第30話『ただの木の枝』
もちろん、通用するはずがなかった。
当たったところでどうせダメージにもなるまい俺の拳を、【暴君】は指一本でおざなりに受け止めていた。
「……どういうつもりだい?」
「もしグレイだったら、こういうときとりあえずあんたをぶっ飛ばそうとすると思った」
「その猿真似かい?」
「笑いたきゃ笑え」
俺が大昔に憧れた、大英雄グレイの伝説は作り物だったかもしれない。
しかし、この時代に来てから見てきたポンコツなグレイの勇姿は――本物だ。風変わりで情けないところも山ほどあるが、それでもあいつはずっと背伸びして英雄たらんとしてきた。
「俺は逆立ちしたって完全無欠の大英雄にはなれないけどな……あいつみたいなポンコツなら、背中くらいは追えそうな気がするんだよ。俺みたいな役立たずにだって、夢見させてくれるんだあいつは」
俺は私利私欲で動く人間だ。
それゆえに、わざと悪辣に言ってやる。
「つまんねえ芝居に付き合って、あんな面白い見せ物を捨ててたまるか。俺はあいつの無茶で無謀な背中をとことん見届けてやる」
「グレイ嬢にすべてを話すつもりかい? 感心しないな」
「違う。お前らを絶対ここで止めてやる」
はっ、とミュリエルが嘲笑った。
「もう少しまともな判断ができる奴かと思っとったが……馬鹿が伝染したか?」
同時、俺の身が一瞬で吹き飛ばされた。
拳を受けていた【暴君】が、軽く指を弾いたのだ。
それだけで凄まじい衝撃だった。宙を舞った俺は背中で扉をぶち破って、廊下の壁にめり込んで息を詰めた。
普通ならおそらく今ので致命傷だった。
今はまだ死なない、という歴史の修正力がなければ血反吐をまき散らしていただろう。
「アランさん!」
扉が破れる音を聞きつけたグレイが、掃除道具を放り出して便所の方から駆けてきた。
さすがに、ただならぬ事態が起きたと察したようだ。
「面倒じゃな。おい優男。あの黒い霧でこやつらの魔力を『吸収』しておけ。動けなくしてから、妾たちはトンズラするとしよう」
させてたまるか。
ここで逃げられたら、【暴君】とミュリエルを止める術はなくなる。
俺は駆け寄ってきたグレイに叫ぶ。
「グレイ! 今すぐここでそいつらぶちのめせ! 杖なんかなくたって、お前ならできるだろ!」
懐にしまっていた折れた杖を取りだし、それを窓の外に投げ捨てる。
こんなものに頼る必要はない。大英雄の伝承も何もかも知ったことではない。
俺はただ、目の前にいるグレイ・フラーブにすべてを賭ける。
向こう見ずなグレイと同じように、俺はそんな無謀に殉じると決めた。
グレイは勝つ。そうに決まっている。
「――残念だよ。もう少し賢い選択をしてもらいたかった」
悲しげな表情を浮かべた【暴君】が、こちらに向けて黒い霧を放ってきた。
津波のように押し寄せてきたその霧は、俺の身を呑む寸前で、
「させるもんですかぁっ!」
俺の眼前に滑り込んできたグレイに、防がれた。
杖はなく、正面に掌をかざしているだけ。
だというのに、光が半球状のドームを象って、俺たちの身を黒霧から護っていた。
「火事場の馬鹿力か?」
訝るミュリエル。しかし、すぐにその表情が一変する。
かつてなく切迫した顔となり、叫ぶ。
「まずい! 優男、今すぐに全力で潰せ! でなくば――」
閃光が迸った。
砦の廊下を埋め尽くしていた黒い霧が、グレイの放った光爆で一掃される。誰もその状況に理解が追いつかず、ただ呆然となる。
動いていたのは、【暴君】に向けて、鉄砲のごとく指を差し向けたグレイだけだ。
「っりゃあっ! 喰らえっ!」
光弾が宙を駆ける。
完璧な制御。狙いを違わずに【暴君】に着弾しかけるが、咄嗟の反応で彼はそれを手に受け止めた。
「――っ!」
が、その途端に悪役ぶった余裕が剥がれ落ちた。
グレイの光弾は手の中で猛烈に回転して暴れ、やがてはその輝きを瞬時に膨張させ、爆弾のごとくその場で爆ぜ散った。
爆炎が晴れた先にいた彼は、無傷ではなかった。
ごく軽度ではあるが、光弾を受けた手に火傷のような跡が残っていた。
ち、と舌を打ったのはミュリエルだ。
「妾としたことが、しくじった。もっと早くに気付くべきじゃった」
「どういうことだい。ミュリエル嬢」
「どうもこうもない。あの世界樹の杖とやらは、本当にただの木の枝だったということよ。あの杖の効力を本当に司っていたのは――そこの馬鹿な男じゃ。実にけったいな魔法を無意識に使ってな」
今まではそうだったかもしれないが、これからは違う。
グレイが初めて杖を握ったときのように、俺もたった今、自らに宿った魔法を自認した。
いいや、魔法と呼べるかどうかすら怪しい。ほとんど幼稚な願望といっていいその力とは――
「『グレイ・フラーブの活躍を見届ける』こと。それこそが、そいつの唯一の魔法じゃ」




