6-32 泣かせてあげたい
「じゃあ、そろそろあたしは行くわ。ナーア、あとは任せてもいいかしら?」
「はい! お任せください!」
つい先刻まで、細かい文字がたくさん書かれた紙が次々と、何の説明もなしに出されていた。それらを前に、私は無我夢中でナーアの言う通りに行動していた。もし、借金の肩代わりの書類を書かされていたとしても気づいていない。
明日には王都に到着している必要があるため、すぐに出ないと間に合わない。なぜなら、行きよりも警備が厳しくなっていることが予想されるため、公共交通機関を利用できないからだ。
となると、あかりの魔法に頼るしかない。あかり一人ならいざ知らず、私がいるとなれば、間違いなく、速度は落ちる。
それを考慮しての苦渋の決断だった。普段なら上から下まで、全部に目を通しているところだ。
「内容は読まないわ……読まないわよ……」
「うひひ……。帰ってきてから、じっくり目を通してくださいね」
私が心を鎮めていると、ナーアが悪い子の笑みを浮かべた。彼女を信じての行動だが、万が一、騙されていたら洒落にならない。だが、今は信じるしかない。
ちなみに、魔王城には机もないので、玉座の手を置く台座を利用した。そうして、私はひたすらサインを書き、母印を押していった。判子がない上、魔法も使えないため、親指にインクを染み込ませてぽんぽん押していった。
そうしてサインしていると、なんだか、有名人になった気分だ。いや、実際、魔王なので有名になるのかもしれないけれど。
──ちなみに、あかりはと言えば、今はその辺の床で寝ている。ユタはベッドまで撤去してしまったらしい。
瞬間移動はできず、私を風で浮かせなければならないため、ここまでの道のりの数倍は時間がかかると思っていいだろう。そこまで苦労をさせるなら、体力の回復をさせてやる必要がある。それに、起きていたところで、騒いで邪魔になるだけだ。
「よし、完璧ね。あとは、空を飛ぶ方法だけど……」
鞄の紐に掴まっていくのは、さすがにもう遠慮したい。距離も距離だし。巨大なブランコにでも座って飛ぶのはどうだろうか。
「それなら! 実は先日、ユタザバンエ様のパーティーの際に使った道具が少し残っているんです。少し、待っていてくださいね!」
そう言って少しすると、ナーアが色とりどりの風船を持ってきた。風船で空を飛ぶなんて、いかにも子どもらしくていい発想だ。だが、
「糸の強度は?」
「──はっ! か、考えてませんでした……」
そう。飛ぶものというよりは、長くて丈夫なものがいい。すると、ナーアは、今度は旗を持ってきた。飾りつけに使ったのを、捨てずに取っておいたのだろう。
「これでぐるぐる巻きにするのはどうでしょうか!」
目をキラキラさせて寄ってくるが、やはり、強度が物足りない。パーティーに使うものは、決して、人が体重をかける用にはできていないのだ。
「何か、祝いの品とかもらってないわけ?」
そう尋ねると、ナーアは露骨に困った顔をした。
「あの、ですね。非常にお伝えしづらいのですが──」
ナーアが言ったことを一言でまとめると、こうだ。
──魔王即位のパーティーには、マナとあかり以外、参加しなかった。
「なんでよ。みんな、ユタが魔王になることを期待してたはずでしょ」
「はい。その通りです。でも……だからこそ、なんでしょうか。ユタザバンエ様の力を恐れて、誰もが、あのお方を遠ざけるんです。私やルジが、貴族を中心に直接、民の元へと足を運んだのですが、誰もお越しにならないとのことでした」
「でも、あかりはそんなこと言ってなかったわよ」
「ユタザバンエ様は……魔法で幻を生み出したんです。会場にいたのは、すべて、あの方が作ったもので……会場も、机も椅子も、使用人も、全部……うう、ひっく……せめて、飾りつけ……だけは……っ」
私はナーアを抱きしめて、その頭を撫でる。
私の弟は、誕生日すら、ろくに祝ってもらえなかったのだ。その日に誰も来なかったということは、今までもずっと、何年もそうしてきたということだ。
恐らく、魔王が崩御してからずっと。ただ、空となった玉座を埋めることだけを望まれて、何もしてくれない民たちの、大きすぎる期待だけを背負ってきたのだろう。
「ナーア。泣いてくれて、ありがとう」
***
「少しでも、私たちで何かできないかと思いまして。会場の飾りつけは頑張りました! ユタザバンエ様のお作りになった幻は触れることも可能でしたから、机にテーブルクロスをかけてみたり。壁の飾りつけをしてみたり、風船を飛ばしてみたり……あんまり、どれも喜んでもらえなかったんですけどね。物が増えるのが嫌だと仰って」
「大丈夫。あの子、昔から素直じゃないから。きっと、本当は嬉しかったんじゃないかしら」
「そうでしょうか。……そうだったら、嬉しいな」
──本題は、空を飛ぶ方法だ。
「テーブルクロスが使えるんじゃないかしら」
「なるほど! 手足にくくりつけてムササビみたいに──」
「それは可愛い発想だけど、全身バキバキになりそうね。特に背中が。……そうじゃなくて、二枚の布の端と端を結んで、輪っかにして、座る部分と、パラシュートの部分を作るの」
「おお! さすがまな様、賢いですね!」
純朴なナーアに、私は頬を緩ませた。
布を思いきり引っ張って、強度の確認をする。常に空腹状態だった私は、それなりに軽いはずなので、おそらく、大丈夫だとは思うけれど。確実とは言えない。
「まあでも、大丈夫でしょ。なんとかなるわ」
「そうですね! なんとかなります、きっと!」
そうして、私は床で爆睡するあかりへと視線を落とす。
「──さあ、可哀想だけど、そろそろあかりを起こさないと」
「まな様も、お休みにならなくて大丈夫ですか?」
「ええ。今は無理する時なのよ。終わったら、三日くらい寝続けてやるから、安心しなさい」
「はい! 暖かいベッドを用意して待ってますね」
「……優しいわね、ナーアは」
「まな様?」
私は、ナーアの青い髪を撫でる。これだけしっかりしていても、はにかんだ笑顔は間違いなく、子どもそのものだ。
──ユタも、八年前はこんな感じだった。それを思うと、色んな感情が溢れてきて、私は思わず、抱きしめていた。それでも、涙は流さない。流す権利が、私にはないから。
「わっ! え、あの、まな様……?」
驚かせたことを申し訳なく思いつつも、涙が収まって、声が震えなくなるまで、私はナーアを抱きしめていた。
しばらくの後、やっと声を出せるようになって、私はナーアから離れる。
「ナーア。これが、最初の魔王命令よ。いい? 心して聞きなさい──」