6-19 認めたい
「おめエ、よくここまで生きてこれたな」
「あはは。変なこと言うんだね。わたしはもう、とっくに死んでるよ」
願いの魔法。わたしは魔法を信じなかった。何度も見たけれど、絶対に信じようとはしなかった。なぜなら、
「──わたしが元々いた世界にはね。魔法なんて、なかったの。だから、手品か何かだって言われた方がよっぽど納得できた。わたしのいた国では、髪の毛もこんなに、カラフルじゃなかった。それに、昔は、わたしの髪も目も、こんな色じゃなかったんだよ?」
「あア、知ってる。視たからな」
わたしは元いた世界で両親と一緒に殺されて、気がついたときには、こんな色になって、この世界にいた。あの日のことはよく覚えている。
「なんで、わたし一人だけ、助かっちゃったのかなあ……」
両親が死んだ。居場所が滅ぼされた。そして、今、なんとかしてまなだけは失わないように、他の多くのものを奪って、盗んで、殺して、ここまで来た。
緑茶とワサビを殺した。
検問が通れそうになかったから、まなを背負って走って抜けた。
まながお腹が空いたと言って可哀想だから、食べ物を盗んだ。
盗むのに慣れていて良かったなんて、思ってしまう。
この体が幽霊みたいに軽いから、逃げることができた。
触れない限りまな以外の誰にも見えないし、足音一つ鳴らせないから、緑茶とワサビが相手でも返り討ちに合わなかった。
まるで、まなを守るために今までのことがあったかのようだ。
そして、この手は、すっかり汚れてしまった。
いつでも、まなの手を掴んでいいのだろうかと、迷う。それでも、まながわたしを大好きだと。お姉ちゃんお姉ちゃんと、うるさいから。わたしは、その手を離せない。
「何か、温かいものが食べたいなあ」
「……何がいいんだ?」
「んーん。わたし、何も食べられないから。お腹も空かないし。それに、もう死んでるから」
ちゃんと地に足はついているし、重力に引っ張られてもいる。でも、それを全く感じられない。風が吹いたら、高く高く飛ばされて、帰ってこられなくなりそうだ。
「どんどん、誰からも見えなくなっていくの。まなに、触れられなくなっていくの。わたしの体が、消えていくの。まながね、目が覚める度に、──誰? って、そう、聞くんだよ。それから、腕のスタンプを見て、あ、お姉ちゃんだ。って、思い出すの」
目が覚めたら、もう、わたしを思い出せなくなっているかもしれない。また、汚れてしまったわたしを見て、怖がるかもしれない。
少しずつ、消えていくのを感じる。この間は、泥を踏んだ後に、足跡が消えていくのを見た。
きっといつか、わたしは誰からも忘れ去られて、空に飛ばされて、宇宙のようなところで、何もできずに生き続けることになるのだ。
「とっても怖い。もう生きていたくない。死にたい。いつ、死ねなくなっちゃうか分からないのも怖い。永遠に一人になるのが怖い。……でもね、まながいるから。まなだけはなんとか、守らないといけないの。あの子を、なんとか摩族の手が届かないところまで送ってあげないとって。それまで、わたしは生きていなくちゃ」
まながわたしの、全部だ。お母さんとお父さんが死んで、わたしも殺されて、こんな救いようのない世界に来て、初めて、あの子の手を握ったとき。
──初めて、温かいと、そう思ったから。
「……でも、もう無理かもしれない。ぷつんって、何かの糸が切れたら、わたしは死んで、地獄に落ちるような気がするの。──だから、バサイ。お願い。今度こそ、本当に、なんでもするから。わたしにできることなら、なんでも」
「なんでもなんて、簡単に言うもンじゃねエ」
「本当になんでもする。首を切れって言われたら、ちゃんと切ってくる覚悟はできてる。だから、もし、わたしがいなくなったらね。──まなから、わたしの記憶を消してほしいんだ」
これ以上、悲しまなくて済むように。
***
その日は、まゆが髪の毛を切った。それを束ねてエクステを作るらしい。エクステが何かは知らないけれど、出来上がったら、私にくれるそうだ。
「まさか、バサイがエクステを作れるとはねー。まあ、意外ときちんとしてるもんね」
「意外とってなんだオイ」
「でも、なんで急に?」
「バサイが髪の毛を食べたいんだって。まあ、切れるうちにやっておかないとね」
私にはその言葉の意味が分からなかった。
「バッサイ、髪の毛なんて食べるの?」
「髪じゃねっ……あー、それでいいや」
バサイは面倒になったようで、それ以上は何も言ってくれなかった。髪の毛を食べるはずがないのに。
「バサイ、頼んだからね」
「何を?」
「んーん。こっちの話」
まゆは、バサイといると、そうやって誤魔化すことが多くなった。
──その次の日のことだった。
「行かないで! お姉ちゃん!」
底の見えない谷に、まゆは立っていた。
「まな。ついてきちゃったの? 待っててって言ったのに、悪い子だね」
「嫌だ……いっちゃ嫌だよ……」
「──まなは、ほんとーに賢いね」
「お姉ちゃんを忘れちゃう……っ」
何をしようとしているかは、すぐに分かった。
「にへへ……。そんなに思ってもらえて、わたし、とっても、幸せだったんだなあ」
「大丈夫って、諦めなければなんとかなるって、言ったのに……」
「そうだよ。諦めなければ、絶対、なんとかなる。だから、まなは大丈夫。わたしがいなくても生きていける」
「無理だもん……」
私の言うことを聞いてくれないまゆは、初めてだった。まゆは私の望むことなら、なんでも叶えてくれた。それがいかに大変なことか、気づかなかったから、悪いのだろうか。
「いい子にするから……。だから、死なないで!」
まゆが少し躊躇う素振りを見せた。だから、私はその手を掴んで引き留めようとした。
──その手は、すり抜けていった。
「お姉ちゃん……? お姉ちゃん、ねえ、なんで、なんで掴めないの!?」
それを見て、まゆは力なく笑った。
「まな。──ほんとーに、ありがとー」
落ちていく。まゆが落ちていく。咄嗟に伸ばした手がすり抜けた。届いたのに。ちゃんと、届いたのに。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 嫌だ嫌だ嫌だ……!」
止められなかった。私のせいだ。掴めなかった。私のせいだ。
私がまゆに頼りきりだったから。
私がまゆを守ってあげなかったから。
私が何もしなかったから。
私が何も知らなかったから。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……っ」
そのとき、尻尾がおずおずと視界に入ってきて、私はそれを手で払った。
「あっち行ってよっ!」
すると、尻尾も角も引っ込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん──」
足跡が消えていくのが見えた。
慌てて、腕を見ると、スタンプが消えていくのが見えた。私はそれをポケットから取り出して、何度も何度も押した。
しかし、スタンプはすぐに消えていった。
忘れたくない。消えてほしくない。どうにかしたい。
ふと、思った。傷なら、消えないのではないか。痛みなら、忘れないのではないか。私はあの痛みが、いつどうやってつけられた傷か、忘れられないのを、知っていた。
「ナイフ……いつの間に?」
私は腰にナイフがぶら下がっているのに気がつく。そして、そのナイフで腕を、つーっと薄く切る。久しぶりの痛みに涙が出る。それでも、私は「まゆみ」と書いた。
そして、その傷は、決して消えなかったのだ。
***
「まゆみは、死んだの。──私のせいで」
私は腕の傷をなぞり、マナに顔を埋めながら、問答を交わす。涙が抑えられなくて、マナの服に染み込ませていた。そんなどうしようもない私の頭を、マナはずっと撫でていてくれた。
「まゆみは、私のために、やっちゃいけないこととか、色々、やってくれてた。全部、私のせいなの。私が、何も知らなかったから。物を買うのがどれだけ大変か、食べていくのがどれだけ大変か、逃げるのがどれだけ大変か、知ろうとしなかった……っ」
食べ物のなる木なんて、物語の中にしか存在しない。食べ物を無償で分けてくれる親切な人も、この世にはまったくと言っていいほどいない。だから、あのときまゆが食べさせてくれたのは、盗んだものだったのだろう。あのときのスタンプも。それに、追っ手だって──。
「私が殺したの。私のせいなの。私が悪いの。私なんていなければ、まゆみは、きっと、死ななかった」