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どうせみんな死ぬ。  作者: 桜愛乃際
第一章 ~願いの手紙~
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4-31 彼女の狂気

 呆然としていた。僕もマナも。目に狂気の光をたたえ、何度も何度も、ナイフでまゆみの名前を刻んでいるまなちゃんに。


 僕は、止めることも忘れ、その真っ赤な血に釘付けになっていた。そして、マナに左腕を掴まれ、まなちゃんはナイフを取り上げられる。マナは血の滴る腕を掴み、


「まなさん。これは……なんですか?」

「あたしの、たった一人のお姉ちゃん。たった一人の家族。まゆみさえいれば、あたしには何もいらない」


 その視線はどこも捉えてはいなかった。自分までいらないと言われたように感じたからか、マナの全身からは力が抜け、思わず、まなちゃんを解放してしまった。


 彼女はナイフを拾い、血を滴らせながら、ふらふらと、部屋の外へと出ていった。


「マナ、大丈夫?」

「あれは、なんですか」


  マナは何か、信じられないものを見たといった様子で、床についた、まだ新しい血液の染みを指でなぞる。まなちゃんの血液だからか、魔法で拭き取ることはできなかった。雑巾か何かで拭くしかないらしい。


「とにかく、あのままだと危険だよ。追いかけよう」


 珍しく、動揺を前面に押し出したマナを支えながら、僕たちはまなちゃんの部屋へと歩いていく。部屋の扉は開け放されていた。


「あは、あははぁ……っ!」


 部屋の真ん中で、まなちゃんは、まだ、腕に刻み続けていた。それが、楽しくて仕方ないといった様子で、目を見開いて、笑っていた。


 マナは青い顔をして、手で口を押さえて、玄関に座り込んだ。止めなくてはと、そう思い、僕は一瞬、躊躇って、まなちゃんの左腕を掴む。


「あはっ? あかり、離して?」


 腕を掴んだ手のひらから、ムカデが入れられたようだった。一匹のムカデが、皮膚の内側で増殖して、何匹ものムカデが全身をうじゃうじゃと這いずり回るような、気持ち悪さだった。それでも、僕は腕を離さなかった。そして、ナイフを取り上げた。


「返して……返してよっ! また、忘れちゃう……、まゆみ、まゆ……お姉ちゃん、お姉ちゃん、助けて! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 離してぇっ!」


 子どものように泣きじゃくって、まなちゃんはなんとかナイフを取ろうともがく。体の動きに反応して、血液がどんどん流れていく。ずいぶん、顔色も悪い。相当気分が悪いだろうに、まなちゃんの目には、まゆみという少女のことしか映っていないらしい。


 僕はなんとか動きを止めようと、一度、マナの方を見てから、まなちゃんを腕ごと後ろから抱きしめて拘束する。全身が震えて、狂いそうなほど、頭が恐怖に支配されていた。しかし、記憶を一つ、バクに渡したからか、まなちゃんに慣れたからか、この光景の異常性に飲まれているからか、いつもより、少しはましだった。それでも、ところどころ、全身が意思とは関係なくびくっと震えて、その度に、自分を落ち着かせるのがやっとだった。


「お姉ちゃん……?」


 やっと、まなちゃんが落ち着いてきたと思ったら、今度は何もない空間に向けて、語り始めた。それは、今にして思えば、それは、出会ったときからよく見かけていた光景だった。蜂歌祭で、穴に落ちそうになっていたときとよく似ていたが、まったく違うものだということは、すぐに分かった。


「お姉ちゃん、今まで、どこにいたの? すごく、心配したのよ?」


 まなちゃんは、先ほどまでとは違い、しっかりと話していた。目も、空中の一点を捉えていた。


 ──でも。その先に、まゆみなんて少女はいなかった。誰もいなかった。何もないのに、赤い瞳からは、涙が零れる。


「あかり、離して」

「──」

「……あかり? どうしたの?」


 すでに、思考は限界で、込み上げる酸っぱい胃液をなんとか、胃に戻して。脳が溶けてぐちゃぐちゃになりそうだった。それでも、僕は、その腕を離さなかった。


 ──僕は知っていた。まなちゃんと、まゆみという少女が逃げ出したあの日から、数日後。


 感覚のない体。重力を感じず、一度跳んだら、戻ってこられないような溢れんばかりの不安。何も触れない。空腹すらない。何も食べられない。何も感じない。そして、まなちゃん以外の誰からも、見えない。まなちゃんに忘れられたら、きっと、世界のどこからも消えてしまう。そんな、大きな不安に押し潰されて。耐えかねて。




 ──まゆみは、底の見えない谷へと飛び込み、自殺したのだ。


「ねえ、何かあったの?」


 僕は、まなちゃんを風呂場へと運び、シャワーで腕を洗い流す。


「いたっ……」

「じっとしてて」


 無数の傷が腕に刻まれていた。まゆみ。全部、そう書かれていた。チアリターナがこの傷を治した気持ちがよく分かる。事情を知らなかったとしても、この傷は、あまりにも痛々しくて、見ていられない。


 僕は、まなちゃんの腕に包帯を巻いた。まなちゃんは、何をされているのか、いまいち、よく分かっていないようだった。いや、きっと、考えないようにしていたのだ。考えればすぐに気がついてしまうから。まゆみという少女が、もうこの世のどこにも存在しないということに。


 まなちゃんを解放し、僕はマナの元へと歩み寄る。


「マナ、大丈夫?」

「──説明していただけますか?」


 僕はうなずいて、マナの手を取り、引き上げる。


「お姉ちゃん、どこ行ってたの? ──本当にお姉ちゃんって、お姉ちゃんよね。あははっ。でも、本当に心配したんだから。どこかに行っちゃったんじゃないかと思って。──うん、そうよね。お姉ちゃんがどこかに行くわけないわよね」


 きっともう、自棄を起こすことは、ないだろう。


 僕は、本当に楽しそうな、まなちゃんの声だけが響く部屋を後にして、そっと扉を閉めた。


 笑い声は、日が暮れても続いていた。

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