2-8 気持ち悪い
──気持ち悪い。
「うえ……」
昨日の晩御飯をトイレに戻した。今朝は食欲もあまりない。必死に原因を考えていたが、何しろ、吐いたのは人生で初めてなので、分かりようもない。
そうして、分かりようもないことを考えながら、蛇口をひねり、お湯を出す。この宿舎は基本的に、すべてのものが、魔法がなくても使用可能だ。つまり、科学が発達している。
──実は、吐き気が酷くて、昨日は風呂にも入らず、早めに寝てしまったのだ。そのため、今日は優雅に朝風呂と洒落込んでいた。早起きは苦手だが、今朝は吐き気で目が覚めた。最悪の気分だ。
シャワーを全身に浴びていると、不思議と不快感も洗い流されていくような気がする。シャンプーとリンスとボディーソープの匂いが、心地いい。いつもと違う香りなので、どうやら、間違えて買ってきてしまったようだが、これはこれで好きだ。
他に、今までと変わったこと、と言えば、まなのことだ。まなに対して、何の感情も抱かず、それでも今までと同じように──あるいは、今までよりも懇意に接している。そんな自分が気持ち悪くて仕方ない。
となれば、原因はストレスだろうか。
風呂から上がり、机の上の体温計を見て、忘れていたと、体温を計る。検温は癖で毎日しているが、少しだけ、体温が高い。起きてから少し経ったことを考慮しても、やや高めだ。
いよいよ、本当に心の病かもしれない。生まれてこの方、一度も熱など出したことがなかったのだが。ともあれ、この私に限って、風邪など引くはずもないが、さっさと頭を乾かしてしまおう。
そうして、他の部屋への騒音の被害を考え、魔法で乾かすことにする。ただ、魔法で乾かすのは、相当な技術が必要になる上、一歩誤れば髪が全焼してしまうため、普通はやらない。あかりはよく、一瞬で乾かしているが、あれは天才的な魔法の技術あってのことだ。
私はそんな無駄な技術は洗練していないため、微風で地道に乾かしながら、考え事にふける。
「……ここ最近、色々ありましたからね」
そう。何も、まなに限ったことではない。今までぬくぬくと育ってきたあの環境を手放したのだ。それは、自分が思う以上に、大きい存在だったのだろう。
「でも、休むと後が面倒──いえ。そんな世話を焼いてくれる人もいないんでしたね」
昔だったら、私が熱を出したなんてことになれば、それはもう、大変なことになっていただろう。気を使われて、逆に休まらなかったかもしれない。新種の感染症だ、なんて言い出す輩もいただろう。父がそれで亡くなっているから尚更だ。
「……誰かが亡くなっても、もう、弔いにも行けないんですよね」
きっと、こうした悩みの蓄積で、精神に大きな負担がかかっているのだろう。こんな脆弱な精神力で女王になっていたらと思うと、ぞっとする。と同時に、私も人間だったのだと、やけにしみじみと感じた。
「甘えている暇はありませんね」
そうして私は、隣の部屋でまだ眠っているであろう彼を思い、乾いた髪を櫛で梳かしながら、たまには、弁当でも作ってやるかと考えるのだった。
***
三人で登校する途中、私はトンビアイスを買って、無限収納にしまった。値は張るが、完全食であり、なにより、今のところは、美味しい。今日の昼食だ。
──弁当? 何の話かさっぱり。
「僕、ちょっと席外すね」
あかりができもしないウインクをしてきて、不細工になっていた。彼はこうして、平日はほぼ毎日、まなの件で魔王と連絡を取り合っているらしい。
私は魔法で収納しておいたトンビアイスを取り出して、開封し、口に入れる。
「大丈夫?」
まなにそう声をかけられ、私は内心、動揺する。しかし、それを内心だけで抑える。
「何の話ですか?」
「あんた、体調悪いのに、無理して来たでしょ」
「そうですか? 顔色も普通だと思いますが」
鏡で見たら、相当酷い様子だったので、魔法と化粧で細工してきた。見た目はいつもと変わらないはずだ。
「どこがよ。まあ、みんな気づかないところからして、おおかた、魔法でも使ってるんでしょうけど、あたしに効かないってこと、忘れてない?」
「あ……」
──迂闊だった。いや、いつもならこんな失態は演じない。どうやら、心の傷は相当に深いらしい。
元々、大した失敗も挫折も味わったことがない私の精神力が、強いわけがない。だから、後先考えず、愛に溺れて国を捨てるような選択を平気でするのだ。
「はあ……」
「あんたがため息なんて、珍しいわね。いつもニコニコしてるイメージだったから。何かあったなら聞くけど?」
まなの言う笑顔は染みついているだけであって、内心を正確に表しているわけではないが、今はそんな笑顔を浮かべる余裕もない。
「──クレイアさんは、お優しいんですね」
「なんでか知らないけど、すごく嫌味に聞こえるわね……」
こうして突き放しておかないと、また、体調が悪くなりそう──いや、すでに、吐き気が込み上げてきた。
「……気持ち悪い」
「え?」
私はまなに事情を説明する暇もなく、トイレに駆け込み、食べたばかりのトンビアイスを戻した。本当に、私はどうにかなってしまったのだろうか。悪いことをした、その罰なのだろうか。
そのとき、背中がさすられる感触があった。見なくとも、その手が誰のものであるかは分かる。そして、その温かさに私は深い安心感を覚えた。




