1-30 背中のキズ
あかりは、人に触れられるのが苦手だ。過去の嫌な記憶が蘇り、全身をムカデが這いずり回っているような不快感に襲われるらしい。おそらく、触れても大丈夫なのは私くらいではないだろうか。
そうして、痛みとは無関係に、青い顔で震えるあかりに、エトスは食いしばっていた歯から力を抜き、忌々《いまいま》しげに言い放つ。
「背中を見せてみろ」
その一言に、あかりが表情を大きく歪めるのが分かった。滅多に見せない、心からの拒絶だ。それを見て、私は二人の間に割って入る。
「やめてください、お兄様」
「……まだ消していないのか」
「消していないのではなく、消せないんです。それに、これは、あかりさんの意思で入れたものではありません。それを、無理やり晒させて、一体、何がしたいんですか」
「守られてばかりだな、榎下朱里。恥ずかしいと、そうは思わないのか」
その発言に、エトスを睨みつけていると、肩に手が置かれて、私はあかりを振り返る。
立ち上がったあかりは、躊躇いながらも衣服を脱いで、鍛え上げられた上半身を晒し、龍の宿った背中をエトスに向ける。初めて見るのだろう、トイスとモノカは目を見張っていた。
「ドラゴンの刺青などと、罰当たりもいいところだな──っ!」
「がはっ!」
あかりは容赦なく背を蹴られて、その場にくずおれ、上手く息ができずに咳き込む。そんな彼の背をさすり、落ち着いたら服を着るよう指示して、私はエトスに向き直る。
「なぜこんなことをするんですか!?」
「──その質問に答える義理はない」
沸々と湧き上がる怒りを、どのようにしてぶつけてやろうかと考えていると、
「すみません」
と、あかりは素直に謝罪を口にして、頭を下げた。刺青のことに関しては、彼は何も悪くないのに。どうして、そのことを責められなくてはならないのか。
私は、彼ほど、大人にはなれない。それでも、その謝罪を無駄にしないように、怒りを拳の内で収める。すると、エトスはため息をついて、口を開いた。
「貴様は大罪人だ。滅びた国と国交の深かった国々が、我々に向かって無謀な戦争を起こし、自滅することのないよう。そして、争いの火種が広がり世界大戦が起こらぬよう。女王と私がいかに苦心したか、貴様に分かるか」
「……すみません」
「何より、貴様は、マナを深く傷つけた。それが、一番、重い罪だ」
──結局のところ、エトスは妹である私が可愛くて、だから、振られたことに対して激怒しているのだ。シスコンここに極まれり、と言ったところか。そもそも、私の色恋一つで世界大戦が起こるというのも、おかしな話だが。
「なぜ、婚約を破棄した。答えろ」
「それは……言えません」
再び、殴りかかろうとするエトスを私は押さえる。
「──座れ、マナ」
「お兄様が座ってくださるのでしたら、私も座ります」
力で私に勝てる者など、そうは存在しない。エトスと言えど、私の拘束から逃れるのは不可能だ。それを悟ったエトスは、苦渋の表情を浮かべて座った。
「……お前は、なぜそんなに強いんだ」
「そういう星の元に生まれたからです」
私はエトスが静かになったのを見て、ひりつく空気を落ち着かせようと、冷蔵庫から取り出した茶を全員に差し出す。パック緑茶だが、安物とはいえ、十分、美味しい。私の得意料理だ。まあ、以前そう言ったら、あかりに馬鹿にされたのだが。ちなみに、全員一口ずつ啜る中、トイスだけは、美味いと言ってくれた。
「……婚約を破棄したことが知れ渡ったら、一度は鎮静化した争いが再発しかねない」
「そうですね。ついでに、私の評価もどん底に落ちてくれればいいのですが」
「榎下朱里が世界中から疎まれることはあっても、お前の評価が落ちることはまずない」
世界は私を持ち上げるようにできており、なぜか、何をしてもいい捉え方をされる。必ず、私の敵ばかりが酷い目に合う。それでも、婚約だけは認められない。
しかし、これを理不尽だと嘆くことは、私にはできなかった。むしろ、嘆くべきなのは敵の方で、私はいつだって幸せになるようにできているのだから。
そして、あかりと婚約することは、きっと、幸せなことではない。辛いことの方が、間違いなく多いだろうことは分かっていた。──それでも。
「争いが起こったとしたら、私自らが赴いて、戦火を鎮めます。たとえ、一国が相手でも、それがルスファでない限り、私一人で十分制圧できるでしょう。また、無用な争いを起こさぬよう、抑止力となります」
「では、国内の反乱はどうする? 最悪、有史以前から王位を継いできた我がゴールスファ家が、失墜させられる可能性もあるんだぞ」
反乱が起きて、ゴールスファの家系が終わることまで私のせいにされては、堪ったものではない。だが、事実、私が王位を継がないことが原因なので、突っぱねるわけにも──、
「いや、国内の反乱とか、王家の権威失墜とか、そもそも、世界大戦が起こるとか、そんなことまでマナのせいにするとか、わけ分かんないんですけど?」
口を挟んだのは、ついに我慢の限界を迎えたらしいあかりだった。話が理解できていることに、私は素直に驚く。やればできるというのは知っていたが。




