、頭に顎を乗せられる。
「ずいぶん軽い愛ね……」
言葉にも重みがないが、こうして寄りかかられても、かなり軽い。一体、普段、何を食べているのだろうか。