花のホテル、その庭で
ひんやりした空気だ。
背中が冷たい。頭の下も硬い。
僕は石の床に寝転がっているようだ。なんだか寒くて、冷蔵庫の中にいるみたいな気分になる。
ゆっくり目を開けたら。
あざやかな青い目の少女が、僕を覗き込んでいた。
僕より二~三才年下だろうか。
金色のストレートな髪は肩より長い。目尻がややつり上がった大きな目。整った顔立ちは、まだ子供なのに気位の高さが表情に出ていて、簡単に言えば生意気そうな女の子。
でも、大きくなったらさぞかし華やかな美人になるだろう。
印象的な青い目は、僕の知っている誰かを思い起こさせる。
しばらく見つめて思い出したのは、僕の恋人ローズマリーの優しい青い目と暖かな眼差しだった。
そうか、彼女に似ているんだな。
僕は起き上がり、冷たい石の床にあぐらをかいた。
コートの裾が床に落ちる。僕の格好は上着とズボンも、いつもの私服だ。
コートを着ているから、外出しようとしていたのだろうか。
旅先のホテルの部屋で寝ている時間のような気がするのに……。
「あなた、お名前は?」
少女は、にっこり笑った。咲き誇る薔薇のようなその笑顔。
僕は見惚れた。そういえば、初めて彼女を見たときも、まっすぐな髪とあざやかな青い目が、僕のローズマリーに似ていると思ったのだった。
そこで奇妙なことにも思い至った。
僕が彼女を見てそんな感想を抱いたのは、いったい何時だろう?
不思議なことに、僕は彼女の顔を知っていた。そう、過去形だ。けれど、実際に会ったのは絶対に、これが初めてである。
僕はもう一度、彼女の顔をじっくり眺めた。
やはり僕は、この少女を知らない。これが初対面だ。
でも、彼女の顔を知っている。
どういうことだろう。なにかが変だ。こんなにきれいな女の子なら、一度会ったら簡単には忘れられないだろうに。
僕は頭でも打って、記憶が変になったのか。だからこんな所にひとりで横たわっていたのだろうか。
「僕は……サー・トール」
何気なく、学校での通り名で返した。近頃では悟という本来の日本人的な名前よりも、サー・トールと呼ばれる方がしっくりくるようになっている。
少女は「サー・トール、サー・トールね」と口の中で繰り返した。
「サー・トール、わたしの秘密の部屋へよくおいでくださいました。年の近いお客さまなんて初めてだわ。どうぞこちらにお座りになって」
いわれるままに、僕は石の床から起き上がり、白いソファに座った少女の右横へ腰を下ろした。
座面は硬くて冷たかった。手で触れたら氷のよう。岩を彫って作られたベンチに、古びた白いシーツを掛けたものだった。
背後の壁を見上げると、十段ほどの棚がある。ベンチと同じに岩を彫刻して作られたそこには、こまごました小物が並べてあった。
口の欠けた陶製の水差し、水色の足台付きグラス、ピンクの一輪挿しは香水瓶の転用だろうか。花の形の蓋が付いた壺はビスケット入れだ。
灰色の室内は、岩を掘り抜いて作られているのだ。この空気の冷たさと言い、地下にある大昔の古い倉庫か何かじゃないだろうか。
「ね、すてきでしょう。ここはわたしだけの、秘密の部屋なの。居心地が良いようにいろいろ持ち込んだから、おやつもあるわ、おひとついかが?」
少女が麻袋の口を開けて差し出した。
干したイチジクにアーモンド。クルミもある。なるほど、こんな保存食があるなら三~五日は外に出なくても大丈夫だろう。
だが、僕は、慌てて顔を引いた。
ふいに、学校の授業で習ったことを思い出したのである。
「いや、けっこう。お腹は空いていないから」
見知らぬ場所で見知らぬ人に飲食を勧められることがあっても、けっして口を付けてはいけない。
なぜなら目下の僕は、異郷をさすらうサバイバー。そこがほんとうに安全な『世界』なのか確証を得るまで油断は禁物。
一日くらい空腹でも、人間は死にはしないのだから。
「そう……」
少女は眉尻をさげ、可愛い唇を尖らせた。
ものすごく残念そう?
その瞬間、僕は、彼女の美しい顔に奇妙な暗い陰がよぎったのを見た。
瞳孔は開いて真っ黒。その黒さが顔中に広がって塗りつぶされた仮面のよう。
一瞬だけど、そんな風に見えたのは、僕の気のせいだろうか。
黙り込んだ僕とは逆に、少女は陽気に喋りつづけた。
「ここへあなたみたいなお客様が来たのは初めてだわ。ねえ、あなたのことを聞かせて。ゆっくりお喋りしましょうよ」
少女は麻袋を棚に置くと、僕の左がわへ腰掛けた。
さっき麻袋を差し出された時にかすかに触れた少女の手は確かな質感があった。温かな手だった。
――変なことを考えるなよ。彼女が人間ではないなんて……。
だが、いったん芽生えた疑惑はどんどん大きくなってゆく。
この子は何者なんだろう。
どうしてこんな所に一人でいるのだろう。
僕のような男子がこんな小柄な可愛い少女のことを怖がるなんて情けないが、僕の豊かな想像力は幽霊やゾンビなど、コレまでの半生で見たホラー映画の記憶をどんどん掘り出し、暗い方へと傾いた。
僕は急いで石のソファから腰を上げた。
「いや、もういくよ」
この場所も少女も、初めから変なんだ。
僕がここにいること自体がおかしいんだから、長居は無用だ。
「どこへいくの? ここからは出られないのに」
少女は優雅な手つきで、瓦礫の山を指し示した。
「ほら、ここが入り口だったのよ。もう出られないわ」
そこは崩れた瓦礫で完全に塞がれていた。
真上の天井が崩落したのだ。
地震か歳月による劣化にせよ、よくこの部屋は無事だったもんだ。
「ほかに出口は……?」
「無いわ。ここは昔、お城のご領主様のために作られた、地下トンネルの中なのよ。それよりあなたのことを聞かせてほしいわ。どこから来たの。上のホテルのお客さまなのよね?」
小首を傾げて少女が訊く。こんなに可愛い女の子にこんなふうに訊かれたら、返事をしない男はいないだろう。
「そうだよ。僕は……この地方で一番古いホテルに泊まっていたんだ」
だんだん思い出してきた。
昨日、僕は、汽車に乗り、丸一昼夜かけてこの街へ着いた。
僕は、『白く寂しい通り』という街にある魔法大学付属学院の学生だ。文字通り魔法を学ぶ学び舎で、僕らは魔法使いになるべく勉強をしている。
僕らは白く寂しい通りから勝手に出てはいけないけれど、僕は例外。
なぜなら、僕らの学び舎たる魔法大学付属学院こと通称:魔大の教官リリィーナの助手として来たからだ。
リリィーナ教官は、すらりと格好いい妙齢の女性だ。黒髪に黒い目、整った顔立ちにダークブルーの背広を着こなしたその姿は、スリムな男性と間違える人が多いだろう。
列車では、車掌が切符の確認をしに来たときも、僕らは若い男の二人連れだと思われていたくらいだ。
そういえば、その汽車の食堂車でランチを食べていたときに、『少女』が出てくる話を聞かされたような……。
「家出人の捜索なんて、珍しく探偵らしい依頼ですね」
たしか、僕はそう言ったんだ。
だって、家出人の捜索なんて地味な依頼は、リリィーナ教官のイメージじゃないと思ったからね。
今回僕がついてきたのは、ホテルにある古い文献を調べるのに人手が必要とかで、アルバイトを持ちかけられたのである。
お小遣いが欲しい僕は、二つ返事で引き受けた。ちょうど恋人へのプレゼントを買いたかったので渡りに船だったんだ。
「まあ、そうだね。こういった案件で不思議探偵としてのわたしを呼ぶのは珍しいかな」
リリィーナ教官の本業は『境海世界の探偵』で、魔法や魔術など不思議なことが絡む事件を多く扱うために『不思議探偵』という商標を持っている。
一流の魔法使いにして不思議探偵であるその名声は、境海世界ではとても高いらしい。
推測なのは、その不思議探偵業の実態を、僕が知らないからだ。
探偵と言うからには、たまには殺人事件なんかも解決するんだろうが、僕の知るリリィーナ教官は室内でパイプをくゆらせながら推理を披露するタイプではない。
どっちかといえば、辺境の魔物退治とか秘境の怪獣退治とか、魔界から召喚された凶悪なドラゴン狩りなんかが得意なタイプだろうと、僕は考えている。
「家出した姉娘と、その妹の仲はあまりよくなかったらしい。でも、ホテルの庭ではよくかくれんぼをして二人で遊んでいたそうだ」
消えた少女は当時十三歳。妹は十歳だった。この地方一番の格式ある『花のホテル』のオーナー夫妻の娘たち。
広大な庭園に植えられた花々よりも美しいと、幼い頃からその美貌を讃えられた姉妹を描いた肖像画はホテルのロビーに飾られ、この地方の名物になっている。
「なんにせよ、今日になってわたしに依頼してきたということは、この事件を早急に解決したくなったんだろう」
リリィーナ教官はクスリと笑った。
「さて、いったいどこに隠れているのやら」
思い出した。
この子は、あの肖像画に描かれた姉妹の片割れだ。濃い金色のまっすぐな長い髪は姉娘の方。
僕が本人と会うのはこれが初対面で間違いない。あのホテルのロビーにあった肖像画を見たから、僕は彼女の顔を知っていた。
「皆が君のことを心配しているよ。ここから出て君の家へ戻ろう。僕らは君を探しに来たんだ」
そう、僕とリリィーナ教官は、この子を探しに来たんだ。
僕は少女へ手を差しのべた。
ところが、少女は、じりじりと後ろへさがった。
「だめよ。この部屋からは出られても、本当の外へは出られないわ。あなたが入ったあとで……通路が完全に壊れたのよ。すごい音がしたのに、覚えていないの?」
「うん、まったく」
だいたい、どうやってここへ来たのかも覚えていない。
それに、この子の話はどこかおかしい。
外へ出られないといいながら、絶望した感はなく、まるで僕をこの部屋に引き留めたいみたいだ。
家に帰りたくないのかな。
いつまでこんな所にいる気だろう。
まあいいか。この少女が何を考えているのか、探っている時間が惜しい。僕は早く帰りたいんだ。
「とにかく、ここから出よう。あぶないならなおさらだよ」
僕がことさら「あぶない」と強調すると、少女は困った風に眉をひそめた。
「いやよ、帰りたくないわ。それに、どうせ帰れないんだから」
おや、ついに本音が出たな。
「あれ、どうして? そんなにここがいいのかな? こんな寒くて汚い部屋が」
僕はわざとおどけた口ぶりで訊ねた。部屋を貶したのも計画のうちだ。僕のあまりにふざけた軽さに、少女は僕の狙い通りムカついてくれた。
「あなた、わたしの話を聞いていなかったの? 地下道は崩れていて、出られないのよ。それにね、わたしは明日まで隠れていたいの。でないと、勝てないのよ。だからここから出ていけないわ」
「へえ、そんな事情があったんだ。勝つって、何に? それに日はとっくに変わったと思うけどなー」
僕はわざとのんきに聞こえるように、語尾を伸ばした。
「わたし……わたしには妹がいるんだけど、かくれんぼをしていたの。あの子がオニよ。どんくさいから、わたしを捕まえられないオニだけどね。これでわたしが隠れていた理由がわかったでしょう?」
「ふうん。それでこんな所に隠れていたんだ。良い隠れ場所を見つけたね」
少女の年齢から考えればずいぶん幼い理由に思える。これで少女がここにいた事情はわかった。
「ええ、まあね。だから、あなたもしばらくここにいてちょうだい。誰かが探しに来るまで、ここにいればいいのよ」
「でも、誰も知らないんだよね。だから誰も探しに来ないんだよね」
僕はもう一度確認した。
「ええ、そうよ。誰も知らないわ。お父さんもお母さんも、ばあやもね」
「で、かくれんぼのオニの妹さんも知らなければ、捜しに来る人はいないわけだ」
「ええ、そう……だけど」
彼女の話には矛盾がある。
だが、僕はあえてそれを指摘することはしなかった。すぐにここから出て行くと決めていたからだ。
「やっぱり、僕はここから出て行くよ。方法は……これから探す!」
僕は、あらためて室内を見回した。
ホテルにいた最後の時刻は午後9時ごろだった。ここで目を覚ますまでに経過した時間は、数分か、数時間か?
いまはきっと真夜中だ。
朝食までにはここから脱出してやると再度心に硬く誓った僕の目に、灰色の石壁が目に付いた。そこだけ下の一部が、色が違う。
近づいてよく見ると。
小さな木製のドアだ。高さは普通の半分くらいで、屈まなければくぐれない。ドアノブは無い。その部分に穴が開いているから、壊れて取れたのだろう。
「ここもドアだね」
「ええ、そこは……裏口なの。でも、出る方角が違うから、こっちへの通路には通じていないわよ」
少女は答えてくれたが、座ったままだった。
古い戸板の下の方は、湿気で腐ってボロボロだ。手で押したら、蝶番がギイと苦しいうめきをあげたが、引っかかることなく開閉できた。
「やった! ここから出られるよ!」
僕はドアを押し開けながら身をかがめてくぐろうとした。
左腕を引っ張られた。
少女が両手で、僕の左腕にすがりついている。青い目は涙で潤んでいた。
僕は扉から右手を離し、すがりつく少女の両手の上へおいた。
「君もいっしょに行こう」
「だめ、だめなの。いけないわ。ええと、あの、外は真っ暗だから、歩けないわ! だって、ほら、あの蝋燭、あと1本しかなくて!」
石の棚に置かれた小物のひとつ、白鑞の燭台に薄黄色い蝋燭が立ててある。火の点いていない芯は黒く、蝋燭の長さは十センチもない。灯りは三十分ともたないだろう。
「それなら心配ないよ、僕はこれでも魔法使いの端くれなんだ。小さな灯くらいならともせる。ほら!」
僕はパッと右手を広げ、掌の上に小さな炎を出現させた。すぐに消したが、僕から手を離した少女は目をまん丸くして、じり、と後退りした。
「あなた、魔法使い……? だから、生身でここへ来られたのね」
「新米だけどね。ここから脱出するくらいならできるさ」
ちょっと見栄をはってみた。でもまあ、少女を安心させてここから連れ出すには、これくらいの見栄も必要だろう。
「でも……でも、やっぱりダメよ。地下道は迷路になってるのよ。きっと出られないわ。一度だけ見にいったことはあるけど、ネズミの足音やコウモリの声がひびいて、とても怖かったの。二度といきたくないわ」
その先がどのくらい長いのかは見当もつかないという。
「途中で枝道があるのか。でも、出口は絶対にどこかに作ってあるはずだ」
人間が計画して掘り抜いたものだ。天然の洞窟とは違う。どこかに出入り口が必ずある。
「ぼんやり救助を待っているより、行動あるのみだ。僕はいくよ」
僕が裏口から出て行こうとしたら、少女は慌てて僕の腕を掴んだ。
「待って待って! 行かないで、一人にしないで! わたしといっしょにここにいて!」
必死に叫ぶ少女に驚いたものの、僕は「だいじょうぶだよ」となだめながら、優しく少女の手を外した。
「助けを呼んでくるよ。きっといまごろ僕がいないことに気が付いて、探し始めていると思う」
それなら、逆にこの場所を動かないでいる方がいいかな? とも考えたが、僕が当てにしている『助け』のリリィーナ教官は一流の魔法使い。僕がどこで迷子になっても、捜し出してくれるだろう。そのくらいは信頼性が高い教官だ。
それにもし、リリィーナ教官では捜せないほど困った事態になったなら――そんなことになったら、僕が真剣に困るのだが――それこそ警察や魔法大学付属学院へ連絡し、すみやかに応援を呼ぶだろう。
しかし、少女は首をはげしく横に振った。
「いやよ、だめ、いかないで! 来てくれたのはあなただけなの。いま出て行ったら、二度とここには戻ってこられないわ。だって、誰も戻ってこなかったんだから」
少女はやけに不穏なことを言い出した。
誰も来たことが無いっていってたのに。
「ほんとうは、誰かが来たことがあったのか?」
手を伸ばしてきた少女を、僕は素早い動作で避けた。
忌々しげに僕を睨んでから少女は笑った。
「出て行くなんてだめよ。ずーっと、ここにいて。だって、せっかく来てくれたんだもの。生きたまま来てくれたのは、あなただけだわ。ねえ、わたしはきれいでしょ。わたしといっしょにいられたら、うれしいでしょう?」
ひどくしわがれた笑い声だった。
僕は若々しい少女の顔を見つめながら、百才とも思える老女を連想した。
「ここにいれば誰にも見つからないわ。ここにいれば安全なのよ。わたしといっしょに隠れていましょうよ……永遠に」
ふたたびすがりついてこようとした少女の白い手を、僕は叩き払った。
少女は悲鳴を上げて、白いソファの方へよろけた。
僕はその隙に、くぐり戸から飛び出した!
走りながら、僕は背中で少女の声を聞いていた。
「むだよ、逃げられないわ。出られないわ、出られないんだからあッ!」
心臓がバクバクした。
不安と恐怖。なにより恐ろしいのは僕自身の疑心暗鬼だ。
僕は僕なのに、僕の中には、少女の言葉を信じそうな怯える僕がいて、今にも足を止めて振り返り、明るかったあの部屋へ戻ろうという誘惑に負けそうになる。
僕は一度だけ強く、頭を左右に振った。
こんなところに長居は無用だ。僕は地上へ、僕の恋人ローズマリーの元へ帰るんだから。
暗い地下道をひた走る。
どこまでも蒼い闇。
壁沿いに延びた狭い通路の中央には、浅い水が流れている。壁や地面から染み出た地下水だろう。
――こんなに暗いのに、よく見えるもんだな……!?
僕は、灯りを点していなかった。
火を点ける魔法は使っていない。
他の、光を出すたぐいの魔法も、いっさい作用させていない。
なのになぜ、光の届かぬ地下道で、まわりの景色が見えるのか。
そういえば――。
少女のいた、あの部屋は明るかった。
蝋燭に火は点いていなかった。
短い蝋燭は、あれだけしかなかったというのに!
それでも、室内は明るく、僕は少女の顔をはっきりと眺めていた。
僕は、そこで思考をいったんストップした。
これ以上まじめに考えつづけたら、怖くなって、身体が竦んでしまう。
――よくわからないが、逃げるしかない!
少女が僕を罵る声は、遠く離れた三つめの角を曲がるまで聞こえていた。
その声は、聞こえなくなる最後の瞬間まで、すぐ背後で話しかけられているかのように生々しかった。
少女の声は聞こえなくなった。
僕は歩いた。走った。それから歩いて、また走った。
出口はまだ見つからない。
いつしか通路には漆黒の闇が落ちていた。
僕は右手を壁につけて進んだ。
呼吸が苦しくなり、太腿とふくらはぎの筋肉がパンパンに張り詰めて痛くなり……。
「サー・トール」
誰だ、僕を呼ぶのは。
あたりに人の気配は無い。
つかれきった僕の脳が生み出した幻聴か?
「サー・トール、こっちだ」
こんどは確かに聞こえた。
「リリィーナ教官! どこにいるんですか」
僕はその場に止まった。
「そのまま、まっすぐ進め。すぐに出られる」
リリィーナ教官の声は鮮明に聞こえる。
進もうとして、僕はためらった。
この声は、本当にリリィーナ教官なのか……暗闇の魔物や、さっきの得体のしれない少女に騙されているのではないか?
いや、リリィーナ教官が信じられなかったら僕は生きて帰れないだろう。
僕は指示に従った。
直感が頼りの賭けだったとも言える。
そして、僕は、賭けに勝った。
僕は、まばゆい光の中へ踏み出した。
不思議とまぶしくはなく、僕は普通に目を開けていられた。
花咲く庭。手入れされた生け垣に囲まれた庭園のただ中にいた。
僕からまっすぐ前、紅バラのアーチを背にして、リリィーナ教官がいた。
「お帰りサー・トール」
リリィーナ教官は左手をチョッキのポケットに突っ込み、銀の懐中時計を取り出した。
「ちょうど朝食に間に合ったな」
いや、のんびり食事にいってる場合じゃないぞ!
「リリィーナ教官、あの子を助けないと!」
僕はキョロキョロと、周りを確認した。
僕が出てきた『出口』はどこだ?
すぐに戻らなければ。
「おい、落ち着け。慌てなくても、あとでゆっくり探しに行けばいい」
ここに僕を誘導したリリィーナ教官がいるんだ、僕が出てきた脱出口を見つけてもらえば、あの子だってすぐに連れ出せるはずだ。
「ここの地下に古い地下道があって、僕らはそこに閉じ込められていて……」
「ああ、地底だったな。どうりで魔法探査が利きにくかったわけだ。いいから先に朝食にし……」
「でも、あの子はまだひとりぼっちで、地下のどこかにいるんです!」
リリィーナ教官の言葉をさえぎってまで僕は訴えたが、
「気にするな。百年前の人間だ」
リリィーナ教官は眉ひとつ動かさなかった。
「え……?」
その意味を理解して絶句した僕に、リリィーナ教官は「いくぞ」と背中を向けた。
広大な庭園の、僕が出現した辺りを調べたリリィーナ教官は、庭園の端、古木の生け垣の奥に隠されていた岩の裂け目のような地下への入り口を見つけ出した。
「わたしの仕事は少女の居場所を見つけるまでだから、ここまでだ」
あとはこの国の警察やら考古学調査の団体に引き継ぐという。
そして朝食を取ってから一時間もしないうちに、僕らは帰還の支度をすっかり済ませていた。
ホテルのロビーでチェックアウトの手続きをしながら、僕はホテルに到着した時のことを思い出していた。
正面玄関を入ったらホールがあって、ロビーの左側がフロントだ。右側の壁には複数の大きな肖像画が飾られている。
一際目立つ絵は、金色の髪と青い瞳の美しい姉妹を描いた肖像画。
僕が気を引かれたのは、その肖像の姉娘の方の髪型が僕のローズマリーにちょっと似ていたからだ。
「綺麗な少女たちでしょう。この地方で評判の美しい姉妹だったそうですよ。二人は中庭でよく遊んでいたそうです。庭園の迷路やその先には小さな森もありますしね。子供には絶好の遊び場ですわ」
そう語る女性は、このホテルの創業者一族の末裔だ。
「姉娘はふいとどこかに隠れるのが上手だったそうです。甘やかされて育ったせいかわがままで、何でも自分の物にしないと気が済まなくて、妹の物でも気に入れば取り上げて自分のものにしてしまったそうです。気に入らないことがあれば、どこかへ隠れてしばらく帰ってこない。ここの敷地は広いですから、親も従業員も総出で探し回ったそうですわ。でも、時間が経てばひょっこり出てきたとか」
ある日、姉娘は、夜が更けても帰ってこなかった。
家族は従業員も総出で敷地内を捜索したが、手掛かりはついに見つからなかった。
両親がこの地方の名士であり資産家だ。誘拐の可能性も考えられたが、身代金の要求や脅迫などは来なかった。警察が調べに来たが、無理矢理連れ出された痕跡は無かった。
そうして月日が経ち、ホテルは残った妹が婿を取って後を継いだ。
その子孫がこのご婦人である。
そう言われると、肖像画の妹の方の面影があるような……。
「ですから、この子を見つけて欲しいのです。調査のためでしたら、当ホテルに何日滞在してくださってもかまいませんわ」
調査を依頼してきたのは、現在このホテルのオーナーである彼女だ。
リリィーナ教官は、百年前に行方不明になった、彼女の曾祖母の姉に当たる少女の捜索を依頼されたのであった。
「でも、どうして百年も経ってから、リリィーナ教官に依頼をしてきたんですか」
帰りの列車の中で、僕はリリィーナ教官に疑問をぶつけた。
とても古い伝統あるホテルだ。
数百年前の幽霊が出るという評判は、一時期は物見高い客を呼び集めた。
だが、幽霊話の内容が泊まり客の夢の中に少女が現れて眠れなかったとか、失踪者が出たとか、よくない噂ばかりであった。そのため、この地方の産業が衰退すると共にホテルが寂れる一因となったそうだ。
「失踪者は本当に出ているね。警察に届けられた公式の記録があるから単なる噂ではないよ。あのホテルの地下を探せばそのうち見つかるだろう。まあ、失踪の仕方が仕方だから、物理的には見つからない可能性もあるがね。あの土地はそういう場所なんだ」
そういってリリィーナ教官は、トランクから一冊の本を出してきた。
「報告書を作る資料用に借りてきた。ホテルのオーナーがわたしに依頼してきた理由がこれに書いてある」
古い本。上質な革張りの鍵付き日記帳だ。あの肖像画の妹の物だという。
ごく最近、あのオーナーが先祖の遺品を整理していて見つけたそうだ。
「でも、妹は何も知らなかったのでしょう。それとも実は姉の秘密の部屋を知っていたんですか?」
「知らなかったわけではなかったんだ。初めに真相を調べようとしたのは、残されてホテルの跡継ぎになった妹だった。姉が行方不明になったのは自分の罪だと思いこみ、償おうとしていたんだ」
妹は、大人になってから子供の頃の記憶をたよりに、あの土地の歴史を調べ、地下に秘密の地下道があったことまで行き着いた。
しかし、公的機関に依頼して、発掘調査をするまでにはいたらなかった。
証拠がなかったこともある。それに、姉の失踪には、少なからず自分も関わっていたことを思い出したからだ。
――私達はケンカをした後だった。でも、姉がうっかり漏らした『秘密の部屋』へ私もついていきたいとたのんだが、姉は私の手を振りはらい、「おまえなんか連れていかない。悔しかったら、かくれんぼをしましょ。わたしを見つけたら教えてあげるわ」と笑った。私は悔しくて腹が立ったので、姉が隠れたのは庭のどこかだということを、両親には絶対に言わないことにした。――
意固地になった妹が口をつぐんでいる間に数日が経過した。大騒ぎになって、いまさら言い出せなくなった。
そうして百年の歳月が経ったのだ。
数週間後、僕はリリィーナ教官から、ホテルの庭で調査が行われたことを聞かされた。
「どんな土地にも歴史がある。あのホテルの土台は一千年ほど昔の、戦乱の時代に作られた古いものでね。やっとあの国の文化省から発掘許可が取れた。考古学局の調査隊と協力して、地下を調査するそうだ」
そうして、僕が出会った少女は見つかった。
ホテルの地底の、すべての調査が終わったころ。
発掘調査の詳細を知りたいか?……と、リリィーナ教官に訊ねられたが、僕は断った。
だって、あの少女がかくれんぼを始めたのは百年も前だったんだ。
彼女を見つけるオニは僕じゃない。
そんな僕が、調査隊によって作製された詳しい地下通路の地図や、あちこちで見つかったという身元不明の複数の白骨遺体の検視報告書を読んだって、どうしようもないじゃないか。
この件について、僕は、あの少女の綺麗だった顔だけを覚えておこうと、心に決めた。
〈了〉