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⑦ 何を食べるの

前期の試験が近づいてきます。瑞生は夜叉で様々な医師に出会います。

【 二〇一五年六月九日 】


翌日も本永は学校に来なかった。瑞生は無駄と知りながら、本永の席から伝わってくる小刻みな振動を感じ取ろうと、目を閉じた。

聞こえてくるのは、休み時間の喧騒、机や椅子を動かす音。女子のおしゃべりが一瞬止まった。近づく気配。瑞生は目を開けた。


思った通り、鏑木が立っていた。

「本永くん、どうしたの? この前、医務室で騒ぎがあったって聞いたよ?」

瑞生は皆の聞き耳を意識して、敢えて席に着いたまま鏑木を見上げた。

「僕も見たわけじゃない。本永なりに落ち着いたら出てくるさ」本永の抱える問題は、クラスメイトに広まって好転するような類の事ではない。わざとあっけらかんと答えた。

「私があげたプレゼントのせいって事は…」

「ない」

我ながらぴしゃりと言い過ぎたと思ったが、鏑木が何とか本永の人生に自分を割り込ませようとしている事に、カチンときた。もう少しで「あれならとっくに医務室で二人で作っちゃったよ」と言いそうになったのをぐっとこらえた。人を好きになるとこうも傍若無人に自分の存在を押し付けてくるのが、全く解せない。

 鏑木が帰った後、ちらほらと拍手が起こった。「撃退成功!」という声も聞こえて、瑞生は一層不快になった。



家に帰ると、どっと疲れがこみ上げてきた。本永がこのまま来なかったら、自分も登校できなくなるのじゃないだろうか。伯父と伯母に恥をかかせるわけにはいかないし、自分のメンタルの自信が揺らいで気持ちは落ち込む一方だった。速攻で帰宅したから夜叉の家に行くまでに一時間はある。ともかくテスト勉強に取り組んだ。



「じゃ、行ってきます」キッチンの伯母に声をかけた。伯父は自室に籠っているようだ。家じゅうに怒りが滲出している。伯母は玄関まで見送りに来てくれたが、静かに「いってらっしゃい。帰る時LINEしてね」とだけ言った。

瑞生は勇気を出して振り向いた。「ありがとうございます。何も聞かないでくれて」

伯母は驚いて口を開けた後、微笑んだ。美しい人だ。歩きながら瑞生は考えた。あの美しい人と父の雪生が一緒に育った家はどんなに華やかで素敵な家だったのだろう。…そういえば、お父さんは、姉の存在を口にしたことがなかった。母麻佐子とでき婚する時に勘当されたと聞いたけど、その時姉である伯母はどういう態度をとったのだろう。お父さんが死んだ時に初めて会ったくらいだから、もちろん絶縁していたわけだ。では自分を引き取ることになって、さぞ伯母は複雑な思いであることだろう。


 梅雨寒らしく、陰鬱な空に冷たい風が吹いていた。ゴールデンウィークに半袖を着ていたのが嘘みたいな寒さだ。瑞生はパーカーのフードを被った。すぐ後をついてくる、やけにピカピカの車が前島を思い出させた。

「気にするな」いつの間にか傍にいて、声をかけてきたのはジョガー警察官だ。「大人の思惑に飲み込まれずに、君はわが道を行けよ」

「こんにちは。担当時間変えてくれたんですか」

ジョガー警察官は瑞生が夜叉の家に着くまで併走してくれた。


 準備室Aに入ってきたのは昨日の森山ではなかった。ウルトラショートヘアの白衣の女の人で、開口一番「抗菌服は? マスクは?」ときた。

門根が「森山の引き継ぎノート見てないのかよ」と不機嫌そうに言うと、「こんな茶番に学術的意義などない。引き継ぐべき事項もない」と増幅した不機嫌を返してきた。瑞生が夜叉の意向を受けて自分が脱いだ旨を説明すると、「なら、いい」とあっさり引き下がった。

 門根は「俺より手抜きだな。自己紹介くらいしろよ。…八重樫君、こちら、国立感染症研究所の藁科さん」と紹介だけして帰って行った。前を歩く藁科の後頭部の生え際はバリカンで剃ったみたいでうなじの白さが紙みたいだった。驚いたことに、藁科は部屋の中に入ろうとしなかった。「じゃ、よろしく。懺悔だか何だかが終わったら勝手に出てきて」

「あの…藁科さんは?」

「私はCの部屋にいる。悪いけど、夜叉が何してるかなんて興味ない。死んだ人間のやるべきことは死んだ時点で終わってる。…ということで、体調不良と帰る時以外は呼ばないで」と言い捨てると、踵を返して去って行った。瑞生はノックして夜叉の面会室に入った。


 「あの不機嫌な女は?」夜叉の声は相変わらず小さい。

「部屋の前でターンして帰りました」

「それはけっこう。場違いなオーラを振り撒かれると疲れるからな」

夜叉と瑞生は向かい合って座った。夜叉は今日も蒼い光を放ち、白っぽい布を着ている。もちろん、お茶など出てはこない。夜叉は瑞生をじっくりと視野に捕らえて、数分間何も話さなかった。


 「昨日、色々聞いたからな。今日は先に質問させてやる。聞きたいこと、何でも聞いていいぞ」

「え?」そんなこと急に言われても、思い浮かばない。瑞生の脳裏に浮かんだのは、予習した映画のゾンビが人肉食をすることに対する違和感だった。

 「夜叉は何を食べてるの…ですか?」

夜叉はちょっと目を丸くした。「…平凡なこと聞くなぁ。まいいか。上手く消化できないから、よくわからないどろっとした流動食を日に五回、喉から流し込んでる。水分も俺が欲しいからじゃなく、細胞に必要だから、一時間おきになんか飲んでる。今は『食いたい』とかないから」

「点滴で栄養を入れないの?」


 「ゾンビーウィルスってのは、ジェイコブ兄弟の研究によると、宿主に寄生して生きるしか能のないものらしい。宿主が死ぬと自分も死ぬから、相手の状態を維持することに心血を注ぐ。それが尋常じゃないところが特徴だ。だから、飛行機事故の前にウィルスに感染していた俺が死ぬ寸前に、ゾンビーウィルスはフル稼働し、俺が“臨終”した後から効果が表れた、すなわち“蘇った”というわけだ。で、このウィルスはちょっと頭が足りないんで、“現状維持”しかない。ジェイコブの研究日誌に記録があって、兄から採血しようと腕に注射針を刺したら、痕からずっと出血し続けたんだと。出血を現状維持したらしい。感染した弟が何故死んだか、知ってるか? 兄の死後、弟は自分たちの研究を無駄にしないために、自分の感染を研究施設に報告し、研究対象として命を預けると申し出たんだ。研究者たちは真っ先に弟をレントゲン撮影した。それっきりだ。ゾンビーウィルスはレントゲン撮影の被曝に耐えられず死滅した。弟のありとあらゆる細胞に憑りついて現状維持をしていたウィルスが死滅したんだ。弟はそのまま死亡が確認された。移送当日の死だ。それ以来、兄弟以上の研究体は現れず、日誌はバイブル並に扱われている。つまり、俺に点滴を打つと、針の穴から出血がとめどなく続く可能性が大ということなんだ。生きたゾンビーウィルスが採取されたことがない理由がわかったろ? 俺を殺すつもりで採取しても、ウィルスは生存できない。俺が死んでからではウィルスは直前に死んでるから、やっぱり採取できない。俺は兄弟が残してくれたレシピに基づいたどろどろを飲んで生き延びてる有様さ」

そうは言うものの、夜叉は自嘲気味ではなく、少し楽しんでいるようでもあった。

 「そんなに悲壮感ない…ですね」

「敬語じゃなくていいよ。門根の言う通り、お前なかなかストレートな物言いをするな。…ここに来るまでは、もっと感情のアップダウンがあった。俺も目覚めた時は『死んだと思ったけど勘違いだったのか』って認識だったが、『お前は死んで、ゾンビになって蘇ってるぞ』という周囲の言葉を信じるまでには時間が必要だった。体が蒼いのは悪ふざけのトリックだと思ってたし。普通、自分がゾンビで蘇るなんて想定して生きてないだろ?」

瑞生は頷いた。


「周りの奴もパニクってた。日本に戻ったら、全部言葉がわかるから余計腹立つのな。役人や政治家はゾンビの脳はお釈迦だと思ってるから、本人を前にして『廃人』とか『腐った死体』とか言いたい放題だ。俺をどうするか、誰も俺に希望は聞かない。偉そうな官僚が来てようやく聴取を始めたら、『どうしてキューバなんかに行ったんだ。イカレたミュージシャンめ』『どこで感染した。麻薬か女か呪術の儀式か。乱交か。動物とやったのか?』とか同じことを入れ代わり立ち代わり言いやがって。『てめえら聞きたいのか説教したいのか、どっちだ』って言ったら逆上された。エリートがキレるとマジに怖いな。だからこっちもつい『お前ら一人残らず感染させてやるからな』って。それで首都以外の場所に移すことにしたらしい。細かいことは知らないけど、この辺鄙な村に圧力かけまくって強引に話をつけたって聞いた」


 瑞生は暫し記憶を辿った。今の話は、外様がネット上で飛び交う情報から推察した仮説と大分違う。「外圧に政府がビビッて、ではないの?」

「世論がな、一緒に仕事した仲間が声明を出してくれたのは嬉しかった。皆が世間の目をゾンビーウィルス一点から俺個人にも振り向けてくれたお蔭で、隔離施設でベッドに縛り付けられる事態は回避できた。俺の状態を気に掛ける誰かがいるという共通認識が広まったからな。ここに来て、静かでほっとしてる。拝金主義の権化みたいな爺さんに口説き落されて、ここ買っといてよかったよ」

瑞生の頭には伯父から聞いたN不動産の元社長田沼とエリート官僚たちの顔が、テレビで見た“悪代官”か“越後屋”の形をとって描かれた。夜叉の人権のためとは思わなかったが、自分たちの身の安全のためとは呆れた連中だ。みんな悪代官だ。

 

 しかしより強く瑞生を惹きつけたのは、夜叉が蘇った時の話だ。「どこで蘇ったの? 棺の中? 遺体安置所?」

「日本に送り返すために冷凍保存庫に入れられてたのを、理由は知らないけど取り出した時に生き返ったらしい。だから気が付いた時は検死台の上で、すぐに隔離室に運ばれた」

「言葉がわからなくて怖くなかった? 死んだばかりでも英語で話せたの?」

「キューバだぞ。スペイン語で、しかも相手は俺にビビって早口でまくし立てるから、何言ってんのかさっぱり。でも蘇った時からサニが傍にいてくれたから。サニはキューバ人の医者で、日本語ができるんだ。お蔭で俺も向こうも事態の収拾に向けて、意思の疎通を図ることができた。その意味ではましな方じゃないか、外国だったわりに。日本に帰ってからの方がよっぽど不快極まりないよ。『ゾンビ』、『ゾンビ』って、バッカじゃねぇの」


「俺だって、ゾンビになんかなりたくなかったさ。ジェイコブ兄弟の研究で、これは一種の“感染”で生じるってわかってるのに、『死ぬ時何がそんなに心残りだったの?』つまり『成仏できずに化けてでた』って考えている。日本の幽霊や妖怪の感覚を、俺に当て嵌める滑稽さを考えてみろよ」

「…確かに」外国で飛行機事故で死んだロックスターが、“心残り”で成仏できずにゾンビになる…なんてストーリー、和洋折衷というか時代錯誤というか、確かに滑稽だ。


 夜叉の瞳がきらりと光った。「俺が聞く番だ。お前は将来何をしたいんだ?」

さっきの夜叉のセリフを瑞生はそっくり返した。「平凡なこと聞くなぁ」

しかしそう言ったものの、今まで自分の将来を本気で考えたことなど一度もなかったことに気付いた。「…今まで一度も考えたことない…」


 夜叉の瞳は瑞生を捕らえて放さない。「なんでだ? 自分の可能性は無限大だから…とは言いそうにないな、お前は」

瑞生は夜叉を見つめ返した。この人は、なぜかはわからないけれど、自分の本当の話を聞こうとしている。

「…年々怖くなる母と、年々お金がないとわかってくるのと、いじめをどう回避するかと…だから逃れることばかり考えてた。家にいると母に何かされる危険があるから、工場の片隅で父を待っていた時期があった。父はそれを嫌がったから“子供の家”に行くようになったのだけど。古参の職人に『瑞生ちゃんがいい後継ぎになるしかないよ。親父(六郎)さんも喜ぶってもんさ』と言われた。で、工場の機械を触らせてもらってるところを父が見て、『瑞生はそんなことするような人間じゃない』と珍しく怒ってた。それで熟練工を目指す気は湧かなかった。父が嫌がることはしたくなかったから。何しても母が台無しにすると思うと想像するのも辞めた。父が僕に勉強好きになってほしいと願ってるのはわかってた。でも、僕はそうならなかった。他になりたいものがあるわけじゃないのに」

「今もか?」

「今? 今かぁ…。母がいなくなって、金持ちの伯父の家にきても、僕は考えちゃいないから」瑞生は自嘲気味に言った。

「金持ちの家に引き取られた途端、生まれ変わったかのように『日本を変える』とか言うのより、人間が上等に思えるぜ」

思いもかけない夜叉の励ましの言葉に、瑞生は顔を上げた。


 「で? 高校に行っても何も変わらないのか」

夜叉は基本ほとんど動かない。椅子にふわりと座ったままだ。

 「僕同様高校から入学した本永は問題ありで、クラス委員の外様も事故で苦しんでた。この二人に、落ちこぼれてることを見抜かれた。二人は理由も聞かずに勉強を見てくれてる。それで…本気で遅れを取り戻そうと、生まれて初めて勉強中心の生活してる…まだ一週間だけど」

「なるほど、馬鹿脱却を図ってるのか。それで? 成績上げるだけじゃ教師の受けが良くなるくらいだってわかってるんだろ? なんのために勉強してるんだ?」

頭に浮かんだ事を口にした。「父は大学で哲学科だったらしい。『生活には役立たずで』って笑ってた。僕にはお金に結びつかない勉強なんてできそうにない。…法律を勉強して、法律を使って…仕事ができればいいな」

「『法律を使って』か、お前の本音が出てる。『人を助ける弁護士になりたい』じゃないところが。極論を言えば『振り込め詐欺』だって『法律を使って』仕事してるようなものだ。そうなりかねないものをお前は内に有している。そのダークなところが、如何にもお前だ」

「考えろって言うから無理して捻り出したんじゃないか。随分ひどい…」抗議しかけて、気が付いた。夜叉はすごく攻撃的な事を言いながら、瑞生を通り越してどこか遠くを哀しそうに見ていた。夜叉の瞳はウィルスに侵されたせいで蒼みがかっている。


「なんで僕に『来い』って言ったの?」言葉が口を衝いて出た。


「お前が質問していいのは、俺が許可した時だけだ」



 帰り道、森山の代わりの藁科が送ってくれるはずもなく、瑞生は一人歩いていた。もっとも今日は昨日ほど遅くないので、通行人もいるし普通に散歩している感じだ。むろん車はついてきている。

「夜叉の胸の内なんて考えたこともなかったな」例えゾンビでも、夜叉は瑞生を惹きつける。

 夜叉は瑞生の心の奥底にあることを聞きたがる。まるで、過去を語らせることで瑞生自身が気づいていない本心や葛藤を清算させようとしているかのようだ。全てを投げやりに言うくせに、瑞生を蔑んだことがない。今日は一瞬だけど励ましの言葉をかけてくれた。でも、あの瞳はもっと遠くを、もっと哀しみを見ている…。


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