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⑨ ドと指

【 二〇一五年六月一一日 】

 

 翌朝、朝食はキッチンに用意してあったが、バス通学は避けられ無いようだった。考えてみたらバスで村から出るのは初めてだ。他の利用者に興味が湧いた。


 しかし肩透かしなことに、バス停には小学生の女の子とお年寄りしかいなかった。都心に行くにはこの時間では遅すぎるようだ。

突然、小学生に話しかけられた。

「見ない顔ね」

「明らかに年上の僕に、随分なため口だね」

校則が厳しいのか、髪をきっちきちに三つ編みにして紺のゴムで結んでいるその子は、ツンと澄まして言った。「世の中監視の目だらけよ。電車内も学校近くもね。この田舎でバスに乗る時くらい好きにさせてもらうわ。毎日だっていいのに、私はたまにバスなの。あなたは今日だけ?」

「う~ん。しばらくはバス通学かも。君はたまにバスってどういうこと?」

「お母さん、AAセンター勤務なの。お年寄りが危篤になると、必ず呼び出されて、元気になるか・他の病院に行くか・死んじゃうか、決まるまで帰ってこないの」

「君のお母さん、責任者か何かなの?」

「うん。なんか、東京の大学病院でどえらいミスをしたんだって。で、もう雇ってくれる病院なんかどこにもないって言われてた時に、AAの医院長が、村の老人の最期を看取る仕事だけど耐えられるなら来なさいって言ってくれたんだって。一〇年頑張ったら他の病院に口利いてくれる約束なんだって」

子供によくそこまで話すなぁ。親もこの子を欺けないと思ったのか、と思いながら聞いてみた。

「この村に住んでる人は、救急搬送だと皆アンチエイジングセンターに運ばれるの?」

「う~ん。他の病院に決めてる人は違うと思うよ。でも、ただのお金持ちの年寄りってだけなら、大抵はAAに行くよ。近いし」

「ふーん」

「他の大きな病院は遠いでしょ? AAは近いし、空いてるし、綺麗だし、ご飯おいしいし」

「なるほど」


お年寄りたちはバス利用の効能を語っていた。Y駅に出た後レンタカーでドライブしたり、都心までお茶をしに出てタクシーで帰るにはバスが丁度いいということらしい。

  

 いつも思うのだが、緑豊かなミライ村に至る道のりは殺風景で特徴のない景色が続く。山頂だけ上品に設えられたコスモスミライ村が乗っかっているのは、異様と言えば異様だ。

 村から離れるとホッとする。でもこの頃は村に帰ってもホッとする。伯父伯母との生活に慣れてきたのか。それとも瑞生を待つ夜叉がいることが、自分と村を結び付けているのだろうか。



 生徒は持ち上がりなのに対し、高校の教師は中学とは違う布陣らしい。初めての定期テストで高校アレルギーに陥らないように配慮して、今週はひたすら四月からの総復習をしてくれている。四月の授業内容などほとんど記憶に残っていないから、有り難い限りだ。夜も必死にやっているせいで、初耳のこともすんなり頭に入るようになった。

 英語の単語テストで満点を取って、一番驚いているのは自分だろう。英語力の蓄積は浅くても、今覚える単語のスペルは皆と平等に競えるのだと気づいた。本永ならなんて言うかな。いないことに慣れてしまう自分が嫌になる。



 バスで帰宅すると、伯母がリビングにいた。昨夜の宝石箱のことを思い出して、急に冷や汗が出てきたが、何食わぬ顔で伯父の容態を尋ねた。

「まぁ…大事ないと言えば大事ない。本人はそう思わないので、周囲が大変と言えば大変。あなたにも不自由掛けると思うわ。家では宗太郎は自分を子供の立場でしか考えないから。理不尽な事を言われても、とりあえずは聞いて引き下がった方がいい。五五歳だと思って言い返したりせずにね」

瑞生は言葉を失った。思ってもみなかったが、母と同じような人種と言うこと?

「このところ忙しいと言っては精密検査を避けていたから。これを機に、徹底検査と筋力維持や生活習慣病の対策を立てるよう勧められたの。AAセンターに検査入院すると思うわ」



 今日も藁科は夜叉の部屋のドア前で踵を返していった。サニが前と同じ窓際のソファから立ち上がった。

「あの女、ドア越しに不機嫌を撒いていったな」夜叉も同じくらい不機嫌に閉まったドアを睨んだが、サニは「カノジョ焦ってる。研究者は結果を求められるから」と穏やかだ。


 瑞生は昨日伯父の不調のためにに、伯母に名前の由来などを聞くことが出来なかった経緯を説明した。夜叉がただ黙っていたので、躊躇った挙句、伯母の部屋で見つけた写真の話をした。

 瑞生が話し終えると、夜叉はニッと笑って、「いよいよ秘密の匂いがするな。お前は父親が死んで初めて伯母の存在を知ったのに、伯母はお前と父親が一緒の写真を持っていた。お前の推測では、シャッターを切ったのは伯母なんだろ?」と身を乗り出した。

「それは推測。事実ではない」サニが夜叉の背中にクッションをあてて、背中を預けるようにした。

何となく夜叉の動きが大儀そうに見える。瑞生はサニに、「昨日、体温の話をしてたよね? 体温が下がるとどうなるの?」と尋ねた。


 サニは「何らかの理由で体温が三四度に下がったとしよう。人間の体は体温三五度前後で恒常性が保たれるようにできていて、三四度ではうまく機能できない臓器も出てくる。でもゾンビーウィルスはその臓器を助けるために体温を上げようとはしない。そうやって一つまた一つと臓器がダメになっていく。憑りついたゾンビーウィルスも死んでいく。やがて多臓器不全になって、もう一度、今度こそ完全に死ぬことになるんだ」と教えてくれた。



 夜叉が唐突に言った。「お前、ピアノ弾けるか?」

瑞生は面喰ったがすかさず切り返した。「僕が弾けると思うの? 僕みたいな育ち方した人間にピアノを習うチャンスなんてあるわけないじゃん!」最後は逆ギレ気味だった。

傲慢一本やりの夜叉も勢いに圧されたようで「…ああ、まぁそうかもな」と言葉を濁した。

「じゃ、期待しないから、弾いてみろ」


 サニが出入りしていた奥のドアを抜けると、がらんとした家具のない部屋の真ん中にピアノが置かれていた。生まれて初めてグランドピアノを間近に見て、その美しさに驚いた。ピカピカのピアノに自分が映っているのにも驚いた。サニが蓋を開けて弾けるようにしてくれた。

 「もしかしてサニは弾けるの? ならサニが弾けばいいじゃない」

サニは首を竦めた。夜叉が顎で着席を促す。瑞生は渋々絹張りの椅子に座った。

 「ド」

瑞生は記憶を辿って、ドと思しき鍵盤に人差し指を下ろした。ポーン。

がらんとした部屋にドが響いた。驚いたが、ちょっと感動してもいた。でも、夜叉は腕組みをして今の音が部屋に広がっていく様を追うように、少し上を見ている。

瑞生もどうしていいのかわからないので、腕組みをした。一音奏でただけで、部屋はしんとした。

「どうだった?」相変わらずの小声で夜叉が訊いた。

「はっきりした音で、びっくりした」正直に答えた。

「はっきりした音、ね。おかしなこと言うんだな」珍しく声を立てて笑った。

「どうして自分で弾かないの」

夜叉は手を挙げてみせた。今まで気付かなかったが、何かで右手が包まれている。

「第一音を弾いた時、強すぎたのか指の先端のゾンビーウィルスが潰れてしまったようなんだ。ゾンビーウィルスが死んだ指の先端組織も死んでしまった。どうすることもできなくて…でも、切り口にはゾンビーウィルスが増殖していてそれ以上壊死は進まなかった。今はシートで保護しているんだ」サニが俯いたまま説明してくれた。


「どうしてサニに弾いてもらわないの」本当は他の音も出してみたいのを我慢して訊いた。

夜叉はいつもの革張りの椅子に戻りながら、「サニは弾け過ぎる。サニが弾くとサニの音、サニの音楽だ。俺の音にはならない。お前は俺の代わりに弾くんだ」と答えた。

「へ?」

 夜叉は、座り込むと考え事に没入してしまった。それきり、他の音は要求してこなかった。



 サニは送ってくれないので瑞生は一人で夜叉邸を出た。すると、森山が後から追ってきた。「待てよ、送っていくよ」

 

 「…今日は、何したの? 随分静かだったようだけど」自転車ではないのでジーンズのポケットに手を突っ込んで、森山は瑞生の顔を覗き込んだ。

「別に…。今日は夜叉が具合悪そうだったから、なんにも」

大きな二重の目の輝きに、微妙な違和感を覚えて言葉少なに答えた。何かを探ろうとしているようだ。

華やかな花が咲き乱れたウッドテラスの家の前をいつものように通り過ぎる際、瑞生たちを意識したようにブラインドが降りた気がした。

 

「僕と藁科さんは、本来の仕事があるのに夜叉のために出向させられたんだ。毎日は無理なので交代で来てる。四六時中サニが夜叉にくっついているのなら、僕たちは必要ないのじゃないかな。今日は藁科さんに呼ばれて来たんだ。…ほら最初の晩、夜叉に言われて記録用のカメラのデータを止めただろう? あれはあの場限りの事だったのに、記録がないんだ。よりによって夜叉の指がとれた時の」


 瑞生は驚いて立ち止まった。八重樫家のカーポートが見えてきたところだった。

「藁科さんは僕のことも疑ってる。君には直接関係ないんだけど、何か知っている事ないかなと思って」

「指が潰れちゃったのは何時? ビデオで撮ってなくても、誰かいたのじゃないの?」

「…君が帰って、夜の七時半頃だった。夜叉は一人でグランドピアノのある部屋にいた。ピアノを弾いてああなった…らしい。最初に駆け付けたのが、サニだ。僕が行った時にはもう指は変色して、落ちてた」

「『らしい』って、夜叉とサニに訊いたんでしょ? 何が起こったのか」

「それが夜叉は『指なんてどうでもいい』とイラついてて、碌に手当てさせてくれなかった。門根を呼びつけてレコーディング用の機械類をセットさせたらそこに籠ってしまった。何時間も経って出て来てから、話を聞けた。『一音弾いたら指先がおかしくなった』と。夜叉は顔色が悪くてそれ以上は聞けなかった」

「元から蒼いのに、顔色なんてわかるの?」

「え?え、えっと、顔色悪い感じ、ってことだよ」

「医者なのに、『感じ』なんて言ってて、いいの?」

森山は明らかに気分を害した顔をした。


「当然我々の質問はサニに集中したよ。ところがサニは、駆け付ける前のことはよくわからないと言うんだ。我々が回収した『元の指先』は炭みたいに見えたけれど、保存容器に入れる前に崩れてなくなってしまって、夜叉のDNA鑑定も出来なくなった。これも誰の責任問題か混沌としてるところだよ」

サニの応答は至極当たり前のもので、深刻な面持ちの森山が滑稽に見えた。

なおも森山は「それも録画さえ出来ていたら、はっきりしたんだよ」と拘った。

「大事な事は、録画じゃないと思うけど…」

瑞生の意見を無視して「サニと夜叉が言う『元の指』が本物か疑わしいよ。サニだってウィルスを採取するチャンスなのに『落ちた』『崩れた』なんて、何か隠したかもしれないと思われても当然だろう」と怒りを吐き出した。



 ゾンビーウィルスを巡って、各人の思惑が動き出したようだ。

崩れて消えた指先。

夜叉にとって指より大事な、何か。

明日会ったら、何があったかじゃなくて、何が大事だったのか、聞いてみよう。今日は元気がなかったし、夜叉が心配だ。



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