村での日々 〜セスタ〜
「セス、おはよう」
その少年にとってもはや聞き馴染んだ声が、彼の寝惚けた頭を目覚めさせる。
少年が声のした方向へ顔を向けると、そこにはこの世のものとは思えないほど美しい獣族が立っていた。
その獣族は、ここ十数日間同じ行動を取り続けている。
…朝になると、彼を起こしにやってくるのだ。
少年の名はセスタ・クロイツ。
ガルヴ村という、魔王城に最も近い村に住む者である。
神族の攻撃によって村が灼かれた事件において、彼は母と友人を失った。
齢八歳にしてそれらを失うのは、本来真面目でしっかりとした性格である彼の心を崩すのに十分なことだった。
母の死を知り悲痛のままに一晩泣き、共に切磋琢磨した友人の死を悟り再び泣く。
父は王都で生きているものの、物心つく頃から離れて生活していたため、親というほど親近感が無い。
もはや孤独の身になってしまったと、彼がそう感じるのも無理は無い話だった。
それを救ったのが、彼女。
美しき獣王、ラミエル・ヴォルフルークである。
彼が全てを失った翌日、テントの中で一人目覚めると彼女はそこに居た。
「おはよう。シェルナさんは、もう復興作業に出た。朝ごはん、食べる?」
シェルナとは、少年とペアで魔法のテントを使っている村の女性のことである。
二児の母であった彼女は今回の事件で夫と子供を亡くし、絶望に打ちひしがれていた。
ただし、この村の住民たちは強い。
彼女も例外ではなく、残っているものを守ろうと意志を強く持ったのだ。
彼女の子供がセスタと親密だったことは、シェルナがセスタを守ろうとする理由として大きいものだった。
「誰……?」
「獣族、ラミエル。ラミィって呼んで。この村の復興を手伝う」
少年は、困惑していた。
獣族がこんな魔王城の近くに来ていることもそうだが、何故復興を手伝うと言いつつ自分のところに来ているのかが理解出来ない。
「僕は…大丈夫。…ラミィさん、は作業の方に行って、いいよ」
昨日はあまりの辛さで泣き喚いてしまったが、本来彼は聡明で気配りの出来る少年である。
一晩泣き、もはや涙も枯れた。
少しだけ気持ちが落ち着いてきたところなのだ。
そんな彼は、全く知らない人物であるラミィに迷惑は掛けられないと考えたのだ。
ただ、初対面の者がすぐ近くに居ることに対する不安もあったが。
「きみの名前は?」
「……え?」
「名前。ラミィは名乗った」
言葉裏に突き放したハズなのに、自分の名前を尋ねてこれから関わっていくかのような態度を見せる獣族。
何故と、そう思考が巡る。
「……僕は、セスタ。ラミィさん、僕は放っておいて」
「いや。セス、きみは今誰かといるべき。それをラミィが担う」
「………なんで」
「そうしたいと思ったから」
さっぱり訳が分からない。
自分とラミィとは、今が初対面のハズである。
昨日みっともなく泣いていたところは恐らく彼女に見られていただろうが、それだけだ。
それだけの関わりで自分を慰めようとするのはおかしい…と、少年はそう思う。
「いいから、僕に構わないでよ。大丈夫だから」
「構う。朝ごはん、何にする?果物かパンか。果物なら、林檎とバナナと……」
「構わないでって言ってるじゃん!!」
勢いに任せて、ラミィが差し出してきた果物を叩き落としてしまう。
彼の目には涙が溜まっていた。
しっかりしているとは言え、まだ幼い。
母を失い友を亡くし、辛さと寂しさでどうにかなってしまいそうだったのだ。情緒不安定にもなるというもの。
一晩泣いて落ち着いたとは言っても、それはただ疲れただけ。
意味も分からず近寄ってくる他者を受け入れられるほど、彼に余裕は無かった。
「………でも、構う」
「来ないで!お母さんでもないくせに!」
「じゃあ、ラミィはお姉ちゃん。姉だと思って」
「そんな人いない!もう僕はひとりなんだ!」
「ラミィが、家族の代わり」
「ちがう!関係ない!」
「………」
涙が、溢れてくる。
言葉にしてしまうことで、自分が孤独になった実感を強く得たのだ。
訳の分からない理由で近づいてくるこの獣族は、上辺だけで自分を心配しているに過ぎない。
そう考えてしまう少年は、もはやその感情に収拾がつかない。
……だが、次の瞬間。
少年は、抱きしめられていた。
自分より少し大きい少女の身体、その温もりが強く伝わってくる。
「やめ、てよ………」
この理解の及ばない獣族に抱きしめられるのは、絶対に嫌であるはずなのに…少年は、抗えなかった。
「ラミィの……わたしの、鼓動を聞いて」
受け付けるつもりの無かったその声を聞いて、素直に彼女の鼓動に耳を傾ける。
落ち着いた音だ。
こんなに喚く少年を目の前にしても、一切動じず包み込むように鳴る拍動。
抱きしめる腕を振りほどこうとしていた少年の身体は弛緩し、彼女の抱擁に身を委ねた。
それとは対照的に、彼の目からはこれまで以上に涙が溢れ出す。
「お母さんのこと、好きだったんだよね」
「………」
「友達のこと、好きだったんだよね」
「……………」
「…わたしは、セスと全然親しくないけど……セスが、子供が辛そうにしてる姿は、嫌だから」
「……」
「だから、セスには元気を出してほしい。わたしが、元気の無い子供を見るのが嫌なの。それが、理由」
「………自分勝手、じゃん」
「そう。わたしは、勝手だよ。だから、セスを慰めるのだって、セスに何言われても勝手にするから」
「…………」
何を言っても慰めようとするなら、抵抗しても意味がないな。
別に、ただ抱きしめてくるだけだし…無理やりどけようとしなくてもいいか。
そう自分に言い聞かせて、少年はその温もりに身体を預けたのだった。
少年のすすり泣きが止むまで、その獣族は彼を抱擁し続けた。
元々ボロ布を身にまとっていた彼女だが、昨日魔王が手配したお陰でしっかりとした服を着用していた。
しかしその新調された服は今、少年の涙や鼻水で汚れてしまっている。
泣き止んで正気に戻った今、少年は恥ずかしさに襲われていた。
そもそも、普段は他の子供たちより落ち着きのある少年だったのだ。
八歳にもなって他人に鼻水を擦り付けて号泣したという羞恥が、今更ながら浮かび上がる。
「……服、汚しちゃって……ごめんなさい」
「いい。それより、落ち着いてよかった」
すんなりと許してくれた少女。
彼女の抱擁の安心感といい、この寛容さといい…少年の母とまではいかないが、このラミィのお陰で寂しさはある程度晴らすことができそうだ。
ただ、やっぱり恥ずかしい。
彼女が許してくれて、何ともなく会話は終わったハズなのに…何故か未だに強い羞恥心が抜けない。
それは彼がラミィに特別な感情を抱き始めていることの証左であったのだが…彼はまだ、知る由もなかった。
その恥ずかしさを隠すために、その日彼はラミィを拒絶した。
抱擁を終えるや否や彼女をテントから追い出して、今日は来なくていい旨を伝える。
その時ラミィはまだ自分が受け入れられていないと勘違いして、その日は彼のテントの前で長時間粘り続けるのだが…結局、それ以降彼女と少年が話すことは無かった。
明くる朝。
少年が目を覚ますと、昨日と同様にラミィがテント内で朝食を用意していた。
…というか、食べていた。
ただ、自分の食料が食べられていることには一切関心が向かない。
昨日わけも無く自分に近づこうとしてきた彼女を、少年は不可解で不気味な存在だと思っていた。
だがしかし、あの抱擁を経て…改めてラミィを見てみると、その容姿のなんと美しいことか。
日に照らされて輝く白髪に、透き通るような肌。
犬の耳や尻尾は繊細に毛並みが整っていて、煌めいて見える。
その姿に、少年は思わず見蕩れてしまった。
「………あ。セス、起きた」
世にも美しい獣族を見つめていると、こちらの視線に気づいたようで彼女がこちらを見る。
目が合うと昨日のことが思い出されるようで、顔が少し熱くなる…が、昨日のように拒絶することはもうない。
「おはよう、………お姉ちゃん」
そう呼ぶと、途端にラミィは目を見開いた。
「………もう一回」
「おはよう、お姉ちゃん」
「もう一回」
「おはよう、お姉ちゃん」
「もう一回」
「も、もういいよ!何なの」
彼女は、じーんと染み入るような顔で歓喜に震えている。
ラミィは家族の中で末っ子で、妹や弟にずっと憧れていたのだ。
三十年生きているとは言え、彼女も獣王族の寿命からすればまだ少女。
年下の親族の存在を、夢見る年頃なのである。
「…もう、大丈夫なの?」
母や友を失ったことだろうか、昨日彼女に泣きついた後羞恥のあまり拒絶したことだろうか。
どちらにせよ、大丈夫というわけでは無い。
昨夜も、母や友が目の前で死ぬ悪夢を見た。
目が覚めると汗だくになっている。
あの神族による獄炎は、少年にトラウマを植え付けたのだ。
ただ、目の前の彼女と一緒に居れば、いずれ大丈夫になる気がした。
母の代わりにも、友の代わりにもなり得ないが…。
「うん、大丈夫」
この少女に、昨日みたいにみっともない姿を見せたくない。
その思いを支えとして、気を強く保とうと決意したのだ。
それから十数日が経過した今日。
同じように、朝目覚めるとラミィが居た。
あれからというもの、少年は活動時間の殆どをラミィと過ごすようになった。
少年を守ると決意した村の女性・シェルナだが、復興で手一杯なので彼と接する時間は少ない。
復興を手伝えるほどの力がまだ無い彼の世話は、ラミィに一任されている。
彼がそう要望を出したゆえだ。
ラミィの冒険話や戦闘の話を聞いたり、魔法を見せてもらったり教わったり。
セスタとラミィは、たった十数日ほどで親密になったのだった。
ただ、そこに交わる感情には少し違いがあるが。
「おはよう、お姉ちゃん。今日の朝ごはん、何がある?」
「林檎と、パン。お肉があったんだけど……ごめん、食べた」
「お姉ちゃん食べ過ぎ。朝からお肉なんて、お腹こわすよ」
「むしろ足りないくらい」
「えぇー…」
少年は、毎晩のように悪夢を見る。
母や友を失った絶望は、未だに彼の中で燃え続けているのだ。
だがしかし。
悪夢に身を焦がされ目覚めると、そこには美しい獣族が居る。
彼女と接していると、心を灼く炎はゆっくりと鎮まっていくのだ。
「お姉ちゃん」
「なに」
「ありがとう」
「?…うん」
彼女の手によって、確実に一人の少年が救われつつある。
一ヶ月後には、もはや彼女は少年にとって無くてはならない存在になっていたのだった。




