第16話『乙女の隠し事』
グレイの生み出した空飛ぶ光球は、しばらく飛んでから辺境の平原へと高度を落としていった。
ミュリエルのいる目的地に着いたのではない。
光球の中で、非常に深刻なトラブルが発生したのだ。
「……吐きそうになってきました」
「……俺も」
超高速度での飛行。
目まぐるしく移り変わる風景。
目的地を探して西へ東へと迷走しまくる進路。
これで酔わない方がおかしかった。
光球の中でどちらかが限界(嘔吐)を迎えればとんでもない惨劇となる。最悪、動転したグレイが魔法のコントロールを失う危険もある。ゲロまみれでの墜落死などまっぴら御免だった。
そういうわけでの、やむを得ない緊急着陸だ。
平原に着地した俺たちは、大地に手足が着くことの喜びを感じてへたり込んだ。
「あぁ、やっぱり地面はいいですねぇ。足元が揺れないって幸せです……うぷっ」
「おいグレイ。頼むから、次から飛ぶときは最初に言ってくれ。今みたいに方角迷子であっちこっち飛ばれたら正直キツい……うっ」
「はい。気を付けます……」
さすがに今はグレイも憎まれ口を聞いてくる余裕がないようだった。
学院を飛び立ってすぐ、歯を食いしばって落ち着きを取り戻した俺は、ファリアからの封書を開いた。
そこに入っていたのは×印付きの地図で――おそらくその印こそが、ミュリエルの居所を示しているものだと思われた。
だが、看板も街道も何もない空にあっては、進行方向を定めるのも容易でなかった。
しばらく空を迷走し続けた後、ようやく俺が地上の景色と地図と照らし合わせて指示を出せるようになってきたが、それから間もなく酔いにやられてしまった。
座り込みながら水筒の茶を飲んで一服した様子のグレイは、失態を忘れたかのようにけろりと笑う。
「でも、だいぶ目的地には近づきましたよね? 馬で走ったらここまででたぶん三日くらいかかりますよ。ちょっと迷いましたけど、結果的にはよかったじゃないですか」
「まあ……そうだな」
最初から目的地と方角をよく検討して一直線に飛んでいれば、今ごろ既に到着していたであろうが、それを言っても後の祭りである。
というか、飛んでいる途中でも一旦地上に降りて方角を再調整すればよかったのだが、それを指示しなかったのは俺もやはりパニックだったのだろう。
その点ではこちらにも責任がある。グレイばかりを責められない。
「じゃ、ちょっと休んだらまた飛びますか? 次はちゃんと目的地までいけると思いますけど」
「いや……待った。空を飛ぶ魔法っていうのは、やっぱり珍しいのか?」
と、ここでふと疑問が湧いた。
グレイは「そうですね」と唸って、
「空飛ぶ乗り物とかはあんまり珍しくないですけど、独力で自由に飛べる人っていうのはやっぱり稀少ですよ。たとえばファリアさんぐらいの実力者なら風を操って飛べるでしょうけど、それも距離は限られるでしょうし。今の私みたいに長時間・高速度でバリバリ飛べる人は世界中探してもそう多くないはずです。やっぱり私は途轍もなくすごいんですよ、えへん」
「さらっと最後に自慢を挟んでくるな」
しかし、そうなると軽々に使いまくるわけにはいかない。かなり目立ってしまう。
移動手段としては便利だが、この技もいざというときに限った方がいいだろう。
もっともミュリエル保護を急ぐ今は、出し惜しみしている余裕はないが。
「よし分かった。今後の使いどころは気を付けるとしても、とりあえず休憩し終えたらまた飛ぶぞ。頼んだ」
「はいはい任せてください。フルスピードで飛ばしちゃいますから――あっ」
そこでグレイが言葉を詰まらせた。
「どうした?」
「あ、あのー……あれなんですけど」
グレイが指さしたのは、地平線で傾きつつある太陽だ。夕刻を迎えてオレンジ色に染まりつつある。
何が言いたいのかは、なんとなく分かった。
「ああなってくると、飛ぶのは無理か」
「まあ、まったく無理とはいいませんけど? 移動の途中で日が暮れちゃったら、もしかしたら少し危ないかなってくらいで?」
「少し危ないだけでも大問題だよ。落ちたら死ぬんだから」
「えーと……どうします? 歩いて向かいます?」
俺は地図を見た。
徒歩での移動だとまだ二日近くかかる距離だ。夜通し歩いても体力を無駄にするだけだろう。
「歩いてもほとんど意味がない。ここで野宿して、明日の朝一番で飛ぶか」
「えっ」
「焦る気持ちは分かるけどな、今から無理して飛んで目的地に着いたとしても、夜の間はどうせ戦えないんだ。明日の朝一番に万全の状態でミュリエルを保護した方がいい」
「いえ、えっと、そうじゃなくてですね」
頬を紅潮させ、目をぐるぐると回しているグレイ。
「ここ、平原じゃないですか」
「そうだな」
「灯りがないじゃないですか」
「そうだな」
いきなり目を剥いたグレイが俺の肩に掴みかかってきた。
「謀りましたねアランさん!」
「は?」
「こここ、これって! 前に言ってた私が抵抗できない状況そのものじゃないですか! こんなところに不時着させて野宿を提案してくるなんて、いやらしい魂胆が透けてみえますよ! 何をするつもりですか!」
「……あのな」
「うわっ! しかもよく見たら荷物のテント一つしかないじゃないですか! どうしよう私こんなところで……」
べしっとグレイの頭に手刀を落とす。
「ふざけるのはいい加減にしろ。お前は大事な金づるなんだ。変な真似するはずあるか」
「それはそうかもしれないでけど、やっぱり気分的にちょっとですね……」
「俺はテントの外で寝てやるよ。それならいいだろ?」
「そ、そんなのまるで私がワガママ言ってるみたいじゃないですか」
「ワガママ言ってんだろうが」
う~~~~ん、と死ぬほど長く煩悶してから、グレイはやがて力なく頷いた。
「じゃあアランさんもテントの中で寝ていいですけど……と、特別ですからね? 勘違いしないでくださいね? 隣で寝てる可憐な美少女の私に変な気を起こさないでくださいね? ありがたく思ってくださいね?」
「はいはい、ありがとうよ」
グレイは恥じらうように両手で顔を覆っている。
そして指の隙間から涙目っぽい上目遣いを見せ、しおらしく言ってくる。
「でも……やっぱり私も並んで寝るのは恥ずかしいですから。一つだけお願いがあるんです。乙女のお願いとして、聞いてくれますか?」
―――――――――――――――――……
「これがその乙女の願いか」
「はい。両手両足を縛ってれば安心ですから」
俺は手首と足首をロープで縛られた状態でテント内に転がされていた。
無論、黙って縛られたわけではない。抵抗は試みた。
だが、夕刻にはまだ日光が残っていたため、グレイの放った光の縄のような魔法であっけなく拘束されてしまったのだ。
そして続けざまに物理的にもロープで縛られ、今に至る。
「あ~、よかった~。これで安心して熟睡できそうです~」
「おい。この状況でもし野盗でも襲ってきたらどうするんだ?」
「大丈夫でしょう。空から見てもこの近くには街一つなかったですし、街道も通ってないんですから、悪い人もそうそう現れないはずです」
それに、とグレイが続ける。
「アランさんはすごく用心深いですけど、この時代はそんなに治安が悪くないんですよ。普通に過ごしてればそう酷い目にあったりしません」
「今、俺はけっこう酷い目にあってると思うんだけどな」
「は~い。おやすみなさ~い。明日は早いですもんね~」
俺の反論をシャットアウトしてグレイが毛布にくるまる。
しばらく待ち、グレイが寝息を立て始めた頃合いで、俺は手首と足首を捻った。
こちとら本職は盗掘者。捕まって鞭を受けた前科もある生粋の不届き者である。グレイが言うところの『悪い人』の部類だ。素人の縛りくらい簡単に抜け出せる。
案の定、結びも締めも緩いロープはあっという間に外すことができた。
で、手足が自由になった俺は、普通にそのまま毛布の中で寝た。
わざわざグレイに文句を言って騒がせることはない。手足の窮屈さを解消できればそれでよかった。朝になって咎められたら、寝ているうちに勝手にほどけたと説明すればいい。
明日は日の出と同時に行動開始だ。十分に寝て体力回復を――
……――物音がした。
深夜、妙な音で俺は目を覚ました。
薄目を開けてみれば、グレイが起きて何やらコソコソと動き始めている。
夜明けかと思ったが、テントの外はまだ真っ暗だ。
杖を持ち逃げでもする気じゃないだろうな?
俺が真っ先に疑ったのはそれだった。
債権者たる俺に付き纏われて、こんなテントで野宿をしたりするのはグレイも不本意だろう。そうした不満で、衝動的に持ち逃げを図ってもおかしくない。
が、グレイは枕元の杖には手を伸ばさず、代わりに荷物からランプを取り出してテントの外に出て行った。
「ああ……用でも足しに行ったのか」
持ち逃げでないことに安堵した俺は目を閉じて横になる。
が、数分してまた目を開けた。
グレイが一向に戻って来ない。
そして、どこからか微かに人の声らしきものが聞こえる。
――誰かと話している?
俺は毛布を払い、身を低くしてテントから這い出た。
こんな夜中の平原で、いったいグレイは誰と話しているのか。
と思ったら、違った。
「我は月。集え光……集え光……」
テントから少し離れた岩陰で、ランプを置いたグレイはぶつぶつと呪文を唱えながらその光を操ろうとしていた。
ほとんど何の変化も起きていないが、ごく稀に光球らしきものが一瞬だけ生まれてはすぐに消えていく。
その表情の真剣さたるや、ほとんどランプを睨むような顔つきである。
テントをこっそり抜け出てきたことも忘れているのか、詠唱の声もだんだんと大きくなってきている。
――昼間の失態がよっぽど悔しかったのか。
杖がなければ何もできないというのが、よほどプライドに障ったのかもしれない。
思い返してみれば、方向性は多少おかしくとも、努力は惜しまない奴だった。
小間使いとして学院にみっともなくしがみついていたのも、すぐ近くで魔力を浴び続けることで、自身の才能を覚醒させるためだったという。
あんな性格であっても、目の前のやれることは意外と精一杯にやる奴なのだ。
「……頑張れよ」
俺は静かにそう呟いて、またテントの中に戻る。
微かに聞こえるグレイの呪文を子守歌代わりに、そのまま二度目の眠りに就いた。
―――――――――――――――――……
そうして迎えた翌朝。
日が昇り始めた頃合で俺が身を起こすと、横ではまだグレイが爆睡していた。夜中に無理をするからだ。
「おい。起きろ」
「んー……あと……少し……うわぁっ!? アランさん!? ロープほどけてたんですか!?」
俺が揺り起こすと、グレイはぎょっとした様子で跳び起きた。
「ああ。なんか自然にほどけたみたいだ。お前の結び方が悪かったんだろ」
「ええ……? ちゃんと結んだつもりだったんですけど……」
「ほら、テント畳むから早く外に出ろ。片付けは俺がやるから、その間に朝飯の火起こしといてくれ」
グレイを外に押し出して、俺はテントの撤収作業にかかる。
その最中にとんとんと背後から肩を叩かれる。
「あの。ロープが外れてたってことは、もしかして見ちゃったりしてないですよね……?」
「何をだ?」
「と、とぼけないでください。見たんでしょう?」
気まずそうな様子でグレイが詰め寄ってくる。
本当におかしな奴だ。喜々として醜態ばかり晒して、数少ないまともなところは隠そうとするとは。
俺はため息を吐いてから、
「ああ、見たよ」
「んぐっ……! ち、違うんです……あれはちょっとした遊びで」
「お前が鼻水膨らませてオッサンみたいにイビキかいて寝てるとこ」
「えっ」
グレイがきょとんとする。
嘘ではない。グレイが戻ってきた後、そのうるさいイビキで軽く目を覚ましたのも事実だ。
「鼻の下にまだ白い跡が残ってるぞ」
鼻を指差してやると、慌てたグレイはローブでごしごしと跡を拭った。
「ええと。見たのって、それだけですか」
「それだけだよ。なんか他にもっといいものでもあったのか?」
グレイがぷっと口の端だけで噴き出した。
その表情だけで「なぁんだ。思ったより鈍い人ですね。チョロいチョロい」という内心を読み取ることができる。端的にいってムカつくが、昨晩の努力に免じて今だけは見逃してやる。
「いーえ? なんにも? 全然!」
出立の刻を告げる朝日を背にして、グレイは晴れやかに大笑いした。