2-56 はぐらかしたい
それから、ものの数十分で辺りは落ち着きを取り戻した。屋台も再開。城の前では、ハニーナから分け与えられた樽一本分のボイスネクターを百倍に希釈したものを、無料で配布している。それを飲んだ人々は、一様に腰が砕け、満足してその場で眠った。何人か死んでいそうだ。
「それで、これがボイスネクターの原液ってわけ?」
「はい。薄めていないやつです」
「馬鹿なの? こんなの飲んだら死ぬわよ」
そこには、一口分のボイスネクターが、小さな器に三つ用意されていた。
「ハニーナの目を盗むのは大変で。三つしか用意できませんでした」
「あんたね……」
いけしゃあしゃあと、よくもそんなことが言えたものだ。確信犯のくせに。
「お姉ちゃん、飲んでいいわよ」
「んーん。わたしは十分幸せー」
まゆはマナの歌の余韻に浸っているらしかった。もうあれから一時間は経っているけれど。ちなみに、迷子の少年の親は、あの後、すぐに見つかった。
そして今、私たちは、れなの家にお邪魔していた。マナはあまりにも目立ちすぎる。なのに、なぜ城に帰らないのか。
それは、マナが屋台を見たいと言い出したからだ。
こんなに人が多い中、出歩かせるのはどうなのかと思ったが、あかりいわく、エトスに許可を取ったらしい。多分、置き手紙一つとかだろう。許可を取ったという言葉は、もう信じていない。
「えー、れなも飲みたいー」
「あたしのやつ飲む?」
「んーん。さすがに、まなちゃから取り上げるつもりはないけどぉー」
「けど……何?」
「まなちゃ以外の誰かがくれたりとか……」
「──乾杯」
私たちは杯を交わし、一口分の蜜を、一気に飲み干す。口内が旨味で満たされ、脳内麻薬が体内にドバドバ溶け出し、死にそうなくらいの幸福に包まれて、すべてがどうでもよくなってくる。
「ふにゃあー」
「……ボイスネクターって、お酒じゃあなーよねん?」
「はい。ただの蜜ですよ」
幸せすぎる。踊り出したい、何でもできる、歌いたい、何もしたくない、このまま眠りたい。
「まなちゃー、おいでー」
「んにゃ……?」
「あーもう、可愛いねー! よしよーし」
呼ばれた方に向かえば、誰かに頭を優しく撫でられる。全身、溶けそうなほどに心地がいい。
「あかりんも一瞬で寝てるけど、お姫ちゃんはへーきそーだね?」
「ああ、はい。私、味を感じないので」
「何それ、れな初耳なんだけど!?」
「以前、ドラゴンの血を飲んだときに、味覚が消えました。まあ、言ってないので、知らないのも仕方ないかと」
「そりゃそーだ!」
ふわっと、何かが背中にかけられる。暖かい。眠い。
「さすがシニャック、気が利くねー」
「二人とも、疲れてたんだろうね、きっと」
「だろうねー。でもでも、この様子じゃ、お姫ちゃん、屋台行けないかもよん?」
「まなさんの幸せそうな寝顔が見られれば、満足です」
「お姫ちゃんは、本当に欲がないねー」
「そんなことはありませんよ。このために、蜜を盗んできたんですから」
「手段を選ばない系だった!」
「私に効かないことは計算済み──」
「さすが──」
「──」
「──」
そうして、私の意識は深い眠りの底に沈んでいった。
***
屋台の賑わいはいまだ衰える様子を見せず、騒ぎは夜まで続いた。
「それにしても──くくっ、あの女王、やはり侮れんな。甘美なる歌声に、余でさえ、意識を奪われてしまった。そちも、そうは思わぬか?」
「は、はい。余もそう思います」
男に手を繋がれた少年が、そう返事をすると、男は不気味に顔を歪めた。
「そうかそうか──くくっ」
「あなた、ユタが怯えていますよ?」
少年と反対の手を繋ぐ女の言葉で、男は不可解そうな顔をする。
「怯える? 何に怯えると? 世界最強の魔法使いである、魔王カムザゲスがついているのだから、恐れることなど何もない。そうだろう?」
「は、はいっ!」
「はあ、まったくあなたという人は──こほっ、けほっけほっ!」
「ママ! 大丈夫!?」
少年がうずくまって咳き込む女の背中を、優しくさする。これだけの人混みだが、彼らの周りにだけは空間があり、まるで、避けられているかのようだ。立ち止まることができるという意味では、ありがたい話だが。
「ええ、ありがとう。もう落ち着いたわ」
「もう、帰る?」
少年の心配そうな、問いかけを受け、女は優しく頬笑み、少年の頭に生える角の間に手を差し込み、黒髪を優しく撫でる。
「次はどこに行きたい?」
「……! えっとね! んー、あ! カタヌキ!」
少年は目を輝かせて、女の顔を見上げる。女がそれに答えるより先に、男の方が笑みを漏らす。
「なかなか渋いな、くっくっくっ……」
「あなたのその笑い方──いえ、なんでもありません」
「なんだ? 申してみろ」
「──さあ、ユタ。カタヌキを探しましょうか」
「うん!」
「……はぐらかされたな」
男女の手をぐいぐい引っ張り、先に先にと進む少年に、女は苦笑し、男は先の言葉の続きを気にしてか、思案顔を浮かべる。
そんな彼らに向けられる周囲の視線は、冷ややかで、冷たいものだった。




