第54話『新月の晩』
もともと俺のいた千年後の時代で、新月の夜は不吉とされる。
月の化身たるグレイが地上にもたらす加護が薄まる――というのが偉そうな教会の謳い文句だったが、『周囲の光を操る』という本人の魔法を知った上だと、あながち的外れでもない言い伝えだと思う。
マグヴェルト王国の王都は、夜でもかなりの明るさを誇ってはいるものの、正直なところ不測の事態に対応するには心もとない。何かしらの危険が迫った際は、カスパーが来るまでの時間稼ぎをするしかないだろう。
だというのに――
「よしっ! 出撃準備は万端っ! 次こそクランさんより先に敵を仕留めますよ!」
戦闘力の一割も満足に出せない状況で、グレイはなおやる気だった。
現在地は、王都の片隅の空き家である。
俺が針金で鍵をこじ開けて侵入し、今は異変に備えて警戒態勢を取っている。
「おいお前。何かが起きても無策に突撃はするなよ。クランが先に仕留めてくれるならそれでいいんだ」
「なぁに言ってるんですか。私たちが先に活躍して武功を示さないと、この国での冤罪が晴れないでしょう」
「そんな冤罪なんて後からいくらでも晴らせる。全力を出せないときに無茶だけはするな。せいぜい被害を喰い止める後方支援ができればいいんだ」
むっ、とグレイが口を尖らせる。
「あのですね。私は未来の大英雄なんですよ。自分の手で敵をぶっ倒してなんぼでしょう。後方支援とか時間稼ぎで満足はできません」
「高望みして馬鹿なワガママを言うな。できることに専念しろ」
「んじゃアランさんも今後はおとなしく私の支援に徹してくれるんですね? 無駄な炎魔法なんて練習せず」
いきなり話題が変わったことに俺は虚を衝かれる。
「俺のことは関係ないだろ」
「いーえ! 関係あります! アランさんの魔法は、いわば私の杖の代わりなんですから。杖が勝手に魔力を他のことに割いて消耗してちゃ話にならないでしょう。脇役らしく黙って私に追従して魔法のサポートしてくれりゃいいんです」
確かに、その言い分はもっともだ。
俺の魔法は『グレイ・フラーブの活躍を見届ける』という奇妙なものだ。見届けるためなら、千年の時間をも越えることを可能にする。そしてグレイ自身も、俺が見ている限り英雄らしく魔法を制御することが可能となる。
ミュリエル曰く、世界で類を見ないほどの希少魔法といえるらしい。俺が杖としての役割に徹するのも間違いとはいえないのだが――
なんか腹立つ。
そのままどことなく険悪な空気になり、言い争いの言葉すら絶えてしまう。
考えてみれば、グレイはいつもこうだ。
学院に滞在しているときも、四六時中生徒たちへの僻み妬みを繰り返していた。あれだけ凄まじい魔法を使えるのに、未だに最下位で入試不合格だったときのコンプレックスを引きずっている。
『自分にできないことを、他の誰かができるのが気に喰わない』とグレイは言っていた。まったく小物もいいところな発言である。
――どうせ俺が普通の戦闘魔法を修練したところで、グレイの足元にも及ばないというのに。
いちいち足元を見て僻む必要などあるまい。
弱者の手習いくらい、好きにさせて欲しい。
「……ん?」
そのとき、窓から外を監視していたグレイが訝しげな声を上げた。
「どうした」
「いや、あそこを歩いてる人。なんか足取りがおかしくありません? 酔っ払いですかね?」
俺も窓から外を確認すると、千鳥足でフラついている男性がいた。確かにそれ一人なら酔っ払いに見えなくもなかったが、
「待て。他にもいる」
二人。三人。
よく見れば、通りを歩いている全員の挙動がおかしい。中には膝をついて喘ぐように肩を上下させている者もいる。
この症状には見覚えがあった。グレイもはっと息を呑む。
俺は慌ててランタンを手に取り、空き家の玄関口を照らした。
――戸口の隙間から、黒い霧がじわじわと侵入しつつあった。
「グレイ! 」
「はい!」
戸口と正反対の勝手口から外に飛び出す。
間違いない。魔獣やカスパーが使う『吸収』の黒霧だ。それが夜闇に紛れて、静かに王都を呑み込みつつある。
勝手口から裏路地に出ると、俺とグレイは灯りの多い市街地目がけて走った。
「どういうことだ! いくら夜でも、魔獣が出たらすぐ騒ぎになるはずだろ!」
「んなこと私に聞かれたって知りませんよ!」
夜空をいくら見上げても、首無の怪物はどこにも見当たらない。
だが、さすがに誰かが異変を察知したらしい。警報のサイレンが王都中に大きく響き渡る。
『王都の皆様へ緊急警報です。現在、王都の一部地域において、毒性のガスらしきものが確認されています。貴族区の城門を開放しますので、中央広場から速やかに避難ください。城門内は結界に護られております――』
駄目だ。
これが『吸収』の黒霧なら、どんな結界だろうが侵食してしまうに違いない。
早く誰かに警告せねば。自然と足を早めそうになるが、
「っ! グレイ待て!」
「ぐぇっ!」
並走するグレイの襟首を掴んで制止する。
「なんですか急に!」
「よく前を見ろ……アレだ」
じりと俺は一歩下がる。
裏路地を抜けて大通りに出ようとしたところだったが、そこには黒霧が薄く滞留していた。
カスパーや魔獣が放っていたような高密度のものではない。ぱっと見ただけでは、普通の霧か煙のようにしか見えない。しかし、そこに纏わりついた不気味な気配は忘れようもない。
「中央広場にはここを突っ切るのが近道だが……光の砲撃とかで吹っ飛ばせそうか?」
「そりゃあもちろん!」
しかし、杖こそ勢いよく振られたものの、光砲は不発に終わった。街灯もない裏路地から霧を晴らす砲撃を撃つのは厳しかった。
「仕方ない。遠回り……」
そう思って、踵を返しかけたときだった。
突如として潮が引くように、大通りの黒霧が後退していったのだ。
「お! ラッキー! これで前に進めるじゃないですか! ……って、待ってください。この霧が引いてく方向って」
「……中央広場、だな」
即座にダッシュ。
しかし、広場の上空を仰いでもやはり魔獣の姿はない。いったいどこに本体が――
その疑問は、広場に着いてすぐ氷解した。
開け放たれた貴族区への城門。
そして、その門をくぐることなく倒れ伏した大勢の住民。
――それを見下ろして佇む、首のない怪物。
――俺たちとほとんど背丈の変わらない、人間大の大きさの。
「……こんなのもいるのか」
「はっ、ずいぶん小物じゃないですか」
グレイが杖をかざす。
中央広場は夜でも明るい。あのサイズなら一撃でいけるか――
「てりゃあっ!」
グレイの砲撃が放たれ、
命中し、
小型魔獣の身に傷一つ付けることなく、虚しく散った。
やはり儚い期待だった。
いくら小型でも魔獣は魔獣。むしろ小さくなって密度が上がったのか、大型のものより防御力が向上しているようにすら感じる。
「まだまだっ! 勝負はこれからですよ! 喰らえ新必殺技!」
グレイがめげた様子もなく口上を述べる。
そういえば昼間も新必殺技などと言っていたな――と俺が既視感を覚えたとき。
既視感どおりに、広場に一陣の風が吹いた。
貴族区の城門から、颯爽と【迅剣】クランが疾駆してきたのだ。
その視線は小型魔獣を見据えており、その手には万物を両断する【神剣】が握られている。
「覚悟」
すれ違いざまに、一閃。
圧倒的な速度で接近してきたクランを相手に、魔獣は一歩も動けなかった。胴体を真っ二つに斬られ、再生もできぬまま消滅――するはずだった。
現実は、そうならなかった。
確かにクランの斬撃は命中した。
しかし、負けたのは【神剣】の方だった。魔獣に触れた刀身が溶けるように消え失せ、斬撃が無効化されてしまったのだ。
だが、クランは瞠目したものの、すぐに立て直した。
魔力の発露とともに【神剣】の刀身が再生される。そして振り向きざまにもう一斬を魔獣に加える。
結果は、変わらなかった。
触れた刀身が溶け消えるだけで、浅い傷を刻むことすら叶わない。
「……!」
無言の威圧とともに、不可視の速度で無数の斬撃が閃く。
そのすべてが無効化される。
やがて魔獣は、クランに向けてゆっくりと手を伸ばした。クランはその腕を断とうとするが、やはり触れると同時に刃が溶けてしまう。
「クランさん! 一旦退いてください!」
不穏な戦況にグレイが叫ぶ。
しかし、クランにその叫びは届かなかった。彼女は【神剣】が通じないという事実を拒否するかのように、なおもその場で魔獣に攻撃を加え続けた。
魔獣の心臓を捉えたはずの刺突は、やはり刃が消え失せ。
その代わりに、魔獣の指先がクランの喉笛に触れた。
「ぁ、ぐっ!」
苦悶の呻きとともに、クランの手から【神剣】が柄ごと消え失せた。
糸が切れたようにクランは倒れ込み、呼吸困難のように胸を押さえる。『吸収』を受けたときの魔力切れの症状だ。
しかし、どこに黒霧が――
「……そうか」
気付くと同時に、俺は舌打ちした。
「気を付けろグレイ。あいつに絶対触れるな」
「……何か分かったんですか?」
俺は頷く。
「たぶん、あいつは全身に『吸収』の黒霧を高密度で纏ってる。鎧みたいにな」




