⑧ 水色のメモと、火と水の名
《これまでのお話》
一五歳の瑞生の住むコスモスミライ村に、ロックスター夜叉がゾンビとなって移送されてきました。首都圏から離れた天空のセレブ村は万全のセキュリティと政治的理由で、ゾンビーウィルス患者の終の棲家と定められたのでした。
両親を火事で失い、裕福な伯母夫妻に引き取られ、金持ち高校に馴染めないままだった瑞生に外様と本永と言う友人ができます。しかしその二人は事情で登校できなくなってしまいます。孤独に喘ぐ瑞生は夜叉邸前を訪れるのが習慣になります。そんな瑞生を見ていた夜叉に望まれ、放課後夜叉邸に通うようになったのですが、夜叉は瑞生の心を揺さぶるような質問ばかりを投げかけてくるのでした。
【 二〇一五年六月一〇日 】
こうして夜叉邸訪問は、瑞生にとって唯一の救いになった。
さすがに外様の容態はクラスメイトも気になるらしく、ホームルームで質問が出た。
榊先生は「脳内で出血して…取り除く手術が難しい場所らしい。血の塊が神経を圧迫する影響がでているので登校は控えるそうだ。もうちょっと、かかるかな…」と説明した。家が近いために欠席プリントを届けているという女子が、「大名に会えたことないんだよ。なんか、もっと重そうな気がする」と休み時間に皆に報告していた。
外様が回復しない限り本永も登校できないとわかっていたので、ダブルで沈む気分だった。本永は多分挫けてしまったのだ。HIV感染の恐怖に蓋をしながら高校生活を送ることに。道しるべを失ったような寄る辺なさに再び突き落とされた心境なのだろう。
「八重樫どこに仮入部するの? 決まってないならアイドル研究会に来てみない?」後ろの席の佐々木が声をかけてきた。
「アイドル何? 何を研究するの?」
「地下アイドルの押しメンを発掘したり、他校と情報交換したり…。皆が八重樫を誘えって。体育実技さぼり、いやパスだから運動部はないだろう、なら脈があるんじゃないかって言うんだ」佐々木は寝癖を撫でつけながら言った。栗色の癖毛が育ちのよさそうな柔和な顔を縁取っている。
「アイドルオタク同好会に行くくらいなら、アニソン研究部においでよ」
「八重樫君なら自分がアイドルになれるよ。そこは軽音でしょ」
いつの間にか周囲に来ていた女子が一斉に話し出し、佐々木は飛び上がって驚いた。
「佐々木、抜け駆けで八重樫君ゲットしようとしたでしょ。部の昇格がかかった同好会らしい姑息なやり方ね」以前油断のない目で瑞生のギャップを指摘した女子が、佐々木を非難した。「東、怖ぇ~」佐々木の声にさらに人が集まってきて、瑞生はギブアップした。
「部活は、まだ、ちょっと考え中…。か、帰るね…」鞄を抱えて一気に教室から走りだし、通用口を抜けてスクールバス乗り場に避難した。
テスト前で部活禁止だからバスは混んでいた。半袖の中に一人だけ長袖だと目立つのか、周囲に見られている気がした。自意識過剰を自分に戒める。
しかし、刺すような視線を感じて振り向いた先に、鏑木がいた。
昨日は冷たすぎたかな。でも鏑木の一方的な好意の押しつけを二度も食らい、本永が喜ぶどころか消耗したのは確かだ。そこに全く気付かずに存在をアピールしてくるなんて、ずうずうしいにも程がある。
瑞生は無視を決め込んだ。第一、取り次ぎさせられただけで、鏑木と話したくて話してたわけじゃないし。
「あの、これ…」
後方の鏑木に気を取られていたので、自分が何か落としたことに気づいていなかった。隣のつり革に摑まっている女子が渡したのは、薄いブルーの折り畳まれたメモのようだ。
ブルーのメモを使った記憶はなかったけど、受け取った二つ折りの紙を開くと、『テストが終わったら、お友達になってくれませんか。 一年A組 立和名 紗琉』とあり、スマホの番号が添えてあった。改めてメモを渡した女子を見ると、恥ずかしそうに俯いた。
ふん
とくるはずだった。ところが鼻息など出てこない。代わりに、「これ、なんて読むの?」という驚くべき言葉がすらすらと出てきた。
「タチワナ サリュウです」「ふーん。そう読むんだ、珍しい苗字?」
「そうですね、大概読めないって言われます。ヤエガシもゴージャスな苗字ですよね」
「そうかな? 画数は多いよね」
普通の高校生の初々しいカップルのように話していた。立和名は頬を薄っすらとピンクに染めて笑顔を見せた。
「おい、押すなって。混んでんだから移動すんなよ」
後方から苛立つ声が聞こえた。「イテッ足踏まれた」「ちょっと、鏑木、動くのやめてってば!」ざわつきがバス全体に伝染した。運転手がマイクで「どうしたの? 具合が悪い人がでたの? そうでなきゃ、駅まで我慢して大人しく乗っててね」とアナウンスすると、収まった。
漏れ聞こえた名前に不吉な予感を覚えたが、そちらに背中を向けて、隣に立つ立和名を見ていた。ちょっと見過ぎて、立和名が困惑気味なのがわかり、慌てて車窓に目を逸らす。
「テスト前に、ごめんなさい…。渡せたらいいな、と思って持ち歩いてたんです。そうしたら、バスで隣に立てたから。今勇気を出さなきゃと焦ってしまって。あの、本当に忘れてください。テストが終わったら思い出してください」
「忘れてだの思い出してだの、忙しいね」瑞生が笑うと、彼女も笑った。後方が再び騒然としていたので、周囲の耳を気にせずに話ができた。
しかし駅に着くと一悶着が待っていた。バスの中で熟成された鬱憤が降車の際に噴出したのだ。あわやステップで将棋倒しかと思うほど、皆が急いで降りたがった。どっと吐き出された高校生が不機嫌に散っていく中で、小柄な女子が男子にどつかれた。数名で取り囲んでいる。
「お前、常識ってもんがないのかよ。全員駅まで行くんだから、焦って車内を移動しなくても、降りてから友達と合流すればいいんだ。お前に足踏まれたの、俺だけじゃないはずだ」
「そんな優しいもんじゃない。こいつはみんなの足の上を歩いて進もうとしたんだ」
「なんで顰蹙買ってるか、わからないの? あなた、一度も謝ってないのよ。超非常識、一年のくせして。ここは『ごめんなさい』でしょ」
誰が囲まれているか想像はついたけど、瑞生は立和名と軽く会釈して別れ、駅の改札とは逆方向の伯母の待つロータリーに向かった。途中、鏑木に自分に近づくことなどできないのだと、知らしめるために、ゆっくりと、揉めている集団を振り向いて見た。鏑木を非難する一年生も加わり、本当に集団になっていた。
鏑木がどう対応するのか、さして興味がないのでロータリー目指して歩き続けた。わっと声がしたと思ったら、瑞生は後方から何者かに体当たりを喰らった。
「な、なんだ?」幸いつんのめっただけで転びはしなかったが、体当たりをした方は瑞生のリュックに跳ね返されて芝生に尻餅をついた。「鏑木…?」
さっき鏑木を囲んでいた集団が駆けつけた。「お前気は確かか? 関係ない奴を襲うなんて」
「八重樫、大丈夫か?」「あんた、ジャンキー本永にかこつけて、八重樫君に猛アタックしてるって、評判悪いわよ」それぞれが鏑木を非難する言葉を口にしながら。
鏑木は一気に立ち上がると、「それ! それが間違ってる! 本永君はジャンキーなんかじゃない! 本永君は八重樫のボディガードでもない! 本永君がいないからって、みんなが八重樫に群がるのが嫌なのよ!」と叫んだ。
「…え~と、何言ってるんだこいつは? 一年、説明してくれ」上級生が困った顔で一年生を見た。
憮然とした男子が「俺らだってわかりません。本永が休んでるのは八重樫と関係ないのに、なにキレてんだよ」、女子も「強面のジャンキー本永がいない方が八重樫君に話しかけやすいのは、当たり前じゃない。そもそも八重樫君を呼び捨てして、本永より下に見る意味がわかんないし。あんた、勝手に絡んで、勝手に八重樫君と親しい気がしてるんでしょ」と呆れて言う。
「だって、本永君の具合を教えてくれないんだよ、こいつ」
鏑木の言いように、瑞生もむかついた。「知らないんだから、仕方がないだろう」
「あたしがあげたピアスだって、返してきたじゃない」
「本永に返してくれって頼まれたんだ。君こそ、一方的に渡してきて、本永が困ってることくらい、察しろよ」
「あ~聞いたことある。鏑木って好きな子にプレゼントしまくって、相手にされないと怒るって。あんたジャンキーにそれやって、スルーされてキレてんの? 八重樫君に当たるなんてお門違いもいいとこじゃない」
「要するに、色恋沙汰か。それならバスの中で相手に突進するな」「今聞いた感じじゃ、彼は好きな相手の友達なだけでしょ? 体当たりする意味が分からないわ。テスト前で気が立ってるのかしら」「学年主任の先生に報告するからな。バスの中で騒ぎを起こすなんて、一歩間違えば事故になるんだぞ」
「私から校長先生にお電話しましょうか」
突然冷ややかな大人の声が入ってきて、その場にいた皆がはっとして声の主を見た。
「あ…」“伯母さん”という言葉を飲み込んだ。人前でなんと呼べばいいのだろう。打ち合わせをしておくべきだった。しかし伯母は困惑を見越していたようだ。
「先ほどから聞いていたのだけど、うちの息子が原因ではないようね?」
伯母に見つめられ、上級生たちは頭をぶんぶんと縦に振って、「はい、はい」と同意を示した。一年生は皆口を開けている。伯母は神々しくその場を掌握し、こうのたまった。
「友人同士楽しく騒ぐのはいいと思うわ。でも、このような街中で衆目を集める騒ぎは慎んでほしいわね」
「はい、はい! 十分言い聞かせます。先生にも報告して、注意してもらいます」
「そう、よろしくね。じゃ、瑞生、行きましょう」
瑞生の中の擦れた部分が、どう振る舞うのが最適かはじき出した。
「心配してくださってありがとうございます。さようなら」と上級生にお辞儀をし、一年生に目で礼をいい、伯母には黙ってついていった。
「はぁ~」、残された集団から一斉に漏れる溜め息が聞こえた。
車の中で、伯母を見た。伯母は運転中一度も、さっきの事件に触れない。おそらく、ロータリーに来るはずの瑞生が一向に現れないので、様子を見にスクールバスの降車地点まで来てくれたのだ。そこで遭遇した瑞生の忌々しき事態に出動したということなのだろう。
助けがないとヤバいほどだったわけではないが、あの場を丸く収めてくれた手腕というより、圧倒的美貌に感謝すべきなのだろう。瑞生だって、外で見る伯母があんなにも美しく気品に満ちて、誰だって魅了される特別な存在だとは知らなかった。
部屋に戻って、急ぎテスト勉強をした。夜叉の家に行くまであと四〇分しかない。「なんか…慌ただしいな。まぁいいんだけど」両親のこと、外様と本永のことを考えないでいられるのは、ある意味有り難い。参考書を取ろうとして体を捻った拍子に、床にブルーのメモを見つけた。着替えた時にズボンのポケットから落ちたのだ。
『立和名 紗琉』
名前も可愛い。薄っすら微笑んでいる自分に気づいて、ばつの悪い気持ちになった。そこで、テスト後に成績優秀者と落伍者は名前を張り出されることを思い出した。優秀になれると思うほど夢想家じゃないけど、マジに落伍はまずい。やれる限りのことをやらないと。
ブルーのメモをコルクボードにピンで留めて、夜叉の家に電話をした。
知らされていた番号は、夜叉の家の固定電話の番号だ。数回のコールで出たのは森山だった。あの藁科じゃなくてよかった。胸をなでおろしながら、「すみません。テスト勉強があるので、今日からしばらく休みたいんですけど」と告げると、:ちょっと待って:と保留音になった。
:ふざけんな。一度やると決めたことをテストごときでさぼれると思うなよ。時間通りにちゃんと来い:
「え? 夜叉? あっ、あ、ちょっと…」
通話は切れていた。
むっつりとした瑞生の顔を見て、森山は何も言わずに既定の準備を施した。
「よく来たな。約束を守る男だと証明したわけだ」
部屋に入るなりこう言った夜叉の勝ち誇った蒼い顔を見て、むかっ腹を抑えられなかった。
「僕はゾンビとの約束を違うような生者代表じゃないからね」
バチバチッ、漫画ならこういう字が書き込まれるシーンだ。
夜叉は満足そうに「俺が見込んだのは、そういうブラックなお前だ。死ぬまで楽しませてくれそうで、安心したよ」と笑った。
ふいに窓際のソファから人物が立ち上がった。第三者がいたというだけでびっくりだったのに、それが黒い肌だったので、瑞生は驚いて直立したまま口がきけなかった。
「ヤシャ、口悪いの、良くない。彼、可哀想」
瑞生が生まれて初めて至近距離で遭遇した黒い肌の人物は流暢な日本語を操った。会いしなの不機嫌な顔つきもどこへやら、目を丸くしたままの瑞生を見て、愉快そうに夜叉が説明した。
「前に言っただろ。サニ。キューバで蘇った俺が発狂しなかったのは彼のお蔭だ。サニは医者だ。道中も付き添うために、キューバの面子維持の同行医師に立候補してくれたんだ」
「キューバのメンツ?」
「ゾンビーウィルスを世界で初めて入手するチャンスを、人道的見地から手放して、俺を日本に返してくれたんだ。せめて諸外国よりも詳しい最新の報告を得る権利はあるだろう? 特にアメリカよりも、ね」夜叉が片目をつぶってみせた。“ゾンビのウィンク”、映画なら、ゾンビの出てくるドタバタコメディになるのだろうけど、これは現実で、目の前の夜叉はカリスマのオーラを放ちながらも、蒼くてもの哀しかった。
サニはひょろっと痩せた巨人で、テーブルを挟んで座る瑞生と夜叉の中間に陣取った。黒い大きな瞳を瑞生に向けて、「ヤシャが、検査できるもの、何かわかる?」と聞いてきた。
「ええと、注射やレントゲンはダメだから…、身長体重、計測するもの、おしっこ。尿検査は大丈夫でしょう?」
「イエス。他には?」「う~ん…」
「体温。ヤシャは体温が下がり始めている。ジェイコブのノートによると、体温が下がり始めるのは危険な兆候」と言いながら、タブレットのグラフを示した。
瑞生の目を引いたのは、体温の描く線ではなく、サニの細くて長い指だった。繊細な美貌を誇る夜叉の、予想外のぽてっとした指とは対照的だ。
瑞生は空を切って雄弁に語る指先に目を奪われることが多かった。人は話に夢中になると、無意識に手や指を動かすものだ。意識して作られた表情よりも、その胸の内が生々しく感じられる。瑞生は他者を生々しく感じたいわけではないのに、宙を彷徨う指に惹かれてしまうのだった。
「危険?」
「そう、先がないってこと」すかさず夜叉が答えた。サニは優雅に頭を振って、「ノー。ヤシャ、彼がびっくりする…」と夜叉を窘めた。
「あ…」もしかすると、テストで一週間もここに来なければ、時間切れもあると考えたから、夜叉は休みを許さなかったのか。
サニが「ミズオ、名前の由来は?」と聞いてきた。
「由来? 本当にサニは日本語が上手なんだね。由来?さぁ、聞いたことないなぁ」こう言うとサニは目を剥いて驚いた。「男の子の名前の由来を父親が語らないなんてある?」と瑞生と夜叉を交互に見た。
夜叉は「俺は“靖史朗”だけど、なんだったか、親父が“井上靖”って小説家が好きで、祖父ちゃんが『史朗だけは譲れん』って揉めて、両者を立ててくっつけたって聞いたな」と言った。
「やすしろう? 夜叉の本名が?」と瑞生。「言いにくい名前だね」
「だろ? バンドの連中はともかく、ファンが音を上げてさ。“やすしゃん”が“やしゃ”になった。デビューする時にかっこつけて漢字にしたんだ」
「ふ~ん。やっぱり由来があるんだ…。“瑞生”は…、母の訳ないしお祖父ちゃんでもないし、多分お父さんが付けたんだと思うけど」
「“ミズオ”の“ミズ”はwater?」とサニ。
「ううん、漢字が違う。…あ、でも伯母の名前を知った時に思ったんだ。父が“雪生”伯母は”霞”で、気象用語だなって…」
「で、お前が“ミズ”か」
「うん。父の元の苗字は“笹宮”だけど母方の養子になって“火浦”になったんだ。僕なんてそう思うと“火”と“水”だよ」
「う~ん、面白いな」
サニが真剣な顔で「僕、前に見た。“ウラ”は“逆”とか封じ込める意味があるって…」タブレットで探しているが見つからないようだった。
「そりゃ“裏”だろう。漢字が違う。サニにはわかりにくいだろうけど」と夜叉が指摘する。いつもの夜叉とは違って、教えてあげてる感じだ。
「それのこと。“裏”の意味を“浦”にも持たせたとか…なんで読んだのかなぁ」
「ああ、サニの読み漁る日本語知識本みたいのなら、ついてけない。日本人より漢字オタクだからな。しかしサニの説でいくとお前の名前ってかなり意図的につけられてるな」
「う…ん。考えてみると不思議だ。伯母だって“霞”だよ。女の子には普通“香澄”とか、同じ読みでも可愛い漢字を充てるよね。…ということは、伯母は何か知ってるかもしれないってことだ。聞いてみようかな」瑞生は言っていることと相反する思いだった。伯母には名前の由来どころか父のことや実家のことすら聞ける気がしない。
「お前の弱点は、案外その辺のことを知らないことにあるんじゃないか? 決めた。本日の宿題は、『自分のルーツを探索せよ』だ。伯母さんに聞くも調べるもよし、手段は任せる」
サニが森山の待つA室まで送ってくれた。瑞生は宿題をどうしようか迷っていたし、テスト勉強もあるので、気が重くなっていた。夜叉の体温の話が脳裏に刻みこまれていたので後回しにはできない。ヒントが欲しくて、サニに聞いてみた。
「サニの名前の由来は何? お父さんから聞いたんでしょう?」
するとサニは一瞬、黒い瞳を泳がせた後「サニは通称だよ。本名は普段は使わないんだ。僕の一族では大事なものだから」と体を折り曲げ、瑞生の目を覗き込んで答えた。
“一族”。
今まで自分に縁があると思ったことのない言葉だ。でも、夜叉の家で、初めて父と伯母の名前が明らかに意味を持ち、自分の名も、その一環で名づけられたのかもしれないと気づいてからは、“一族”という言葉は、特別な輝きを放ち始めていた。
帰宅したら玄関で看護師に出くわした。村のアンチエイジング(AA)センターから週二回派遣される看護師が夜にいたことはない。入浴や着替えなどの日常の世話はヘルパーがしている。階段の上からヘルパーの曽我さんが降りてきた。
「伯父さんになにか?」と聞くと、タオルを抱えた曽我さんは「ろっ骨を痛めたらしいの。すぐレントゲンを撮りヒビは入っていないとわかったのだけど、機嫌が悪くて」と教えてくれた。
「伯母さんは…?」
「様子を見ながら相手してる。奥様は肝が据わっているから、旦那様が荒れても冷静に対応してくださって助かるわ」
伯母が結婚してこの家に住むようになる前から伯父に仕えていた曽我さんは地味だけど気のいいしっかり者で、伯母を評価していた。
伯父とは、夜叉邸訪問初日に気のない挨拶をして以来ほとんど話をした記憶がない。心配して血圧が上がったと聞いていた。「伯父さんに心配をかけた事、謝ってないんだけど…」と曽我さんに相談すると、「伝えておきますよ」と言ってくれた。
思いもよらぬ事態に、勉強机に向かったものの呆然としてしまう。伯父の機嫌が悪くなると、看護師まで駆けつけるのか。一体どういうことなのだろう。
ともかく気持ちを切り替えて目前のテストに備えなくては。やる気をだそうと、時間割の貼ってあるコルクボードに目をやる。
“立和名 紗琉”という均整のとれた文字を見て、思わずニンマリとした。
そのまま机に向かい、黙々と勉強をした。一時間ほど経った頃、伯母からLINEがきた。『ヒビ骨折などは無いのですが、宗太郎は体調が悪くなると、精神面では倍悪化します。深夜にまた病院に行く事も考えられます。明日の朝食はキッチンにあるもので済ませて、バスで登校して下さい』
伯父への軽い失望を抱いたまま、瑞生は紅茶を淹れにキッチンに向かった。
瑞生の部屋は二階の一番奥だ。伯父のための設備は全て一階にあり、伯父以外の人間の部屋は二階にある。家の真ん中にエレベーターがあるのは、当主の二階に行く権利を保証してのことだろう。伯母の部屋は階段に一番近い。
何気なく通り過ぎてから、違和感を覚えた。降りかけた足を戻し伯母の部屋を見ると、ドアが開いていた。
開いたドアの隙間から調度品がちらりと見えた。その瞬間から、心臓がバクバクいうのを止められなくなった。
これは、『入ってもいい』という啓示だろうか? 伯父の緊急事態で伯母も慌てたのだろう、ドアの締め方が不十分だったのだ。
階下の様子を窺うがあまり動きが無い。さっと入って、夜叉の宿題を解く物を見つけてさっと出れば一〇分と掛からないはずだ。明日会った時、夜叉をがっかりさせたくない。その気持ちが大きかった。呼吸を整えて、伯母の部屋に入った。
そこは瑞生にとって異次元空間だった。大人の女性の部屋で、薄いグリーンの壁紙とモスグリーンのカーテン、ベッドカバーは紅の小花が散った柄でシルクの白が光沢を放ち、シンプルな木製家具が幾つかあるだけの、塵一つない美しい部屋だ。
まず机の上を眺めたが、几帳面な伯母のこと、出しっぱなしの物はない。
そもそも自分は何を探しているんだ? 家系図? 日記? アルバム? 本が数冊(写真ぴらりがないかもちろん振ってみた)の小さな飾り棚に目ぼしい物は見当たらず、やはり収納場所を探すことにした。クローゼットも割り切って開けた。高そうな服多数。さすがにいい趣味だ。母の麻佐子とは育ちが違うのだ。その育ちを知る術を探している。
どこも難なく開く。部屋の鍵を必ずかけるなら、引き出しは無施錠でもいいわけだ。それなりに蓄積するはずの物が圧倒的にない。写真も一枚もない。
考えられることは? 伯母が断捨離の達人で、使う物以外はすぐさま処分してしまう主義なのか。ここでの生活は、伯母にとって素通りしていくだけのものなのか。
ウォークインクローゼットの奥に、コートに隠れるように棚があった。棚の上にあった古めかしい宝石箱を開けてみた。丸い石の指輪が入っている。もちろん今までに宝石の指輪を見たことはない。真贋などわかるはずもない。しかし何故か、この輝きは皆本物であると確信した。台座の細工は繊細で古いかもしれないけど上品だ。瑞生は宝石箱の指輪を好ましく思った。
母の麻佐子は地味で枯れたような色の服を着ていた。それなのにピンクのキティちゃんグッズには目が無かった。母は野添の家でほとんどの時間を過ごしていたのに、キティのバッグはいつも火浦家に置いていた。父は母同様、母の持ち物にも興味を示さず触れもしなかった。
あの狭い家に、母の部屋だけは厳然と存在し、母が高校生活を送っていた時のままになっていた(キティのバッグは増えていたが)。祖父が死んでも、母が出て行っても、それぞれの部屋の持ち主はそのままで、父と瑞生が好きに使うスペースはなかった。
伯母が専業主婦であっても、元々宗太郎の家だ。伯母より古参の曽我さんのような人もいる。大事な思い出の品を仕舞う場所はこの家にはないのかもしれない。
瑞生の脳裏に伯母の言葉が蘇った。夜叉の家に瑞生が行くことになった前日に、『車を飛ばして実家から関連本をとってこようか』と伯母は言ったのだ。実家があれば、父と伯母関連の物はそこにあるだろう。この八重樫宗太郎の家を探しても無駄ということだ。
笹宮の実家がある…。そこには誰が住んでいるんだろう。父の葬儀に出たのは伯母だけだった…。
時間を気にしながら宝石箱の底を捲り上げると、一冊の本が入っていた。ドキドキしながら引っ張り出してみる。
「くまのプーさん?」
それは幼児用の薄い絵本ではなく、書籍の厚みを持つ本だった。ペン画のクマを見ると伯母の乙女な面を感じる。伯父といる時は精神的に男に近いと感じるのに。
ぶ厚い表紙を開けると、中はくり抜かれて空洞になっていて、待望の写真が入っていた。
「こうこなくっちゃ、と言うべきなんだろうな」独り言を言ったのは興奮を誤魔化すためだ。
写真は三枚あった。高校の制服を着た伯母と父が写っている。フォトスタジオに見本で飾れそうな出来だ。二枚目を見て、はっとした。こんなにも美しくこんなにも屈託なく笑っている父を見たことがない。幸せを隠すことなく安心しきって撮影者に笑いかけているのだ。おそらく伯母に。
三枚目を見て、目を疑った。こちらを見ている父と、父の腕に抱かれている幼い子供…自分だ。写真を灯りに近づけて見る。記憶に全くない。でも、これは自分だ。父が母に内緒で作ってくれていた瑞生のアルバムに、これと同じ服で何枚か写っているのがあった。父が撮ったものだから、瑞生は一人で写っていた。そのアルバムは火災で燃えてしまって、もうない。
二枚目と違い、父は撮影者を見ているが笑ってはいない。だが目で何か語りかけている。写真を見て嫉妬を感じていた。そして、その写真を元通り戻すことに我慢ならなかった。自分には父しかいないのに、その父を火事に奪われたのに、写真すら残っていないのに。
小箱と二枚の写真を元通りプーさんの本に収め、宝石箱の底に戻した。逃げるように伯母の部屋を後にした。
持ってきてしまった写真をどうするか。急に鍵を閉めるようになったら、隠し事をしていますと宣言したも同然だ。今まで通り、オープンな状態であるべきだ。結局生物の参考書に挟んだ。向こうがプーさんならこっちはリアルアニマルだ。本を開くとぴらりと落ちるマンガのような状況を自ら作り出していると気づいて、自分の滑稽さに苦笑した。